« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »

2008年11月の23件の記事

2008年11月30日 (日)

ポメラはモバイルガジェットのパラドクスを超えられるかも!?

Photo_2

 

 こんなのがあったんですね。ポメラ。発売元のキングジム(!)によると、デジタルメモだそうです。大きさは携帯ゲーム機くらいで、キーボードは折り畳み式。開くと両手打ちに十分な大きさのキーボードになるそうです。で、何ができるか。文字が打てます。以上。いいですねえ。保存形式はtxt.で、本体メモリには8000字のファイルを6ファイル保存できるとのこと。

ArdataIdx_cx310p_2  私はこの手のモバイルガジェット好き。はじめて買ったガジェットはNECのARDATA。日本語ワープロ「文豪」ベースのモノクロ液晶機。その次は、富士通のINTERTOP CX310。ウィンドウズCE機。けっこう何でもできました。インターネットの閲覧もできたし、これにDDI Pocket(ウィルコム)をつないでネットサーフィンしてました。懐かしい。

 この手のモバイルガジェットは、基本的には多機能なんですよね。小さい割には何でもできる。ARDATAもパソコン通信ができたし(私はしなかったけど)、ファックスの送信もできました。表計算もスケジュールもできるし、ゲームなんかもそこそ。INTERTOPに至っては、それこそウィンドウズCE機なので、パソコンでできるほとんどのことができました。

 でもね、この多機能というのが仇になるんです。なんでもそこそこできるという言葉の「そこそこ」がいかんのですよね。INTERTOPに関しては、映像がまるで駄目だったんですね。当時のCEの限界。ソフトウェアも少なかったし、パワポも当然アウト。

Photo_3  人間には欲があるから、あれもしたいこれもしたい、になるんです。映像なんて、実際はあんな小さなガジェットで見やしないのに、見たくなるんです。となると、見られないことが不満になってくるんです。CE機ではものたりなくて、ウィンドウズMe機の東芝のLibrettoを買ってしまいました。でもこれはこれで、結局は電池持ちが不満になってくるんですよね。

 要するに、高機能で多機能なモバイルガジェットは、すべてが中途半端になってしまうんですよね。ニッチなりに一分野を誇っていたCEノートも、今や跡形もなくなってしまいました。モバイルは、もっぱらパナソニックのLet’s noteのようなモバイルノートに落ち着きました。超小型のLibrettoやカシオのCassiopeiaでさえ、市場には残れませんでした。

R300  でも、ニッチの需要としては、確かにあるんですよね。例えば、NECのモバイルギアを懐かしむ声は記者やジャーナリストを中心に多いと聞きますし、私自身、ARDATAやINTERTOPの電池持ちの良さと起動の早さは、いまのフルスペックのノートパソコンにはない魅力だったりしました。

 で、このポメラ。こんな時代にあえてローテクで単機能なのが、もしかすると功を奏するかもしれないと思いました。ソフトをインストールするといった拡張性もほとんどないみたいですし。 逆転の発想ですよね。商品開発の人たちは、かなり考えてつくったのではないでしょうか。もしかすると、モバイルガジェットのパラドクスをポメラは超えられるかもしれません、というか、超えてほしいなあ。

Photo_4 こういう製品は、けっこうじっくり構えないといけないのでしょうね。きっと私は買わないですが、ポメラが必要な人たちは、世の中にはそんなに多くないけど、きっといるはず。その人たちに行き渡って、一定の評価を得るまで、製品として持ちこたえられるかどうかが勝負どころだと思います。はじめからローテクなので時間が経っても古くならないし。

 なんとなく、このマーケティング的なチャレンジは応援したくなります。こういう製品がロングセラーになるかどうかは、結構、これからのトレンドを決めてしまうのではないか、そして、こういう製品がロングセラーとして受け入れられるトレンドは、結構いいかもしれないな、と私はなんとなく思うのですが、どうでしょうか。しばらく注視していきたいと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月29日 (土)

♪仕事は自己実現のためにあるんやないんやで〜

 お金を稼ぐためにあるんやで〜♪

 元ネタ、わかります?これです。ま、そんな「昭和の名曲」はさておき、自己実現についてぼんやり考えていることを、ぼちぼちと。やっぱり同じ仕事をするなら、自分が楽しくやれる方がいいし、その仕事が自己実現っぽい感覚でやれるにこしたことはないとは思うけど、仕事イコール自己実現ではないというのは、たぶん自明のことなんだろうと思います。

 広告制作の仕事をしていると、そんな自己実現の欲求と仕事として求められるものの間で悶々とすることが多いです。制作スタッフを抱えるCD稼業はとくに。こんなふわふわした職種(実際はそうでもないですけどね)に入ってくるくらいだから、それなりに仕事であるべき自分をみつける、みたいな夢を持って入って来ているんだろうし、広告制作というのは、人が持っている自己実現のための欲求をビジネスに転用することで成り立っている商売だろうとも思うので、こんな身も蓋もないことを言うのはなんだかなあ、とは思うんですけどね。

 それぞれのあるべき自分への欲求を甘めに見て、それで仕事を成り立たせていくと、そもそもの仕事としての質が犠牲になることも多く、私は、それぞれの自己実現欲求みたいなものをあえて切り捨てるという行動をとってしまいがちなので、いろいろ気苦労もあったりするんですね。

 たとえば、私は「これも提案したいんですよ。お願いします。」みたいなことを若いスタッフに言われても、仕事の課題に関係なければ持って行かないし、それぞれのスタッフの力量を見て、その力量以上の役割をそのスタッフに与えたりはしません。いわゆる、立場相応に下駄を履かせることもしません。要は責任の取れる範囲でしか権限は与えない、というようなやり方です。だから、こういう広告制作でありがちな「ねえ、君はどんな広告がつくりたい?」みたいなことは聞かないし、仕事の課題以外の目的を仕事に持ち込むことはしません。

 仕事はお金を稼ぐためにある、と定義しましたが、それは何もお金を稼ぐために何でもやるという意味ではなく、お金をいただくに値する価値を創造するにはどうしていけばいいのかを考えることが、本来は、自己実現みたいなものにつながっていけばしあわせであるというだけで、その主客逆転はない、というだけなんですね。

 現状、お金をいただくに値する価値を提供できないにもかかわらず、その立場から上方のベクトルに見える将来あるべき自分みたいなものを優先させてしまうことから、すべての間違いがはじまるような気がします。現状、お金をいただく価値を提供できていて、もっと大きな価値を提供できないだろうか、みたいな発想でがんばる人は、どんどん新しい権限を獲得していって、やればやるほどうまくいって、結果として仕事が自己実現につながっていくような気がしますが、この主客が逆になってしまうと、やればやるほど、少なくとも仕事においては、どんどん狡く小賢しくなっていくような気がするんですね。

 これは、日常生活でのその人の性格には関係がなくて、仕事場という状況がその人をそのようにさせていくのだろうし、こういう狡く小賢しくなっていく過程は、どんどんキャリアを向上させていく過程と同じように倍々ゲームなので、本人もつらいだろうな、と思います。でも、つらくても同情できないし、その自己実現欲求を仕事の場において優先させることもできません。

 これからはいろいろな事が厳しくなるだろうし、広告の市場は、これから確実に縮小しますから、それを見逃す余裕もなくなるでしょう。そういう状況の中では、その過程が破綻することが多くなってくると思います。そんな光景を、いままでのキャリアの中で何度も見て来きて、それは少し後味が悪いことではあるけれど、その光景はブーメランのように自分に跳ね返ってくることでもあるので、感傷ばかりしていられない現実もあるんですよね。よく言われる仕事の厳しさ、プロの厳しさというのは、こういう残酷さなのかもな、と思います。

 それに私は、その過程を破綻させてしまうより、自己実現の欲求を優先させてしまう人たちから、陰で「あのCD、むかつくよなあ。」とか言われるほうがいくぶんもましだと思っています。仕事にとっても。その人にとっても。みんなで仲良くというのは美しいし理想ではあるけれど、みんなで仲良くするために仕事があるわけでもないし、それにみんないい大人なんだし。(書いてて思いましたが、私、仕事ではちょっとマッチョなのかもしれないですね。ではでは。)

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2008年11月27日 (木)

今日はテーマもなく、あれこれ書いてようかな、なんて。

 広告業界で作業が夜12時を超えることを「てっぺんを超える」と表現します。これ、一般でも通じるのでしょうか。本日は昼からずっと編集スタジオごもりです。
 「今日は、てっぺん超えそうっすねぇ。」
 「まじぃ、てっぺん超えかよ。昨日も寝てねえんだよなぁ。」
 というふうに使います。

 スタジオでの編集では、食事は出前になるのですが、この出前選びには人によっていろいろ一言あって、「CMプロデューサー&ディレクターに聞く東京の出前ベスト10」というエントリを書くといいもなあ、なんて思います。なんか、私、ブロガー脳になっちゃってますね。

 でも、本当においしい価値ある出前を知っているのは、じつはスタジオの編集マンだったりします。で、我々も、「何がおすすめですか?」とよく聞くんですが、いちおう我々はスタジオにとってはお客なので、気を使って、なかなか答えてくれません。だから、知る人ぞ知る出前を知るには、ほんとはこの人たちに聞かなければいけなんですよね。「内緒ですよ。スタジオ編集マンが教えてくれた、ほんとにおいしい東京の出前ベスト10」というエントリのほうが、信頼性が高いような気も。

*     *     *     *

 電車に乗っていたら、モデルさんのようなカッコいい若い女性が。まつ毛の先まで意識が行き届いていて、見るからに、うわっ、別世界の人、という感じの方でした。その人が、ケータイを取り出して、メールをチェクしだしました。その振る舞いもクールでいい感じ。

 で、その人のケータイストラップ。フィギュアがふたつ。ひとつは、目玉おやじ。もうひとつは、目玉おやじのかぶり物をしているキューピーちゃん。ああ、目玉おやじが好きなんだなあ、と思うと同時に、この人、けっこういいやつかもなあ、と思いました。ま、その前に、いいやつ、やなやつは、容姿には関係ないんですけどね。

