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2008年10月の22件の記事

2008年10月31日 (金)

秋だからですよ。

いろんな出来事の原因を
そう結論付けると
ちょっと楽になります。

自分しか見えていない
という状態は
考えてみると
わりと自然な状態でも
あるんだろうし。

季節が変われば
人だって変わる。

正しく言えば、
季節では変わらない部分も
あるけれど、
季節で変わる部分も
あるにはある。

もうすぐ冬がやって来ます。
寒い冬もいいもんですよ。
それなりにね。

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2008年10月30日 (木)

「ロックな生き方」メモ・追記

 得意先から会社に戻ると、後輩が「局長、探してましたよ。」と言うので、局長室を覗くと、開口一番「あのさあ、急ぎの仕事を頼みたいんだけどさあ」。というわけで、前回のエントリの追記が書けませんでした。なので、新しいエントリを起こして続きを書きます。

 というか、前回のエントリに追記せずに新しいエントリを起こしてしまうところがすでにロックじゃないですね。それに前回のエントリにも、しっかりこのエントリのリンクを置くせこい感じは、ますますロックじゃないですね。

 手始めに、gooランキングにロックな生き方をしていると思う有名人ランキング(2007年11月集計)というものがありましたので、その引用から。この書き出しも、ロックじゃないですねえ。こういうのは、ロックとは、という感じに断定するのがロックな気がしますが、それはともかく、このランキングはちょっと面白いです。

 忌野清志郎さんが矢沢永吉さんを抑えて堂々2位。解説には、例の「FM○○腐ったラジオ」とテレビで歌ったエピソードが書かれていました。4位のオノ・ヨーコさんも意外です。楳図かずおさん、テリー伊藤さんもどう考えればいいのか。加藤登紀子さんは、ジャンルで言えば完全にフォークです。

 ここには表示されていませんが、リンク先には30位まであって、面白いところでは、12位の瀬戸内寂聴さん、18位の鳥肌実さん、22位の宮城まり子さん、24位の角川春樹さん。27位の西原理恵子さんは、ものすごくわかります。

 ロックな生き方をしている人の特徴としては、結構おしゃべりな人が多いということですね。定番的な考え方ですが、ロックな生き方をしている人の代表格は矢沢永吉さんのような気が私はしていて、その永ちゃんは、インタビュー映像とかを見ていると、意外なほどおしゃべりなんですよね。ほんと、えっ、永ちゃんって、こんなにおしゃべりだったっけ、と思うくらい。言葉が泉のように湧き出ているんです。

 それと、ロックな人って「○○○○のオールナイトニッポン」が似合うような気がします。「内田裕也のオールナイトニッポン」も想像できます。この流れで言えば、私なんかが考えると、上位には絶対に寺内タケシさんは入ってきます。寺内さんは、存在自体がロックそのもの。「寺内タケシのオールナイトニッポン」は聞いてみたいなあ。かける曲は全部自分の曲なんでしょうね。きっと全編自伝だと思います。

 ロックな人の最大の特徴は、信念が強いことでしょうね。悪い言い方をすると融通が効かない。だから、オールナイトニッポンならできるけど、FMは無理そうです。交通情報とか無視しそうだし。FMが似合うのは、どちらかと言えばファンキーな生き方をする人のような気がします。

 ブルースな生き方の人は、オールナイトニッポンの裏番組という感じがします。伊集院光さんは、ブルース魂があるような気がします。雨上がり決死隊にはブルースがあるけど、ナイティナインには、ブルースはないような。というかナイティナインは、ロックな感じがしますね。特に岡村さん。お笑いサイボーグを自称してしまうところなんか、とってもロックです。

 松本人志さんは、そんなロックとかファンキーとかブルースとか、そういうくくり自体が嫌いな感じがしますね。もちろんフォークでもないし。よく考えれば、信念という意味ではロックっぽいけど、ロックじゃない感じの人はいますね。桂枝雀さんも、同じように、どの類型にも入らない気がします。

 そう言えば、映画「スウィングガール」の中の台詞でこんなのがありました。

 「すべての人間は2つに分けられる。スウィングする者と、スウィングしない者だ。」

 このスウィングというやつ、くせ者で、なかなか説明が難しいんですよね。スウィングとは何かは、なかなか説明しづらいんですが、ジャムセッションをするとスウィングしているかしていないかは、感覚でわかります。この分かり方は、けっこう残酷なほど。スウィングはジャズのイディオムですが、これを全領域に拡張させるとグルーブという言葉になりそうですが、ロックにしても、ブルースにしても、ファンクにしても、まあ、フォークも演歌そうだけど、それが成り立つ条件は、このグルーブなんでしょうね。

 なんかどんどん本題から離れていきそうなので、本日はこのへんで。それにしても、この2日間ほど、とってもロックでブルースでファンキーでした。ちょっと疲れたので、そろそろ寝ます。おやすみなさい。

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2008年10月28日 (火)

「ロックな生き方」メモ

リスクにおじけず、自分の選んだ道をひたすら歩む生き方は、ロックな生き方だと言えると思います。
「破滅的な生き方」と回答された方がいらっしゃいましたが、同意です。
「将来破滅するかもしれない」という不安よりもさきに、「今これをやりたい」が優先する生き方とも言えるかもしれません。

漫画家の道を諦めきれずに、銀行員だったのに退職して、今も努力している人を知っています。
ジャンルは音楽ではありませんが、ロックな生き方だと思います。

『ロックな生き方』ってどういう事でしょうか – 教えて!goo

 なるほど。ということは、若いときは漫画家になりたかったけど、それを胸にしまって銀行員としてがんばる生き方がブルースなのかもしれない。で、有能な銀行員でありながら、一方ではギャグ漫画家でもある、みたいな生き方はファンキーなのか。追記するかもです。

 追記はこちらです。→ 「ロックな生き方」メモ・追記

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2008年10月27日 (月)

ブルース考

 淡谷のり子さんはかつてブルースの女王と呼ばれていました。「別れのブルース」という大ヒット曲もありますよね。「窓を開ければ港が見える」ではじまる曲です。かつて日本でヒットしたブルースと名のつく曲は、たいていは音楽的にはブルースではなく、歌謡曲あるいはシャンソンをベースにしたものでした。淡谷のり子さんも、もともとは、というよりも生涯ずっとシャンソン歌手でした。あくまで音楽的には、という話ですが。

 音楽的には、ブルース(Blues)形式はAAB形式の12小節形式のこと。アフリカ系アメリカ人の黒人霊歌や労働歌をベースにした音楽なので、ブルーノートスケールを使用します。私が大学のときにジャズのジャムセッションで参照していたコード進行はこんな感じです。(ブルーノートスケールなので、CとFに7thがついています。ブルースロックではC、Fでかまいません。ちなみに、便宜上Cにしていますが、ジャズでは管楽器が演奏しやすいFやB♭が多いと思います。)

|C7     |F7     |C7      |C7       |
|F7     |F#dim |C7      |A7       |
|Dm7   |G7     |C7     |Dm7 G7|

 この進行を覚えておくと、ジャズではいろんな曲を演奏できて楽しいです。わりと簡単だし、このコード進行をベースにして、代理コードを使ったり、妙な解釈でアレンジしたりしながら発展させるとこができるので、なかなか奥が深く、たった12小節ですが、楽器の弾ける人なら、上級者から初心者までみんながハッピーになれる素敵なコード進行だと思います。

 だから、アフリカ系アメリカ人の間で、様々な生活や恋愛や人生についての歌詞をのせて歌われて来たのでしょうね。なんとなく、そういう意味では、一度覚えてしまうと、それぞれの思いを乗せて表現できるこのブルース進行というのは、ひとつのメディアであるとも言えるのでしょうね。そういう意味では、ブログツールになんか似ていなくもないです。

 そこで歌われていたのは、当時のアフリカ系アメリカ人たちの辛い境遇だったり、悲しみだったり、そんなこと。彼らは、そんな日々の思いを歌にのせて、その辛い境遇や悲しみを音楽によって、明日への力へと変えてきたのでしょうね。

 そうしたブルースの持つ悲しさ、せつなさから、日本では悲しさせつなさを持つ曲のことを「ブルース」と呼んだのでしょう。そして、ブルースは音楽的な話ではなく、ブルースの魂とは何か、というときに、そういう悲しみやせつなさ、辛さを表現し、音楽で昇華するスピリットのことである、という答えかたがされるようになったのでしょう。ロックとは生き方のことである、と言われますが、ブルースも生き方のことでもあると思います。

 ピアニストでありシンガーでもあるRikuoさんが、アルバム「heaven’s blue」に収録された自身の曲「雨上がり」のライナーノーツで、こんなことを書かれています。ちなみに、この「雨上がり」という曲は、関西の音楽ファンの間ではよく知られた曲です。私も大好きです。

雨上がり
人間の中からネガティブな感情が完全になくなることはないと僕は思っている。
45%のネガティブと55%のポジティブでいいんじゃないかと誰かが書いているのを読んで、救われた気分になったことがある。
このナンバーはネガティブがポジティブに昇華されていくプロセスを歌っているとも言えるかもしれない。
僕にとってのブルースミュージックとは例えばこういう曲のことだ。このアルバムの中では一番ポップなナンバーだと思う。誰かカヴァーしてくれないかな。
http://www.rikuo.net/discography/old/cd_heavensblue.html

