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2008年12月の22件の記事

2008年12月31日 (水)

桂南光さんの「ちりとてちん」を聞きながら

 この落語の冒頭で、「ものよろこび」のうまい男が登場するんですが、この「ものよろこび」が私は苦手。なんか照れるんですわ。ものよろこびとは何か。

「これなんですのん。えっ、茶碗蒸し?これまた、きれいな食べもんでんなあ。いただきます。うわっ、これうまいなあ。茶碗蒸し。ほお、茶碗蒸し。わたし、こんなうまいもん食べるの、はじめてですわ。」

 みたいなこと。台詞はちょっと違うかもですが、この茶碗蒸しのくだりは、南光さんのオリジナルだそうですね。ちなみに、ちりとてちんというのは長崎名産の知る人ぞ知る珍味中の珍味。庶民はなかなか食べることができない貴重なものらしいんですが、私は、長崎に行ったときにある人のお計らいで、たまたま食べる機会に恵まれたんですが、なかなかのもんでしたよ。

 ちょっと話がそれてしまいましたが、この「ものよろこび」が自然に出来たら、人生がもっともっと豊かになるんだろうなあ、なんて思うので、やっては見るんですが、駄目ですね。すごくぎこちなく、破れかぶれな感じになってしまいます。うまいなあ、とは思うんですよ。お店の人にいろいろ聞きたいとも思うんです。でも、なんか駄目。

 これ、南光さんの「ちりとてちん」に登場する男のように、自然にできる人もいてて、ほんとうらやましいなあ、と思います。料理屋さんに行くと、ひとりは「マスター、これうまいなあ。最高。」みたいなことを自然に言える人がいてて、その言葉を聞いたマスターは「そうでんねん。これな、明石のたこでんでんねん。なかなか手に入るもんやないけど、今日はたまたま。ほんま、お客さんラッキーですわ。」なんてやりとりが展開されてて、それを見ながら心底いいよなあ、なんて思います。で、そのお客さんが常連さんではなく一見さんだと知って、またまたびっくり。なんだかなあ、俺って駄目だよなあ、人生損しているよなあ、と。

 私がmixiがどうも苦手だなあ、と思うところも、そんなところから来ているのかもしれません。なんか、そういう輪にうまく入っていけないところがあるんですよね。無理すれば入っていけなくはないんですが、必ず後から自己嫌悪が来るんですよね。はてななんかも、ある部分ではそうですね。で、はてななんかでは、そういうやりとりを「クネクネ」、そうした雰囲気に対する「うらやまし半分、憎々しさ半分」な気持ちを「けまらしい」と表現するみたいですが、その「けまらしい」という感覚はすごくわかります。ちなみに定義は「あの人たちが仲良くするせいで私が不快になる」という気持ちとのこと。まあ、私の場合、不快ってわけじゃなくて、なんとなく「あせり」に近い感覚ですが。このブログでも他の人からみたら「けまらしい」なあと思われていることもあるんでしょうね。ま、この「けまらしい」って、おまえもな、な感覚なんでしょう。

 はてなと言えば、はてなの茶碗。南光さんの「ちりとてちん」の続きで、米朝さんの「はてなの茶碗」がテレビで流れていますが、すごいなあ。連続して落語を見ると、米朝さんのすごさが際立ちますね。言葉のリズムもそうだけど、表情のすごさ。しかし、落語ってすごいですね。って、すごいすごいって、どれだけ語彙がないねん、という貧困な感じですが、笑うところや落ちをみんな知っているのに、笑っちゃうんですよね。これは、考えてみるとすごいことだなあ。

 このはてなの茶碗。マーケティングの話として捉え直すと、おもしろいです。価値とかブランドとか、そういうものの仕組みがよくわかります。これだけで、もしかすると1冊の本が書けるかも。「はてなの茶碗のマーケティング論」みたいなタイトルで。まあ、書けるかも、で、売れるかどうかはわかりませんが。茶金さん(有名な茶道具屋の金兵衛さん)の立ち振る舞いとか、油売りの浮かれ方とか、これって、ある意味で、我々の日々の話につながるところがありますねえ。

 てなわけで、正真正銘、2008年のラストエントリです。まあ、大晦日もお正月も、1年の中のある1日に過ぎませんが、それでも大切な節目ではありますし、最後は濃密かつ壮大な広告論とか書いてみようかな、とも思ったのですが、まあ結果はこんな感じ。へなへなエントリで締めくくりです。新しい年も、どうでもいいことからどうでもよくないことまで、節操なく書いていこうかと思っております。あ、ちなみに、ちりとてちんは食べちゃだめですよ。冗談ですからね。お腹こわしてしまいます。みなさまよいお年を。ではでは。

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2008年12月29日 (月)

考えようによっては、今の時代ほどおもろい時代はないのかもしれんよなあ。

 という気持ちがどこかにあるんだろうな。なんの因果か広告みたいな職業について、私がはじめた頃から衰退傾向はあったし、なんとなくは今のような感じになるんじゃないかという感覚は当時からもってはいたけど、ここまであからさまな状況になるとは考えてなかったし、正直言って、ここまでわかりやすい状況は想定外でした。俺はそう思ってたよ、というヤツがいたら、そいつはきっと嘘ついてると思うしね。あの状況で、こうなることは想像しにくいよなあ。

 ちょっと前に言われていたことは、これからはネットの時代。広告もみんなネットに変わるって。それも、ちょっと違うかな、という感じを持っていました。もうひと展開もふた展開もあるでしょうが、この感覚はきっと間違いじゃない気がしています。どっちかというと、いままでの広告の衰退。正しくはダウンサイジング。なんで、その広告はネットも含む。

 で、この広告の衰退というのは、大きくいえば、ネットコンテンツも含めた数多の民間コンテンツの衰退をも意味していて、だからこそ、巷で話題になっていることで言えば、テレビにギャラの安い文化人が多く出て来たり、制作費の安い報道番組が増えたりしていているという現象にもなるし、そんな中で、NHKの大河の豪華さ、NHK特集の徹底的な取材なんかがひときわ目立って、このわかりやすさはなんだかもう、ほんとなんなんだろうな、と思います。

 こんな感じのことを書くと、一部で、だから広告屋は、なんて書かれたりすることもあるんですが、あんまりそないに言うなや、お互い様でしょ、という感じもなきにしもあらずで、そんな気分であいかわらず暇を見つけて、広告屋という立場からブログを書き続けているのですが、こういう感じもおもろいなあ、と思ったりもしています。ある意味、こういう時代に強いのは、いわゆる「チープメディア」で、ブログだったりするんですよね。

 これ、もし私が自費出版フリーペーパーとしてこのブログをやっていたとしたら、昨今の状況ではすぐに廃刊の憂き目にあっているでしょうね。そういう意味で言えば、コンテンツの文脈で言えば、これからはよほどの強度がなければ続かない状況になっていくのでしょうね。それは、ウェブコンテンツも同じで、この状況を乗り切るだけの強い意志と、利が薄くてもコツコツ続けていこうという気概がなければ、残っていけないんじゃないか、と思います。

 それは、まあ私の本業についても、大いに言えることで、それはそれはもうほんと、会社単位で言えば危機的な状況でもありますね。まだ笑って書けている余裕はありますが、半年後、笑ってられるかどうか。飯が食えなきゃ、ブログもないわけで。

 一方では、そんな状況だからこそ、浮かれることなくものごとを考えられるということもあって、それは見方を変えればありがたいことだとは思います。なんかこの危機感は、コンテンツをつくるという意志をもっている人すべてとつながっているような気がするしね。これからの時代は、私を含めたいろいろな人の試行錯誤の中でつくられるのだろうという実感があって、そういう意味では、こんなにおもろい時代はないとも言えるわけで、来年も地道にいろんなことを書いていこうかな、と思っております。みなさま、どうぞよろしくお願いします。

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2008年12月28日 (日)

