なぜ広告を作品だと思ってはいけないのか。
あくまでデザイナーやコピーライター、CMプランナーなどの広告制作者に向けての話ではありますが、若い人への戒めの言葉として「俺たちは芸術作品をつくってるんじゃない。広告をつくっているんだ。」というものがあります。これ、なんとなく感覚や職業倫理としてはわかるんですが、いまいち明快な理由がわからずにいました。
曰く、作品だと思ってつくると、狙いにいきすぎて表現が荒れてくるから。曰く、そもそも企業がお金を出しているのであって、その広告はあなたのものではないから。うーん、なんか違う。そこには、ルサンチマンの匂いがします。真面目で実直な表現がいちばん。広告は商品を語るもの。違う、違う。そんなもんじゃない。真面目でも、おもしろくないものはおもしろくないし、人はそれを愚鈍と言います。
でも、作品と思ってはいけない、というのは確かに制作者としてはすごく理にかなっているように思います。まあね、結果として作品という名で語られるのはありだとは思うけど、作品をつくっている気になると、実務的には、結果として痛い目にあうことも多く、まあこれは私が作家性で勝負していないこともあるにはあるけど、作品と思ってつくるとろくなことはない、と。そんな気がします。
で、考えてみて、ひとつ結論のようなもの。作品だと思ってつくると、その広告のing感がなくなるからなんじゃないかな。作品というのは、それだけで過去のような気がするんですね。ドイツの広告雑誌に「アーカイブ」というものがあって、その雑誌に掲載されることが世界のクリエーターの憧れだったりしますが、文字通り、作品だと思ってつくる時点で、それは広告よりも先に作品であるので、生まれたときからアーカイブ化を目指している表現であるような気がします。
特に、メディアの多様化で、これだけ情報の消費が早くなって来ているいま、ing感のない広告は、広告としてのパワーを生み出さないような気がします。デザイン好きの好感度な人が、いいよねこれ、で終わるような気が。それではいまはしんどい。
ブログをやっていて痛感しますが、ブログのエントリだって賞味期限がありますよね。結果としていいエントリはじわじわ読まれ続けますが、それでも、旬は投稿されて長くて1週間。ほとんどは、1日から2日。広告も同じだと思います。出稿されて、掲載されて、目に入って3秒が勝負。その勝負に破れると、ほとんどは無視されてしまいます。再発見は、まあない。
作品だと思ってつくると、後で見直しても、やっぱりいいよなあ的な質、具体的な話で言えば、品のない言い方になるけれど、自分のポートフォリオに入れて、あとで見直したときにも良く思えるというような質を目指してしまうような気がするんですよね。今効いて、今を生きているような表現をチョイスする比率が下がるし、なにか見事に定着されすぎるものって、現在進行形な感じが失われてしまうような気がするんですね。
まあこれは微妙なニュアンスの話ではあるので、結果で示していくしかないんでしょうけど。ある広告の仕事で、コピーをチョイスしていて、面白いコピーなんだけど、なんか違うなあ、というような私の中の微妙な違和感があって、その答えがこれなのかもしれません。なんかing感がないんですよね。広告に、ドライブ感がないというか。なんかうまく説明できなかったけれど、本人はわりとわかった感があるのはどうしたものなんでしょうね。
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コメント
いつも読ませていただいてます。
作品はアーカイブ化を目指している。
非常に分かります!