 

 ね、いい曲でしょ。もし、このブログを読んでいるミュージシャンの方がいらっしゃったら、カヴァーしてみませんか。なんかスタンダードになるくらいの曲だと思うんですよね。この曲は都会的だしおしゃれだしブルース進行でもないけど、まぎれもなくブルースだと思います。

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2008年10月26日 (日)

掃除と洗濯で日が暮れて

 掃除と洗濯が苦手です。あと、服を選んだり、散髪したりするのも。こういうときだけ、芸能人になりてー、と思います。マネージャーやコーディネーターがすべてやってくれそうだから。ほんと、そういうのを考えるだけでもじゃまくさくて、ついつい、服はユニクロ、散髪は1000円ヘアカット店になってしまいます。

 ちなみに、身の回りのことを人任せというのは、芸能人の間違ったイメージです。本物の芸能人は、けっこう身の回りはマメな人が多いように思います。まだ有名ではない劇団の人とかとも、仕事柄よくご一緒しますが、みんなわりとこだわりが強くて、セルフプロデュースがきちんとできる人が多いようです。そりゃそうですよね、芸能人ですものね。

 ここ最近、いままであまり経験したことがないくらい忙しく、それにちょっと風邪をひいていたので、身の回りのことをほったらかしにしていて、いよいよ本腰を入れてやらなきゃ人としてどうなの、という感じになってしまいました。洗濯物の山と、雑誌や本にまみれた部屋を見てると、ほんと気がめいります。もうね、家に帰りたくなくなるんですよね。写真を貼れば分かってもらえると思いますが、ちょっとかっこわるすぎて駄目ですね。ものには限度というものがありますから。

 とまあ、そんな感じで、洗濯と掃除をはじめたのですが、なにしろ無駄なものが多くていかんですね。なんでこんなに靴下があるわけ、と自分に腹が立ちます。雑誌なんかも、この記事は何かの役に立つかも、と思って捨てられないので、山積み状態になっています。それで、もう捨てようと整理していると、3年前の雑誌とかを読んでしまって、そうか、郵政解散かぁ、緑ザコに北斗百裂拳で天国濃厚か、となかなか面白く、いっこうに進みません。

 洗濯とかも、たとえばジャケットなんかをクリーニング屋さんに出すのもじゃまくさくて、ふとこれ手洗いできるんじゃないだろうか、とか思って、型くずれさせてしまうこともあったし、こんなふうにすぐに駄目にするからユニクロが儲かるんだなあ、なんて思ったりします。

*    *    *    *

 昔、先輩に言われたこと。クリエイティブの人間はとりあえず黒を着ておけばなんとかなるから。それを真に受けて、私の服は黒ばっかり。でも、最近、黒は流行らないのか、ユニクロにも無印良品にも黒がないんですよね。あと、豆知識。黒は意外と汚れが目立ちます。夏は汗じみとかも。ものぐさな人は、そのへん気をつけるといいかもです。

 でも、こういうものぐさファッションはいいところもあります。私の場合、ふだんは黒のシャツに黒のパンツ、黒のジャケットで、中身が若干違うだけで、ほぼ毎日同じ出で立ち。わかりやすく言えば、美味しんぼの山岡みたいに、いつ見ても、同じ服っぽい感じ。そうなると、たまに赤を着ると、「おっ、今日はおしゃれじゃん」なんて言われますし、ネクタイをするだけで「おっ、今日はプレゼン?」なんて言われます。つまり、ほんの少しの違いでそこそこのインパクトを作ることができるんですね。

 広告業界でも営業なんかは、背広とネクタイだからそれほどファッションに気をつかわなくてもいいのですが、クリエイティブは、会社によりますが、ほぼ私服OKな世界ですので、これは私のようなものぐささんにはけっこうな負担なんですよね。その競争に入っていくのは、ちょっと辛すぎるなあ、という感じです。ボロボロのジーンズが5万円したり、Tシャツが5000円したり、そんな差別化競争からは、なんかはじめから降りている感じです。

 女性はたいへんだなあ、と思います。会社によっては制服があるところもありますが、こういう時代に逆行な感じを、じつは内心では望んでいる女性も多いのではないかなあ、なんて思います。このへんの心理を、ユニクロや無印良品はうまくついたなあと思います。だいぶ前に、「ユニクロは、日本の人民服である。」というエントリで書きました。お暇な方は、どうぞ。

*    *    *    *

 うちの母親は専業主婦でしたので、家族は、洗濯や掃除を母親まかせにしていたところがあります。母親が入院して、かれこれ6ヶ月くらいになるんですが、親父は今、洗濯や掃除、炊事をひとりでするようになって、しみじみ「ああ、これはたいへんやなあ。あいつにとっては、これは自分の仕事だと思ってやってきて、それがうまくできなくなって辛かったんやろうな。」と言っていました。親父は、最初は洗濯機の使い方がわからなかったんですよね。

 そんな親父も、今ではきっちり洗濯や掃除をこなし、ちょっとしたものは自分でつくれるようになったようです。鰹だしにちりめんじゃこ、刻みネギを入れて、卵を入れて、箸でかきまぜる、親子丼の具の出来損ないみたいな料理がすごくうまくて、この夏は、たくさんごちそうになりました。ちなみに、名前は「卵のぱしゃぱしゃ」というそうです。残り汁にご飯を入れるとおいしいんですよね。ちょっと下品だけど。

 大阪に帰るときは、いつも新大阪駅で水了軒の駅弁を2つ買って帰って親父と食べるのですが、やっぱりプロはうまいことやるなあ、なんて感心しているようです。どうしても、一人暮らしだと卵だったら卵だけ、あさりだったらあさりだけになりがちで、煮物あり、焼き魚あり、揚げ物ありは難しいですから。

 私も大阪に帰ったら、それなりに料理をつくるんですが、たとえばあさりの酒蒸しで、酒を入れすぎてあさりのうま味が抜けてしまった時、親父が「なんでそんなに酒を入れるねん。味なくなるやないか」みたいなこと言われて、すごく腹が立つんですよね。こっちとしては善意でやってるのに、その言い方ないやないか、みたいな思いもあって「文句言わずに食えや」とか言ってしまいます。男同士は、どうも口が悪くていかんですね。

*    *    *    *

 てなわけで、まだ半分も終わってないんですが、まあ明日も休みだし。明日、晴れるといいなあ。じゃないと洗濯物が乾かないし、とか言っている私もちょっと情けなくもあり、でも、まあしゃあないですね。今までのつけですわ。ではでは、みなさま、よい日曜日をお過ごしください。

追記:

 9月7日に書いた全国ICカードあれこれという記事、あれからいろいろコメントをいただきまして、オリジナルの倍以上の長さの記事になっています。せっかく書いたので、一度読まれた方も、もう一度いかがですか。なんとなく過去ログに置いておくのがもったいない感じになってきたので、10月26日(日)限定でトップページに掲載しています。お時間のある方は、ぜひどうぞ。

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2008年10月24日 (金)

あーあ、もうすぐ4時じゃないですか。

 会社には私ひとりですがな。うーん、なんだかなあ。ちょっと前だったら、広告会社って、朝まで誰かしら仕事をしてたような気がするし、夜の街で飲んでいて寝に会社に戻る人とかがいたもんですが。やっぱり不況なのかしらねえ。

 と、かしら、という言葉を使ってしまいましたが、この「かしら」っていう言葉、もっぱら女性が使う言葉になってしまってますが、けっこう昔の本とかを読むと、男性でも使ってますよね。あと、「かしらん」とか。そういう意味では、この「かしら」を使うと、なんかスノッブな感じもなきにしもあらず。もともと、「本当かどうか知らんが」の「知らん」から来ているので、本来はけっこう強い語調だったのかもしれませんね。

 あとそういう感じで思い出すのは、「せいぜい」という言葉。私は関西出身なので、「大変便利な品でございます。せいぜいご利用ください。」というような使い方は知ってはいますので、少しばかりの違和感があるものの、こういうポジティブな感じというのもわからないでもないです。だけど、今は「せいぜいがんばれや」というような、ちょっと皮肉というか嫌味な感じでしか使われていないですよね。

 「美味しんぼ」という漫画を読んでいると、そういう言葉がよく出てきます。「しゃっきりぽん」とかじゃなくてね。たとえば、お茶を飲んで「ああ、胸がせいせいするわ」とか。雁谷さんの言語感覚なんでしょうね。嫌なやつが道を歩いていて、バナナの皮で滑って転んで「ああ、せいせいするわ!」みたいな使われ方ですよね。でも、これも漢字にすると「清々」ですから、もとはいい意味なんでしょうね。

 代表格は「気の置けない人」というやつですね。これは、気配りや遠慮をしなくていい人という意味ですよね。でも、わりと逆に使われやすいです。私は、オフコース鈴木康博さんの「のがすなチャンスを」という曲の歌詞で「気の置けない話せる友達、それよりも、お金が大切ですか」というのがあったので、早い段階で正しい意味を覚えました。