*     *     *      *

 アップル製品について。私のPCはMacBookの黒。これについては概ね満足。キーボードもデザイン重視な感じなのに、とっても打ちやすいし、ちょっと重いけど、バッテリ持ちもなかなか。iPod nanoを最近買ったんですね。それまでシリコンオーディオは持っていませんでした。で、聴いてみて、びっくり。けっこういい音なんですね。最近のデジタルアンプってすごいよなあ、と思いました。あんな小さな中にねえ。たいしたもんです。

 で、問題はマウス。Wireless Mighty Mouseを使っていますが、あれはどうなんでしょう。調子がいい時はものすごく使いやすいのですが、スクロールボールが悪くなりすぎ。ネットを眺めてみると、そういうケースが多発しているらしく、なかば、まあしゃあないなあ、と思いながら、だましだまし使っています。この、マックユーザの「まあしゃあないなあ、マックだし」というのは駄目なんでしょうね。

 これがマイクロソフト製だったら、こんなことではすまないんだろうな、と思ったり。マックって、そのへん、なんだかなあ。まあ、これには私が使い続けているウィルコムのスマートフォンW-ZERO3[es]にも言えることだけど。

*     *     *     *

 てなことで、本日はこのへんで。お届けしたのは、忙しいのかひまなのかいまいちわからない、mb101boldでした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年11月26日 (水)

想像力資本主義

 昔、SANYO(三陽商会)の広告で「想像力資本主義」というコピーがありました。最近、なぜかそのコピーのことばかり考えてしまいます。たぶん、ウェブの分野で言えば、それはほんのわずかな世界だとは思うけど、なかばそういう想像力資本主義的な世界が実現されつつあって、それはきっと本来の資本主義の概念(おおまかに言えば、資本家が生産施設をつくり、つまり、生産能力を独占し、使用人=労働者が労働力を資本家に提供する、みたいなシステム)を覆すものなのだろうと思います。

 私がブログというメディアがすごいな、と思うのは、まさにそういう想像力資本主義的な部分で、ほんの少し前までは、個人が何かしらの情報発信をする時には、まあ書き物に限定して話せば、原稿をつくって、それをもとに写植を打って、版下をつくって、製版して、それを印刷して製本して、そのあと何かしらの流通に乗せないといけなかった。それが、いまやパソコン立ち上げて、原稿を書いて、ブログの管理画面から投稿ボタンを押すだけです。たったこれだけで、とりあえずは情報発信の体裁はつくれてしまいます。

 これ、考えてみるとすごいことですよね。私は、ずっと前からジャズピアニストのビルエバンスについて書いてみたい、つまり何かしら世の中に論を問うてみたいという思いがあって(最近書いてないけど今もあります)、その思いがこのブログをはじめた動機のひとつでもあるんですが、そのとき考えていたことは、やっぱり出版社に持ち込んだり、なんかの文芸賞に応募したり、そんなことはしないといけないなといったこと。それは、いまだにそれなりに意味はあるだろうけど、まあ、情報発信という意味では、それはブログでできてしまいます。

 パソコンにしたって、プロバイダにしたって、ブログツールにしたって、普通の勤め人が無理せず手にする価格になっていて、ちょっと前なら、こういうことを実現するためには、それこそ銀行に借金するほどのお金がいったわけですよね。もちろん、パソコンや、ブログみたいなものが持つ写植レイアウト機能は業者さんの力を借りるにしても、それでもかなりのお金がかかります。当たり前のように見えて、ほんの20年前は考えられない状況が、いまあります。

 もちろんこの状況がいつまでも続かないという考え方もあるし、それを実現している広告モデルもすこし曲がり角に来ているような気もしますが、それでも、20年前に戻ることはまずないでしょう。となってくると、これはもうやる気次第。SANYOの広告コピーの言葉を借りれば、想像力があるかどうかになるわけです。

 いまさら何をという感じでもあるけれど、このことは20年前の状況から今を見たとき、なんど驚いても驚ききれないほどの状況ではあると思うんですね。吉本隆明さんは、かつて同人誌、後に吉本さんの責任編集となる「試行」という雑誌を出版していました。心的現象論なんかは、この雑誌での連載ですし、けっこう吉本さんにとっては重要な表現の場でした。これ、きっと儲けはあまりなかったと思います。儲けではなく、自由に書く場所がほしいだけ。その条件を考えると、若き日の吉本さんなら、「試行」はきっとブログもしくはウェブサイトであったのだろうな、と思います。

 吉本さんが、かつての左翼が考えていたような人間の開放とか自由の獲得みたいなものは、戦後日本の資本主義が実現しているじゃないか、それは女子社員が、自分がモデルとして出ているファッション雑誌を読んで、おしゃれのことを考えるその光景が示しているだろ、みたいなことを吉本埴谷論争のときに言っていましたが、それは、こうして、人が寝ている時間にこんな文章を書き綴っている私の光景にも言えることなんだろうと思います。

 想像力資本主義は、これからの社会をどう変えていくのでしょうか。それは、単純に考えても、ひとつの作業に対してかかわる人は減っているわけで、きっといいことばかりではない気もしますが、もう後には戻れないでしょう。とにかく、いまそういう社会に生きていて、その方向性で、いやおうなく時代は動いていく。それは自覚しておいたほうがいいのだろうな、と思ってしまいました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月23日 (日)

沈黙の読者に向けて日々の思いを淡々と書いていく

 という感じのブログが私は好きです。もちろん書き手にもよりますし、書かれている内容にもよりますが、好きなブログは、きちんと沈黙の読者に向かって書かれていて、しかも、毎日もしくはそれに近い頻度で書かれているブログが多いようです。なので、私も、そういう大好きなブログにならって、そういうふうに書けたらと思いながら続けています。

 沈黙の読者に向けて書く

 ブログに書くということは、不特定多数に読まれるということであるという認識は、ネットリテラシーの話だけではなくて、表現全般に言えることだろうと思います。もちろん、恋人に向けた言葉や音楽はあるけれど、多くの表現は、やはり名前も顔も知らない、かなたの人に届ける行為なのだろうと思っていて、それを意識して、少しばかり緊張しながら、沈黙の読者に届けようとする言葉が私は好きです。

 沈黙の読者は、自分が想定する読者とは少し違っていて、たとえば私は広告業界の人間ですが、その専門分野の人以外の、私の想像できない読者をも含むものだと思います。これは、自分がブログをやってみて、すごく意識させられたことでもありますし、きっと、ウェブ全体に開かれたブログというものは、ツールの本質として、好む好まざるにもかかわらず、沈黙の読者を意識させられるものなのだと思います。

 特定の読者に向けられた言葉というのは、ある種の親密さと引き換えに、ある種の排他性を持ってしまうような気がしていて、その排他性みたいな感じが、読み手としてはあまり得意ではないのかもしれません。これは、内容がやさしい難しいにかかわらず、雰囲気から感じられるものなのですが。

 日々の思いを淡々と書く

 こういうブログからは人の心の動きが見えてくるというか、書き手の人柄が見えてきて、それが私にはツールとしての言葉以外の言葉として立ち現れてくるような気がします。その言葉の魅力というものは、これまで私たちが感受したことのないような魅力のような気がするのですね。

 それは、出版というプロセスを経ないブログというメディアがはじめて生み出したものなのでしょう。私には、その言葉の魅力が、ブログの最大の魅力のように思えます。毎日もしくは頻繁に更新を重ねているブログを読んでいると、やはり人間であるがゆえの心の揺れが言葉に現れていて、それはときどき屹立した美しい姿だったり、あるときは、失敗したり、疲れきったり、へこんだりした情けない姿だったり。

 しかしながら、それでもなお沈黙の読者を意識するが故に、持続的な自意識の統一性がそこには確かにあって、このような少しばかり緊張した自意識から紡ぎ出される言葉が、私にとってはすごく魅力だし、正直、場が紡ぎ出す、ある個人の一側面が強調された言葉があふれるウェブの中で、少しばかりほっとしたりします。ときどき、それこそ沈黙の読者として、言葉に出さないけれど勇気づけられたりします。 

 そこには生身の人が見える

 ということなのだろうと思うのです。そして、その生身の人であるが故に、そこには論理を超えた好き嫌いも生まれるのですが、その好き嫌いみたいなものまで戻って、好きだ、嫌いだ、と言える、そういった言葉の質が私は好きです。たぶん、それは論理ではなく、論理を生み出す前の思考というものなのかもしれません。なので、そこに書かれているのは、なにかに転用できる論理でなく、まだ論理として昇華されていない思考そのものなのだろう、と思います。

 なんとなく、そんな好きなブログの好きな理由をつらつらと書いてきて、あらためて思います。私も、なるだけそういうふうに書いて行けたらと思います。自分にとってブログがかけがえのないものであるとすれば、きっとそういう部分だと思うんですね。なんとなく言葉にすると、内に向かって開く、という感じに、これからも書いていけたらと思います。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2008年11月22日 (土)

初なのか。

 日テレ、テレ東につづき、ついに新聞まで赤字転落。どう解釈すればいいのでしょうね。

 テレビ朝日は21日、親会社の朝日新聞社の08年9月中間連結決算を発表した。それによると、営業損益が5億円の赤字(前年同期は74億円の黒字)、最終(当期)損益も103億円の赤字(同47億円の黒字)だった。営業損失と最終損失は中間決算の公表を始めた00年9月以降初めて。

毎日.jp(11月22日)— 朝日新聞社:初の赤字転落--08年9月中間連結決算

 記事の先を読むと、「広告収入の落ち込みや販売部数減少などが響き、営業損失を計上」とのことです。本業での不振なので、ちょっと深刻。日テレ、テレ東は30年ぶりに赤字。こちらは実質的には、創業以来初。これは、90年のバブル崩壊でも陥らなかった状況でもあって、事態は相当深刻。電博は揃って減収・減益だし、当分冬の時代になりそうな予感。

 こういう状況になったときには「ぜったいに自分のせいだと思わない人」(参照)が妙に元気になるのが常。しばらくは不快な迷走や空回りが続くでしょうね。アピール合戦も増えるだろうし、ああやだやな。なるだけ、そういう人とかかわりにならなければいいのですが、そうもいかないだろうな。髪を金色に染めようかな、なんてねえ。はあ。

