「暮らしの手帖」的なものをどう考えればいいのだろう
ぼんやりとそんなことを考えています。簡単に言えば、広告収益に依存しないコンテンツのあり方について。今で言えば「ほぼ日刊イトイ新聞」がそれにあたるかもしれません。公共放送だからこの範疇には入らないけれど、ある種、NHKのコンテンツが持つ質みたいなものは、広告収益に依存しないからこそできることなのかもしれない、と思ったりします。
知らない方もいるでしょうが、ゴールデンウィークに大阪で開かれる「春一番コンサート」も冠がありません。あのコンサートは、収益的にはきついかと思うんですが、ミュージシャンと聴き手が一緒になって純粋に音楽を楽しむ、あの独特の質は、冠コンサートでは出せないものだろうと思います。
これまで、この手の話は、わりとアンチ資本主義的な文脈で語られることが多かったと思いますが、今や、マスメディアからインターネットまで、様々なコンテンツが広告モデル以外の新しいモデルを捜しているし、ある意味では、とりわけ「ほぼ日刊イトイ新聞」なんかは、もうひとつの未来を先取りしているように思います。
ウェブ2.0というお題目で語られるインターネットのかたちではないですが、「ほぼ日刊イトイ新聞」は、糸井重里さんの著書の題名を借りると、あの種の雰囲気の好き嫌いはともかくとして、多くのインターネット企業がものにしようとして、どうしてもものにできない、もうひとつの「インターネット的」な姿であるように思います。
もしかすると、ウェブ2.0的な価値観というのは、最終型的かつ細分化された広告モデルなのかもしれません。あるいは、旧来型の広告モデルの大衆化というか。Google/Amazon化する社会ではないけれど、そこで言われているロングテールにしても、結局は広告モデルの分散化、細分化だろうと思います。
個人的な希望としての未来は、コンテンツの分散化、細分化であってほしいと考えていて、その多様性を伸ばし育てるバックボーンが、やはり、細分化、分散化された広告モデルであることのジレンマみたいなものがあるのだと思います。老舗雑誌の休刊があいついでいますが、そのことは、旧メディアの終焉といった文脈で語れない気がどうもするんですね。
そのへん、「文藝春秋」はうまいバランスの取り方をしています。最後のほうのに広告情報館という見開きのページがあり、各広告の目次がついていて、それぞれ広告がジャンル分けされていて、読書、とか、辛党に捧ぐ、とか、「食」が文化をつくる、とか見出しがついています。ちいさなことかもしれませんが、案外、こんなところにヒントがあるのかもしれません。
| 固定リンク
「広告のしくみ」カテゴリの記事
- 今、広告業界に進みたいんですっていう学生さんに居酒屋でなにか話すとしたら(2012.03.10)
- コンテクストは同じでも、twitterというコミュニケーションの場がつくるモードの中では、表現は生っぽくなる(2012.03.04)
- 捨てる決断(2012.02.29)
- 「つぶやき」と「いいね!」(2012.02.19)
- すっぴんうどん(2012.02.11)
コメント
非常に興味深いです。
芸術やコンテンツはもともと寺社や貴族などのパトロンの庇護の下にあったのが、印刷などの複製技術により芸術家やコンテンツ作家は大衆の支持があれば生活していけるようになった。
そして、今は大衆の費用負担から、広告という企業負担によるコンテンツ流通になりつつある。
ただ、こうなると企業受けしないコンテンツは流通しにくくなってしまう。
そんな時に「ほぼ日」的なコンテンツ(メディア?)は貴重だと思いますし、広告コンテンツに対する大きなアンチテーゼになると思います。
投稿: かみたに | 2008年10月 7日 (火) 13:38
かみたにさん、こんにちは。
そうですね。これは芸術コンテンツに限らず、情報コンテンツである新聞とかにも当てはまります。Googleをはじめとするウェブサービスもそう。
まあ、私は広告屋なのでジレンマはありますけど、コンテンツと広告の持続と発展という意味でも、「ほぼ日」的なアンチテーゼは注視したいと思っています。
投稿: mb101bold | 2008年10月 7日 (火) 15:01