 そう言えば、高校時代にへんな覚え方しているやつがいたなあ。そいつ、こんなふうに話すんですね。

「俺なあ、漫画が家にさわやまあるから、こんど貸したるわ。」

 さわやま?なんだろ、と思って考えると、文脈から、どうやら「たくさん」のことらしい。で、そうか、こいつは「たくさん」の漢字である「沢山」を「さわやま」と読んで、それで「たくさん」の意味で「さわやま」と使ってしまったんだな、ということがわかりました。それとも、本に出てくる「沢山」という言葉を「たくさん」と読めなくて、でも文脈から意味をとって「たくさん」の文学的な表現が「さわやま」だと思ったのかもしれないなあ、てなことを考えていたのですが、この「さわやま」というのは「沢山」の訓読みで、江戸時代は女性が好んで使ったらしいですね。

 なんかいろいろややこしいなあ。ああ、疲れた。これからタクシーに乗って帰ります。なんか、ひとりだけバブルっぽいですね。経費で落ちるかなあ。落ちないかもなあ。やっぱり始発に乗って帰ろうかなあ。

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2008年10月22日 (水)

最近気になった言葉

 Perfumeの「Baby cruising Love」という曲から。

簡単な事って 勘違いをしていたら
判断誤って 後ろを振り返えるんだ
何だって いつも近道を探していた
結局大切な宝物までなくした

ハッとして気が付いたら
引き返せないほどの距離が
ただ前を見ることは
怖くて しょうがないね

 いい歌詞ですね。中田ヤスタカさんの言葉です。なんかせつなくて、いままでいくつの宝物をなくしてきたのかな、なんて考えてしまいました。秋ですね。

 なんとなく思うのは、かつての松本隆さんが松田聖子さんに書いた歌詞だとか、つんく♂さんがモーニング娘。に歌わせた歌詞だとか、奥田民生さんがPUFFYに書いた歌詞だとか、そういう男の目線から見た女の子という感じがします。この歌詞は、きっと、男のほうがグッと来るんじゃないでしょうか。

 そこに表現されているのは、とっても内省的な女の子で、これは当の女の子にとってみたら、なんか違うと思うのかもしれないですね。女の子にとっては、こういうタイプの内省は、きっと外部なんだろうなと思います。その歌い手にとっての感情の距離感みたいなものが、すごく緊張感を醸し出していて、それが逆に良かったりします。

 私が思う、リアル女の子の内省とか感情は、たとえば、松本隆さんと離れた後の松田聖子さん自身が書く歌詞だったり、竹内まりやさんが書く歌詞だったり、そんな感じです。自分では、私の感覚はすごく女性的だと思っているんですが、ひとつ理解できなかったものがあって、それは萩尾望都さんの「ポーの一族」の世界。大島弓子さんの「綿の国星」も最初のほうはすごく共感できたけど、その後のストーリーには入り込めませんでした。そのへんが、なんとなく女の子的感性の壁なのかな、と思ったりします。

遠い空に輝く星のように
あなたはずっと 
そのままで変わらないで

時が過ぎて今 心から言える
あなたに会えてよかったね きっと私
世界で一番 素敵な恋をしたね

 少し古い曲ですが、これは小泉今日子さん作詞の「あなたに会えてよかった」の一節。いい言葉だとは思うんですが、これはあまり男にはない感情のような気がします。小泉今日子さんに女性ファンが多いのは、こんなところにも理由があるのでしょうか。

 最初のPerfumeの「Baby cruising Love」に戻りますが、この歌詞を男性が歌ったとしたら、それはそれでなんか違うんでしょうね。SMAPならいけるかも、なんて思いますが、そう考えてみると、こういう男が共感する内省というのは、男が歌うとリアルすぎて、身も蓋もなくなるというか、そういう感じがあるのかもなあ。

 そう言えば、歌舞伎とか、宝塚とか、男性が女性を演じるとか、女性が男性を演じるという系譜は、脈々とありますよね。ずいぶん前ですが、私が駅ビルの仕事をしているときに、そのコミュニケーション誌の女性編集長という体裁で、女性文体でずっと書いていたことがあるんですね。そのときの感覚は、なんか意識がひとつ高いところに抜けていくというか、そんな感じがありました。

 「萌のつぶやきコラム」(ペンネームが萌だったんですね)というちいさな文章を書いたりしていて、それを読んだ女の子からお手紙をもらったりして、それがつらくてしょうがなかった記憶があります。その頃、なぜか氷室冴子さんの文体に憧れていて、「多恵子ガール」とか「渚ボーイ」とか読んでたなあ。文章の練習のために模写したこともありました。ストーリーはあまり入り込めなかったですが。なんか懐かしいです。15年以上前のことです。

 そう言えば、氷室さん、少し前にお亡くなりになりましたね。51歳だったそうです。私はそれほど熱心な読者ではありませんでしたが、若い頃、いろいろ勉強をさせていただきました。氷室さん、いままで本当にありがとうございました。

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2008年10月20日 (月)

ほんま、あほやねぇ。

 自分でもあほやと思うわ。あれこれ、うだうだ、特定の誰かに届けるわけでもなく、何書いてんだろって思うときあるもんなぁ。

でもまぁ、やってる人もたいてい自覚してるんやないかなぁ、とは思うよ。
「あほなことやってんなぁ、自分」いうのは。
もうひとりの自分が醒めた目で見てる、ちゅうやつ。
始める前後は理想とか希望とか下心とかいろいろあるもんやけど、長く続けてたら、やっぱりどっかで醒めてくるよ。
あぁ、仕事でとか、職を得るためにとかいう人らは別やで。そういう人らはホンマ真剣でやってはると思うけど。
あほやなぁ、って思うでしょ? - CONCORDE

 やり始めたときは、CONCORDEのTristarさんが言わはるように、下心もたくさんあったけど、いい意味でも悪い意味でも、どうでもよくなってくるとこがあるなぁ。続けていると。

 ちょっと真面目な話になるけど、ブログ論って、なぜかブログの定番ネタだけど、私もときたま書いたりするものの、ほんとはあまり好きじゃなくて、なんとなく、せっかくのブログなのに、ブログ論ばかり書いてどうすんの、って思うときあるけど、こういうブログ論は、じみじみいい感じやなぁ、と思いました。特別な人のためだけやなくて、みんながブログを書く時代のブログ論としては、ほんとこういうことなんやろうな、と思うんです。

 これからブログでもはじめてみようかな、という人は、「あほやなぁ、って思うでしょ?」という文章を読んだらいいと思うよ。おすすめです。それで、その文章を読んで、ブログっていいもんだなあ、ブログをやってみようと思う人に、ブログを書いてほしいなあ、とブログの読み手としては思います。

理解できんかもしれへんけど、
そんなにバカにするもんでもない世界やで。
とんでもない話もようけあるし、まるごと肯定する気は自分にもさらさらないけど、
大多数は節制効いてると思うし、「限界」いうんもちゃんと弁えてるから。

 そうなんでしょうね。大切なのは、ここらへんやと思います。なんでもそうやと思うけど、世界はそんなに私には興味がないっていう前提で、そんな興味をもたれない「ただの人」の私が書くことが、もしかすると誰かひとりくらいは伝わるかもしれへんなあ、伝わったらラッキーやなあ、くらいの気持ちで書くのがいいんやろうな、と思います。

 そやないと、書くことがつらくなってくるし、だんだん、伝える相手が自分になってくるんですわ。そうなると、そこによほどの芸がない限り、ますます誰も読んでくれなくなるし、だんだん言葉が自意識の沼にはまってきて、そこから抜け出せなくなったりするしね。苦しくなると思うんですよね。

 そのあたりさえ押さえておけば、けっこうブログって、バカにするもんやないと私も思います。なかなかいいもんでもあるとは思うんですよね。

 なんかいろいろと考えさせられることがあったけど、うまく言葉にならなかったです。それと、関西を離れて長くなると、関西弁ではうまく書けないもんやなぁ。ひさびさ、ブログについての文章を読んで、ああ、いいなあと思いました。Tristarさん、トラックバックを送りました。私的には、トラバはひさびさです。ところで、トラバって、コメントみたいな直接の言葉のやりとりがないところが、なんとなくブログっぽいコミュニケーションですよね。

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2008年10月19日 (日)

日曜の夜に阪神・中日戦を見ながら、風邪が治りかけのぼんやりした頭で、東京と地方のこととか、これからのコンテンツ制作とか、いろいろ考えてみました。

 今期の阪神タイガースは、歴史的逆転され劇を演じて、リーグ戦を2位で終えました。夏頃はこんなふうになるなんて思いもしませんでした。あのイケイケ感はなんだったんでしょうね。がっかりです。とほほ、という言葉がこんなに似合う状況は、そうないんじゃないかなと思います。