 まあ、すこし先を見つめながら、今やるべきことを少し貪欲気味にやっていこうかな、と。それと、これは今に限ったことではないけれど、自分を大切に思ってくれている人に、誠実に、最高の答えを出しつづけることも大事。その人たちを裏切らないようにしないと。

 経験で言うと、こういうとき、身を助けるのは、案外、外の評価だったりしますしね。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2008年11月21日 (金)

アイデアとは何か

 外資系の広告業界にいると、ことあるごとにアイデアという言葉にぶち当たります。ぶち当たるという表現をあえてつかったのは、それが、ぶっちゃけてしまうと非常にうっとうしい場面で出くわすことが多い言葉だからですね。

 外資系というのは、アイデア教の教徒みたいなところがあって、またそれが宗教的であるが故に、アイデアという言葉は様々な解釈がなされていきます。アイデアという言葉の意味は、その宗派によって違うという感じです。人によっては、アイデアとは誰も見たことのないことだったり、アイデアとは説明しにくいことをはっきりわかるようにできるメタファのことだったり。

 広告にはアイデアが必要不可欠。そういう言い方をする人が求めている広告は、たいがいは「ビジュアルとんち」だったりします。日本の広告にはアイデアがない、とその人が言うとき、それは、日本の広告には「ビジュアルとんち」がない、と言いたがっていると思って、ほぼ間違いがないと思います。

Kissmark  「ビジュアルとんち」というのは、わかりやすく言えば、私がつくった広告で言えば、こんな感じ。ストリート生まれのシューズ、というメッセージを「ストリートから生えてきたシューズ」というビジュアルに置き換えたわけですね。こういうのは、私は嫌いではないですし、自分がつくったくらいだから面白いとは思っているんですが、まあ、いわゆる「とんち」ですよね。

 この手の広告は、すごく外資系ではほめられます。でも、この手のビジュアルでなければ広告ではない、というわけではありませんよね。一手法です。(でも、この話、外資系広告会社以外の人は、そんなこと思ってねえよ、当たり前じゃんかよ、な話かもしれませんね。)

 この感じは、広告業界、とりわけ外資系に特有のものなんでしょうね。一般の社会では、わりと素直にアイデアという言葉が解釈されているように思います。一般の社会でつかわれるアイデアという言葉は、もっと実があるような気がします。

「それ、いいねえ。アイデアだねえ。それでいこう。」

 なんて使われ方をするときのアイデアが、私はアイデアだと思っています。つまり、それまでなんかうっとしい状況があって、どうにもこうにも動きようがないとき、あっ、この考え方を実行したら、もしかするとうまくいくんじゃないか、という考えのこと。

 まあ、いいかっこして言えば、みんながニコニコする素敵な考え、という感じでしょうか。奇抜さとか、新しさとかとは基軸が違うと思うんですね。奇抜であったり新しかったりするのは、そのアイデアの単なる見え方の話であって、アイデアは、その状況でみんなの虚をつくものだったりするわけだから、結果として奇抜で新しい見え方をするのが多い、というだけで、奇抜さや新しさは、アイデアの条件ではないような気がします。

*     *     *     *

 有名な本だから知っている人も多いかと思いますが、ジェームス・W・ヤングという広告マンが1940年に書いた「アイデアのつくり方」という本があって、この本に書かれているアイデアという言葉の解釈は、わりと納得させられるものが多く、ふむふむそうだなあ、なんて思います。薄い本だし、字が大きいので、すぐ読めます。まあ、同じお金なのに損した、と思う人もいるかもしれませんが、古典だし、読んで損はないのではないでしょうか。

 ジェームスさん曰く、アイデアとはこういうもだそうです。

アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない

 ラディカルですよね。この考え方は、オリジナリティとは何か、という論議でも度々出てくる考え方ですよね。で、このジェームスさんは、広告会社の人らしいところがあって、誰にでもアイデアが出せるようにアイデア創出の方法を明らかにしているんですね。なんでもメソッドにしてしまうところが、なんとも広告会社の人らしいです。

1. データ集め
2. データの咀嚼
3. データの組み合わせ
4. ユーレカ(発見した!)の瞬間
5. アイデアのチェック

 ユーレカというのは、ギリシャ語で「我、発見せり」という意味です。データ集め、咀嚼、というところが広告マンらしいですが、そこで「組み合わせ」が出てくるところが、ジェームスさんのラディカルなところ。最後のチェックというところは、広告マンらしさがありますが、組み合わせと言い切ってしまうところが、とってもいいですよね。

 でもねえ、私、うがった見方をするわけです。きっと、ジェームスさん、ユーレカがすごく得意だった人だと思うんですね。ユーレカは誰にも負けない自信があったんでしょうね。だから、こんなに開けっぴろげに「アイデアなんてものはなあ、所詮は組み合わせなんだよ。世の中には、新しいものなんてねえんだよ。」と言えるんでしょうね。

 そのあたりが、この本の魅力でもあるんでしょうね。私は、アイデアは、やっぱりこのユーレカがすべてを決めると思うんですよね。このユーレカみたいな発見する力は、知識とか体験の質と量がものを言うし、それを補う理解力や想像力みたいなものが大切になってくるし、チェックするにしても、基準となる経験がなければチェックしようがないわけだし。

*     *     *     *

 アイデアが出たなあ、と思う時って、私の場合は、たいがいは何気ないときだったりします。起きて、眠いなあ、もう少し寝ていたいなあと思っているときとか、飯を食っているときとか、そんなときにアイデアを思いつきます。もちろん、それまでああだこうだ、データを読んだり、考えたりしているんですが、出てくる時は、たいてい何気ないとき。

 それで思いついて、それを実行したときのことを想像してみて、「あっ、これはいけるかもしれんなあ」と思えるときは、そのアイデアは自分の中でお買い上げ。たいていは、「こうしてこうなって、あっ、そうか、だめじゃん」みたいなことが多いですが。

 で、いけるかもしれんなあというアイデアは、私の場合は、あえてメモしません。で、時間がたって「あのアイデアなんだっけ」となったとき、そのアイデアは駄目なんだろうな、という解釈をします。忘れるようなアイデアは、たいていはそのときの高揚感がいけると思わせているだけで、いいアイデアは一度思いついたら、忘れるようなものではないんですよね。

 なぜ忘れないかと言えば、その考え方を実行すると、今まで解決できなかったことが解決できそうな気がするからなんです。つまり、その状況はすごくうれしい状況なわけです。うれしい未来は、わくわくするので忘れるはずはないんですよね。

 それと大事なことは、アイデアって、先の「おっ、アイデアだねえ」という言葉のニュアンスにも感じるように、誰でもできる簡単な方法だったりもします。特定の人にしかできない方法をアイデアとは呼びません。それは秘技とか秘伝とかでしょう。そんなこんなで、忘れてしまったアイデアというのは、ちょっと複雑すぎたということなんでしょうね。

 だから、まあ忘れてしまっても悔やむことはない、ということなんだろうな、と私は思っています。というか、それはちょっと強がりかも。正しくは、忘れたものはしょうがないじゃん、忘れるようなアイデアはたいしたことがなかったんだよ、きっとそうだよ、そうに違いないよ、とちょっと涙目で自分に言い聞かせています。ではでは。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2008年11月20日 (木)

晴れ晴れ。

Img228

 一昨日の写真です。撮影本番は雲ひとつない晴れ空でした。いい絵が撮れてとりあえずよかったです。助かりました。予備日を含めて曇りでも決行、科学の力で晴れさせる(画像処理のことですけどね)つもりでした。でも、太陽が出ていないと光量がまったく違います。太陽ってすごいです。あの光量をライトで出そうと思っても無理なんですよね。

 さあ、これから編集。いまのご時勢、なんだかんだと忙しく、この仕事だけに専念できないのがちょっとしんどいけれど、なんとかしないと。ではでは。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年11月18日 (火)

城島さんのリーゼント

 TOKIOのリーダー城島さんがテレビに出演するときに、髪型がリーゼントの時とそうでないときがありますが、何かの基準があるのでしょうか。ずっと気になっています。

 で、Wikipedia。

なお、彼の髪型の一つであるリーゼントはメンバーの松岡昌宏によると、「勝負」のときに気合を入れてするという。
Wikipedia – 城島茂

 気合い、ですか。うーん。(しかしまあ、幕張のホテルで、ひとりなに書いてるんでしょうね。ではでは。)

 

追記:このところタイトルを変えることが多いですが、今回も。「しょうもないことだけど気になります。」から「城島さんのリーゼント」に変更しました。こういうことが多いのは、見切り発車で書いているからかな。

 

 朝7時30分、追記。

 雲は多いけど、なんとか晴れてくれたようです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年11月17日 (月)

ほしいものは、何ですか。

 前回のエントリ「糸井重里さんの重さ」で、西武百貨店の「ほしいものが、ほしいわ。」というコピーについて触れました。あのコピーは、私にとっては相当なインパクトがあって、「不思議、大好き。」から「おいしい生活。」と来て、「お手本は、自然界。」になり、そして、1988年の「ほしいものが、ほしいわ。」へと至る消費社会の変遷、あるいは欲望のあり方は、ある意味で、それこそ自然の摂理というか、正しい歴史段階を示しているような気がして、そのぶん、ああ、この先はもうないかもしれない、という思いも深かったのですね。もしかすると、それほど俯瞰した長期の過程ではなく、そういう流れを、20年周期くらいで繰り返すにすぎないのかもしれませんが。

 「ほしいものが、ほしいわ。」というコピーは、「ほしいものが、ほしい。」という西武百貨店の年間スローガンになり、その年度に様々な広告が展開されました。たとえば、こんなコピーで。

 うそみたいな、ほんとが、ほしい。

 神様、お電話ください。

 糸井重里さん、そして、西武百貨店を中心とするセゾン文化がつくってきたのは、ある意味で、中産階級を中心とし、それを頂点とする価値のあり方だと思います。上昇でもなく、下降でもなく、中庸こそが到達点である価値のあり方。がんばればフェラーリーではなく、なるだけ安価なものを追求するのでもない、その中間的価値。その差異の戯れが、消費社会そのものである、みたいな感じでしょうか。その現代の継承者は、きっとユニクロだったりするような気がします。その指向性については、「ユニクロは、日本の人民服である。」というエントリで書きましたので、よかったらお読みください。

