私の住む街にハンバーグ屋さんがあります。値段も手頃で、そこそこの人気。カウンターオンリーで、U字に曲がったカウンターの中にキッチンがあり、その中で店主がハンバーグを焼いてくれます。ひとりでも気楽に入れるので私はよく行くのですが、味の方はというと、まあ普通。人によってはまずいと言うかもしれません。目玉焼きの付いたスタンダードバーグが580円だから、あんなもんだろうなという感じで、通い詰めています。
でも、私、そのハンバーグ屋さんでひとつだけ好きなところがあります。それは、味噌汁。油揚だけのシンプルな味噌汁なのですが、お出汁が煮干しで旨いんですよね。昼はサービスで、夜は100円。私は夜でも味噌汁を必ず頼みます。
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もし、このハンバーグ屋さんが広告をつくってほしいと頼んで来たら、私はどうするかな、と考えてみました。価格は、ファーストフードには負けているし、正直言って味はよくはない。店の雰囲気は悪くはないけど、長居する感じでもない。でも、味噌汁は旨い。それは、きっとどこにも負けていないし、もしかすると100円近辺の戦いだと、圧倒するかもしれない。で、こういうメッセージを打ち出したらどうか。
味噌汁のおいしいハンバーグ屋さんです。
駄目ですね。一目瞭然ですよね。もしかすると、その裏のメッセージである「ハンバーグのまずいハンバーグ屋さん」というメッセージを面白がられてブレイクするかもしれない?でも、ここの店主、真面目でそういうのを楽しむ余裕がない感じ。それだけの度胸はなさそうです。要は、ケタグリメッセージで博打を打つことはできないという感じ。たぶんこのメッセージを打ち出したら、高い確率でこのお店は潰れてしまうと思うんですよね。
これは分かりやすい例ですが、ハンバーグ屋さんにとっての本質価値は「ハンバーグが美味しいこと」です。「味噌汁が美味しいこと」は付加価値です。(この付加価値という言葉は、経済学上の付加価値でもなく、本質価値を圧倒することで形成される付加価値でもなく、広告屋がよく使う「オマケ的な価値」と考えていただければと思います。しかし、この付加価値は分野によって意味が違いすぎる言葉ですね。)もし、どうしても「味噌汁がおいしい」とこを伝えたいのなら、こんなコピーはどうでしょうか。
味噌汁もおいしいハンバーグ屋さんです。
ちょっといけるかな、とは思うものの、でもやっぱり「味噌汁にそんなにがんばるんだったら、味噌汁屋になれよ。それより、ハンバーグの味をもっとがんばったらどうですか?」と言われてしまいそうですね。つまり、ハンバーグ屋さんにとっての広告の王道は、やっぱり「ハンバーグ」なんです。そこからのバリエーションは、単純に美味しさの訴求だったり、味の特徴の訴求だったり、価格に対する味とか量の訴求だったりいろいろありますが、どちらにしても「ハンバーグ」から始まります。
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この本質価値と付加価値の錯誤、広告の現場には多いです。その錯誤がどうして起こるかと言えば、組織の問題や市場の問題など様々な要因がありますが、なんとなくその過程を振り返ると、みんなが催眠にかかったようになる、みたいなところがあります。それが商品開発からだと、もうお手上げです。マーケティングが強い会社ほど、この催眠にかかりやすい傾向があるように思います。
付加価値でニッチ市場を狙い、そのニッチ市場を大きくして、本質価値にしてしまって、そのトップシェアになるという手もあるにはあります。でも、この方法は、投資がかなり大きくなります。その覚悟がないと失敗するやり方です。相当の自覚がないとできない方法です。多くは、付加価値を本質価値とみなして、成り行きのまま行ってしまうケースでしょう。
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また、この本質価値と付加価値の問題は、けっこう複雑で一筋縄ではいきません。初代iMacのケース(参照)。徹底的なデザイン、カラーバリエーションの訴求でした。これは、ハンバーグ屋さんで言うところの「味噌汁」訴求=付加価値訴求なのか。
そうではありません。これは、本質価値訴求です。
つまり、Appleは(というかジョブスは)、「これからのパーソナルコンピュータはもっと生活に入ってくるよ」と言いたくて「だからこそ、生活を豊かにするフォルムやカラーこそがこれからのパーソナルコンピュータの本質価値なんだよ」と言いたかったのだと思います。もちろん、MacOSの設計思想と技術的達成が担保になっているのは言うまでもありません。
たとえそれが、当時の世の中が考える常識から見ると「Different thinking」であるとしても、「これからの世の中は絶対にそうなるよ」と言いたかったのだと思います。だから、このCM(あるいはキャンペーン)のエンドラインは「Think different.」なんですね。