 あんまりこのあたりを深く掘り下げていくと落ち込んでくるので、ぼやきはこのへんにして、ちょっと考えたことなどをつらつらと。日曜日だし。

 セリーグのクライマックスシリーズがはじまって、そういえば今日は阪神・中日戦だよなあとテレビのチャンネルをさぐってみると、地上派はどこの局もやってないんですよね。唯一、NHK BS-1だけが中継していました。東京に住んでいると、もうプロ野球は終わった感じがすごくありますね。私は阪神ファンですが、巨人ファンにとってみたら、ほんと奇跡の大逆転劇だったと思います。けれども、まわりの巨人ファンはほとんど盛り上がっていませんでした。

 巨人戦のテレビ中継もめっきり少なくなって、プロ野球はもはや国民的スポーツではなくなってきているのかも、なんて声も私のまわりでよく聞きます。でも、私は、そのへんは少し首をかしげるところがあります。

 今年は、個人的な事柄もあって、大阪にしょっちゅう帰っていて、その度に、私は大阪で阪神戦のテレビ中継を見てきたからです。関西では、独立UHF局のサンテレビ(神戸)がほぼ毎試合中継していますし、在阪準キー局も阪神戦の中継に力を入れているようです。有名なABCとサンテレビのリレー中継(9時までABC朝日放送で中継して、9時からサンテレビに引き継ぐ)もあります。

 うちの親父なんかも、話すことと言えば阪神のことばかりでしたし、甲子園球場にはたくさんのファンが詰めかけています。今日のクライマックスシリーズは、阪神主催試合で、甲子園球場改装中のため、京セラドームですが、1塁側は満員です。

 私は東京と大阪のことしかわかりませんが、たとえば中日ドラゴンズの人気は中部圏では依然として高いような気がしますし、福岡ダイエーホークスにしても、広島カープにしても、東北楽天ゴールデンイーグルスにしても、北海道日本ハムファイターズにしても、地元では人気があるんじゃないかな、と思います。

 東京に住んでいると、そういう他の地方のことがわかりにくくなるような気がするんですよね。東京の出来事が、全国の出来事であるように思ってしまうところがなきにしもあらずです。この感覚は、私は、ちょっと危険かなと思っています。ちょっと事実を見誤るんですね。事実を見誤ると、そこから構築されたプランは、いかにそれが緻密でも、根本が違うので間違ってしまうんですね。

 我々広告業界の人にとっては当たり前ですが、たとえば新聞。朝日新聞と読売新聞は全国紙という言い方をしますよね。人口カバー率で言えば、その二紙は大きいほうですが、それでも全国紙と言い切ってしまうのは、少し躊躇します。

 名古屋の人は、ほとんど中日新聞を読んでいて、朝日、読売はわずかの人しか読んでいません。長野の人は、信濃毎日新聞。北海道の人は、北海道新聞。徳島の人は、徳島新聞。特定の地域では、朝日、読売と言えどもシェアはごくわずかです。

 こうしたことは、東京に住んでいると見逃しがちです。つまり、名古屋とか長野といった広域の地域の人が、ほとんど朝日、読売を読まない、ということは、ある意味、日本経済新聞を除くすべての新聞は、その本質が地方紙である、という見方もできます。

 たとえば、歌手のやしきたかじんさん。東京での知名度はわずかです。一頃、全国ネットで「たかじんのバー」というトーク番組をしていましたが、その番組が終わってからは、大阪で活動されています。大阪では、たぶんナンバーワンの芸能人です。「たかじんのそこまで言って委員会」という時事ネタを扱う討論形式のバラエティ番組が人気です。

 で、この「たかじんのそこまで言って委員会」は、関西の人たちだけに人気があるのかというと、そうではありません。この番組、東京以外のほぼ全域で放送されているんですよね。つまり、この番組の人気を知らないのは、東京地区の人たちだけ。

 これには、たかじんさんの東京キー局嫌いや、制作側にも中央との距離を置く姿勢がある、などの事情があるようです。私なんかは、単純にあの番組は面白いので東京でも観ることができたらな、とは思いますが、東京だけは流さないという感じも、今の時代のアンチテーゼとして面白いなあ、という気持ちもあります。

 私は、なんとなく最近のこういう流れ、いい流れだなあ、と思っています。Perfumeの人たちが広島弁を使ったり、そういうのいい流れだなあと思います。これはきっと、逆説的なネットの影響なんでしょうね。ネットによって、地域を無化すると、リアルでは逆に地域ということを意識するようになる、という感じ。

 著作権とかの問題で実現が難しそうですが、全国のテレビ局やラジオ局の放送がネットで視聴できるようになったら、きっといまの状況はすこし変わるだろうな、という気がしています。テレビは低レートの荒い画質でも、とりあえず全国の放送を見られるようにしてしまう。そうすると、日本の放送コンテンツは少し変わってくるのではないかと思います。

 もしCMとかも含めてそのまま流せるようになれば、地方局制作のローカル番組でも、少しでもネットで人気が出てくれば、ナショナルスポンサーも興味を示すかもしれないし、それは地方のコンテンツ制作にとっては良い影響をもたらすのではないかなと思います。いろいろ考えていくと、いろいろ障壁は出てくると思いますが。まあ、ちょっとした思いつきです。

 それにしても、今日の阪神タイガースは安心して見られますね。なんとかつながったという感じですね。藤川球児投手が出てきました。このまま守りきっていただきたいものです。そういえば、ずいぶん前の話ですが、藤川投手のテーマとしてリンドバーグの「every little thing every precious thing」(参照)という曲がいちやく脚光を浴びましたね。いい曲ですよね。

追記:今日は勝ったみたいです。

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2008年10月17日 (金)

ひっそりと「先見日記」が終わっていた。

Senkennikki_2

 静かな終わり方でした。ウェブが今ほど騒がしくなかった頃、NTT DATAの「先見日記」はとても輝いて見えました。2002年開始だそうです。こういうジャンルがWEBマガジンと呼ばれ、ウェブサイトが紙の媒体のカウンターメディアとして強く意識されていた頃ですね。その頃の空気で言えば、ウェブという言葉より、サイバーという言葉の方がしっくりくるのかもしれませんね。サイバー空間に書くということは、既存のメディアに書くこととは違う意味合いを持つ。そんな感覚が、この「先見」という言葉に表現されているような気がします。

 私は、かつて熱心な読者でした。特に片岡義男さんのコラムのファンでした。小説はあまり読んだことがなく片岡さんに対しても、あまり知識がなかったのですが、サイバー空間で綴られる片岡さんの言葉に魅了され、読み続けた記憶があります。そう言えば単行本も買ったな。あれ、どこにあるんだろう。

 まだブログは普及していませんでした。テキストサイトや「さるさる日記」のような日記サービスが全盛だった頃ですね。高機能ブログツールが個人で簡単に使える今では、「先見日記」の執筆者としてコラムを書くことと、その執筆者が自身のメディアであるブログでコラムを書くことの差が見えにくくなっているのかもしれません。

 私はかつて熱心な読者ではあったのですが、一頃、この「先見日記」を読まなくなった時期が長くありました。薄情なものですよね。でも、これが消費者の真実でもあるんですよね。RSSリーダーを使い出すようになって、面白いので、いろんなサイトを登録しているうちに、ふと「先見日記」を思い出し、しりあがり寿さんのコラムをたまに読んだりしていて、久しぶりに覗いてみたら終わっていた、という感じでした。

 「先見日記」終了にあたって、NTTデータ広報部名義で、次のような言葉を書かれています。一部引用しますが、どうか前文目を通し読まれることをお薦めします。下段には、開設当初の言葉も掲載されていて、2002年から2008年という時の流れがわかる時代の証言でもあるからです。できることなら、この「先見日記」はしばらくの間ではなく、この先もずっと残しておいてほしいな、と思っていますが、これもまた、薄情な消費者のわがままというものなんでしょうね。

先見性をもって活動されている各界のオピニオンリーダーが、日記形式のエッセイを毎週連載するというスタイルはご好評いただき、多くのメディアやblog等で引用されるなど、企業が発信するユニークなメディアとして一定の役割を担ってきたと自負しています。開始当時はまだ日本はblog開花寸前の時期でしたが、現在は多くの方がblogを持たれ、ご自身の意見を発信されるようになりました。「先見日記」という形式の一端は、blogでの個々人の表現活動に十分引き継がれていると考えています。多様性は未来への知恵を育む土壌でもあります。であるからこそ、この先も、インターネットが健全な言論の場でありつづけることを心から願っています。
「先見日記」終了にあたって

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2008年10月16日 (木)

ほんとにもう、Googleったら。

 「世界のナベサダ」で検索すると、こんな表示が。

Photo_2

 オモロー!