 あれから、20年近くたって、その間にバブル崩壊があったし、そして、いまアメリカを震源とする不況がはじまろうとしています。上部構造は下部構造が規定すると言いますが、そうした上部構造は、下部構造が変われば吹き飛んでしまうのか、それとも、その延長線上に現在があるのかは、ちょっと私には計りきれない部分があるんですね。

 で、いま、「ほしいものは、何ですか。」という問いがあるとすれば、人はどう答えるのだろう、ということを考えます。ひとつの回答としては、人それぞれということもあるかもしれません。もはや、大衆という大きなくくりがなくなって、ひとりひとりが違う、というような。それとも、小衆みたいな小さなグループが多数存在するようなイメージ。今のネットの状況は、そんな感じかもしれません。

 私がほしいもの。明快に答えられない私がいます。少し前は、もっと単純に答えられたような気がします。個人的なことで言えば、病気にかかっている母親や知人がよくなってほしい、とか、もう少し自分自身が生活を楽しむ余裕がほしいとか、自分が手がけている仕事がうまくいってほしいとか、iPodがほしい(買ったのでほしかったですね)とかいろいろありますが、もっと根源的な欲望みたいなものは、うまく言葉に表現できないような感じがします。

 お金がほしいのか。成功がほしいのか。いらないとも言えませんし、ほしいことはほしいけれど、それもなんか、それがほしいものだ、というほどピンとは来ません。ネットを眺めてみると、mixiとか、はてなとか、Twitterとか、そういうウェブサービスをひとことで表すならば、「つながり」だったりすると思います。で、それぞれで話題になっていたりするのも、その「つながり」具合のあり方だったりします。では、いまは、「つながりが、ほしい。」ということになるのでしょうか。

 いま糸井さんが相当本気になって投げかけているコピーは、きっと「ほぼ日刊イトイ新聞」のトップページに添えられている(参照)、「Only is not lonely. + LOVE」という言葉だと私は思うのですが、これも「つながり」を感じさせます。私がこうしてブログを書くのも、本人がいくら否定しようが、否応なく「つながり」を指向しているのでしょうし、これはひとつの答えではあるのかもしれません。

 今、あなたがほしいものは、何ですか。つながりですか。それとも、別の何かですか。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2008年11月15日 (土)

糸井重里さんの重さ

 コピーライターの時代がありました。言葉を武器に、ひたすら言葉が紡ぎ出す世界を付加価値にして、コピーライターという職業は時代の寵児になっていきました。いま思えば、それはバブルだったのかもしれません。その付加価値には、きっと広告が含まれていなかったのだと思います。小説家、詩人、作詞家、そして、コピーライター。言葉のプロフェッショナルを指向してはいても、それは広告のプロフェッショナルを指向してはいませんでした。

 けれども、あの時代はそれでよかったのでしょう。それでもものが売れました。あの時代から少したって、つまり、バブルが崩壊する真っ最中に、私はコピーライターになりました。CIプランナーからの転身だったので、時代の寵児としてのコピーライターにはあまり興味はありませんでした。うまいコピーはうまいと思いますが、そこに憧れはなかったような気がします。

 そんな中、これはまいったなと唸らせられたのは、糸井重里さんでした。西武百貨店の「おいしい生活。」というコピー。これからの時代の豊かさは何かということを、端的に言い表しています。うれしい、ではなく、たのしい、でもなく、おいしい。糸井さんは、このコピーについて、当時はそれほど評価されなかった(とは言っても一定の評価は得ていたのですが)のが不満だったと語っています。それは、このコピーに対する糸井さんの内なる自信が語らせたのでしょう。

 西武百貨店、西武流通グループ(セゾングループ)の糸井さんのコピーを追っていくと、バブル期の消費者のインサイトの変化がわかります。それは、マーケティングデータ以上の正確さをもってわかる気がします。それは、同じ百貨店の広告を制作する私に猛烈な嫉妬と興味を与えました。

 そんななか、あっ、これで終わったと思ったコピーがありました。

ほしいものが、ほしいわ。

 ああ、これで終わる、とそのとき思いました。もうこのあとはない。そんなふうに感じました。確か、糸井さんの最後の西武百貨店の広告は、ちびまるこちゃんが登場する新聞広告でした。このボディコピーの最後はこう結ばれていました。

だから、まずひとつだけ、約束させてください。四月の新学期までに、みんなが練習して、商品の包み方が一番上手な百貨店になります。

 これ以降、糸井さんはほとんどセゾングループの広告にかかわらなくなりました。以降のセゾングループの広告は関連が深いI&Sという広告代理店の社内制作になりました。記憶に残っている広告では、「!」だけが白地に大きく描かれ左隅にちいさく「実感するだけ。」というコピーが記されたものでした。これで、完全に息の根が止まりました。その後は、ほんとにもう何もない。少なくとも理論的には。

*     *     *     *

 日経ビジネスオンラインに連載されていた「実用品としての吉本隆明」という糸井重里さんのインタビュー記事を読み直していて、興味深い言葉がありました。一部、引用します。

——それをうかがうと、1982年の西武百貨店「おいしい生活。」のコピーを思い出しますが、現在の糸井さんの意識の中に、広告のコピーライター、糸井重里というものはありますか。

糸井 ありません。

——少し嫌そうなお顔になりましたか?

糸井 いや「ありますか?」と聞かれたから、「ないよ」って言っただけですよ。何もないです。

——ない、というか、嫌悪しているという気分はありますか。

糸井 してない。そういう仕事をしてきたんだけど、その時代が終わっている。終わっているのに、そのことに気付かないままでいるわけにはいかない、というだけです。何か人が喜ぶことを考えるという点で、やっていることはずっと同じなのですが。

 それは、歌い手さんがラジオで歌うか、テレビで歌うかみたいな違いはあるでしょうね、きっと。歌っていること自体は同じように、自分が何を喜ぶか、ということについては同じですから、根っこは変わっていませんが、よその人が作る商品で喜ぶことを考えるのは終わっています。

——いつ終わったと思われますか。

糸井 「ほぼ日」を始める前にいったん終わっていますね。

——何か具体的なきっかけはあったのですか。

糸井 バブル崩壊でしょう。バブル崩壊で、結局のところ、つまらないことで話がまとまるわけです。つまり、どんな広告を作るよりも安いものが売れたりするわけです。そのときに広告って意味がない。さらに言うと、安くするって、そこにすごい工夫があるわけではなく、誰でもできることです。広告が“安い”に負ける時代を迎え、あ、これはもうあかんな、というのがあって、一から鍛え直していきましょうというのが、次の仕事だった。これは長い物語になるんですけどね。

「ほぼ日」は、吉本隆明の思想の実践だった

 糸井さんの広告は、ずっとオンタイムで追いかけて来たので、このあたりの感情の起伏は痛いほどわかります。糸井さん自身がおっしゃっていたことですが「糸井は終わった」と業界ではよく言われていました。でも、そう言いながら、私たちは業界の中で「誰でもできること」に負け続けながら、その場をしのいでいました。ほんとうに終わったのは「広告」だったのではないかな、と今になっては思います。

 少し古い広告ですが、NTT DoCoMoの「DoCoMo2.0」は、立ち上がりのグラフィック広告には興味は喚起されたものの、その後にはじまったテレビCMにはまったく興味が持てませんでした。いち消費者としても、業界人のはしくれとしても。今の広告で言えばdocomoの「Answer」も、立ち上がりの成海さんが出演する企業広告には興味はありましたが、企業側にとっては、きっと本丸である「アンサーハウス」というドラマCMシリーズには、あまり興味は持てません。

 個人によって差があるのかもしれませんが、いま支持されているのは、このような広告ではないのではないか、という感覚が私にはあります。SoftbankのCMがいま支持されているのは、きっと、その古典的な広告らしさなのではないかと思います。資生堂のTSUBAKIもそう。物量戦がものを言うという、中堅広告会社にとっては腹立たしい状況も含めて、いま、一度終わった広告は、また広告に戻ろうとしている。そんな気がします。

*     *     *     *

 広告が広告以外のなにものかになろうとしたとき、広告は、一度、消費社会に対する役割を終えたような気がします。そして、糸井さんはクリエイティブの場を自分のメディアである「ほぼ日刊イトイ新聞」に移しました。糸井さん本人が言うように、「やっていることはずっと同じ」なのでしょう。けれども、その場は、広告ではないというのが、糸井さんの結論です。

 広告という場の中で右往左往する私は、横目で「ほぼ日刊イトイ新聞」を見ながら、一度終わった広告を、もういちどはじめるためにあれこれ考えていて、あるときは広告は普遍だと意気込んでみたり、もう駄目だと嘆きながら、悪戦苦闘しています。それは、そんなにカッコいいものでもなく、自分の専門領域はこれしかないし、職業だからという部分もありますが。

 これからも、あきらめずにあれこれ広告の可能性を追求していこうと思いますし、当面は、いま動いているプロジェクトの成果を最大化することに注力していこうと思います。こうした継続の中にしか未来はないし、ブログという個人メディアがあるからこそ、こうした内省を書き記すことができるというのは、時代の変化でもあるなあという感慨もありますが、とりあえず、前を向いていこうと思います。いろいろ、不安もあるけれど、とりあえず前向きに。

 わりと誤解される言い方かもしれません。でも、伝わる人には伝わると思いますが、やっぱりクリエイティブという一点で考えたとき、話は別で、広告じゃないフィールドになってくるんだろうな、という思いもありますね。糸井さんの90年代からの軌跡というのは、私にとってはけっこう重いです。

 

■追記1:

 私の中にある種の結論があるわけではないので、タイトルを「広告が広告以外のなにものかになろうとしたとき、広告は終わったのかもしれません。 」から「糸井重里さんの重さ」に変えました。糸井さんはいちファンというか、そんな感じであると同時に、ほんと、ことあるごとに重いんですよね。職業人にとっての私にとっても、一個人としても。

 

■追記2:

