プリミティブな広告
つくりたいのはそういう広告なのかもしれない、と最近思う。広告のためにコピーを考えたい。デザインを考えたい。映像を考えたい。音楽を考えたい。
プリミティブ(Primitive)には、原始の、根源の、という意味から派生して、古くさい、粗野なという意味がある。なんとなく思うのは、そういう古くさく粗野なものも引き受けた上で、プリミティブでありたいということ。
コピーのために広告があるのではなく、デザインのために広告があるのではなく、映像のために、音楽のために広告があるのではない。広告をつくるという目的がある限り、コピーも、デザインも、映像も、音楽も、広告のためになければならない。もちろん、広告をつくるという行為においての話だけど。
これは簡単なようで難しいことで、僕らはいま、豊穣なコピー、デザイン、映像、音楽の積み重ねの先端に生きていて、その文化の束縛からはなかなか逃れることはできない。けれども、そんな文化なんか知る由もないたこ焼き屋のおじさんの頭の中を想像することはできる。彼は、自信のたこ焼きを売るために、どんな言葉を書くだろうか。
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コメント
はい・・・ただただ誠実にタコ焼きを焼き続けるのみ・・・かも。 実は、先日のエントリーの「広告はラブレター」も、中身を読むまで「とっても大好きな商品へのラブレター」と勘違いしてたんです。この品物のココが(私or僕は)ダイダイだーいすき!!って。矢印が正反対で、あらまあ・・・でした。
ウチは鰻の養殖をしてますが、お付き合いの頃、主人はとっても自分の仕事を自慢してました。自分の育ててる鰻は美味しくて皆から評判がいいんだとか。正直、その頃の私は、仕事以外のプライベートに生きがいを感じていたので、別の人種のような気がしてました。
で、日の出・日の入りにあわせてエサをやるとか、そのころから水質検査を自分で毎日毎日やっていたりとか。地味な仕事の積み重ねの上で、やっと製品になっていくところや、自営業って自分が働かないとお金にはならないんだ、全責任が自分なんだってことが、とっても誇らしげにみえました。(で、またね、同じやるならイヤイヤより楽しんで仕事したいじゃないか?なんてね)(のろけ?)
おかげ様で(出荷の他に)ウチで細々作っている鰻の白焼きも評判上々で、そこそこ売れています。クチコミのみで、広告はしません。贈答品で召し上がったお客様が、またリピートしてくださったり、ほとんどがお名前のわかる方ばかりです。それもこれも、胸を張って「食べてみて」といえる鰻を主人が育てているお陰です。
・・・幸せな商いですよね。感謝。
投稿: Aうなぎ | 2008年11月 7日 (金) 12:56
Aうなぎさん、こんにちは。
広告が必要のない商売って、ある意味で理想なんですよね。いいご商売をされている証拠だと思います。
中島らもさんがかつておっしゃっていたことですが、らもさんはタコ焼き屋さんの屋台に貼紙がしてあって「めちゃうまたこやき。300円でどやっ。」と書かれていたそうで、広告屋はそのおじさんの「どやっ。」に込められた熱い気持に応える言葉を発しているのだろうか、と。
ほんとそうだなあ、と思うんですよね。
投稿: mb101bold | 2008年11月 7日 (金) 13:31