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2008年10月15日 (水)

定着のイメージを持たないコミュニケーション・デザインの気持ち悪さ

 私なんかは、完全に定着原理主義なんでしょうね。あっ、定着っていうのは、広告を例にすると、プランなりアイデアなりがあって、それが頭の中とか企画書とかにある状態だと、その時点では広告にはなっていないですよね。そのプランなりアイデアなりを、具体的な言葉や絵にして、テレビなり新聞なりに定着して、はじめて広告になりますよね。その具体的な表現のことを定着って言います。

 私の定着のベースは、言葉だったりしますが、言葉じゃなくても、絵でも映像でも、まあそれなりに定着のイメージは持てていたりします。クリエイティブという職種は、そういう職業ですから。実際は、そのイメージを伝えながら、アートディレクター、映像ディレクター、プロデューサー、デザイナー、フォトグラファーとともに制作をしていきますが、その過程においては、やはり根拠は、自分の中の定着イメージです。

 そういう意味では、私がやる限り、その広告の質は、私の定着イメージに規定されます。良くも悪くも、私という個人の能力を大きく超えることはありません。これは、共同作業を否定しているわけではなくて、私が一緒にやる人は、すべて、自分の分野に関しての強力な定着イメージを持っている人であり、例えば、映像ディレクターは、自分のつくる映像は、自分の中の定着イメージを自分の手で定着させる能力を持ち合わせている人が映像ディレクターと呼ばれるのであって、それを外部に依頼するなんてことは、ありえないわけです。

 他の表現分野においても、映画なら、映画監督はきちんと映像を自分の手でつくるし、小説家は、きちんとひと文字ひと文字、言葉を綴ります。ミュージシャンは、実際に曲をつくったり、歌ったり、ギターを弾いたりします。そういう人を表現者というのであって、そこに表現のコアの部分においては、プランニングやアイデアと定着の分離なんて、あり得ないわけです。

 コミュニケーション・デザインという言葉が一人歩きしてから、この定着のイメージを持たない自称コミュニケーション・デザイナーが増えてきて、まあ、ちょっとばかり愚痴っぽくなるけど、非常に気持ち悪いんですよね。そういうこと、あり得るのかな、いや、それはないだろう、なんて自問自答していますが、まあ、あり得ないでしょうね。

 彼らは、わりと、簡単に「外につくらせる」と言ってしまうんですよね。それと、派手なことしかやりたがらないし、地味で日当りの悪いコミュニケーションは逃げてしまいます。でもね、コミュニケーション・デザインというのを簡単に言えばさ、コミュニケーションの全領域をデザインするということだから、テレビが良くて、たとえばDMやテキストバナーがカスだったら、それで全部のコミュニケーションが駄目になるという考え方でしょ。だからね、私は、ある時期から、SPやウェブの定着作業を全部引き受けるようにしてきたんですね。めちゃくちゃ時間と手間がかかるし、めんどくさいけどね。全部を、自分の定着イメージに近いカタチで定着したいから。

 そうなってくると、なんか不愉快な状況が起きてきて、自称コミュニケーション・デザイナーさんたちが、こっちに「つくらせよう」なんてバカなことを考えるわけ。明らかに、クリエイティブはアイデアを定着だけする機能だと勘違いしているわけ。それは、まあ勉強不足なんだろうけどさ、そういう勉強不足の無邪気さっていうのはたちが悪くて、もう説得もめんどくさかったりするわけです。

 コミュニケーション・デザインの総本家の著書とかを読むと、あの人たち、コピーも映像もビジュアルも、タレントの手配も、メディアの分配も、自分の定着イメージでもって、自分の手で定着しているわけなんですよ。その中には、めちゃくちゃめんどくさいこともあるし、そういう仕事をすると、細かいことのクオリティを問われるので、いままで外部に委託して来た細かい作業も、ぜんぶ自分でしなきゃなくなります。あの人たちは、それをやっています。

 そういうめんどくさいことを中抜きしたコミュニケーション・デザインに何の意味があるんだろう。だから、信頼もつくれないし、実績が上げられないんだろうし、その実績をちょっと人がよさそうで怒らなそうなクリエイティブを使ってつくろうなんて、虫が良すぎるんじゃないかな。いいかげん、おじさんだって怒るよ。私は、自分がコミュニケーション・デザインをやっているだなんて自称しないけれども、それは単に羞恥心の問題であって、それ以上の意味はありません。

 漫画を書けない人は、漫画家を名乗っちゃいけない。それだけのことなんですけどね。じゃあ、編集者の役割はどうなのさ、となるけど、それは編集という専門領域の定着イメージというのがあるし、広告で言えば、営業とかマーケに当たるんだろうし、それは計り知れない専門性がきちんとあるんですよね。

 自称コミュニケーション・デザイナーさんたちに言いたいこと。人をあてにせずに、自分でやればいいじゃない。それでできなかったら、自分がそんだけのもんだったということですよ。要するに、自我が肥大化してただけ。酔ってる状態ってこと。それを、クリエイティブが駄目だから、とか言うんじゃない。

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2008年10月14日 (火)

来年あたりが勝負どころなんでしょうね。

 今、東京行きの東海道新幹線の中で書いています。世界金融危機関連のニュースがマスコミを賑わせていますが、なんとなく印象としては、本当の危機の始まりって案外静かなものだんだなという感じです。今、あまり広告業界はよくなくて、自動車、電子関連の不調などで、大手広告代理店でさえ減益になってきていて、そのトレンドの中の金融危機。ストックを食いつぶしている現状でのこの金融危機。タイミング的には悪かったなあ、と思います。

 経済関係にはあまり詳しくないので、分析とか予測とかはできませんが、大雑把に言って、来年あたりは、今年以上に厳しくなるような気がします。こういうとき、私のような中堅代理店がまず淘汰されていきがちです。来期は、かなりしんどい展開になってくるのではないでしょうか。中堅クライアントは広告費を削ってくるでしょうし、とりわけ外資はそういう傾向は強くなるでしょう。

 今、新幹線の電光掲示ニュースで「米過去最高の上げ幅で株価回復」と出ていましたが、短期的にはそういう状況は繰り返すでしょうが、全体の景気低迷は避けられない情勢なんでしょうね。それが杞憂に過ぎないことを望みますが、たぶん景気は低迷するでしょう。

 私は、かつてのバブル崩壊のときに新入社員でした。つまり、ほとんどいい時期を知らない業界人なので、今回の事態もわりと冷静でいられますが、逆にまわりの静かでのんびりした感じが不気味に思えます。こういうとき、時が過ぎて行くにつれて、どんどん人の価値観や判断基準から建前とかきれいごとがなくなるんですよね。

 前のバブル崩壊のときは、そうなるのはあっという間だったし、その本音がもたらす人間関係の悲喜こもごもは、あまり美しいものでもなく、できれば見たくないとは思うけど、しょうがないんでしょうね。避けるすべがないですし。いろんな人生の岐路を見て来たし、私とて、今ここにあるのは、そのときに考えたことがかなりの基礎になっています。

 どちらにしろ、こういう時期だからこそ、なんか表層とかではなく、本質の部分で考えないといけないのかな、なんて思っています。広告はあらゆる時代にも必要なのか。必要であればどのように必要なのか。そんなことをもう一度考えなくちゃ、と思います。半年後、私はこのブログにどんなことを書いているのでしょうか。なんとなく中途半端な感想しか書けませんでしたが、ひとつの記録として残しておきます。

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2008年10月13日 (月)

「風邪のひきはじめ」で検索

 うーん、風邪をひいたかも。鼻水が出ています。熱はまだありません。風邪のひきはじめ、というやつですね。そこで、「風邪のひきはじめ」で検索してみました。民間療法系がぞくぞくヒット。ニンニクが最高だとか、風呂に入れだとか、入るなだとか、足湯しろだとか、生姜湯を飲めだとか、梅干しを焼けだとか、葛湯をつくれだとか、鍋がいいだとか、まさに十人十色。中には、ひきはじめの風邪はカレーですぐ治るとおっしゃる方もいらっしゃいました。

 そんなご意見に対してかならず出てくるのが、つべこべ言わずに医者に行け、という意見でした。おっしゃる通りでございます。ございますけど、ございますけど、ございますけど、夜の11時だし、明日の朝一、新幹線で東京だし、カツオだし、昆布だし。

 で、とりあえず、昆布とアサリのだし汁に生姜のすったのを入れて、とろろ芋の残りをぶち込んで、刻みネギをちらしたお吸い物を飲みました。晩飯の残り物を適当にぶち込んだだけですが、なんか旨かったです。コハク酸って、うま味の王者っぽいと思いませんか。昆布も鰹節もうまいけど、貝のうま味は怒濤のうま味なんですよねえ。うま味でござい、という感じがします。

 とまあ、こういう日記を書くと、風邪のひきはじめには、アサリ汁という感じになりそうですが、まったく根拠もありませんし、保証もいたしませんのであしからず。でも、旨かったのは本当。アサリは旨いよね。

 で、最後に、私のいつもの風邪の治し方。根性で治す。根性で風邪に勝つ。いちばん駄目なやり方ですね。なので、今回は市販の風邪薬を飲んで、本日は早めに寝ることにします。季節の変わり目でございます。みなさま方も、くれぐれも風邪などひかぬよう、お体に気をつけくださいませませ。ではでは。

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2008年10月11日 (土)