 1982年の西武百貨店「おいしい生活。」についての糸井さんの話。「クリエイティブは時代の空を飛ぶ」安部敏行著(誠文堂新光社・1989)からの引用です。

 「僕のコピーの中で、後にも先にも、本当の意味でいちばんすごいコピーは、“おいしい生活”だと思いますけどね。ただ、当時は、まだ理解が少なかったですね。あれが、コピーライターズクラブ賞をもらえなかったのが、僕は本当に泣きたいくらい哀しかったですね。賞がほしいわけじゃないんだけれども、みんなで、セーノで、“ワァーッ”というくらいほめられかったんですよ。
 昨年のナマケモノ(「いてもいいし、いてほしいとおもう。」筆者注)で、毎日デザイン賞の最高賞をもらうくらいのことは、いつでも書けるんですよ。
 そういうアベレージ・ヒッティングで賞がもらえるのは、仕事としては最高のことですけどね。あれは自分のバイブレーションが最高に高まった時に、何か啓示みたいなことがあって書けたというくらい、すごいと自分では思っていますから」

 「そのころ、ハッキリわかったんじゃないかな。モニターは自分だってことがね。逆に言うとモニターになるだけの広さと深さみたいなものをいつも抱えていないと広告屋はやってはいけない」

| | コメント (16) | トラックバック (1)

2008年11月14日 (金)

わかっちゃいるけど、なんだかねえ。

 9月の中間連結決算。電博減収減益。日テレ・テレ東、30年ぶりに赤字転落。新聞もあまりいいという話は聞きませんし、こうなるとネットだって、いままでみたいにネットだけが好調というふうにもいかないでしょう。

 しょうがないと言えばしょうがないのでしょうけど、厳しいですね。まわりではあまり聞きませんが、急遽中止になったプロジェクトも多いのかもしれません。こうなると、時期がずれながら、いろいろな方面に連鎖しますから、一段とどんよりとした空気になるんでしょうね。

 海の向こうではNYタイムスが広告収入の落ち込みから、S&P格付けがBB-に。これは、ちょっと厳しいですね。しかしまあ、じわじわ来ますね。歴史を俯瞰して見ていると、一気にドーンという感じがするのですが、生活目線ではそうでもないもんだなと思います。しっかりしなきゃな。って、しっかりしたからと言ってどうなるもんではないと思うけど。

追記:

 そんな流れの中、モスバーガーもテレビCMをやめるとの方針。ずいぶん前にもロッテリアがケータイと口コミにシフトしていて、ファーストフードはこういう感じが加速しそうな勢い。これは実際に、例はなんでもいいのですが「ファーストキッチン」や「大戸屋」なんかの中堅はテレビCMは使っていないので、それほど驚きはありませんが、まあ、なんだかねえ、なニュースではありますね。

 それよりも、このところ「スターバックス」の交通広告が気になります。確か、「最初で最後の広告」的なこと新聞広告で言ってなかったでしたっけ。どちらにしても、広告の中身よりも広告をやるやらないという行為の方が気になる時代ではあるんでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月13日 (木)

声優さん

 とある企業の広告の仕事。CMの仮ナレーション録りで、ひさしぶりに声優さんたちとお会いしました。2匹の子豚の声を担当していただいています。お一人は、ベテラン中のベテランの声優さんで、ああ、あの声もこの声もそうだったんですか、というような女性の方。上品で明るいおばさんなんですが、マイクを通すとやんちゃ坊主なんですよね。不思議。もうお一人は、私より少し年上の声優さんで、すごくかわいくて健気な声をしている方です。

 私は、一年を通して、ずっとそのキャラクターの広告をつくっているのですが、CMは年に1回なので、声優さんたちとお会いするのは、1年でもこの時期だけなんですね。声が入ると、いっきに子豚さんたちが生き生きとしてきて、また、この冬も大活躍してくれよ、頼むよ、と思ってしまいました。

 そのベテランの声優さんは、日本のアニメ黎明期からずっと日本のアニメ界を生きてこられた方で、私が幼い頃に見て来たアニメ番組にもたくさんかかわられてきて、そういうアニメ作品を見て育った人がいま、私のように現場でCMやらアニメやらをつくるようになって、そんな世代の人と仕事ができるのがほんとしあわせだ、とおっしゃっていました。

 とかく速度や瞬間風速が求められる広告だけど、なんとか長く続いていく息の長い広告にしていければな、と思うんですよね。もはや、そのキャラクターは、その企業の財産だと思うし、そうであるからこそ、今、消費されてしまわないためのノウハウというものが大事になっていくのかな、と思います。このへん、少し本気で考えなきゃな、とあらためて思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月12日 (水)

ただいま、「ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)」を広告しています。

 たとえば、ing感のあるコピーというのは、こういうことなのかもしれないな、と思ったりします。このところ、「プリミティブな広告」とか、そういうことを考え続けていますが、これだけメディアが多様化して、すべてがバレバレな時代において、広告という行為が本来持つ力を取り戻すためには、ある意味でこんな感じのところまでいかないと駄目なのかも、と思ったりします。

 広告という行為自体が熱を持って迎えられるためには、もはや広告が広告以外の何かに偽装することでは足らなくて、広告が広告であると、今一度カミングアウトする必要があるのじゃないかな、なんてことを考えます。

 ただ、これは絶対的に過程論なんだろうとは思います。こういうのは一度やったら終わりだし、模倣すればするほど、ただの表現に成り下がるわけだし、時代の戦略というものかもしれないな、とも。

 その昔、広告の自己否定というか、ちょっとしたひねりを効かせるのが鮮度を持つ時代がありました。「広告より口コミを信じましょう。」とか、私が書いたものでは「インターネット・プロバイダは、広告で選ばないほうがいい。」とか。それを広告で書く、みたいな。それがちょっと賢いよねえ、というひねった感じ。

 でも、そんなこんなしているうちに、そういうひねりみたいなものの存立する基盤自体がなくなってきて、「どうするよ、広告」みたいな状況がいまで、それでも力を持つ広告というのは、案外、今日のエントリのタイトルみたいな、ある意味アホな表現なのかもしれないです。(ある意味、極論だけど。)

 こういう視点に立つ限り、なんとなく広告というものは普遍のような気も、私は結構本気でしていて、まあそんなことを仕事をしながらうだうだ考えている次第です。それでは、本日はそんな感じで。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年11月11日 (火)

なぜ広告を作品だと思ってはいけないのか。

 あくまでデザイナーやコピーライター、CMプランナーなどの広告制作者に向けての話ではありますが、若い人への戒めの言葉として「俺たちは芸術作品をつくってるんじゃない。広告をつくっているんだ。」というものがあります。これ、なんとなく感覚や職業倫理としてはわかるんですが、いまいち明快な理由がわからずにいました。

 曰く、作品だと思ってつくると、狙いにいきすぎて表現が荒れてくるから。曰く、そもそも企業がお金を出しているのであって、その広告はあなたのものではないから。うーん、なんか違う。そこには、ルサンチマンの匂いがします。真面目で実直な表現がいちばん。広告は商品を語るもの。違う、違う。そんなもんじゃない。真面目でも、おもしろくないものはおもしろくないし、人はそれを愚鈍と言います。

 でも、作品と思ってはいけない、というのは確かに制作者としてはすごく理にかなっているように思います。まあね、結果として作品という名で語られるのはありだとは思うけど、作品をつくっている気になると、実務的には、結果として痛い目にあうことも多く、まあこれは私が作家性で勝負していないこともあるにはあるけど、作品と思ってつくるとろくなことはない、と。そんな気がします。

 で、考えてみて、ひとつ結論のようなもの。作品だと思ってつくると、その広告のing感がなくなるからなんじゃないかな。作品というのは、それだけで過去のような気がするんですね。ドイツの広告雑誌に「アーカイブ」というものがあって、その雑誌に掲載されることが世界のクリエーターの憧れだったりしますが、文字通り、作品だと思ってつくる時点で、それは広告よりも先に作品であるので、生まれたときからアーカイブ化を目指している表現であるような気がします。

 特に、メディアの多様化で、これだけ情報の消費が早くなって来ているいま、ing感のない広告は、広告としてのパワーを生み出さないような気がします。デザイン好きの好感度な人が、いいよねこれ、で終わるような気が。それではいまはしんどい。

 ブログをやっていて痛感しますが、ブログのエントリだって賞味期限がありますよね。結果としていいエントリはじわじわ読まれ続けますが、それでも、旬は投稿されて長くて1週間。ほとんどは、1日から2日。広告も同じだと思います。出稿されて、掲載されて、目に入って3秒が勝負。その勝負に破れると、ほとんどは無視されてしまいます。再発見は、まあない。

 作品だと思ってつくると、後で見直しても、やっぱりいいよなあ的な質、具体的な話で言えば、品のない言い方になるけれど、自分のポートフォリオに入れて、あとで見直したときにも良く思えるというような質を目指してしまうような気がするんですよね。今効いて、今を生きているような表現をチョイスする比率が下がるし、なにか見事に定着されすぎるものって、現在進行形な感じが失われてしまうような気がするんですね。

 まあこれは微妙なニュアンスの話ではあるので、結果で示していくしかないんでしょうけど。ある広告の仕事で、コピーをチョイスしていて、面白いコピーなんだけど、なんか違うなあ、というような私の中の微妙な違和感があって、その答えがこれなのかもしれません。なんかing感がないんですよね。広告に、ドライブ感がないというか。なんかうまく説明できなかったけれど、本人はわりとわかった感があるのはどうしたものなんでしょうね。

| | コメント (13) | トラックバック (0)

2008年11月10日 (月)

おにぎり考

 おにぎりが好きだ。海苔の下にかくされている、ふっくらしたごはんが好きだ。一口二口するとご飯の中からあらわれる控えめな具が好きだ。私は昆布派だ。ごはんにしみ込む醤油がいい。と、「デイリーポータルZ」の大塚さん文体にチャレンジしてみたものの、いまいち似てないし、しんどいのでいつもの調子に戻します。

 おにぎり、便利ですよね。仕事のときとか。おにぎり、おいしいですよね。私は昆布が好きですが、この好みは大阪人に多いようです。このところ大阪にいることが多く、大阪のスーパーやコンビニで食料を調達しますが、いつも昆布だけ売り切れになっています。大阪は昆布好き。とろろ昆布を巻いたおにぎりも人気だし、うどんの出汁も昆布だし。