WILLCOM 03は案外いいかもしれない

Wzero3es_2  今月の中頃、ついにW-ZERO3[es]が故障してしまいました。どうやらハードの問題。液晶タッチパネルの反応にズレが発生。スタイラスでの操作に支障が出て来て、ハードリセット。すると、OS起動の途中にある「画面の補正」でエンドレス状態になり、OS起動不能状態に。こうなるともう、電話としても使用できず機種変更することになりました。

 W-ZERO3[es]は、たいへん優れたモバイルガジェットでした。この機種は、きっとこの先、モバイルガジェットの流れを変えた名器として、モバイルの歴史の中で評価されていくのではないでしょうか。どの部分が優れているのかというと、私はここだと思います。

 ケータイライクな片手操作でのPC並みの機能性の実現

 このコンセプトをはじめて実現したのは、初代のW-ZERO3ではなく、この2代目のW-ZERO3[es]だったと思います。このコンセプトは、Blackberryをはじめとする欧米のスマートフォンにもないものでした。それらはすべて、本体ボタン及びスタイラスでの操作(もしくは両手でのボタン操作)が基本になっていて、つまりは、両手で使うことが前提になっていました。iPhoneも基本的には両手使いが前提になっています。

 けれども、W-ZERO3[es]は片手使いが基本になっていて、そのために、片手で操作できるぎりぎりのサイズの筐体に、全面と左側面に物理式のボタンが数多く設置されていました。この配置がよく考えられていて、使い慣れてくると非常によい感じなんですね。もちろん、相当の慣れとカスタマイズが必要ではありますが、そのへんの初心者への敷居の高さを除くと、これ以外の機種ではありえないベネフィットをもたらしてくれました。

Willcom03_2  そんな感じだったので、WILLCOM 03の機種変更には躊躇しました。物理式のボタンではなく、液晶のタッチセンサーに変更され、筐体のさらなるダウンサイジング(ほぼケータイと同様の大きさと軽さになりました)のために、十字キーと10キーが切り替え式になってしまいました。なんとなく、ケータイ並みのコンパクトさの実現のために、上記のコンセプトが犠牲にされてしまっているのかもしれないな、と思ったんですね。

 でも、それは杞憂でしたね。まあ、ダウンサイジングのために犠牲になっている部分もあるにはあるけれど、[es]は片手操作ではまだサイズが大きかったのも事実でしょうし、ちょっと感動したのは、液晶のタッチセンサー式のボタンが、ほんと片手操作の利便性のためにうまく作られているんですよね。やっぱり、W-ZERO3[es]の良さは引き継がれていました。機種変更に躊躇している方、案外悪くないですよ。

  私はなんとなくiPhoneについては、世間で言われるほどの注目はしていなくて、それは、OSの作りこみと各種センサの応用による動作の見事さはあるけれど、基本的にはこれまでの両手使いのモバイルガジェットだと捉えています。ただ、ひとつ優れた点があるとすれば、ディスプレイを、スタイラスではなく「指」で操作するという割り切りです。

 後発であるWILLCOM 03は、このディスプレイの「指」での直接操作の考え方を転用しています。WILLCOM 03用にカスタマイズされたOperaにこの片鱗が見られますが、残念ながら、操作性では、現時点ではかなり無理があり、逆にそのために、本体液晶ボタンでの操作が難しくなっていて、このへんはバージョンアップに期待です。(ただ、現状のOperaは使いにくいけれど、片手で操作できるようにという努力の片鱗が、いたるところにあって、それはそれで評価はしたいなあ、とは思います。)

 また、Windows Mobileのアンダーバー左右のリンクは、デフォルトのままのリンクの大きさにもかかわらず、直接「指」で操作するような仕様になっていますが、これはちょっと過渡期的な操作感かもしれません。そんなに悪くはないけれど、これはベストではないだろうな、みたいな感じです。この部分は、本体全面左右の物理式ボタンで操作する[es]のほうが圧倒的に良かったです。

 このW-ZERO3[es]が提示した「片手操作のPC」というコンセプトを実現しているのは、3つあって、それは、ハードウェア、Windows MobileというOS、フリー・シェアウェアを含めた様々なソフトウェアだと思います。その中で、これからこのモバイルガジェットのネックになってくるのがWindows Mobileなんだろうな、と思います。OSが、このコンセプトで作られていないところに、微妙な無理が見えるんですね。

 Windows Mobile for WILLCOM 03みたいなカスタマイズができれば、このモバイルガジェットはもっとよくなるんじゃないかと思うんですが、どうでしょうか、マイクロソフトさん。今のところ、この流れはニッチだとは思いますし、日本独自のガラパゴス的進化だとは思いますが、私には、この進化は世界に広がるような普遍性があると思うんですが。まあ、日本の一ブロガーの感想なんで、真偽のほどはわかりませんが、10年後、けっこういい先行投資だったな、と思えると思うんですよね。

 というわけで、来年からは、W-ZERO3[es]のカテゴリーは、このWILLCOM 03のことを書いていきたいと思っております。では、モバイル好きのみなさま、ウィルコムユーザのみなさま、ひとまずは、よいお年を。

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2008年12月27日 (土)

「enは転職者とはてブを応援しています。」と、広告とネットコンテンツの新しい関係。

En

 はてなブックマーク(参照)の自社広告(はてなが用意するという意味です)枠がエンジャパンに変わりました。私は前から、はてなブックマークの自社広告枠を注目していて、前にリクルートだったときは、けっこうコピーに力があって、面白いなあと思っていました。リクルートの場合は、自社であらかじめ読み物系のコンテンツを用意しておいて、そのコンテンツの内容を想起させるようなコピーを掲載し、なんだろうと思わせておいて、自社コンテンツに誘導するというカタチでした。

 ネット広告は、アーカイブ性が少ないので、ここに事例を示せないのが残念ですが、リクルートでは、ユーザー目線のつぶやきコピー系だったように記憶しています。テキスト系のネット広告としては異彩を放っていましたが、方法論としては王道で、どちらかと言えば、広告が元気だった頃の手法に近く、見ている側からの印象としては、テキスト広告でもやり方を考えればここまでできるんだという感じでした。

 今回のエンジャパンは、そういう意味からは、リクルートと違ってグッと企業目線。企業としてどう考えているのかがメッセージされています。私がエンジャパンで面白いと思ったのは、「enは転職者とはてブを応援しています。」というコピー。これ、普通のようでいて、今まであまりなかったのではないでしょうか。ここには、なんとなくネットコンテンツと広告の新しい関係が見えてくるような気がします。

 そもそも広告って、こういうものだったのではないかな。広告主のことをスポンサーと呼んだりもしますが、そのスポンサーが持つ本当の意味。つまり、あるコンテンツのスポンサーになり支えることで広告をする、という。塩野義製薬の「ミュージックフェア」とか、大昔で言えば、日清の「ヤングOH!OH!」とか、「てなもんや三度笠」の「あたり前田のクラッカー」とか。

 コンテンツの収益モデルとして、よく広告モデルと言われますが、その広告モデルには2つあるような気がします。ひとつは「新聞・雑誌」型。もうひとつは「民放テレビ・ラジオ」型。なぜこの2つに分かれるかと言えば、「新聞・雑誌」がメディア自体がひとつのポリシーを持ったコンテンツであるのに対して、「民放テレビ・ラジオ」は放送局のポリシーが上位概念としてあるものの、「新聞・雑誌」というコンテンツに当たるものは、じつは「番組」。だから、前者は、広告はコンテンツとは独立して存在していて、後者は、広告はコンテンツと密接に関わっています。

 たぶん、このエンジャパンの表現は、後者の「民放テレビ・ラジオ」型の広告表現だと思います。エンジャパンは、livedoorクリップでもなく、Buzzurlでもなく、はてブを応援する、と(そういう意図ではないかもしれませんし、ソーシャルブックマークの代表たるはてブを応援するという意図かもしれませんが)。つまり、ここではエンジャパンは、はてブという広告媒体に出稿する広告主ではなく、はてブというコンテンツのスポンサーなんですよね。