ほぼ日刊イトイ新聞の「ほぼ」の意味

 ああ、いいな、と思いました。10月10日付けの「ほぼ日刊イトイ新聞」の今日のダーリンから。

助けてもらえたらありがたいことは、いっぱいある。
でも、その助けがぜんぶ無くなったとしても、
自分だけでここまではできる‥‥ということをやる。
この気分は、ぼくみたいな軟弱な人間でも、
味わったことがあります。
ほぼ日刊イトイ新聞のアタマに、
あえて「ほぼ」とついている理由も、それです。
「ほぼ」は、誰の助けも得られなくなったときに、
ひとりでもやれるための「おまじない」でした。
「ほぼ」の2文字があれば、ひとりでやれる。
病気になっても事故にあっても、なんとかできる。
そういう決意があったと思いだしたのです。

 きっと、この「ほぼ」があるから、ほぼ日は毎日休むことなく続けてこられたのだろうと思います。3ヶ月後にはなかったことになっている「固い決意」より、「ほぼ」というのりしろを付けて、いろいろな状況が訪れてもやり続けていくんだ、という「ゆるい決意」のほうが、言葉の正しい意味での「決意」に近いのだろうな。そんなことを考えました。

 きっと「決意」なんてものは、自分の中で小さな炎として灯しつづけるもので、大きな炎を上げて、他人に大々的にアピールするものではないのでしょうね。

 だとすれば、私は、これから会う誰かの中に灯る、人に語られることのない小さな炎を見つける力を身につけたいと思うんですよね。今までいろいろあったし、これからもいろいろあるでしょう。いろんなことに慣れてきた今、そんなことを考えます。

 それは、言い方を変えれば、一緒に仕事をしたり、考えたりする人を選んでいきたいっていうわがままだったりもするんですけどね。ちょっと傲慢かもしれないけれど、そういう傲慢があるからこその「ほぼ」でもあるんでしょうね。その傲慢の裏側には、たとえひとりになってもやるよっていうことがあるんでしょうね。でも、その傲慢や孤独っていうのが根底になければ、共感というものは成り立ちようがない気もするんですよね。

 ほぼ日のトップページには、こんな言葉が添えられています。

Only is not lonely. + LOVE

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2008年10月10日 (金)

言葉にできない

 小田和正作詞、作曲。1981年、オフコースのアルバム「over」に収録された曲で、翌年にシングルカットされました。長年のオフコースファンとすれば、アルバムタイトルが「We are」と来て「over」なら、「We are over.」、つまり、ああ解散するんだな、という感じがするアルバムで、その中の最後から二曲目の曲だったので、当時発表されたときは、文字通り、アルバムのひとつの曲にすぎませんでした。

 ラストの曲は「心はなれて」というピアノ曲で、そのラストソングのテーマは、美しいストリングスアンサンブルでアルバムのオープニングにも使われました。長年の相棒である鈴木康博さん脱退という出来事に翻弄されていた、当時の若い小田和正さんにとって、きっと、「心はなれて」のほうが重要な曲だったと思います。だからこそ、オープニングとラストに使用したのだろうし、今聴いても、「心はなれて」という曲は、救いようがないほど美しい曲だと思います。オフコースファンとすれば。

 1982年の「over」コンサートツアーを大阪フェスティバルホールで私は見ました。「言葉にできない」の演奏のときに、大スクリーンにひまわり畑の映像が映し出されました。当時のオフコースのコンサートでは、コンサートの後半で、大スクリーンにイメージ映像はおなじみの演出だったのですね。その映像には、「We are over. Thank you.」とメッセージされました。「小田サーン」という若い女性の声に包まれて、静かに演奏されるのが「心はなれて」。このセットリストを見ても、「言葉にできない」という曲が「心はなれて」の盛り上げ的な役割だったことがみてとれます。

「言葉にできない」に続く「心はなれて」が演奏されるとき、鈴木康博さんはギターを持たずにコーラスに専念していました。ギターのパートがないんですよね。それは、今までオフコースを見て来た人間にとっては奇異な光景でした。そして「I LOVE YOU」へ。間奏を除き、ライブ用にピアノ弾き語りアレンジされていました。それは、同時にオフコースが小田さんのバンドであることを実感させられる光景でもありました。

 コンサートツアーのラストである東京武道館で、小田和正さんは、「言葉にできない」の時に声をつまらせてしまいます。小田さんは、コンサートでは感極まって泣くことが多かったので、そのこと自体は、ファンにとってはよくあることのひとつにすぎませんでしたが、解散が噂されていたスーパーバンドのリーダーの涙は、マスコミで大々的に報道されました。

 シングルカットされた「言葉にできない」は、「さよなら」や「愛を止めないで」「Yes No」と比較すると、それほどヒットしなかったように思います。それから幾年か経って、この曲がCMで使われました。

あなたに会えて
ほんとによかった
うれしくって
うれしくって
言葉にできない

 「終わるはずのない愛が途絶えた」と始まる歌詞の後半がCMで使われていました。ああ、このCMをつくった人は、オフコースが好きだったんだな、という印象を持ちましたが、だからといって、それがあらためて再発見されて、巷で大ヒットする、というようなありがちな現象は起きなかったような気がします。

 幾人のミュージシャンがカバーしたりもしました。しかし、この曲を、本当の意味で世に知らしめたのは、YouTubeに投稿された「かなしおかしい」映像クリップでした。もしかすると、この曲は、YouTubeの映像クリップを通して、はじめて世に出たような気もするんですよね。言いすぎかもしれませんが。

 YouTubeの映像クリップをつくったたくさんの人たちは、なぜ「言葉にできない」を使おうと思ったのだろうか。確かに、この映像クリップの方法論は、例のCMのパロディからはじまっています。しかし、これだけ多くの人が次に続く魅力が、当時の私にはわかりませんでした。

 それはきっと、他ならぬこの曲で泣いた小田和正さんにも、きっとわからなかった気もします。小田さんとしては、きっと、本命は「心はなれて」のほうだったと思います。聞いたわけじゃないけど。「心はなれて」の最後は、こんな歌詞。

心はなれて
あなたのこと
見えなくなる
もうここから
先へは行けないね

 小田さんも若かったのだろうと思います。そして、YouTubeで有名になった「言葉にできない」よりも「心はなれて」のほうが真実に近いと思っていた私も。小田さんが泣いたのは、ほかならぬ「言葉にできない」だったという事実。そして、あれから20年以上経って、その経緯を知らない若い人がこの曲を選んだという事実。普遍性とは、いったい何だろう。YouTubeの「言葉にできない」の映像クリップを見るたびに、そんなことを考えます。

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2008年10月 7日 (火)

アクセス解析に見るOSとブラウザのシェア

 このブログのアクセス解析を使って、過去4ヶ月のOSとブラウザのシェアを調べてみました。あくまでこのデータは、このブログにアクセスしてきた方のデータなので、ブログの特性によるバイアスはかかっています。たぶん、私のブログは広告業界の方の閲覧が多いでしょうから、Mac系が多くなるはずです。

■OS・ベスト20

1位 Windows XP 67.8%
2位 Windows Vista 11.8%
3位 MacOSX 8.4%
4位 MacPowerPC 4.9%
5位 Windows 2000 3.5%
6位 Robot/Tool 0.9%
7位 Linux i686 0.8%
8位 Windows 98 0.4%
9位 Windows Me 0.3%
10位 Windows Server 2003 0.2%
11位 DoCoMo 0.1%
12位 Linux x86_64 0.1%
13位 Windows CE 0.1%
14位 au 0.0%
15位 FreeBSD i386 0.0%
16位 Windows NT 0.0%
17位 SoftBank 0.0%
18位 Windows 95 0.0%
19位 Linux 0.0%
20位 SunOS sun4u 0.0%

 こうして見ると、WindowsはまだまだXP。全体の半分以上がXPです。Vistaが伸び悩んでいるというのが、リアルにわかります。OSXが1割弱というのは、まあそんなもんでしょうね。PowerPCというのは、OS9とOSXが混在しているのでしょうけど、きっとOS9は少ないのではないでしょうか。ちなみに私は、去年はOS9でした。Macに関しては、このブログは広告業界の人の閲覧が多いでしょうから、全国シェアより高くでているかもしれません。

■ブラウザ・ベスト20

1位 InternetExplorer 6.0 27.4%
2位 Firefox 3.0.1 19.9%
3位 InternetExplorer 7.0 16.0%
4位 Firefox 2.0.0.16 6.6%
5位 Sleipnir 2.8.0 4.6%
6位 Safari 525.22 2.8%
7位 Safari 525.20.1 2.3%
8位 Firefox 3.0 2.3%
9位 Opera 9.51 1.5%
10位 Sleipnir 2.7.2 1.4%
11位 Sleipnir 2.8.1 1.2%
12位 Firefox 3.0.3 1.0%
13位 Robot/Tool 0.9%
14位 Safari 525.13 0.8%
15位 Sleipnir 2.5.12 0.5%
16位 Opera 9.52 0.5%
17位 Safari 525.20 0.5%
18位 Opera 9.50 0.5%
19位 Sleipnir 2.8.2 0.4%
20位 Pathtraq 0.9 0.4%

 やはりIE系が約半分を占めますが、Firefoxが健闘しています。大健闘と言っていいのではないでしょうか。一頃に比べると、ブラウザが多様化してきましたね。ちなみに私はFirefoxです。ちょっとうれしいのは、IEベースのタグブラウザであるSleipnirの存在感。私の出身地である大阪発ということもあって、応援しています。便利で気が利いているので、私も職場で使っています。がんばれ、Sleipnir。がんばれ、フェンリル。