02_3 ちなみに、マイボイスコム株式会社が行った『「おにぎり」についてのインターネット調査』(2008年7月1日〜7月5日・回答者数13,876)によると、好きなおにぎりの具では『「鮭」が70.0%で2位以下をやや引き離してトップ、以下、「たらこ」(54.9%)、「ツナマヨネーズ」(53.8%)、「辛子明太子」(52.7%)と続きます。』とのことでした。

 私が好きな昆布は第5位です。鮭がすごい人気ですね。これは意外でした。てっきりツナマヨだと思っていました。イクラがランキングにないですね。項目になかったのかもしれませんが、コンビニでは高級おにぎりの代名詞っぽいのに、なぜなんでしょうか。(追記:ありました。12位ですね。)

 私はイクラおにぎりが苦手。おにぎりに入っているのは、ちょっとねっとりしたイクラだし、なんか生臭い気がします。これを言うと、いつもおいしいイクラを食べたことがないから言うんだよと言われてしまいますが。

 コンビニのおにぎりは、海苔とごはんの間にフィルムが挟んであって、食べるときに両端を引っ張って合体させるタイプが多いです。パリッとした海苔が楽しめるし、時間がたってもつくりたてっぽくて、いまではおにぎりと言えばあれ、という感じですが、あのタイプのおにぎりがはじめて出て来た時、うわっ、これすごいなあ、とびっくりしました。

 あのタイプを開発したのは、大阪の「志のぶ寿司(現・シノブフーズ)」です。大阪では持ち帰りの寿司屋さんとして親しまれていました。街の商店街にはかならずあるチェーン店です。そんなお寿司屋さんが突然「引っ張るだけのおにぎりQ」というCMを流しはじめて、店頭で大々的におにぎりを売り出したんですね。子供ながらも何事なんだろう、と思ったのを思い出します。

 シノブフーズのウェブサイトを覗いてみると、もうお寿司はつくっていないんですね。あのアイデアひとつで業態まで変えてしまったんですね。すごいもんです。開発された当時の「おにぎりQ」は、いまのてっぺんの赤いカットテープを引いて、外装を割り、両脇からフィルムを剥がして行くタイプではなく、てっぺんをカットして、てっぺんからフィルムをにゅっと引っ張る「パラシュート型」と呼ばれるタイプでした。

 東ちづるさんですね。なんかこの「引っ張るだけの、おにぎりQ」のジングルが懐かしいです。おにぎりをあたためるという習慣は、関西では残念ながら定着しませんでしたね。北海道では、わりとメジャーな食べ方だそうです。北海道では「おにぎりあたためますか」というローカル番組が人気があるそうです。「おにあた」と略されたりして親しまれているとのこと。

 あたためると言えば、大阪では「あたためる」というのを「ぬくめる」と言います。これ、共通かなと思ったのですが、東京では「弁当をぬくめる」という言い方がまったく通じませんでした。あと、「片付ける」の意味の「なおす」も。どうしても「修正・修理する」の意味にとられてしまうようです。

 コンビニのおにぎりの唯一の不満。それは、ごはんに塩味がついていないところです。(それとも微妙に塩味がついているのかな。ご存知の方がいらっしゃいましたらご教示よろしくです。)手に塩をつけてにぎる家庭のおにぎりには、それこそ、文字通りいい塩梅に塩味がついていて、あれが本当のおにぎりの味のような気がします。でも、コンビニのおにぎりは、今のままのプレーンなごはんでいいような気もします。家庭は家庭、コンビニはコンビニでいいんじゃないでしょうか。ということで、やっぱり、家庭のおにぎりがいちばんです。

Onigiri_at_an_onigiri_restaurant_by  あと、気になるのは、おにぎり専門店のおにぎりって、どうして海苔が立っているんでしょうね。ウィキペディアの「おにぎり」に掲載されていた専門店の写真も海苔が立っていますね。カッコいいからでしょうか。それとも別の理由があるのでしょうか。

 私は、おにぎり専門店の味噌汁が好きです。どこも、味噌汁、がんばってますよね。煮干しを使っていたり、味噌もきちっとすり鉢ですってあり、なめらかだったり。

 最後に、楽しいウェブページのご紹介です。NHKの「全国のおにぎり情報」です。できれば、紹介されているおにぎりの画像がほしかったなあ。大阪は「たわらむすび」になっていました。確かに俵型は多かった気がします。この俵型が発展して、幕の内弁当の木型押しのカタチになったとのこと。幕の内弁当は、ひと区分けごとにパラパラっと散らされた黒ごまが好き。あれは、「なくても困らないけど、あったほうがうれしい」というものの代表選手の気がします。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年11月 8日 (土)

新宿には村があります。

 とある企業の冬キャンペーンのCMで、新宿村に。本日はオーディション。芝居やダンスが好きなひとならご存知かもしれませんが、新宿村というのは西新宿と中野坂上の間にある貸しスタジオです。いくつかのビルが集合していて、村のようになっています。今では近くに大きな道路ができましたが、昔はほんと何もないところにぽつんとある集落のような感じだったとのことです。

 ダンスのことは良くわかりませんが、我々CMチームのほかにも、劇団の若い人たちやダンスチームなんかが大勢いました。今回のCMでは、南流石さんに振り付けをお願いしました。総勢100名超えのオーディションでしたので、昼1時から夜7時までの長丁場でしたが、合間の休憩で、外のたまり場で休憩をとっていると、若い人たちが南さんに「ども、お久しぶりです」なんてかわるがわる挨拶をしてきて、ああ、ここはほんとに村なんだよなあ、なんて少しうらやましく思いました。南さんのような大先輩は、若者たちにとっては励みなんでしょうね。あまりこういう文化圏のことは親しみがなかったので、いいよなあ、そういう感じ、となんかじみじみ。

 このCMでは、今、福岡のCG会社で、その企業のキャラクターである子豚さんたちがCGディレクターさんとCGデザイナーさんたちの手によって、着々とダンスの練習をしています。オーディションで選ばれた人たちと、福岡で完成した子豚さんたちのダンスが、五反田の編集室のサーバの中で出会って、はじめて共演するという塩梅です。ちょっと不思議な感覚のつくりかたをしています。

 今回のCMでは、テレビの前の子供たちが踊りを真似する、という目標をかかげています。その目標をもとに、南さんが振り付けを考えてくれているのですが、南さんの振り付けラフを見ながら、ダンスというのは、骨とか筋肉とかをどう活かしていくかということなんだな、と思いました。動きに無理があったり、無駄があったりするのは、ダンスとしてはいまいちで、それがたとえ複雑で難しく見えても、こちらも真似したくなるようなダンスは、どこかに骨や筋肉の必然があるんですよね。

 だからといって、そのダンスは誰にでもすぐにできるというわけではないのですが、なんかそれを身につけたくなるような感じなんですよね。ちょっと練習してみようかな、と思いました。日常生活では、我々は体を半分も使っていなくて、自分の持っている身体の機能をフルに使うためには練習も必要で、子供たちが面白いダンスを真似るというのは、きっと、自分が知らない自分の体の動きを体験してみたい、という本能みたいなことなんだろうと思います。

 大人は、その本能みたいなものを抑圧しがちなんだろうな、とオーディションを見て思いました。ああ、この人、それを取り戻すには時間がかかるだろうな、と。ダンサーというのは、その点、大人になってもその本能を開放し続けている人のことで、南さんなんかはその代表格だと思うのですが、そのことに気付いて、やっぱり素人くささよりも、プロの凄みのほうをチョイスすべきだな、と思いました。素人をチョイスしようと思っていた私は、少し子供をなめていたのかもな、と反省。

 オンエアは12月初旬で、その他にも新聞やポスター、パンフ、ウェブの制作で大忙しですし、このご時勢、他にもいろいろ大変なんですが、なんとか明日は休めそうです。みなさんもよい休日を。ではでは。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年11月 6日 (木)

プリミティブな広告

 つくりたいのはそういう広告なのかもしれない、と最近思う。広告のためにコピーを考えたい。デザインを考えたい。映像を考えたい。音楽を考えたい。

 プリミティブ(Primitive)には、原始の、根源の、という意味から派生して、古くさい、粗野なという意味がある。なんとなく思うのは、そういう古くさく粗野なものも引き受けた上で、プリミティブでありたいということ。

 コピーのために広告があるのではなく、デザインのために広告があるのではなく、映像のために、音楽のために広告があるのではない。広告をつくるという目的がある限り、コピーも、デザインも、映像も、音楽も、広告のためになければならない。もちろん、広告をつくるという行為においての話だけど。

 これは簡単なようで難しいことで、僕らはいま、豊穣なコピー、デザイン、映像、音楽の積み重ねの先端に生きていて、その文化の束縛からはなかなか逃れることはできない。けれども、そんな文化なんか知る由もないたこ焼き屋のおじさんの頭の中を想像することはできる。彼は、自信のたこ焼きを売るために、どんな言葉を書くだろうか。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2008年11月 5日 (水)

あるクリエイティブ・ディレクターさんから聞いたTKの話

 お金が身を滅ぼすというか、なんかどんよりとした気分になってしまいました。これからマスコミやブログなんかでいやというほどTKについてのやな話がいっぱいでてくるでしょうから、私は、あるクリエイティブ・ディレクターとの雑談で聞いた、ほんわかしたエピソードを。もうかれこれ10年以上前なので、真偽のほどは保証なしですし、あくまで聞いた話なので、そこらへんを加味して読んでいただければ幸いです。

 そのクリエイティブ・ディレクターさんは、全盛期のTKとCMの仕事をご一緒したそうです。TKが華原朋美さんのプロデュースをしていた頃で、globeの人気も最高潮だった頃。当時、取り巻きが50人くらいいたそうで、ちょっとしたCMの打ち合わせをするのにも、その取り巻きたちを通さなければならず、大変だったとのこと。で、やっとこさTKと話すことができると、ただの音楽好きの兄ちゃんで、「あっ、それ面白いじゃん、じゃあ、こんな感じでいきます?」みたいな感じだったんですって。まったく嫌みなところもなく、お高い感じもなかったとのこと。