「普遍性を獲得したい」、あるいは「古典になってほしい」という思いが、作品として広告をつくる場合には出てくるのかもしれません。
でも、そういうことを考えたときにいつも、ダヴィンチがモナリザを描きながら「古典になってくれ」と果たしてどれくらい思っていたんだろうか、ということを思います。
アーカイブ化を目指すこと自体、実はかなりしょうもないことなんじゃないかと個人的には思ったりするのです。
投稿: 20代コピーライター | 2008年11月12日 (水) 04:47
20代コピーライターさん、はじめまして。
>でも、そういうことを考えたときにいつも、ダヴィンチがモナリザを描きながら「古典になってくれ」と果たしてどれくらい思っていたんだろうか、ということを思います。
なるほど。確かに、広告に限らずかもしれませんね。
投稿: mb101bold | 2008年11月12日 (水) 10:00
mb101boldさん
おはようございます♪
最近は寒いですね・・・(´A`。)
mb101boldさんの記事を見て『あーそういう考え方があるんだ!!』ってうれしかったです♪
話は少しそれますが・・・
うち(システム会社)の社長はデザイナーが自分の作ったデザインを『作品』と言うことにすごく抵抗を覚えるみたいです。
理由は、mb101boldさんが書いていたように『企業がお金を出していること』と『機能があってのデザイン』だからだそうです。
(そんな人なので当然システムよりのデザイナーとしか長期ではお仕事できないのですが・・・)
私はシステムもデザインも行っているので思うのですが、デザインは『作品』ではないけど『作品』である様な・・・
美的センスなんて思想を持ち合わせていない人にデザイナーが考えたバランスのとれたデザインにダメだし(?)をしているのを見ると『作品』と言いたくなる気持ちもわかるような気がします・・・
『そこを変えたらこのデザインの意図が・・・』と良く思います(´・ω・`)
そんな事を思いながらmb101boldさんの記事の『ing感がなくなる』にあらたな発見を覚えました♪
いつも全然まとまりきらないコメントでごめんなさい 苦笑
投稿: chipy | 2008年11月12日 (水) 10:02
chipyさん、どもです。寒いですねえ。
私は、見た人の顔が曇った時点で、「あっこれは受けなかった」と思うことにしています。なんか芸人みたいですね。受けるためには何が足らなかったのかを考える、みたいな。これもing感には重要なのかも。
デザインって、de+signで「現実世界の再構成」を意味していて、それはもともと機能とか利便性が中心になる概念なんですよね。なので、案外、社長さんの言っていることは正しいかも。
で、ここから先。
なぜ機能を重視しすぎたデザインは美的によいと感じないのか。それは、きっと、人を機能に従属させようとしているからなんですよね。これはこれでデザインではないんですよね。デザインって難しいなあ、とほんと思います。
投稿: mb101bold | 2008年11月12日 (水) 10:40
>寒いですねえ。
うちの会社は室内でコート着ている人もいますw
バランス良く室内が暖まらなくって・・・苦笑
>見た人の顔が曇った時点で、「あっこれは受けなかった」と思うことにしています。なんか芸人みたいですね。
私、mb101boldさんのそんなバランス感覚すごく好きです♪
顔が一番わかりますよね・・・あと空気・・・(芸人さんw)
>受けるためには何が足らなかったのかを考える、みたいな。これもing感には重要なのかも。
そっかぁ・・・
相手と自分の核になるものの差みたいなのもすりあわせて行かなきゃですよね・・・
>de+signで「現実世界の再構成」を意味していて、それはもともと機能とか利便性が中心になる概念なんですよね。
え~そんな語源なんですね・・・
デザインって言うと美的な形の総称のだと思ってました・・・すごい><。
>人を機能に従属させようとしているからなんですよね
それすごく嫌いです・・・
ものに使われてる気がして・・・(´・ω・`)
Macを否定するわけではないですが、フォルムは良いけど、美的デザインありきの機能なので使いずらくて・・・
でも、あそこまでシルエットを極めたことが熱烈なMacユーザーを生み出す理由なんですかね(´・ω・`)?
>デザインって難しいなあ、とほんと思います。
受け取り側に感じ方が変わってきてしまうからこそ難しいですよね・・・
万人受けする答えがないですし・・・
そー考えるとやっぱりmb101boldさんの相手の雰囲気を見て何が足りなかったのかを考えるのが一番近道なんですね♪
でもそれが、実際見てもらいたいターゲットに響くかは別なのが難しい・・・。
mb101boldさんのお話はやっぱりすごく勉強になります><。
永久保存版ですw
投稿: chipy | 2008年11月12日 (水) 11:28
mb101boldさん、はじめまして。いつも記事を楽しく拝見させていただいています。前々から読ませてもらっているのですが、ふとコメントしてみようと思った勢いで失礼します。デザイン/広告についてこんなに深く示唆にとんでいる文章は他に見たことがなく、素敵だなぁと感じております。影ながら、というちょいちょいコメントしつつ応援してみたいと思います。でわでわ