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2008年10月 6日 (月)

「暮らしの手帖」的なものをどう考えればいいのだろう

 ぼんやりとそんなことを考えています。簡単に言えば、広告収益に依存しないコンテンツのあり方について。今で言えば「ほぼ日刊イトイ新聞」がそれにあたるかもしれません。公共放送だからこの範疇には入らないけれど、ある種、NHKのコンテンツが持つ質みたいなものは、広告収益に依存しないからこそできることなのかもしれない、と思ったりします。

 知らない方もいるでしょうが、ゴールデンウィークに大阪で開かれる「春一番コンサート」も冠がありません。あのコンサートは、収益的にはきついかと思うんですが、ミュージシャンと聴き手が一緒になって純粋に音楽を楽しむ、あの独特の質は、冠コンサートでは出せないものだろうと思います。

 これまで、この手の話は、わりとアンチ資本主義的な文脈で語られることが多かったと思いますが、今や、マスメディアからインターネットまで、様々なコンテンツが広告モデル以外の新しいモデルを捜しているし、ある意味では、とりわけ「ほぼ日刊イトイ新聞」なんかは、もうひとつの未来を先取りしているように思います。

 ウェブ2.0というお題目で語られるインターネットのかたちではないですが、「ほぼ日刊イトイ新聞」は、糸井重里さんの著書の題名を借りると、あの種の雰囲気の好き嫌いはともかくとして、多くのインターネット企業がものにしようとして、どうしてもものにできない、もうひとつの「インターネット的」な姿であるように思います。

 もしかすると、ウェブ2.0的な価値観というのは、最終型的かつ細分化された広告モデルなのかもしれません。あるいは、旧来型の広告モデルの大衆化というか。Google/Amazon化する社会ではないけれど、そこで言われているロングテールにしても、結局は広告モデルの分散化、細分化だろうと思います。

 個人的な希望としての未来は、コンテンツの分散化、細分化であってほしいと考えていて、その多様性を伸ばし育てるバックボーンが、やはり、細分化、分散化された広告モデルであることのジレンマみたいなものがあるのだと思います。老舗雑誌の休刊があいついでいますが、そのことは、旧メディアの終焉といった文脈で語れない気がどうもするんですね。

 そのへん、「文藝春秋」はうまいバランスの取り方をしています。最後のほうのに広告情報館という見開きのページがあり、各広告の目次がついていて、それぞれ広告がジャンル分けされていて、読書、とか、辛党に捧ぐ、とか、「食」が文化をつくる、とか見出しがついています。ちいさなことかもしれませんが、案外、こんなところにヒントがあるのかもしれません。

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2008年10月 4日 (土)

中野話3題

 仕事が終わって、中野の自宅まで帰ろうと、東京駅から、中央線「特別快速・青梅行」に乗りました。扉の隅に立っていたのですが、後ろには男性が二人。神田駅で人がどっと乗って来て、すごく混み出しました。すし詰め状態。そのお二人の会話がおかしかったです。
 「すげえよなあ。ぎゅうぎゅうじゃん。」
 「それは俺らが悪いんだよ。」
 「え、なんで?」
 「この電車は、おれらみたいな半端なヤツが乗る電車じゃないからさ。」
 「半端なヤツ?」
 「うん。会社終わって、これからよし、青梅に帰るぞっていう人のための電車じゃん。これから新宿で飲むぞっていう人のためのものじゃないんだよ。」
 「へえ、なるほどねえ。」
 まあ、君たちは悪くないけど、その考え方は、ちょっと好き。

 会社が終わって、深夜に中野。外で食べるのも何だし、深夜1時までやっているスーパーマーケット「いなげや」で食い物を買って帰ろうと。エスカレーターで、買い物袋を下げた会社の先輩CDと出くわしました。そのCDは、なんでもない顔で「おうっ、買い物?」とか言っていたけど、なぜか私は、すごく恥ずかしかったです。顔が真っ赤になりました。この恥ずかしさは、なんなんでしょうね。

 中野のサンモール商店街。夜の11時頃。男性2人、女性1人のグループが、飲み会帰り。うれしそうな女性が、満面の笑みを浮かべて「お酒はおいしいねえ。」と言っていました。なんかいいフレーズ。ふぐ刺しおいしいね、じゃなくて、田酒おいしいね、じゃなくて、富乃宝山おいしいね、じゃなくて、お酒おいしいね、というところがなんか新鮮。

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2008年10月 3日 (金)

しあわせの裏側

 忘れないうちに書き留めておこうと思いました。前回のエントリ「しあわせって何だっけ」について、はてなブックマーク(参照)にコメントが書かれていて、明石家さんまさんが歌う「しあわせって何だっけ、何だっけ、ポン酢しょうゆのあるうちさ」というコマソンで一世風靡したキッコーマンのポン酢しょうゆのCM(参照)は、演出の「関口菊日出さんの杉山登志の遺書へのアンサーCMでもある」であると知りました。

 広告業界に詳しくない方にも読んでいただきたいので、ほんの少し説明をしておきます。

 このCMをつくった関口菊日出 さんは、CM業界ではたいへん有名な方です。このキッコーマンの他にも、アフラックの「よーく考えよう。お金はだいじだよ〜。」(参照:このテイクについては演出しているかどうかは不明ですが)とか名作をたくさん世に送り出しています。残念ながら、2006年にお亡くなりになられました。

 また、杉山登志さんは、1960年代を中心に大活躍したCM演出家です。有名な作品では「のんびり行こうよ、俺たちは。」という歌とともに、故障したクルマを押していく二人の若者の映像が流れ、「クルマはガソリンで動くのです。」というコピーで結ぶモービル石油のCM(参照)。キャリアの絶頂期であった37歳で、下記の遺書を残して自ら命を絶たれました。

リッチでないのに リッチな世界などわかりません
ハッピーでないのに ハッピーな世界などえがけません
夢がないのに 夢をうることなどは……とても 嘘をついてもばれるものです

 キッコーマンのCMが「関口菊日出さんの杉山登志の遺書へのアンサーCMでもある」ということについて、コメント主のurbanseaさんから丁寧なコメントをいただいて、演出家の関口さんの思いを知り、すごく考えさせられました。urbanseaさんのコメントを一部引用します。

生前、関口さんが毎日新聞に取り上げられ、
・杉山登志の遺書の「ハッピーでないのに ハッピーな世界などえがけません」
 に違和感を持った
・むしろ幸せであっては幸せを演出できないとさえ想った
・その後ディレクターとして売れ、一方で離婚し、子供とも別れる
・そんな中での「幸せってなんだっけ」
…というお話でした。

 私も広告業界のはしくれに生きるクリエーターとして、杉山さんの抱いた思いも、関口さんの抱いた思いも、どちらも痛いほどわかります。「ハッピーじゃないのにハッピーな世界などえがけません」とも思うし「ハッピーじゃないからハッピーな世界がえがける」とも思います。その両極で揺れ動くのが、彼らのような才能を持ち合わせていない凡人である私の日常です。

 関口さんについては、私は噂でしか聞いたことがありませんが、数々の武勇伝を持つ豪快な人でした。杉山さんは、私が働き出したときには、すでに伝説の演出家でしたが、きっと、語弊のある言い方ですが、日常生活と表現のあいだに乖離が大きい、アンバランスな感じがあったのでは、と想像します。これは、もしかすると、優秀な表現者の宿命なのかもしれないとも思います。

 杉山さんへの共感を、私はこのブログでいくつか書いてきたような気がします。かっこつけた言い方になるかもしれませんが、広告というものは、不可避的にしあわせについて考えることを強いられる表現形態であるとも言えます。自分がしあわせではないときも、しあわせについて考えることを強いられるのです。それは、しあわせな仕事であるとも思うけれども、そのしあわせを考えるビジネスというのは、結構きついものでもあるような気もします。

 私もそうであると思うけれども、多くの人は、それを広告理論とか、現場のダイナミズムとか、個人的な野心とかでまぎらわしたりしますが、それさえまやかしに過ぎなくなる高度な領域では、きっと、しあわせを強制的に考えさせられる、商業芸術的な表現世界の強制力は、自己矛盾としてその人を苦しめるような気がします。

 関口さんは、その回答として、「しあわせは、ポン酢しょうゆのあるうちさ」と相対化してみせました。きっと、それは、大きな不幸と隣り合わせにある大きな幸福ではなく、小さな不幸と隣り合わせる小さな幸福こそが、本当の幸福であるのではないか、ということだと思います。

 幸福というものは、きっと不幸があるから成り立つ概念で、不幸という状態がなければ、それは成立し得ないのではないかな、と思います。自己という概念が、他者とか世界とか、自己以外のものがなければ成り立たないように。