 でも、やっぱりそれでもお話をしていくと、ところどころに「家に10色のフェラーリーがあって、まるで色鉛筆みたいなんですよね」とかいった話は出て来たりして、うへぇ、すげー、となって、音楽のことを話しているときの少年っぽい感じとのギャップが不思議だったなあと、そのクリエイティブ・ディレクターさんがおっしゃっていましたです。まあ、フェラーリーが色鉛筆みたいに並んでるという表現も、それはそれで少年っぽいとも言えますが。

 CMの撮影現場にて。TKは、「ラ王」というカップ麺が好物だったそうで、お湯をわかしてひとりスタジオの隅で食べていたそうです。通常は、タレントさんは特別なロケ弁とかなんですが、あくまで控えめな感じで「いえ、僕はこれ食べますんで」という感じだったそうです。そこに例の取り巻きさんがいらっしゃって、「TK、お疲れ。」とか言って差し入れにドンペリ。ピンクのドンペリをコップに注いで、「ラ王」をすすりながら飲んでいたとのこと。このへんのバランスも、ちょっと不思議な感じですね。

 私的には、TKは圧倒的に「My Revolution」の作曲者で、あの曲はほんと見事だと思うんですよね。あの1曲で、TKはすごい才能だな、と思いました。以降のクラブ的な音作りは、私にはよくわからないし、TM Networkやglobeなんかも、あまりピンときませんでしたが、徹子の部屋で「日本のヒット曲を聞くに、これなら僕は軽く超えられる」みたいな趣旨のことを言った自信は、ちゃんとした才能に裏付けられたものだったんだろうなと思います。

 そのクリエイティブ・ディレクターさんの話を聞くに、なんとなくTKは、音楽が好きで好きでたまらない少年だったんだろうな、と思うんですね。テレビで過去のインタビューが出ていましたが、そのときに、インタビュアの「すべて手に入ったんじゃないですか?」との問いに、「まあ、何かがほしくてはじめたわけじゃないですから」と答えていたのは、案外本音なんだろうなと思いました。

 報道を見る限りでは、けっこうだます意図があったみたいだし、そもそも詐欺事件としては桁が違うし、本人も認めているみたいで、なんだかなあ、と思いますが、ああいう稚拙な感じの嘘をつけるのも、お子ちゃまな証拠でもあるし、まわりの人に、きちんとした人がいなかったのかな、なんて思います。もちろんきちんと罪は償わなければいけないけれど、ひとりの才能のありすぎるお子ちゃまとしてTKをみたとき、ちょっと気の毒だな、という気持ちもありますね。まあ、お子ちゃまで許される年齢ではないけれども。なんか複雑な気分。

| | コメント (11) | トラックバック (0)

2008年11月 4日 (火)

「広告はラブレター」という言説が若い人の間で話題になっていたみたいなので。

「広告はラブレター」という言説が若い人の間で話題になっていたようである。佐藤尚之氏の「明日の広告」で展開された議論が新鮮だったらしい。
一方で、私などの世代のように80年代からせいぜい90年代前半に広告業界に入った者にとっては目新しい話でもない。むしろ、懐かしさを感じる。当時は「広告は私小説」とか「メッセージはラブレター」みたいなことを言う人は多くいて、ただ今にして思えば戦前生まれの人々であった。
比喩は本質を突くとは限らない。だが、この「広告=ラブレター」という議論をどのように捉えるかによって、その人が「何を生業にしているか」が分かる気がする。

naoto_yamamoto:Blog/広告って、なに?「広告=ラブレター論の陥穽。」

 ブログ「広告って、なに?」の著者の山本さんは、私より少し先輩ですが、ほぼ同世代と言える感じなので、このへんはすごくよくわかります。山本さんは制作からマーケ、コンサル分野へ。私はCIから制作の分野へ、ということなので、ベクトルは逆ですが。

 確か、あの当時「広告はラブレター」とことあるごとに言っていたのはコピーライターの真木準さんでした。コピーライターの秋山晶さんは東京コピーライターズクラブのコピー年鑑テーマに「コピーは僕だ。」と書かれていました。この頃、よく言われていたのは、製品に機能差がなくなってきて、何で消費者が製品を選択するかというと、それはもはや製品のまわりにまとわりついている感情の衣でしかなくて、「このブランド、私に雰囲気がぴったり」みたいなことで製品を選ぶ時代だからこそ、広告はその感情の衣たるべきで、その方法論としては、比喩としてはラブレターだったり、私小説だったり、そんなパーソナルな感じがいいんじゃないか、みたいなことでした。

 消費というものが飽和状態になってきて、まさに「ほしいものが、ほしいわ。」(糸井さんの西武百貨店のコピーです)という環境になり、製品の差別化ポイントをうまくついていくという広告表現技術の限界が見えてきたときに、ひとつの方法論として「広告はラブレターである」という比喩は、言葉を武器にするコピーライターを中心に一気に受け入れられていきました。まだ、かろうじてコピーライターがカウンターカルチャーの担い手として、時代の花形商売と思われていた時代です。

 まあ、時代もよかったし、無邪気だったんだと思います。あの頃、製品に差別性がなくなってくることが、すなわち製品がコモディティ化することを意味していて、コモディティ化してしまうことは、すなわち製品が広告コミュニケーションを必要としなくなってしまうことを意味することなど、考えもしなかった。そんな明るく軽い時代でした。この考え方は普遍だとは思うのですが、あの当時は、製品の差別性がなくなった商品群が、それでもマス媒体を舞台に広告で競い合うような、広告業界に都合がいい未来が語られていたんですよね。

*     *     *     *

 バブルを学生として過ごし、バブル崩壊とともに社会に出た広告業界の中の人である私は、このあたりのことをどう考えているかと言うと、こんな感じです。去年の今頃のエントリですね。いま読み返すと、中の人らしい書き方でもあるなあとは思いますけど、おおむねこの考え方は今も変わってはいないです。まあ、先の山本さんの問いかけに答えるならば、私は「広告を生業にしている」人であるので、それでもやはりなお「広告はラブレターである」というのが前提の論議ではありますが。

 よくね、若いコピーライターの人が感銘を受ける言葉に、前段に書いた「コピー(広告)とは企業から消費者へのラブレターである」というのがありますよね。こう書くと、コピーライターは、すごくいい気分になるんです。でもね、あえてネガティブなことを言いますが、そうして一生懸命に書いたラブレターが「このラブレターきもい」って簡単に言われちゃうのも広告コピーであるんです。残酷だけど、それが広告の現実です。糸井さんが書いていた飽きるということに関して言っても、面白すぎるものは、すぐ飽きる、というのも現実であって、特に長く運営していくキャンペーンなんかでは、じつは、この設計というか頃合いがいちばん難しいと思っています。

ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)「別にキザなことを書くつもりはないけど、いろんな意味で、広告と恋愛は似ていると思います。」

*     *     *     *

 バイラルマーケティングの専門家であるsmashmediaの河野さんは、こんなことを書かれています。先の山本さんのエントリを読んでのお話です。

この辺の話は「ラブレターを渡せば何とかなる」とか、そもそも「ラブレターをもらったらみんなうれしいはず」という勝手な幻想に基づいている。そんなのリアルな世界にいたら、超KYじゃねーかと。相手の気持ちは無視かよ。
ちゃんと「ただしイケメンに限る」って書いてあるでしょう。

smashmedia「そのラブレターは望まれていない」

 「ただしイケメンに限る」というのが面白いですね。まあイケメンでもこういうタイプは嫌われそうでもありますが、この「広告はラブレター」という比喩には、「ラブレターをもらうとみんなうれしいはず」と信じる無邪気さが含まれているのは事実でしょう。でも、その無邪気さは間違いであるということは、一度でも失恋すればわかることでもあるし、どちらかというとコピーライターをはじめとする広告業界の人たちが、そういうことにしておきたいということでもあるんだろうと思います。

 でも、そんな甘い理想論を現実が許さなくなってきて、無邪気ではいられなくなってきたというのが、今という時代なんでしょうね。そんな折に「明日の広告」の「広告はラブレター」。この業界の行く末を案じる若い人たちで話題になるのも分かる気がします。久しぶりに、無邪気になれるというか、自信がみなぎってくるというか。

*     *     *     *

 河野さんが、セス・ゴーディンさんの言葉の引用として書かれていましたが、「すべてのマーケティングは、スパムである。」というのは、なんか身もふたもないけれど、至言なんだろうな、と思います。私は、広告制作を生業にしている制作マンなので、仕事上、ラブレターをずっと書く仕事ではありますが、「広告はおじゃま虫である」とは思うんですね。というか、この前提は、今にはじまったことではないと思いますし、優れたラブレターとしてきちんと機能している広告は、この前提をきちんと認識しているような気がします。今も昔も。

 それとともに、当然、マーケティング活動の総体の中身を見てみると、ラブレター的なコミュニケーションの分野である広告と、市場戦略、価格戦略、大本の商品開発まで多岐に渡っていて、いつの時代でも「ラブレターだけ渡せばなんとかなる」というわけにはいかなかっただろうし、コミュニケーション・デザイン的なその渡し方の工夫みたいな広告の進化の仕方もありだとは思うんですよね。山本さんがあのエントリでお書きになっていましたが、ある種の「限界性」みたいなものは、あらかじめ広告には組み入れられているのだと思います。

 その限界性みたいなもので、限界性を超えるために、さらに複雑化し巧みに進化していくコミュニケーション・デザインの道を広告が歩むか、それとも。ここのところの私の興味は、ある程度、その進化を組み入れつつ、「でも、やっぱりこういう広告は今でもいいよね」みたいな感じで、「ラブレターうざい」というか、「ラブレター?気付かなかった。」みたいな現状でも、きちんと届く表現技術って何だろう、みたいなところですね。それは、見方によっては退化っぽく見えてしまうかもしれないけれど、広告の本能的な部分をつかまえたいというのが、今のところの課題かなと考えています。

