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2008年10月 3日 (金)

しあわせの裏側

 忘れないうちに書き留めておこうと思いました。前回のエントリ「しあわせって何だっけ」について、はてなブックマーク(参照)にコメントが書かれていて、明石家さんまさんが歌う「しあわせって何だっけ、何だっけ、ポン酢しょうゆのあるうちさ」というコマソンで一世風靡したキッコーマンのポン酢しょうゆのCM(参照)は、演出の「関口菊日出さんの杉山登志の遺書へのアンサーCMでもある」であると知りました。

 広告業界に詳しくない方にも読んでいただきたいので、ほんの少し説明をしておきます。

 このCMをつくった関口菊日出 さんは、CM業界ではたいへん有名な方です。このキッコーマンの他にも、アフラックの「よーく考えよう。お金はだいじだよ〜。」(参照:このテイクについては演出しているかどうかは不明ですが)とか名作をたくさん世に送り出しています。残念ながら、2006年にお亡くなりになられました。

 また、杉山登志さんは、1960年代を中心に大活躍したCM演出家です。有名な作品では「のんびり行こうよ、俺たちは。」という歌とともに、故障したクルマを押していく二人の若者の映像が流れ、「クルマはガソリンで動くのです。」というコピーで結ぶモービル石油のCM(参照)。キャリアの絶頂期であった37歳で、下記の遺書を残して自ら命を絶たれました。

リッチでないのに リッチな世界などわかりません
ハッピーでないのに ハッピーな世界などえがけません
夢がないのに 夢をうることなどは……とても 嘘をついてもばれるものです

 キッコーマンのCMが「関口菊日出さんの杉山登志の遺書へのアンサーCMでもある」ということについて、コメント主のurbanseaさんから丁寧なコメントをいただいて、演出家の関口さんの思いを知り、すごく考えさせられました。urbanseaさんのコメントを一部引用します。

生前、関口さんが毎日新聞に取り上げられ、
・杉山登志の遺書の「ハッピーでないのに ハッピーな世界などえがけません」
 に違和感を持った
・むしろ幸せであっては幸せを演出できないとさえ想った
・その後ディレクターとして売れ、一方で離婚し、子供とも別れる
・そんな中での「幸せってなんだっけ」
…というお話でした。

 私も広告業界のはしくれに生きるクリエーターとして、杉山さんの抱いた思いも、関口さんの抱いた思いも、どちらも痛いほどわかります。「ハッピーじゃないのにハッピーな世界などえがけません」とも思うし「ハッピーじゃないからハッピーな世界がえがける」とも思います。その両極で揺れ動くのが、彼らのような才能を持ち合わせていない凡人である私の日常です。

 関口さんについては、私は噂でしか聞いたことがありませんが、数々の武勇伝を持つ豪快な人でした。杉山さんは、私が働き出したときには、すでに伝説の演出家でしたが、きっと、語弊のある言い方ですが、日常生活と表現のあいだに乖離が大きい、アンバランスな感じがあったのでは、と想像します。これは、もしかすると、優秀な表現者の宿命なのかもしれないとも思います。

 杉山さんへの共感を、私はこのブログでいくつか書いてきたような気がします。かっこつけた言い方になるかもしれませんが、広告というものは、不可避的にしあわせについて考えることを強いられる表現形態であるとも言えます。自分がしあわせではないときも、しあわせについて考えることを強いられるのです。それは、しあわせな仕事であるとも思うけれども、そのしあわせを考えるビジネスというのは、結構きついものでもあるような気もします。

 私もそうであると思うけれども、多くの人は、それを広告理論とか、現場のダイナミズムとか、個人的な野心とかでまぎらわしたりしますが、それさえまやかしに過ぎなくなる高度な領域では、きっと、しあわせを強制的に考えさせられる、商業芸術的な表現世界の強制力は、自己矛盾としてその人を苦しめるような気がします。

 関口さんは、その回答として、「しあわせは、ポン酢しょうゆのあるうちさ」と相対化してみせました。きっと、それは、大きな不幸と隣り合わせにある大きな幸福ではなく、小さな不幸と隣り合わせる小さな幸福こそが、本当の幸福であるのではないか、ということだと思います。

 幸福というものは、きっと不幸があるから成り立つ概念で、不幸という状態がなければ、それは成立し得ないのではないかな、と思います。自己という概念が、他者とか世界とか、自己以外のものがなければ成り立たないように。

 「ポン酢しょうゆのあるうちさ」というのは、人間が生に向かうための、すぐれた戦略のような気もしてきます。それとともに、なんとなく時代背景というものもあるのだろうな、と思います。杉山さんの生きた時代は、高度成長期で、人や、その社会は、大きな幸福のビジョンを持っていました。イケイケどんどん。働けば、明日はもっとしあわせになれる。そんな時代でした。杉山さんは、そんな世の中に対して「ゆっくり行こうよ、俺たちは」と呼びかけました。その彼が、大きな不幸に屈してしまったのは、なんという皮肉なんだろうと思います。

 そして、ある程度豊かさを謳歌する時代になり、1980年代を駆け抜けた関口さんは、その時代の戦略として、ちいさなしあわせがしあわせなんだよね、と表現しました。その裏にちいさなふしあわせもあるけれど、ふしあわせを知ることができればできるほど、人はしあわせを知ることができるのだから、ということなんだと思います。そう言えば、「贈る言葉」という歌の中にも、「人は悲しみが多いほど、人にはやさしくできるのだから」とありましたよね。この悲しみの歌われ方は「貧しさに負けた」と歌う「昭和枯れすすき」とは決定的に違うような気がします。

 少し話はずれてしまいますが、そんな、ちいさなしあわせやふしあわせを相対化する時代(それは「戯れ」と呼ばれてましたよね)が終わり、今、また、大きな幸福や不幸が求められるようになっているのかな、とも思えます。

 もし、杉山さんが生きていれば、そのあとどんなCMを世の中に送り出したのでしょうか。杉山さんの内面に現れた不幸を私は知る由もないけれど、その不幸を乗り越えて、生に向かって歩み出す杉山さんが考える幸福を、私は見てみたいと思います。それは叶わないことではあるけれど。

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コメント

こんにちは。

「ちいさなしあわせやふしあわせを相対化する時代(それは「戯れ」と呼ばれてましたよね)が終わり、今、また、大きな幸福や不幸が求められるようになっているのかな、とも思えます。

・・・とお感じになった理由、きっかけなどを、いつかこの場に書いていただきたいと思いました。

前回のエントリーと合わせ、消化できていないのでまだコメントにはなりませんが、「幸福」や「(生きる、仕事をする)意味」などに対する感覚は、ひとりひとりの絶対不可侵領域だと思うとともに、だからこそ身近な人に安易に「ちいさな幸せで満足」などと言って欲しくないと思っています。

投稿: takupe | 2008年10月 3日 (金) 11:08

takupeさん、こんにちは。

上記部分については、ある程度、当時の思想的な状況とも関連した時代背景です。それは、経済や国際情勢とも関連しているかもしれません。

ここでいう大きい小さいという基準は、幸せと国家とのひもづけ度合いともかかわるのかもしれないな、と思いますが(時代の契機としては、911とかオウムとか阪神大震災とかがあるのでしょうか)、それ以上はちょっと私の今の限界を超えてしまうような気がしていますので、あえて踏み込みませんし、踏み込めません。

その下部構造は、私のような広告メッセージをつくる職業の人は、知らず知らずのうちに規定されていくので、職業人としての感覚をつぶやいてみた、というふうに理解してもらえればありがたいです。

あと「ちいさな幸せで満足(すべき)」というようなことを言うことも言われることを私も好みませんが、また同時に、私は、人はそのことを言ってもいいとも思っていて、それを言う人も嫌悪する人もあっていいと思います。それはおっしゃるように、そのような語り口は個人の領域としての限界は超えられないとも思います。

でも、それゆえ、人それぞれだよな、ということを楽しんだり、参考にしたりするのは面白いし、ああ、この考え方は私とはちがうなあ、という余裕というか余白の部分もあっていいとも思います。いろいろな価値観が共存する世界は、すくなくともそいろいろな価値観の表明があるということが前提なわけだし。そううじゃなきゃ、世知辛いですから。

なんか野暮になっちゃいましたが、そんな感じに思っておりますです。

投稿: mb101bold | 2008年10月 3日 (金) 12:50

お返事ありがとうございました。

広告も、ブログも、書くことで気持ちが変わりますね。
良い未来を希望して何かを書くと、実現しそうな気がします。そういう感覚が好きです。

「このくらいでいいや」という表明を近しい人から聞かされたくない、という青いわがままでした。

もう少し考えてみます。

投稿: takupe | 2008年10月 3日 (金) 17:24

その瞬間を点で考えるか、過去の無数の点と点を結んで、加えて、未来に起こりうる点をつなげた線で考えるか、ということかもしれません。
点で考えると、それは絶対とか価値観だけど、線で考えることは仕組みとか原理を考えること。
まあ、そうしたメタレベルの不可能性みたいなことは思考の限界としてあるのかもしれないけれど、その限界を超えようともがくのが人の思考の営為だったりもするし。
そんな感じです。

投稿: mb101bold | 2008年10月 4日 (土) 13:32

特に不幸は、ある種の極端さから発生する、
と感じることがあります。
そういう極端な不幸の対極から「幸福」を感じ得るのだとしたら、
生暖かい水の中に浸り続ける生活は、
不幸でも幸福でもないという、究極の不幸ではないかな、と。

ポン酢醤油の時代にはやっぱり「24時間働けますか」みたいな「極端さ」がありました。
今は、過労死するのも許されない社会になっているような? というより、過労死するほど働く動機付けが無い、というほうが正確でしょうね。

投稿: 匿名希望さん | 2008年10月 5日 (日) 01:06

匿名希望さんさん、どもです。
うーん、難しいところですね。あの時代の「24時間働けますか」というのも、なんとなくパロディだったような気もするんですね。相対化の旗印のもとに、モーレツ社員、ワンレンボディコン、そして、その一方のナチュラルライフみたいなものもパロディ化されて、カタログ化され、みんなが好きなのを選べると信じてた社会。少し通俗的な時代解釈かもしれないですが。
「しあわせって何だっけ」のCMは、そんな時代のアンチテーゼだったような気がしてるのと同時に、あの相対化の時代だからこそ信じられるしあわせの真実のような気もしてて。
で、今はどうか。相対化みたいな牧歌的なものが信じられる土壌はなくなってきていて、どちらかというと極端さの時代になりつつあるような。「生暖かい水の中に浸り続ける生活」さえ許さない感じもあり、過労死で言えば、それがパロディにならない感じもあります。
話はかわりますが、そういう意味ではデイリーポータルZ的なしあわせ感は、いま光だな、と本気で思ったりもします。

投稿: mb101bold | 2008年10月 5日 (日) 01:35

takupeさんへ。

>「このくらいでいいや」という表明を近しい人から聞かされたくない、という青いわがままでした。

の中の近しい人が私ならば、それは誤読ではないかな。なんとなく気になったので。

投稿: mb101bold | 2008年10月 6日 (月) 19:56

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