 本来は、広告とコンテンツの関係で言えば、こちらのほうが全うな気がします。今の新聞、テレビ広告の凋落というのは、主に「新聞・雑誌」型広告モデルの凋落でもあって、テレビの広告の落ち込みは、主にスポット枠(番組と番組の間に放映される15秒枠のこと。提供枠は番組中に30秒枠で流されます。)の落ち込みが原因になっています。で、スポット枠というのは、テレビにおける「新聞・雑誌」型の広告なんです。で、ネットのスポット枠では「Ads by Google」のひとり勝ちなんでしょうね。

 このはてブのエンジャパンの広告、私のような広告を生業としている人から見ると、それなりにはてブユーザに好感を持って迎えられるような気がしますし、そう思いたい気持ちもあるのですが、そうでない人から見るとどう見えるのかが、少し気になるところです。それと、ネットコンテンツの広告は、こういう感じの「民放テレビ・ラジオ」型のほうが向いているような気もするんですけどね。(と、これを新幹線の中で書いていて、もうすぐ新大阪なので、このへんで。ではでは。)

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2008年12月26日 (金)

ハッピーエンドが始まるといいですね。

 昔、百貨店広告が元気だった時代。伊勢丹の広告コピーに「ハッピーエンド、始まる。」というのがあって、当時すごく憧れた覚えがあります。眞木準さんのコピーです。ハッピーエンド。始まる。その互いに矛盾するふたつの言葉を組み合わせることでできた一行のフレーズ。そのフレーズが生み出す鮮烈で新しい世界。そうした言葉の作用が、当時の私にとって刺激的でした。

 酒井若菜さんがブログを一旦終了するそうです。私は、ときどき読んでいたくらいで、それほど熱心な読者ではありませんでしたが、真摯さを感じさせる文章が印象的で、こういう職業の人が日々どんなことを考え生きているのかがよくわかるブログで、なんとなく芸能人ブログというより、職業人ブログを読んだ時の読後感がありました。芸能人ブログっぽい交友録的な要素もたくさんありましたが。

 少し長いけれど、すごく考えさせられる文章なので引用します。

それから、表現者として生きていく以上、本来は人間性を誉めていただける喜びよりも、意地悪な役をやった時に「酒井若菜大っ嫌い」って言われた時に感じる喜びを持っていなければなりません。でも、ブログを続けていくうちに、いつからか私自身を誉めてもらいたい気持ちが強くなってしまいました(誉められて伸びるタイプなので)。

それから、例えば役がしっくりこなかった時や、何かしらが上手くいかなかった時、ブログという場所があると簡単に言い訳ができてしまうわけで、私達はあくまでも皆さんに提供をする側の人間なので、しっくりこないとか納得いかないものはプロとして絶対にお客さんに見せてはいけないわけで、つまり結果=成功しかありえないわけで、だから「こんなことを乗り越えて、最高なものを作ったよ」ならいいけれど、単なる言い訳に対する理解をみなさんに求めるのは非常におかしな話であり、ルールに反している気がしてならないのです。

勿論私は、弱音や言い訳などは極力避けてきたつもりです。

ただ、一般的な感覚として、ブログというもの自体の概念が若干変わってきたように感じられる現状があるのもまた事実です。それは、他のタレントさんのブログを読んで私が一方的に感じたことでもあり、失礼な言い方ですが「ちゃんとしろよ芸能人」と思ってしまう器の小さな自分に「うわ、私は何様のつもりなんだ」とひいてしまったりもするわけで、でも一方で、ちゃんと「表現者」を全うされてるかたのブログを拝見すると、私はまだまだ「ちゃんとしろ」側の人間でしかいられていないことに気づかされ、自分を恥じるのです。

ハッピーエンドが好きな私 – 酒井若菜診断室リターンズ

 新しい何かをつかもうとしているときには、その手をあけるために、きっと、今、その手に持っている大切な何かを捨てなければいけなのでしょうね。でなければ、新しい何かはつかめないのかもしれません。酒井さんのブログは、エントリもコメントもあたたかくて、ご本人にとってはすごく大切な何かだったと思います。もちろん読者の方にとっても。

 たとえば、「八方美人」という名のエントリ。ぜひ読んでみてください。とてもいいですよね。もし、酒井若菜さんという有名人が書いていなかったとしても、すごくいい。同世代か、それよりも若い人が読むと、すごく共感するんじゃないでしょうか。こういう感性があるからこそ、映画やドラマで、難しい役柄をきっちり演じきれるんでしょうね。

あくまでも、
一旦、
ね。
すぐ復活するかもしれないしね。

ハッピーエンドが好きな私 – 酒井若菜診断室リターンズ

 こうしたことをきちんと書くのも、真摯だと私は思うんですよね。これを言い訳だと取る人もいるかもしれませんが、私は、逆に、これを書かないと真摯で誠実だとは思わないんですね。なんとなく、たとえは逆ですが、前に書いた「ほぼ日刊イトイ新聞の「ほぼ」の意味」と同じような感覚。ちょっとわかりにくいかもですが。表現者として、ブログを書いてもいいかな、と思ったら、いつでも戻って来てください。酒井さんブログの読者さんたちは、きっと待っていると思いますし。

 酒井さんのような書き手は、ブログには必要だと思うんですよね。で、きっと、表現者としての酒井さんにとっても、ブログは必要だと思うんです。それは、ちょっと本気で思っています。ハッピーエンドの第二章を楽しみにしています。

※酒井さんのブログのリンクがつながらないみたいですね。サイトのリニューアルを機にと書いてありましたので、アーカイブが残らない方向なのかもしれません。(12月26日)
※つながりました。いいブログだと思いますので、まだ読んでいない人は、ぜひぜひ。ファンではない人にもおすすめです。(12月27日) 追記:またつながりにくくなっているようです。

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2008年12月25日 (木)

2008年の広告業界を振り返って。

 昨年同様(参照)、この1年の広告業界を振り返ってみます。と書き出してみたものの、どうも今年は気乗りしません。つまりは、そんなどんよりとした1年だったということなんでしょうね。2008年の前半戦は、昨年度の継続という感じだったと思いますが、後半は違いました。サブプライムの破綻に端を発するアメリカの金融危機の影響を大きく受けた感じになってきました。ただ、これは、今のところ「気分」の問題であって、その影響を実際に受け始めるのは来年からだと思います。

 朝日新聞、日本テレビ、テレビ東京が赤字に転落しました。しかしながら、これは世界同時株安の結果というよりも、企業全体の広告の出し控えという構造的な問題と、テレビに関して言うと、北京オリンピックの影響だと思います。

 広告出稿に関しては、オリンピックが期待したほど盛り上がらず、収益性が比較的高いスポット枠の不振もあったと聞きます。詳しいことはわかりませんが、大雑把に言えば、これもサブプライムに端を発した今回の金融危機の影響ではないということ。だからこそ、より深刻だということなんでしょうね。

 ネット広告も振るいませんでした。ここ最近で象徴的だなと思ったのは、「ショックウェーブのサービス終了」のニュース(参照)でした。「市場環境の悪化で広告収入が見込めず、今後の事業の見通しが厳しくなったため」とのことです。これはある意味で、ネットサービスの広告モデルの破綻を意味していて、広告モデルが駄目なら他のやり方があるのか、というと今のところ有力なモデルが見つからない状態で、来年からは各社とも試行錯誤が続くのではないかと思います。

 広告コンテンツの制作分野で言えば、今年は、広告代理店はいわゆる「コミュニケーション・デザイン」の1年だったと思います。これがブームで終わるか、それとも実のあるものになるのか、今のところ私には見えてきません。ただひとつだけ言えることは、昔のように、みんながテレビだけ見ている時代ではなくなってきたということ。それは肌で感じます。