*     *     *     *

 ずいぶんコミュニケーション・デザイン的な方法論が流行ってきて、たぶん、このムーブメントも、かつての「広告はラブレター」「コピーは僕だ」的なムーブメントと同じように、「超KYじゃねーかと。相手の気持ちは無視かよ。」と言われてしまうような気がしているんですよね。このところのこのあたりの業界全体の熱病具合を見ていても、そう感じます。ぶっちゃけて言えば、単にメディアの多様化による消費者の意識の変化がもとになっているわけだから、その回答は、それを超えるものではないはずなわけで、今のままで走ると、今度は「ストーカーじゃないかよ。」と言われかねない状態になりそうな気が。まあ、この業界の進化って、いつもこういう道を辿るんですが。

 こういうことを言うといろんな方面から誤解されそうなんですが、わかりやすく言えば「広告よ、分をわきまえよ。」ということなんですよね。話はそこからなんですよ。だって、コミュニケーションって言っても、本音はものを売りたいっていう商売がベースなんですから。分をわきまえずに、コミュニケーション、コミュニケーションって言ってると、そりゃ嫌われるさ。

| | コメント (7) | トラックバック (2)

2008年11月 3日 (月)

朝からチャーハン

Img219_2

Img216

Img215

 朝、東京駅在来線南口コンコースの崎陽軒で買いました。横濱チャーハン、550円。シウマイ2個と鶏のチリソース。シウマイ弁当でもおなじみの筍の醤油煮。キュウリの醤油風味漬物(キュウリのQちゃんみたいなの)は刻んだ生姜と合えてあって、こういうひと手間がいい感じ。小ぶりなので、朝飯や小腹が空いたときにちょうどいいんです。チャーハンは、冷えているけど、エビ3つ。一人前に、ちゃんと叉焼も入ってます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年11月 2日 (日)

高円寺のこと

 TBSのワンステップ!という番組で「東京・高円寺の落書きを消せ!」というドキュメンタリーをやっていました。商店街に描かれた落書きを消す若者。それを見た街の人たちが協力していく様子を淡々と描いていました。いい話なので、このブログでは割愛。なんか私、そんなにいい人でもないし。若者、偉いよなあ。私は、どっちかというとドキュメンタリーに出ていた、缶コーヒーを黙って差し入れる人のタイプ。

 まあ、それはともかくとして高円寺。以前に、大学時代に、高円寺の病院で当直と医療事務のバイトをしていた頃のことを書きましたが、高円寺は私にとっては愛着のある街です。

 私は今、中野に住んでいますが、ときどきお散歩がてらに早稲田通りを歩いて高円寺に行きます。高円寺には古本屋も多く、大規模な商業施設がなく商店街中心なので、なんか安らぐんですね。中野は、丸井(来年再開するそうです)とサンモール、ブロードウェイという感じですが、高円寺は駅前を中心に放射線状に商店街が広がる、地場の商店が中心。そこがいいんです。

 早稲田通りを高円寺方面に向かって歩いて、環七の大和陸橋を超えて、ひとつめの角を曲がると、商店街の端に着きます。路地ではご老人が夕涼みしていたり、子供たちがサッカーボールで遊んでいたり。野良猫たちもたくさんいます。ここ数年、古着屋さんやアクセサリー屋さんがたくさんできて、若い人も多くなったような気がします。ご老人と若者が、いい塩梅で一緒にいてて、生活の街としては、ある意味でひとつの理想なんでしょうね。

 10分ほど歩くと、高円寺駅はすぐそこです。でも、商店街が放射線状に走っているので、駅がぎりぎりまで見えません。そこも高円寺らしくていいところです。駅前に入る前に、左に曲がって、別の商店街に入って、まずは一軒目の古本屋さんで暇をつぶします。買うときもあるし、そのまま出るときもあります。で、少し歩くと、このあたりではいちばん大きい古本屋さんの都丸書店へ。このお店、大学時代に、お金がなかった頃、安藤忠雄さんのサイン本をすごくいい値段で買い取ってもらったことがあって、それ以来、お気に入り。人文系が充実しています。

 都丸書店のすぐ先には、知る人ぞ知るB級グルメ店「ニューバーグ」があります。ハンバーグなんですが、ハンバーグじゃない、みたいな妙な感じ。まあ、やわらかいソーセージみたいな感じかな。でも、一人前に鉄板にのって、けっこううまいデミグラスソースがかかってて、見た目はすごく豪華です。ライスと味噌汁付きで400円ほどだったと思います。味噌汁は、卵がほんの少しかき玉状に混ぜ込んであって、ちょびっとわかめも入っていたりして、なかなか美味。20年ほど食べつづけていますが、ハンバーグも味噌汁も味が変わらないんですよね。(でも、このチープさと偽物感は、嫌いな人は嫌いなんでしょうね。)

 ここでお散歩が終われば、「東京ウォーキングマップ」とか「ちい散歩」っぽくていいのですが、どうしてもパチスロとかやっちゃうんですよね。せっかくのお散歩気分が、これで台無しになることも多く、そんなときは、もう歩く気も失せて、総武線に乗って、そそくさと中野に帰ります。自分でも情緒もへったくれもないなあ、と思います。とほほです。

 高円寺は、20年ほど前はヘビメタの街でした。JIROKICHIがあるので、ブルースやジャズ、ファンクの街でもあり続けているのですが、一頃は、鋲の付いた黒い革ジャンに、エクスプローラーやフライングVを背負った青年がたくさん歩いていました。あの頃と比べると、高円寺の若者はおしゃれになりましたね。下北沢っぽい感じになってきたような気がします。

 若者の特徴で言えば、今や中野のほうが個性的。ゴスロリを着た子がいたり、けっこうバラエティに富んでいます。計算してみると、かれこれ人生の半分を東京で過ごしていて、そのたいはんが中野・高円寺界隈なんですよね。自分が大阪人なのか東京人なのか、ちょっとわからなくなってきます。ま、ブログを書いているぶんには、どこに住んでてもあまり関係がないし、新幹線で2時間半なので、今や東京も大阪もないのかもしれませんけどね。

 明日は、朝一で新幹線。母のお見舞いです。大阪で、イカ焼きとかきざみうどんとか、安くてうまいものでも食べてきます。では、みなさまよい休日をお過ごしくださいませ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年11月 1日 (土)

「失敗をするな」というメッセージ

 世相が世知辛くなってきて、何事にも、通奏低音に「失敗をするな」というメッセージが鳴り続けているような気がします。よく言われる「失敗を恐れるな」というかけ声にも、「でも失敗はするな」という通奏低音が耳をすませば聞こえてくるような。確かに、これだけ経済状況が苦しくなってくると、失敗が許せなくなる気持ちもわからなくはありません。でも、「失敗をするな」という通奏低音が鳴り続けている限り、表面的なスローガンがどれだけ明るく建設的であっても誰も怖くて新しいチャレンジなどしなくなります。

 こういう状況の中ではスローガンを叫びつづける立場が最も「おいしい」立場になります。美しいスローガンを大声で叫び続け、それが実現できなければ、それはスタッフのせい。「俺が考えている理想をなぜスタッフは実現できない。ああ、くだらねえやつらに囲まれた俺は不運だぜ。」と愚痴っていれば、とりあえずは、状況が自尊心を傷つけることなく楽しく毎日を過ごせます。そのうち、現場スタッフもみんな、仕事を忘れてスローガンを大合唱。ああ、俺たちができないのは会社が悪い、時代が悪い。ああくだらない。そんな暇があったら、企画書書けよ。まあ、ぶくぶくと肥大化した自意識で楽しく過ごしてちょうだいな、と思います。

 私は、なにごとにもある一定の割合で失敗は出てくるものだと思っています。なにかをやろうとしたら、ある程度は失敗のリスクはあるでしょう。失敗をなくすためには、何もやらない、しかありません。だから「失敗はしょうがない」、と考えます。むしろ、何か新しいことをやるためには、一定の失敗リスクを吸収できるシステムを用意することのほうが大事。というか、これに尽きるかも。失敗したときに、「まあしゃあないわな」と言えるだけの余裕を持っていることが大切。でも、同じパターンの失敗は1回だけですけどね。2回目は駄目。失敗から学ばなかったわけだから、この時は怒ります。

 そんな割合地味な原理原則でチームを運営していたりするんですが、地味ながらも、それなりに新しいことにチャレンジできているし、大きな失敗もなく(要するに小さな失敗を組み込んでいるからこそなんでしょうけどね)、スキルや責任の大小にしたがって、それぞれ不満はあるようだろうけど、まあそれは私の聞こえないところで私の悪口を言って解消するなどして、なんとか楽しく成果を上げられているような感じがします。

 今、ちょっと心配なのは、そんな地味だけどそれなりに楽しげなチームが、ガラパゴスっぽく会社で見られてしまっているところ。長年広告をやっていると、会社組織の習性がわりと読めてきて、ああ、もうすぐおせっかいが始まるだろうなあ、という感じがするんですね。スローガンを叫ぶ人が、コラボしようぜと近づいてきそうな予感。当然、拒否しますけどね。だって成果が確実に落ちるもの。

 それにしても、こういうのだけは私は苦手なんですよね。たいがいのことは、まあええわ、人それぞれやし、と思って見過ごせるんですが、このタイプのあれこれについては、進退をかけてでも抵抗してやる、と思ってしまうんですよね。なんなんでしょう。もう見過ごせないんですよね。ちょっとばかり許せないという強い気持ちもあります。

 こういうことで2年くらいは簡単に棒に振ることになるし、結局、そのコラボに付き合うと、責任はなぜかそのスローガンをはじめから信じていない私がすべて負うみたいなことになりがちだから。もう、棒に降るのは御免だなあ。そのときの、スローガンを叫ぶ人の逃げっぷりは見事なもんで、それを目の当たりにするとしばらく人間嫌いになります。

 健やかに仕事をするためには、ちょっとした抵抗も必要なんだろうな、と思います。こんな時代だから、地道に黙々とというのじゃ駄目なのかもしれません。でも、やっぱりね、地味に黙々と、というのは大事だとは思いますけどね。「10年間毎日ずっとやって、もしそれでモノにならなかったらオレの首やるよ」と言った吉本隆明さんの言葉を私は信じているから。進歩なんてものは、科学だって何だって、毎日の地道な更新の中にしかないとも思うし、スローガン1発ですべてが生まれ変わるなら、こんなに苦労はしないし。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »