沈黙の読者に向けて日々の思いを淡々と書いていく
という感じのブログが私は好きです。もちろん書き手にもよりますし、書かれている内容にもよりますが、好きなブログは、きちんと沈黙の読者に向かって書かれていて、しかも、毎日もしくはそれに近い頻度で書かれているブログが多いようです。なので、私も、そういう大好きなブログにならって、そういうふうに書けたらと思いながら続けています。
沈黙の読者に向けて書く
ブログに書くということは、不特定多数に読まれるということであるという認識は、ネットリテラシーの話だけではなくて、表現全般に言えることだろうと思います。もちろん、恋人に向けた言葉や音楽はあるけれど、多くの表現は、やはり名前も顔も知らない、かなたの人に届ける行為なのだろうと思っていて、それを意識して、少しばかり緊張しながら、沈黙の読者に届けようとする言葉が私は好きです。
沈黙の読者は、自分が想定する読者とは少し違っていて、たとえば私は広告業界の人間ですが、その専門分野の人以外の、私の想像できない読者をも含むものだと思います。これは、自分がブログをやってみて、すごく意識させられたことでもありますし、きっと、ウェブ全体に開かれたブログというものは、ツールの本質として、好む好まざるにもかかわらず、沈黙の読者を意識させられるものなのだと思います。
特定の読者に向けられた言葉というのは、ある種の親密さと引き換えに、ある種の排他性を持ってしまうような気がしていて、その排他性みたいな感じが、読み手としてはあまり得意ではないのかもしれません。これは、内容がやさしい難しいにかかわらず、雰囲気から感じられるものなのですが。
日々の思いを淡々と書く
こういうブログからは人の心の動きが見えてくるというか、書き手の人柄が見えてきて、それが私にはツールとしての言葉以外の言葉として立ち現れてくるような気がします。その言葉の魅力というものは、これまで私たちが感受したことのないような魅力のような気がするのですね。
それは、出版というプロセスを経ないブログというメディアがはじめて生み出したものなのでしょう。私には、その言葉の魅力が、ブログの最大の魅力のように思えます。毎日もしくは頻繁に更新を重ねているブログを読んでいると、やはり人間であるがゆえの心の揺れが言葉に現れていて、それはときどき屹立した美しい姿だったり、あるときは、失敗したり、疲れきったり、へこんだりした情けない姿だったり。
しかしながら、それでもなお沈黙の読者を意識するが故に、持続的な自意識の統一性がそこには確かにあって、このような少しばかり緊張した自意識から紡ぎ出される言葉が、私にとってはすごく魅力だし、正直、場が紡ぎ出す、ある個人の一側面が強調された言葉があふれるウェブの中で、少しばかりほっとしたりします。ときどき、それこそ沈黙の読者として、言葉に出さないけれど勇気づけられたりします。
そこには生身の人が見える
ということなのだろうと思うのです。そして、その生身の人であるが故に、そこには論理を超えた好き嫌いも生まれるのですが、その好き嫌いみたいなものまで戻って、好きだ、嫌いだ、と言える、そういった言葉の質が私は好きです。たぶん、それは論理ではなく、論理を生み出す前の思考というものなのかもしれません。なので、そこに書かれているのは、なにかに転用できる論理でなく、まだ論理として昇華されていない思考そのものなのだろう、と思います。
なんとなく、そんな好きなブログの好きな理由をつらつらと書いてきて、あらためて思います。私も、なるだけそういうふうに書いて行けたらと思います。自分にとってブログがかけがえのないものであるとすれば、きっとそういう部分だと思うんですね。なんとなく言葉にすると、内に向かって開く、という感じに、これからも書いていけたらと思います。
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コメント
自分の中の気持ちを整理するというか、文字にして客観視してみるとかっていう感じで私はブログを書いています。
自己アピールというのもが苦手で、でも自己表現というか、自分の多面性を正直に捉えられたらいいなあというか。その内容に向こう側の読者の反応で、あーそうなんだと別の気づきがもらえるとありがたいというか。
なんだか取りとめがありませんが、私にとってのブログはこんな感じです。
投稿: しばはな | 2008年11月23日 (日) 21:54
しばはなさん、こんばんわ。
夜になって、ちょっと寒くなってきましたね。多面性を正直に捉えるためには、日々のブログはいいのかもしれません。それは読み手にとっても、「へえそうなんだ、そうかもなあ。」というような気づきを与えてくれるような気がします。
そういう内に向かいながら、でも開いている感じが、ブログはいいなあ、と思います。
投稿: mb101bold | 2008年11月23日 (日) 23:18
はじめまして、
なにかの縁で、数ヶ月前から楽しく拝見させていただいています。
このエントリーの「それを意識して、少しばかり緊張しながら、沈黙の読者に届けようとする言葉」の「少しばかり緊張しながら」というフレーズに共感を覚え。
私自身は、性格上表現ということを意識しすぎるせいか、10日に一回くらいしかUPできないブログ、というよりコラムを書き綴っていますが、ブログが不特定多数に開かれたというメディアだからこそ、この「少しばかりの緊張」はすごく大事なファクターではないかと思っています。
日本人は「徒然なるもの」が好きですから、「日々の思いを淡々と」書かれたものを受け入れる素地はあるんでしょうが、それでもやはり表現であるという緊張感がないと、いまはやりの「自分大好き」ポップソングと同じですもんね。
投稿: コトバノイエ | 2008年11月24日 (月) 14:15
コトバノイエさん、はじめまして。
きっと日本人の「徒然なるもの」という感覚の中には、本来は「少しばかりの緊張」が含まれているように思うんですね。
「つれづれなるまゝに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」
の「あやしうこそものぐるほしけれ。」がもっている緊張感というか。なんかわかったような、わからないような感じですが。
今後ともよろしくお願いします。
投稿: mb101bold | 2008年11月24日 (月) 15:04
はじめまして。
私も広告業(端くれですが)を生業としてきた
ものなのですが、その反動からか、作為を
感じない文章他の表現に惹かれます。
「論理として昇華されていない思考」って
言葉が妙に頭に残り、普段コメント等はしない
のですが、縁を感じコメントさせて頂きました。
「内に向かいながら開いている感じ」、良いですね。
投稿: Hope Natural | 2008年11月26日 (水) 08:47
Hope Naturalさん、はじめまして。
コメントありがとうございます。作為を感じない言葉というのは、考えてみると日常話している言葉でもあるような気がします。そんな感じがなんとなく好きです。
今後ともよろしくお願いします。
投稿: mb101bold | 2008年11月26日 (水) 11:58