 「ポン酢しょうゆのあるうちさ」というのは、人間が生に向かうための、すぐれた戦略のような気もしてきます。それとともに、なんとなく時代背景というものもあるのだろうな、と思います。杉山さんの生きた時代は、高度成長期で、人や、その社会は、大きな幸福のビジョンを持っていました。イケイケどんどん。働けば、明日はもっとしあわせになれる。そんな時代でした。杉山さんは、そんな世の中に対して「ゆっくり行こうよ、俺たちは」と呼びかけました。その彼が、大きな不幸に屈してしまったのは、なんという皮肉なんだろうと思います。

 そして、ある程度豊かさを謳歌する時代になり、1980年代を駆け抜けた関口さんは、その時代の戦略として、ちいさなしあわせがしあわせなんだよね、と表現しました。その裏にちいさなふしあわせもあるけれど、ふしあわせを知ることができればできるほど、人はしあわせを知ることができるのだから、ということなんだと思います。そう言えば、「贈る言葉」という歌の中にも、「人は悲しみが多いほど、人にはやさしくできるのだから」とありましたよね。この悲しみの歌われ方は「貧しさに負けた」と歌う「昭和枯れすすき」とは決定的に違うような気がします。

 少し話はずれてしまいますが、そんな、ちいさなしあわせやふしあわせを相対化する時代(それは「戯れ」と呼ばれてましたよね)が終わり、今、また、大きな幸福や不幸が求められるようになっているのかな、とも思えます。

 もし、杉山さんが生きていれば、そのあとどんなCMを世の中に送り出したのでしょうか。杉山さんの内面に現れた不幸を私は知る由もないけれど、その不幸を乗り越えて、生に向かって歩み出す杉山さんが考える幸福を、私は見てみたいと思います。それは叶わないことではあるけれど。

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2008年10月 2日 (木)

しあわせって何だっけ

 「ぽん酢しょうゆのあるうちさ」と1986年に明石家さんまさんが定義していますが、うちのぽん酢しょうゆはキッコーマンではなくミツカンなので、少しだけしあわせではないのかもしれません。てな冗談は置いといて、しあわせって何だっけ、と私なりに考えてみました。

 しかし何でしょうね。これ、ここ最近ずっと考え続けているのですが、明確な答えはまだ出ていません。というか、しあわせっていうのは相対的なもののような気がするし、たぶんに主観的なものであるとも思うので、明確な定義は難しいんじゃないだろうか、とも思います。うれしい、たのしい、かなしい、くやしい、そんな感情も人によりけりですよね。それと同じです。

 とは言っても、しあわせっていうのは確かにあるし、なんとなく、なるほど、そうだよねえ、という説明をしたくなる欲望にかられたりします。なので、なるだけ具体的な事例を交えて、私流の説明を試みてみたいと思います。しばし、おつきあいのほどを。

仮説1.しあわせとは、デイリーポータルZを読んで、ああ、あいかわらずおもしろいよなあ、と思える状態のことである。

 おもしろいですよね、デイリーポータルZ。あのゆるおもしろい感じを、クオリティを落とさずに長年維持し続けているのはえらいなあ、と思います。私的には、デイリーポータルZを読んでも笑えないときって、かなりしあわせレベルが低いときのような感じがしています。つまんね、とは思わないけれど、心底笑えない。そんな状態のときがときどきあります。ここ最近の私を自分で観察するに、わりと、これがしあわせの基準になってるような気がします。

仮説2.しあわせとは、自分のブログの過去ログを読んでみる気になる状態のことである。

 ブログも1年以上続けると、けっこうな数のエントリがたまってきます。ブログツールは、というか、ココログは、過去ログをタイトル一覧にする機能をもっていませんので、どうしても過去に書いたエントリは読まなくなりがちです。そういう機能的な敷居が過去ログにはあるのですが、それよりも、心理的な敷居のほうが数段高いような気がします。つまり、読みたくないんですね。読んでも、こいつ何書いてるんだ、なんて浅いんだ、ってなるだけな気がして、どうも敬遠しがち。

 書くということは、思考するということでもあるので、一度書いてしまうと、それは自分の中では思考済みになってしまうので、過去に自分で書いたものを読んでも、今の自分には浅く思えてくるんですよね。でも、それでももう一度読みなおしてみようかなと思えるときって、自分に余裕があるというか、そんな浅い自分も許せるというか、そんな心理状態のときかも。でもって、おっ、なかなかおもしろいこと書いてるやん、なんて思えてしまうと、それはかなりしあわせな状態なのかもしれません。

仮説3.しあわせとは、「夜ごはん、なにしよか。そうやなあ、鍋でもする?」という気分になる状態のことである。

 いきなりオリジナリティがない説明ですが、さんまさんのCMがきっかけなので、その部分をちょっとだけ書いてみようかな、と。鍋は、しあわせの象徴だなあと思います。食べる側にとってみると、ちょっとばかしめんどくさいんですよね。鍋って、コミュニケーションを味わう部分があるから。だんらんですね。家族でもなんでも、そんなコミュニケーションがたのしい、ではなく、じゃまくさい、ってなるときは少ししあわせレベルが下がってきているときなのかな、と思います。

 ポン酢しょうゆがあるうちさ、というコピーはいいコピーですよね。あのコピーは、あれではミツカンに勝てないとか、差別性が語れていないとか言う人もいるようですが、私は、ああいうコピーは好きです。しくみ的には、その普遍性を基軸にしながら、キッコーマンのしあわせの理由、みたいな差別性が語れる場をつくれば事足りること。広告は差別性を言わなきゃ、とか杓子定規に言うのって、しあわせな感じがあまりしないんですよね。しあわせな気分がなければ、そもそも広告にはならないのにね。

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 てな感じで10個くらい並べてみようと思って書き出しましたが、ちょっとしんどくなってきました。ある程度数が出せたら、その共通項をさがしていく中で、何か新しい発見があるかもしれないな、と思ったんですけどね。今は、ちょっとだけしあわせレベルが落ちているのかも。忙しかったからなあ。気が向いたら書くかもです。

 また、これは、人によっていろいろあるんだろうな、とも思うんですよね。私は違うなあ、こうだなあ、てなことあれば、コメントなりトラバなりいただけたら、私がすごくよろこびます。てな感じで、本日はここまで。ではでは。

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2008年10月 1日 (水)

妥協のお話

 妥協は大事という意見は嫌われがちだけど、妥協は大事だと思います。クリエーターのくせに妥協が大事なんて何事だ、と怒られそうだけど、それでも妥協ということを、もう少し真剣に考えるべきだと私は思います。

 たとえば、急ぎの仕事で、予算も限られているとき、どの部分を優先して、どの部分を妥協するのかをあらかじめ決めることはすごく大事。特に、自分と利害を共有できない外部スタッフとともに作業をするとき。

 優先するべきこと。それは納期と予算。これについては動かしようがありません。クオリティ。これもきっと優先されることは動かしようがありません。これらは絶対に動かしてはいけません。

 問題は、ここから先です。そのクオリティを出すために、どこが大事で、どこが妥協できるのか。それをあらかじめ決めておくことは大事だと思うのです。その優先順位を決めるのは、目的です。その目的を達成するために、ここだけははずせないと思う部分はこだわる。けれども、その他の部分が時間やお金の面でどうしてもかないそうもないときは、思い切って妥協する。もしくは、切り捨てる。これをしないと、すべてが中途半端に終わってしまいます。

 よく外部スタッフに、どうでもいいこだわりを、優先すべき事柄と同じように厳しく要求して、そのために、結果として、外部スタッフが、そのどうでもいいこだわりを果たし切るために、どうしても守りきらなければいけない部分が逆に犠牲になって、目的が果たせなくなる。そんなケースを今までよく見てきました。

 それはなぜなのか。簡単です。利害を共有していない外部スタッフにとって、そのどうでもいいこだわりは、その仕事の絶対条件に見えてしまうからです。どうでもいいこだわりが達成できなければ、何を言われるかわからない。そんな思いが先に立つからです。

 いかなる状況でも全方位にパーフェクトを。それは美しいけれど、所詮はきれいごとだとも言えます。人間の力は有限なのです。そして、人に対してする要求は、その人の力を無限だと仮定してはいけないのです。

 外部スタッフも含めて、すべてのスタッフが互いに目的を共有することで解決できるとあなたは言うかもしれません。しかし、それは、理想論であり、独我論ではないでしょうか。私の業界に照らして言えば、広告主、広告代理店、制作会社、フリー、それぞれ存立基盤は違います。存立基盤が違えば、同じ目的を共有するといっても、どうしようもなく、その解釈に違いが出てくるものなのです。

 であるからこそ、発注においては、優先順位を明確にしておくことが重要なのです。これは時間がなくても、お金がなくても、優先されなければならない。けれども、これは、妥協しても、思い切って切り捨ててもよい。もし余裕があればその部分もこだわってね、でも、余裕がなければ、その部分はなくてもいいです、くらいの明確な意思表示が重要だと思います。

 あえて言います。すべてに手を抜かない、ということは、すべてに手を抜く、ということと同じだと思います。このことは、発注側に立ったときも、受注側に立ったときも、同じように思います。すぐれた仕事をする人は、どこか抜けたところがある。そんな経験からも、きっと言えることだろう、と私は思っています。

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