ただいま、「ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)」を広告しています。
たとえば、ing感のあるコピーというのは、こういうことなのかもしれないな、と思ったりします。このところ、「プリミティブな広告」とか、そういうことを考え続けていますが、これだけメディアが多様化して、すべてがバレバレな時代において、広告という行為が本来持つ力を取り戻すためには、ある意味でこんな感じのところまでいかないと駄目なのかも、と思ったりします。
広告という行為自体が熱を持って迎えられるためには、もはや広告が広告以外の何かに偽装することでは足らなくて、広告が広告であると、今一度カミングアウトする必要があるのじゃないかな、なんてことを考えます。
ただ、これは絶対的に過程論なんだろうとは思います。こういうのは一度やったら終わりだし、模倣すればするほど、ただの表現に成り下がるわけだし、時代の戦略というものかもしれないな、とも。
その昔、広告の自己否定というか、ちょっとしたひねりを効かせるのが鮮度を持つ時代がありました。「広告より口コミを信じましょう。」とか、私が書いたものでは「インターネット・プロバイダは、広告で選ばないほうがいい。」とか。それを広告で書く、みたいな。それがちょっと賢いよねえ、というひねった感じ。
でも、そんなこんなしているうちに、そういうひねりみたいなものの存立する基盤自体がなくなってきて、「どうするよ、広告」みたいな状況がいまで、それでも力を持つ広告というのは、案外、今日のエントリのタイトルみたいな、ある意味アホな表現なのかもしれないです。(ある意味、極論だけど。)
こういう視点に立つ限り、なんとなく広告というものは普遍のような気も、私は結構本気でしていて、まあそんなことを仕事をしながらうだうだ考えている次第です。それでは、本日はそんな感じで。
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コメント
こんばんは。
広告のことはよく分かりませんが、技術を知る程にing感を表現できなくなる事もあるのかなー、という気もします。少し前の話題で恐縮ですが、素人の書くヴィレッジバンガードや生協の白石さんのポップがウケたように。メーカーさんの販促物より何かグッとくるものがありました。でもそこで白石さんっぽさを狙いにいくと・・・もう何か違うんですよね。既に陳腐化してるというか。。。
ちなみに私は、くだらないトイレの落書きに、もの凄いオリジナリティを感じる時とかあります。魂の叫び?みたいな。
投稿: ドリームプランナー | 2008年11月13日 (木) 01:17
こんばんは。
ああ、書店のポップはグッと来ますね。この本を売りたい、売れるべき、みたいな熱い気持ちが伝わって、思わずニコニコすることが多いです。
あれを真似することは私にはできないよなあ、と思います。であればプロは何をすればいいのか、ということなんでしょうね。
投稿: mb101bold | 2008年11月13日 (木) 01:30