同じようなデザインで勝負した他社の製品はすべてiMacに負けていきました。もちろん、そのカタチと色はあまりにもパクリすぎじゃないですか、という製品もあったようですが、その会社にとって、そのカタチと色は、その場しのぎの単なる付加価値だったのだろうと思います。Appleというかジョブスは、こういう製品の本質価値のチェンジ(パーセプション・チェンジ)がうまいですよね。ほんと、コミュニケーションと経営が一体となった会社は強いです。
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ちょっと世界的な事例すぎましたので、こういう話、そないにうまいこと行くかいなと思われてもなんですから、規模的にも身近な私の仕事の例で。
ロボット掃除機の仕事(参照)。これまで、このロボット掃除機は、ロボット訴求でした。よく言われた愛称は「お掃除ロボット」です。でも、このロボット掃除機にとって本質価値は「ロボット」ではなく「掃除機」なんですね。「お掃除」の理想や利便を追求する手段としてのロボットテクノロジーであるはずで、逆ではないんです。メッセージを変えました。売れました。
このロボット掃除機に関して言えば、グローバルでワークしたメッセージであっても、日本というローカル市場ではワークしないこともあることのいい例と言えるかもしれません。日本では掃除機ロボットの本質価値は、あくまでロボットではなく掃除機なんですね。一方、先行市場である欧米では家が広いこともあって、掃除を自動化してくれるロボットが本質価値になり得る土壌があったのです。
この商品は、パブでは「お掃除ロボット」として大活躍していましたが、それはネタとして消費されるだけで、実際の商品の購買には結びつきませんでした。だから、コミュニケーション戦略として「お掃除ロボット」としてのメディアへのネタ提供を一切辞めたんですね。まあ、iMacと比べると、規模としてはごく小さな仕事ではありますし、私には「何を偉そうに」と言われてしまうような失敗もたくさんありますけどね。
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最近、なんか気になるのは、この本質価値と付加価値の錯誤が、ブランディング話まわりでよく見かけるなあ、ということですね。私は、ブランドとは本質価値の積み重ねの総体だと思っていて、昨今の、まるで昨日までなかった理想の自分をブランディングという魔法で簡単につくれてしまうかのような言い方には、少し違和感があります。そないにうまい方法あるかいな、なんて。本質価値を磨いていくか、いままでの価値を捨てるリスクをとって、あえて本質価値を変えてみるか、方法は2つにひとつのような気がします。まあ、あまり言い過ぎるとおっさん臭くなるので、このへんで。
追記:
冒頭の広告依頼の答えですが、たぶん私は「目の前で焼いて、熱々をお出ししています。」というメッセージをこのハンバーグ屋さんにおすすめするでしょうね。価格をきちんと淡々と記載して。その前に、もう少しハンバーグ美味しくならないですかね、とか言うかもしれません。それと、もうひとつの考えとしては、広告とかコミュニケーションの話とは別に、飯屋の本質的価値として、何よりもまず「ごはん」と「味噌汁」が美味しいことというのもあって、だからこそ、長年このお店はそこそこの人気を保っているんだろうな、とも思います。
追記2:
まあ、トラバをもらうなりの強烈なご批判でもなく、私の書いているブランドの定義についての違和感を、つぶやきっぽくおっしゃっていただけだから(参照)、こちらも気にする必要はないんですけどね。参照のリンク先から来られた人のために、一応、元エントリにならってつぶやきっぽく反論。
私は、『双方向に「利益」を生む状態になって初めて「ブランド」』という考え方は取りません。利益を生まなくても「ブランド」は「ブランド」。私は、「ブランド」という言葉の起源に忠実に、固有名を持つものすべてが「ブランド」だと考え、「ブランド」という言葉を使っています。固有名が、何かの閾値を超えると「ブランドになる」という考え方をしません。私の定義では負の「ブランド」も「ブランド」に含みます。だから「ブランド」は管理と軌道修正が必要なんです。
これは言葉の定義や解釈の問題だから、「価値」とか「ブランド」という言葉を「価値あるもの」と「利益を生むブランド」と考えるのは自由だし、そこから理論を展開することも、個別のブランド論としての意味もあるとは思いますし(ブランドを標榜する企業や個人はそこの差で勝負するのだろうし)、そこから先は個別の論の説得性と魅力の問題だろうと思います。ですから、あんたの論はおもろないというのなら何もこちらから言うことはありません。
関連:ブランドって何だろう(3回シリーズになっています)
「名を名乗ってから」うんぬんについては、まあ考え方はいろいろあるでしょうから、そのへんについては読まれた方のそれぞれのご判断にまかせます。