投稿: ra-mi | 2008年11月12日 (水) 13:21
>chipyさん
私はMacユーザですが、確かにそういうところはあるなあ。特にあのMighty Mouse。美しいんですが、トラックボールがすぐ駄目になります。まあMacだからなあ、なんて許してしまっているところはありますけどね。
>ra-miさん
はじめまして。今後ともよろしくお願いします。
投稿: mb101bold | 2008年11月12日 (水) 15:10
こんばんは。
広告される製品は、様々な役割の人たちがそれぞれの熱意(ing感)を持ちよって作られて、そのリリースされるタイミングにも意識してかどうかにかかわらず意味があると思います。
たとえ計算尽くだとしても大きな流れで見ればインプロビゼーションの1音のライブ感があると思うのです。
そこで、これまた様々な人たちが集まってつくる広告がほんの少しでも自意識を持ってしまったら、その曲はライブとしてなんだかはじけきらないのではないか、と思いました。
飛躍しようとしていた製品というプレイヤーのプレイのライブなアプローチは、曲全体を美しくまとめてしまったもうひとりのプレイヤーのせいでやさしく埋没してしまう。
素人感覚で恐縮です。
投稿: takupe | 2008年11月12日 (水) 17:59
takupeさん、こんばんは。
ものを売るという行為のライブ感みたいなものが広告の表現のコアなような気がします。ちょっと唐突な例ですが、そのへんの作り方は、マックのジョブスとかはうまいなあと思います。
投稿: mb101bold | 2008年11月12日 (水) 21:01
こんにちは。
文字を読むのが遅くて時間のあるときにまとめて読む派のグラフィックデザイナーです。いつも関心深く読ませていただいています。
初コメントですし、コメントを書くってこと自体慣れないのですが、何か僕にこそタイムリーな気がしてコメントさせていただきます。
広告作りを作品作りと思うなかれは、デザイナーこそよく言われることだと思います。その一般的理由にルサンチマンを感じるのは、近年ようやく後輩ができた僕にいいタイミングで響きますし、おっしゃる通りアーカイブ化を目指すこと自体、広告としてどうなの?に深く納得させられました。
いつも諭される気持ちで拝しています。
アーカイブ化意識を超えて広告を作れるということは、アーカイブ化なんていつされても問題ないクオリティを常に出し続けることで、そんなのプロとしてあたりまえだと最初にADに言われたのを思い出しました。できなくて徹夜続きだったことも。
一歩抜ける気持ちこそ大事で、「作品」は一歩抜ける手前でも満足できてしまうような、そんな感覚でしょうか。
一歩抜けるを理解しながらそれをアーカイブ化できるまで落とし込むって難しいなーなんて、今でも思ってしまうんですけどね。悩んでしまうとそれだけ遅れる。
結局広告って1人で作れないので、そこに誰かが「作品」意識を持ち込むと、みんなのリズムがずれやすくなるから、っていうのもあるのかなと思いました。
投稿: 31男 | 2008年11月13日 (木) 13:10
31男さん、こんにちは。
>一歩抜ける気持ちこそ大事で、「作品」は一歩抜ける手前でも満足できてしまうような、そんな感覚でしょうか。
これはよくわかりますし、私にもよくあります。まだ広告案を客観視できていない状態ですよね。自分の内部の理屈でつくっている状態だから、自分にはよくわかるけれど、他人からはいまいちわからない。これは、ベテランほど陥りやすい罠かもしれません。
一方では自分の中で追いつめて、一方では一歩引いたところから眺める。矛盾していることを同時にやらないといけないので、ほんと難しいですよね。
投稿: mb101bold | 2008年11月13日 (木) 21:20
それはやっぱり「自分のはらわたを投げつける」みたいな姿勢でやってないからだと思います。そんなの、フツーやったら失礼だし。広告にならないし。嫌がられるし。
でも、脳みそで考えたことでもがりがりやってれば、多少ははらわた滲むしね。小腸の匂いとか。肝臓の痛みとか。混ざり具合によっては、作品と呼んでもいいかなーって思います。
エミール・クストリッツァていう映画監督の”作品”を見たときに、ああそうかって思いました。「アンダーグラウンド」って映画でした。いい映画ですよ。
このテーマとは関係ないかもだけど。
投稿: denkihanabi | 2008年11月14日 (金) 02:27
それは少し論旨が違うかもとは思いましたし、私のエントリの話自体は制作者共通だと思いますが、職種によって、話したいベクトルは違ってくるかな、と思います。
denkihanabiさんの話は、作家にとって作品性というのは何かという話かもしれませんね。
あとまったく関係ない話ですが、脳もある意味で内蔵なのかもと思いました。
投稿: mb101bold | 2008年11月14日 (金) 09:58