 と同時に、こういうふうに多様なメディアに接することができる時代になってきて、逆説的な言い方になりますし、人によっては異論があるでしょうが、テレビ、新聞といったマスメディアの強さが私には際立って見えます。もちろん、かつてのような影響力は持ち得ないのは事実なのですが、様々なメディアを比較すると、その圧倒的な強さを認識させられます。

 メディアミックスのキャンペーンの場合、テレビCMの放映前と放映後では、ネットのレスポンスが明らかに違いますし、ブログや掲示板などの口コミにおいても、その元ネタとしてはテレビが最強です。その感覚は、もしかすると、元ライブドアの堀江さんにはあったのかな。そのあたりが、個人的には、他のネットベンチャーの方々と堀江さんの大きな違いだろうと思います。良くも悪くも、堀江さんにはマスが見えていたような気がします。

 こんな時代だからこそ、あえて、2009年は「マス=大衆」について考えてみようかな、と思っています。広告に携わる人間は、これまで「マス=大衆」の終焉を意識してきました。そして、テレビCMで「分衆」化したターゲットに向けて広告コンテンツをつくってきた傾向があったような気がします。でも、その「分衆」はもはやテレビなんか見なくなってしまったんですよね。

 大晦日は紅白でも見ながら、もう一度「マス=大衆」というものを捉え直してみようかな。そんなことをぼんやりと考えています。なんとなく冴えないエントリでしたが、みなさま、メリークリスマス。さあ、いよいよ2008年のラストスパート。元気出していきましょう。

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2008年12月24日 (水)

なんだか編集者みたいな気分になってきました。

 サイドバー「コンテンツ(目次)」の「広告コミュニケーション」と「ビジネス一般・広告業界」が完成しました。このブログで、過去に読んだけど、どのエントリか思い出せない、もう一度あれを読んでみたいけど、あれが何かは忘れてしまった、などの機会がありました時には、どうぞご利用くださいませ。

 作ってみて思ったのですが、医療や音楽などの数が少ないエントリはサイドバーの「カテゴリー」のほうが一気に表示されるので便利ですね。また、時系列に追うなら「バックナンバー」の年月を選ぶと、私の場合は、月25記事前後なので、なんとか許容範囲内かな。

 ただ、「カテゴリー」の「広告の話」や「日記・コラム・つぶやき」をクリックすると大変なことに。「日記・コラム・つぶやき」なんて、275 件ですよ。それを一気に表示するココログの仕様って。最近はブロードバンド環境が一般的になったからいいけど、ちょっと前なら大変なことになりますよね。それに、いくらなんでも275件はねえ。だからといって、日記的なエントリのタグを細分化していってもキリがないし。

*     *      *      *

 こういう作業をすると、ああブログってほんと個人メディアなんだなあ、と思います。普通の紙メディアだと、執筆者がいて、編集者がいて、デザイナーがいてみたいな感じですが、それを一人でやらないといけない、ということなんですよね。一人でやれる、とも言えますが。

 今、私がやっている作業は、まあ編集の仕事ですよね。たかが分野別の目次をつくるだけで、いろいろと葛藤と言うか迷いが出てくるんですよね。この分類でいいのかとか、このエントリはこちらに入れていいのか、とか。そもそも、日々のログとしてのブログエントリを分類することは粋なことなのか。

 プロの編集の方も、こういう葛藤の連続なんでしょうね。私の場合は、お金がほとんど絡んでいない個人ブログですが、プロの人は、その人の決断如何で書籍とか雑誌の評価が大きく変わってくるわけだし。書き手との思いの違いとか、いろいろあるんでしょうね。

 なんか、目次づくりをしながら、そんなことをしみじみ考えました。年内にぜんぶできるといいなあ。ではでは。

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2008年12月23日 (火)

手始めに「広告・コミュニケーション」関連エントリの目次をつくってみます。

 ココログは、過去ログが辿りにくくて、自分で書いたエントリでさえどこにあるのか分からなくなることが多いです。でもまあ、書いた本人に関しては、それこそ自分で書いたわけだから、なんとなく書いた単語とかは覚えているので、いちばん下にある検索窓でなんとかなるのですが、そもそも読む人にとってのブログの検索窓って、「このブログ主、なんかしょこたん、しょこたん言ってるような気がするから、一度どんだけしょこたんのこと書いているのか調べたろ」みたいなことのためにあるものですよね。

 要するに、一度読んで気になったけど忘れてしまった他人のブログの過去ログを探し出すことにあまり貢献していない気が私はするんですよね。で、私は考えました。そうだ、目次をつくればいいんだ。でも、これって当たり前のことだし、みんな思っていることですよね。というより、どうして多くのブログは目次を自動生成してくれないんでしょうね。目次を自動生成するサービスがあるみたいですけど、私の場合は、過去ログは読み込めませんでしたし、タグとか、関連エントリとかも自動で表示されて、なんかシンプルじゃないんですよね。だったら、自分でつくればいいじゃない。ユー、つくっちゃいなよ。というわけで、つくりました。

 まずは、「広告・コミュニケーション」関連で、わりと持論の展開というか考察というか、そんな感じのものを集めました。いわゆる「広告論・コミュニケーション論」限定です。ネタ系、仕事論系は除いています。どうぞ、ご利用ください。

本質価値と付加価値についての覚え書き(2008年12月15日)

都道府県別シェアから見た広告メディアとしての新聞(2008年12月 7日)

こういうのって、ある意味で広告の理想形だよなあ。(2008年12月 4日)

アイデアとは何か(2008年11月21日)

糸井重里さんの重さ(2008年11月15日)

なぜ広告を作品だと思ってはいけないのか。(2008年11月11日)

プリミティブな広告(2008年11月 6日)

「広告はラブレター」という言説が若い人の間で話題になっていたみたいなので。(2008年11月 4日)

定着のイメージを持たないコミュニケーション・デザインの気持ち悪さ(2008年10月15日)

「暮らしの手帖」的なものをどう考えればいいのだろう(2008年10月 6日)

(2008年9月25日)

ネーミングこわい(2008年9月 6日)

広告は普遍だろうか(2008年9月 3日)

過渡期としての企業とウェブの関係(2008年9月 1日)

日本の広告コピーが元気だった頃(2008年8月30日)

広告会社はこれからどこに行くのか(2008年8月25日)

なぜ理屈っぽい広告は嫌われてしまうのか。(2008年8月11日)
「なぜ理屈っぽい広告は嫌われてしまうのか。」あとがき(2008年8月13日)

ブランドって何だろう(1)(2008年8月 9日)
ブランドって何だろう(2)(2008年8月 9日)
ブランドって何だろう(3)(2008年8月10日)

広告会社の再編で何が変わって何が変わらなかったのか(2008年8月 6日)

タレント広告はなぜなくならないのか(1)(2008年7月27日)
タレント広告はなぜなくならないのか(2)(2008年7月29日)

外資系広告代理店の真実(2008年7月22日)

広告電通賞と鬼十則(2008年7月20日)

広告代理店って、何を代理しているのだろう。(1)(2008年7月18日)
広告代理店って、何を代理しているのだろう。(2)(2008年7月19日)
広告代理店って、何を代理しているのだろう。(3)(2008年7月19日)

ね。(2008年6月 1日)

広告的、ウェブ的(2008年5月 6日)

「広告批評」休刊が象徴するもの(2008年4月15日)

広告の終わりのはじまり(2008年4月13日)

クライアントか、スポンサーか、お得意先か。(2008年3月23日)

ちいさなことで、へこんだり。生活者って、そんな感じ。(2008年3月 4日)

お金の話をします。(2008年3月 2日)

コピーライターは言葉の専門家なのでしょうか。(2008年2月24日)

アダプテーションの難しさ。(2008年2月20日)

1980年代後半の広告事情(2008年1月29日)

自主規制のお話。(2008年1月18日)

コピーとデザイン。(2007年12月25日)

クリエイティブディレクターって、なんぞえ?(2007年12月 8日)

広告の原体験(2007年11月28日)

広告を芸術に利用するんやない。芸術を広告に利用するんや。(2007年11月17日)

別にキザなことを書くつもりはないけど、いろんな意味で、広告と恋愛は似ていると思います。(2007年11月 7日)

「場、表現、インタラクション」(2007年11月 3日)

「死」のイメージがどこかに隠されていると、広告はヒットする。(2007年10月21日)

「インターネットは広告でできている」という仮説。(2007年10月18日)

結局、いま言われている「広告の終焉」論を突き詰めると、メディアや手法の問題ではなく、表現の問題に行き着くのではないかなあ、と思うんですよね。(2007年10月17日)

「広告がおもしろい」ことと「おもしろい広告」は、きっと違うんだろうね。(2007年10月13日)

消費者金融のマス広告は是か非か。(2007年9月 6日)

こんな時代の広告。(2007年6月 4日)

 このリンク集は、サイドバーの「コンテンツ」からもアクセスできます。そちらのほうは、このカテゴリーのエントリを書き次第、随時更新していきます。ああ、疲れた。寝ます。ではでは。

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2008年12月21日 (日)

今年は空ばかり見ていた

Nakanonosora_4 今年は仕事では、ロケが多かったこともありますが、今年は空を眺めることが多かったような気がします。あらためて意識して眺めてみると、空って結構おもしろいものですね。

 たった1分でも表情がまったく違ってしまいます。季節によっても違いますし。高さ、青さ、雲、ひとつとして同じものがないのがいいですね。なんか中学生の作文みたいですが。その計算のできなさが今の時代にはいいのかな、なんていう思いが私の中にあったのかもしれません。

Shinbashinosora_5  ちなみに、上が東京の中野。お昼の空。下が東京の新橋。夕方の空。なんかピントが合ってないし素人臭い感じの写真ですが、それも味ってことで。

 ちょっと世の中がたいへんな状況になってきて、きっと今の影響が年初あたりから出始めそうなので、来年は空を眺める気持ちの余裕もなくなるのかな。でも、空くらい眺める余裕は自分にほしいなあ、と思っています。ほんと。

 火曜日もお休みなので、明日も休みの方も多いのではないかとは思いますが、みなさまよい日曜日をお過ごしください。とは言っても、あっと言う間にお正月ですけどね。ではでは。

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2008年のおすすめエントリ

 今年も残すところあと10日となりました。いろいろ世の中たいへんですが、明るくいきたいものですねえ。これはちょっと明るくはなれんわな、なんてこともあるにはあるけど、そこはひとつ、なんとかなるわ、の精神で。それでもなんとかならなかったら、そのときはそのとき。そんな感じで、さあラストスパートです。

 まなめさんの「【TB企画】あなたのブログの中でおすすめのエントリを教えてください2008 304 Not Modified)」に今年も参加します。いい企画ですよね。私は、ここのトラックバックを辿って、参加されているブロガーさんのおすすめエントリを読むのが好きです。なんとなく、心がほくほくするんですよね。自選というのがいいんでしょうね。長く続いてほしい企画です。ほんと、そう思います。

 では、2008年のおすすめエントリ。

1.会社を辞めたいなあ、と思ったら、気休めに、このエントリを読んでみてくださいな。

 ま、私、サラリーマンですから。いままでに会社を辞めたいなあと思ったこと、何度もあります。数え出したらキリがないですね。やっぱり会社って、いろいろあるもの。でもね、やっぱり短気起こして辞めなくてよかったな、と思うこともたくさんあって、そういう意味では、昔の私に向けて書いてることろがあるかもです。

2.「大人の事情」の取り扱い方

 大人の事情って、広告に限らず、ビジネスにはたくさんありますよね。大人の事情があるたびに、やけ酒を飲んでいたら肝臓がいくらあっても足りません。だったら大人の事情を利用してしまえ、というような趣旨のエントリです。こう書くと、身も蓋もないですね。

3.お疲れ様です。

 これは、自分がトラブっていたときに書いたエントリです。たいがいのトラブルって、ボタンの掛け違いだったりするので、一度服を脱いで、もう一度服を着るみたいなことが必要だと思うんですよね。それはじゃまくさいことだけど、服脱ぐのをじゃまくさがっていたら、風呂に入れないですものね。私事で恐縮ですが、このエントリの一部が「続・働く理由 99の至言に学ぶジンセイ論。」という本で引用されました。そんなことも私にとっては、今年のちょっとしたトピックでした。

 というわけで、今年は仕事関係中心のセレクトになってしまいましたが、いかがでしょうか。私のも含めて、こういう普通の人の仕事論って、ブログでないとなかなか読めない言葉じゃないかな、と思います。有名な人の言葉は本で読めるけど、その言葉は自分の置かれている現実とはかけ離れすぎてるし、私も、ブログに書かれたいろいろな言葉を参考にしながら日々仕事していて、なんとなく、そんなブログというかウェブに少しは恩返ししなくちゃな、なんて思いながらこれからもブログを続けていきたいな、と思っています。

↓そろそろ全国の書店に並ぶと思いますが、よかったら。

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2008年12月19日 (金)

わかりやすいジャズ&フュージョンの名曲をご紹介します。苦手な人も、だまされたと思って、ぜひ一度聴いてみてくださいな。

 わかりにくいものも好きなんだけど、わかりやすさは大切だし、わかりやすいものをつくるのは案外難しかったりします。広告でも音楽でもなんでもそうだと思いますが、ある種の難解さとは、素人臭さや青臭さに通じる部分もあるし、私は学生時代にジャズをやっていて、自分で言うのもあれですけど下手っぴで才能がなかったから、けっこう難解に逃げたところがありました。

 モード的解釈とかいって、12小節ブルースに妙なテンションノートを入れまくって、リズムも変拍子的要素をふんだんに盛り込んで、なにやら賢そうな音作りをしたり。まあ、今から思うと若気の至りだったりもして、かわいらしいよな、なんて思うんですが、ほんとはわかりやすいことから逃げると、そのジャンルが細って来て、あとはレトロしか逃げ場がなくなるような感じになってしまうんじゃないか、とぼんやり考えています。

 今、ジャズやフュージョンが流行らないですよね。なんかどんどん難しくなって、普通の人が楽しめない音楽になってきているような気がします。と嘆いてばかりいてもしかたがないので、ジャズやフュージョンが全盛だった頃の、普通の人にもわかりやすくて、なのに本物、という音楽をYouTubeから。ちょっと昔のジャズ&フュージョンです。

 渡辺貞夫の「RENDEZ-VOUS」ですね。バックメンバーがすごいです。ドラム、スティーブ・ガッド。ピアノ、リチャード・ティー。ギター、エリック・ゲイル。元Stuff勢揃いです。ベースのウィル・リー、いいですよねえ。それほど超絶的なテクニックでもないのに、グルーブが他のベーシストとはまったく違います。昔は、ウィル・リーはそれほど好きではなかったんですが、今聴くと、これぞベースマンという感じで。プロフェッショナルって、こういうことなんだろうな。

 続いて「FIRE FLY」。蛍です。これは前に、大阪城ホールで日本人リズムセクションのバージョンも聴きましたが、それはもっと上品な感じで、そのバージョンのほうが日本語でいうところの「蛍」に近かったような気がします。こちらは、やっぱりアメリカ的。エリック・ゲイルのギターソロが素敵。出だしなんか、もうね、何と言うか、いいでしょ。難しいラインでもないんですけど、エリック・ゲイルでないと弾けないギターですね。

 ウェザーリポートの「BIRDLAND」。ジャコが楽しそう。それだけでもう満足なんですが、あえて言えば、メロディがわかりやすいですよね。誰でも口ずさめます。リーダーのジョー・ザビヌルは、こういうキャッチーなメロディを書かせたら天下一品。気難しそうな風貌なのに、愛嬌があるメロディを書くんですよね。インタビュー映像なんかを見ると、わりと皮肉家っぽくて斜に構えたところがあるけど、時折見せる笑顔がかわいくて、どことなく憎めないじいさんぽくて、ある意味で人柄そのまま。お亡くなりになったときも、その人柄を惜しむ声が多かったですよね。

 若き日のジョー・ザビヌル。キャボンボール・アダレイ・クインテットの名曲「Mercy,Mercy,Mercy」。ザビヌル作。これが作曲家としてのザビヌルの出世作です。これは、世界中で今も愛され、多くのアマチュアジャズマンたちに演奏され続けてている曲です。

 最後にStuffの名曲「My Sweetness」。リチャード・ティーのローズ。聴く人を選ばない気がするんですよね。やさしい気分になれるし、音楽があまりわからない人でも、気負いなく楽しめるのに、音楽に詳しい人も満足できる感じ。

 最近、こういう感じのジャズやフュージョンがなくなってきたなあと思います。超絶テクニックのギターバトルとか、ベースバトルもいいけど、そういうの好きなのは、やっぱり楽器やっている人だと思うんですよね。そうじゃなくて、たまたま聴いて、ジャズとかフュージョンとか、もっと大きくいうと、音楽が好きになるような、そんな肩の力が抜けたプロの音楽が聴きたいなあ。わかりやすいことって、大事だよな、と最近思っています。ではでは。

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2008年12月17日 (水)

「PerfumeのCMはCMの理想形と広告人説明する」だそうです。

 アメブロニュースというサイトに、「こういうのって、ある意味で広告の理想形だよなあ。」というエントリが取り上げられました。そのニュース(参照)によると「視聴者を少しでも楽しませようとするこの手法に対して筆者はひどく感心し、世の中の人は皆広告が嫌いだと前提しながら広告は作るべき、と自分を含めた広告人に対して戒めている。」とのことだそうです。戒めてすみませんです。

 びっくりなのは、このニュースのコメントが17日現在、1431もついていること。で、読んでみると、いきなり最初のコメントが「パヒューム好きの強者出てこいや!(°д°)ハァハァ」。ちょっと待て、パヒュームって。でも、そこはみんなスルーなのね。あとは、元エントリほったらかしで、ファンとアンチのみなさんのコメントが延々と続いていきます。

 私の元エントリのリンクがBuzzurlのページ(参照)になっていることもあって、このページからのアクセスがほとんどありませんでした。それもある意味でびっくりです。リンクがないから当たり前なんですが、Buzzurlからも少なかったです。きっと、2度飛ばされると、さずがにまあいいかってなったんでしょうね。まあ、こういう感じが、今っぽいんだろうなあ、と「広告人」は思ったりもします。バズマーケティングとかバイラルマーケティングとか、そういう口コミって、基本的には「情報の消費」だったりするので、こういうケースは実際多いんだろうな、なんて思います。以上、「説明」でした。

 ちなみに、私、最初は「のっち」派だったんですが、何度も見ているうちに「あ〜ちゃん」も「かしゆか」もすごくいい感じに思えてきました。それぞれ個性があってよいですね。この感じ、昔のキャンディーズに似ているような。きっと、トリオという形式のなせるわざなんでしょうね。

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2008年12月15日 (月)

本質価値と付加価値についての覚え書き

 私の住む街にハンバーグ屋さんがあります。値段も手頃で、そこそこの人気。カウンターオンリーで、U字に曲がったカウンターの中にキッチンがあり、その中で店主がハンバーグを焼いてくれます。ひとりでも気楽に入れるので私はよく行くのですが、味の方はというと、まあ普通。人によってはまずいと言うかもしれません。目玉焼きの付いたスタンダードバーグが580円だから、あんなもんだろうなという感じで、通い詰めています。

 でも、私、そのハンバーグ屋さんでひとつだけ好きなところがあります。それは、味噌汁。油揚だけのシンプルな味噌汁なのですが、お出汁が煮干しで旨いんですよね。昼はサービスで、夜は100円。私は夜でも味噌汁を必ず頼みます。

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 もし、このハンバーグ屋さんが広告をつくってほしいと頼んで来たら、私はどうするかな、と考えてみました。価格は、ファーストフードには負けているし、正直言って味はよくはない。店の雰囲気は悪くはないけど、長居する感じでもない。でも、味噌汁は旨い。それは、きっとどこにも負けていないし、もしかすると100円近辺の戦いだと、圧倒するかもしれない。で、こういうメッセージを打ち出したらどうか。

 味噌汁のおいしいハンバーグ屋さんです。

 駄目ですね。一目瞭然ですよね。もしかすると、その裏のメッセージである「ハンバーグのまずいハンバーグ屋さん」というメッセージを面白がられてブレイクするかもしれない?でも、ここの店主、真面目でそういうのを楽しむ余裕がない感じ。それだけの度胸はなさそうです。要は、ケタグリメッセージで博打を打つことはできないという感じ。たぶんこのメッセージを打ち出したら、高い確率でこのお店は潰れてしまうと思うんですよね。

 これは分かりやすい例ですが、ハンバーグ屋さんにとっての本質価値は「ハンバーグが美味しいこと」です。「味噌汁が美味しいこと」は付加価値です。(この付加価値という言葉は、経済学上の付加価値でもなく、本質価値を圧倒することで形成される付加価値でもなく、広告屋がよく使う「オマケ的な価値」と考えていただければと思います。しかし、この付加価値は分野によって意味が違いすぎる言葉ですね。)もし、どうしても「味噌汁がおいしい」とこを伝えたいのなら、こんなコピーはどうでしょうか。

味噌汁もおいしいハンバーグ屋さんです。

 ちょっといけるかな、とは思うものの、でもやっぱり「味噌汁にそんなにがんばるんだったら、味噌汁屋になれよ。それより、ハンバーグの味をもっとがんばったらどうですか?」と言われてしまいそうですね。つまり、ハンバーグ屋さんにとっての広告の王道は、やっぱり「ハンバーグ」なんです。そこからのバリエーションは、単純に美味しさの訴求だったり、味の特徴の訴求だったり、価格に対する味とか量の訴求だったりいろいろありますが、どちらにしても「ハンバーグ」から始まります。

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 この本質価値と付加価値の錯誤、広告の現場には多いです。その錯誤がどうして起こるかと言えば、組織の問題や市場の問題など様々な要因がありますが、なんとなくその過程を振り返ると、みんなが催眠にかかったようになる、みたいなところがあります。それが商品開発からだと、もうお手上げです。マーケティングが強い会社ほど、この催眠にかかりやすい傾向があるように思います。

 付加価値でニッチ市場を狙い、そのニッチ市場を大きくして、本質価値にしてしまって、そのトップシェアになるという手もあるにはあります。でも、この方法は、投資がかなり大きくなります。その覚悟がないと失敗するやり方です。相当の自覚がないとできない方法です。多くは、付加価値を本質価値とみなして、成り行きのまま行ってしまうケースでしょう。

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Imac  また、この本質価値と付加価値の問題は、けっこう複雑で一筋縄ではいきません。初代iMacのケース(参照)。徹底的なデザイン、カラーバリエーションの訴求でした。これは、ハンバーグ屋さんで言うところの「味噌汁」訴求=付加価値訴求なのか。

 そうではありません。これは、本質価値訴求です。

 つまり、Appleは(というかジョブスは)、「これからのパーソナルコンピュータはもっと生活に入ってくるよ」と言いたくて「だからこそ、生活を豊かにするフォルムやカラーこそがこれからのパーソナルコンピュータの本質価値なんだよ」と言いたかったのだと思います。もちろん、MacOSの設計思想と技術的達成が担保になっているのは言うまでもありません。

Thnkdifferent_2  たとえそれが、当時の世の中が考える常識から見ると「Different thinking」であるとしても、「これからの世の中は絶対にそうなるよ」と言いたかったのだと思います。だから、このCM(あるいはキャンペーン)のエンドラインは「Think different.」なんですね。

 同じようなデザインで勝負した他社の製品はすべてiMacに負けていきました。もちろん、そのカタチと色はあまりにもパクリすぎじゃないですか、という製品もあったようですが、その会社にとって、そのカタチと色は、その場しのぎの単なる付加価値だったのだろうと思います。Appleというかジョブスは、こういう製品の本質価値のチェンジ(パーセプション・チェンジ)がうまいですよね。ほんと、コミュニケーションと経営が一体となった会社は強いです。

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Roomba  ちょっと世界的な事例すぎましたので、こういう話、そないにうまいこと行くかいなと思われてもなんですから、規模的にも身近な私の仕事の例で。

 ロボット掃除機の仕事(参照)。これまで、このロボット掃除機は、ロボット訴求でした。よく言われた愛称は「お掃除ロボット」です。でも、このロボット掃除機にとって本質価値は「ロボット」ではなく「掃除機」なんですね。「お掃除」の理想や利便を追求する手段としてのロボットテクノロジーであるはずで、逆ではないんです。メッセージを変えました。売れました。

 このロボット掃除機に関して言えば、グローバルでワークしたメッセージであっても、日本というローカル市場ではワークしないこともあることのいい例と言えるかもしれません。日本では掃除機ロボットの本質価値は、あくまでロボットではなく掃除機なんですね。一方、先行市場である欧米では家が広いこともあって、掃除を自動化してくれるロボットが本質価値になり得る土壌があったのです。

 この商品は、パブでは「お掃除ロボット」として大活躍していましたが、それはネタとして消費されるだけで、実際の商品の購買には結びつきませんでした。だから、コミュニケーション戦略として「お掃除ロボット」としてのメディアへのネタ提供を一切辞めたんですね。まあ、iMacと比べると、規模としてはごく小さな仕事ではありますし、私には「何を偉そうに」と言われてしまうような失敗もたくさんありますけどね。

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 最近、なんか気になるのは、この本質価値と付加価値の錯誤が、ブランディング話まわりでよく見かけるなあ、ということですね。私は、ブランドとは本質価値の積み重ねの総体だと思っていて、昨今の、まるで昨日までなかった理想の自分をブランディングという魔法で簡単につくれてしまうかのような言い方には、少し違和感があります。そないにうまい方法あるかいな、なんて。本質価値を磨いていくか、いままでの価値を捨てるリスクをとって、あえて本質価値を変えてみるか、方法は2つにひとつのような気がします。まあ、あまり言い過ぎるとおっさん臭くなるので、このへんで。
 

 追記:
 冒頭の広告依頼の答えですが、たぶん私は「目の前で焼いて、熱々をお出ししています。」というメッセージをこのハンバーグ屋さんにおすすめするでしょうね。価格をきちんと淡々と記載して。その前に、もう少しハンバーグ美味しくならないですかね、とか言うかもしれません。それと、もうひとつの考えとしては、広告とかコミュニケーションの話とは別に、飯屋の本質的価値として、何よりもまず「ごはん」と「味噌汁」が美味しいことというのもあって、だからこそ、長年このお店はそこそこの人気を保っているんだろうな、とも思います。

 追記2:
 まあ、トラバをもらうなりの強烈なご批判でもなく、私の書いているブランドの定義についての違和感を、つぶやきっぽくおっしゃっていただけだから(参照)、こちらも気にする必要はないんですけどね。参照のリンク先から来られた人のために、一応、元エントリにならってつぶやきっぽく反論。
 私は、『双方向に「利益」を生む状態になって初めて「ブランド」』という考え方は取りません。利益を生まなくても「ブランド」は「ブランド」。私は、「ブランド」という言葉の起源に忠実に、固有名を持つものすべてが「ブランド」だと考え、「ブランド」という言葉を使っています。固有名が、何かの閾値を超えると「ブランドになる」という考え方をしません。私の定義では負の「ブランド」も「ブランド」に含みます。だから「ブランド」は管理と軌道修正が必要なんです。
 これは言葉の定義や解釈の問題だから、「価値」とか「ブランド」という言葉を「価値あるもの」と「利益を生むブランド」と考えるのは自由だし、そこから理論を展開することも、個別のブランド論としての意味もあるとは思いますし(ブランドを標榜する企業や個人はそこの差で勝負するのだろうし)、そこから先は個別の論の説得性と魅力の問題だろうと思います。ですから、あんたの論はおもろないというのなら何もこちらから言うことはありません。
 関連:ブランドって何だろう(3回シリーズになっています)
 「名を名乗ってから」うんぬんについては、まあ考え方はいろいろあるでしょうから、そのへんについては読まれた方のそれぞれのご判断にまかせます。

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2008年12月13日 (土)

いろいろな思い

 とある広告企画が実質終わりました。4年ほど前に、自主提案で始まった企画でした。それほど大きな仕事ではないのですが、愛着のある仕事でもあったし、反響もそれなりにあって、愛していただいているなという実感の持てる仕事でもありました。楽しみにしてくれている人もそれなりにいたようで、やりがいもそれなりにありました。

 自主提案を行ったときの先方の担当者が、人事異動でひとりもいなくなり、新任者の方は、この企画の芯の部分を理解してくれなかったようです。私から見ると、彼は、この企画をどうしても変えたかったのでしょうし、そうでなければ自分にとってはメリットがないと考えているように思えました。そして、彼が自分で創作したいというように見えたし、何よりも目線が内向きでした。彼から見ると、私は古いことを守ろうとする頭の堅い兄ちゃんに見えたのだろうと思います。

 これだけは変えてはいけないという最低限のことを彼に伝え、それを明確に否定され、受け入れられなかった時点で、実質的に私の中でこの仕事は終わりました。世の中にはいろいろな考え方があるし、広告は最終的には、出稿する企業のものだから、仕方がないですね。責任を取るのはその企業自身だから。

 喧嘩をしようかとも思ったし、担当自体を降りてしまおうとも思ったけれど、きっと、それは会社員の落とし前の付け方としては違うのだろうな、と思いました。言うことは言って、それでも理解してくれないのだから仕方がないです。きっと、そこには違う動機があるのだろうし、その動機を見破ることは、その人自身を否定することになるかもしれないとも思い、いまできることは最低限のケアだろうと考えました。さすがにこれは世の中に出すものとしては、稚拙すぎるし恥をかきますよ、みたいな。

 まあよくあることではあるな、と思いますが。でもまあ、私がブログで読みたいものは、こういう忸怩たる状況で、人はどんなことを考えるのかな、みたいなことだったりしますし、ブログというメディアの制限の中で、書き記しておこうと思いました。

*    *    *    *

 一方で、いい仕事ができたと思える仕事の制作スタッフでの打ち上げがありました。このブログを私が書いていることを知っているみなさま、楽しかったです、お疲れさまでした。またよろしくお願いします。駆け出しの人、ベテランの人、テレビでおなじみな人、みんなが集まって鍋を囲みました。監督曰く「みんな個性が強くて、みんなバラバラ。だけど、なんかまとまっている。」いつのまにか、そんなチームが出来てしまいました。

 年末でそれぞれが忙しいときに、こんな会を開いてくれたみなさん、素敵なビデオをつくってくれた制作くん、ありがとうございました。紅白のリハの合間をぬって出席してくださった南さん、ありがとうございました。福岡のCG会社のみなさんやスタジオ作業が続いている人をはじめ、残念ながら出席できなかったたくさんの人、この場を借りてありがとうございました。いろいろ未熟な私ではありますが、来年もいい仕事をしていきましょう。

 今回は私にとっても学びが多かったです。子供が真似したくなる振り付けは、子供っぽいやさしい動きではないこととかいろいろ。要は、振り付けに限らず、見る人をなめちゃいけない、ということが今回のもっとも大きな学びだったと思います。それと、子役のたまちゃん、君にはすごく助けられました。ほんと、ありがとう。キャンペーンが立ち上がり、まだまだ先は長いですが、きめ細かく工夫を重ねて行って、なんとか結果を出して行きたいと思います。

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2008年12月11日 (木)

成果主義考

 成果主義という考え方は、「それ俺がやりました」ということを組織が報酬と賞賛で正当に評価していこうということだと理解しています。また、ここで言う成果主義は、正確に言えば、成果主義の一般従業員への適用のことです。

 よく言われることですが、日本の組織の場合、多くは「それ俺がやりました」は正当には理解されず、むしろ「でも、みんなでやったことでしょ」というふうに理解することが求められすぎて、そのために「それ、ほんとは俺がやったのに」というふうに、本当の貢献者の心の中に不満を蓄積させていき、その組織で自己の能力を発揮するモチベーションを削いできました。そのことが、多くの会社で成果主義が歓迎されてきた表向きの理由になっているのだと思います。

 そこには、優秀な人材の流出を防いでいくことや、低成長により原資そのものが、従業員に均等に配分しにくくなったことなど、様々な動機があるでしょう。どちらにしても、ここ数年、日本の多くの企業で成果主義が求められたのは、青天井の成長ではなく、本音としては、天井のある成長やマイナス成長、低成長が前提になっているのだろうと考えます。これまで日本で成果主義があまりうまく運用できなかったのは、その前提に理由があるように思います。

 アメリカで成果主義が導入されてきたその前提は、天井のない成長だったような気がしていて、それが幻想であろうと、そこには成長に対するおおらかなオプティミズムがあったのだと思います。そのオプティミズムを支える成長も実際あったし。成果主義は和を重んじる日本人には本質的になじまないという言い方がありますが、日本で成果主義がうまく運用できなかった大きな理由は、じつは民族的な違いではなく、その前提の違いなのだろうと私は見ています。つまり、単なる下部構造の違い。

 低成長という下部構造で成果主義を導入すると、どういう現象が起きるのか。たぶん、原資そのものが十分にない状態では、とりあえずみんなが「それ、俺がやりました。」と言っておこうということになるんだと思います。なぜなら、それは、基礎的な報酬の奪い合いになるから。みんな生活があるし、家族がいるし、背に腹は代えられないですものね。嘘でも何でも「俺がやりました。」と言いますって。それは、しょうがないことですよね。

 成果主義の一般従業員への適用がもたらした最大の罪は、評価をめぐる身も蓋もない立ち振る舞い、つまり嘘も含めて言ったもん勝ちという立ち振る舞いを一般従業員に強いてしまったことだと思います。それは、きっと、組織に所属して組織として成果を上げていくということで求められる従業員のモチベーションとは逆のモチベーションを各人が持たざるを得ないように作用すると思うし、少なくとも原理的には、結果として、組織として成果を上げていくことの効率を下げてしまうことにつながるのだろうな、と思います。

 でも、今の状況では、組織のスリム化という目的のために、人材をふるいにかける網目として成果主義が導入されていくのだろうし、これはもう後戻りはできないのかもしれません。今さら、今はみんなで耐えよう、みたいなことにはならないでしょうし(ま、そういうのも駄目な部分はありますし、結局は「行き過ぎた」というバランス論になるのでしょうけど)、その状況は人ごとではないな、とも思うし、当分は少し組織あるいはチームとして仕事がしにくくなる状況が続くのだろうし、そのやりにくさは、当然、お得意さんの組織にもあるだろうから、なんかぎくしゃくしてしまうんだろうな、と思います。

 純粋に仕事の目的を遂行しにくくなるというか、そこに仕事の目的ではない各人の思惑が見え隠れするというか。そういうのが苦手で気持ち悪いと思う私にとっては、憂鬱な時期が当分続くかもなあ、早くもとうんざり感が出てきました。まあ、今はひたすら耐えて辛抱していく、ということなんでしょうね。

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2008年12月 9日 (火)

はなまるうどんの鰹節がなくなっていた

 久しぶりにはなまるうどんで食事をしたら、おろししょうがと天かすはあったけど、鰹節がなくなっていた。少し残念。

 久しぶりにケンタッキーフライドチキンで食事をしたら、飲み物付きチキンのセットがなくなっていた。心なしかチキンが小さく思えたが、それは気のせいだと思う。

 久しぶりにマクドナルドでお持ち帰りしたら、紙袋がざら紙&二色印刷になっていた。ハンバーガーの紙袋と飲み物の紙袋をビニール袋に入れてくれなかった。そのまま2つ渡され持ち帰りにちょっと困った。うーん。

 あんた、どんだけファーストフードが好きやねん、という話は別にして、忍び寄る不況という感じがして気が滅入った。ちなみに、この話、一日の出来事ではないですからね。毎食ファーストフードは、いくらなんでもね。

 まだちょっと仕事が残っているけど、伊集院光さんの深夜ラジオをちょっとだけ聴いて、今日は寝ることにします。最後に、ちょっとだけいい話。おやつカンパニーの「フランスパン工房」って、おいしいですね。ではでは。

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2008年12月 7日 (日)

都道府県別シェアから見た広告メディアとしての新聞

 広告媒体として見たときの全国紙というのは、じつは首都圏および関西圏の広告メディアであって、案外、新聞というのは全国を包括するメディアではないということは言えるかもしれません。引用のデータ(参照)は昨年3月のデータらしいですが、このシェアに関しては大きな変動はないと思います。新聞名は、その都道府県のトップシェア紙、%はシェア(その新聞の世帯普及率)、続いて発行部数です。

北海道   北海道新聞   49.3% 123万部
青森県   東奥日報    47.8   26万
岩手県   岩手日報         47.6   23万
宮城県   河北新報         57.05   50万
秋田県   秋田魁新聞   64.68   26万
山形県   山形新聞    55.72   23万
福島県   福島民報    42.48   31万
茨城県   読売新聞    42.08   43万
栃木県   下野新聞    45.16   31万
群馬県   上毛新聞    42.75   30万
埼玉県   読売新聞    40.36     105万
千葉県   読売新聞    37.4       86万
東京都   読売新聞    26.16    149万
神奈川県  読売新聞    30.2      107万
新潟県     新潟日報    62.21      50万
富山県   北日本新聞   64.34      23万
石川県   北國富山新聞 70.89    29万
福井県   福井新聞    79.64      21万
山梨県   山梨日日新聞 66.33      21万
長野県   信濃毎日新聞 62.12      48万
岐阜県   中日新聞    59.84      42万
静岡県   静岡新聞    55.42      74万
愛知県   中日新聞    67.02     174万
三重県   中日新聞    51.0       34万
滋賀県   読売新聞    29.16      13万
京都府   京都新聞    41.23      43万
大阪府   読売新聞    25.72      93万
兵庫県   神戸新聞    25.86      56万
奈良県   朝日新聞    30.85      16万
和歌山県  読売新聞    30.49      12万
鳥取県   日本海新聞   76.43      16万
島根県   山陰中央新報 62.25      17万
岡山県   山陽新聞    61.73      45万
広島県   中国新聞    56.13      65万
山口県   読売新聞    30.00      18万
徳島県   徳島新聞    85.27      26万
香川県   四国新聞    53.00      20万
愛媛県   愛媛新聞    53.52      32万
高知県   高知新聞    68.6       23万
福岡県   西日本新聞   31.76      63万
佐賀県   佐賀新聞    46.94      14万
長崎県   長崎新聞    33.22      20万
熊本県   熊本日日新聞 55.63      38万
大分県   大分合同新聞 52.28      25万
宮崎県   宮崎日日新聞 49.38      25万
鹿児島県  南日本新聞   53.67      40万
沖縄県   琉球新報    41.03      20万

 以上のことから言えるのは、基本的には読売新聞朝日新聞毎日新聞産経新聞と言えども、全国カバー率は案外少ないということなんですね。また、首都圏や関西に住んでいると想像しがたいことですが、中堅都市だけでなく、代表的な例で言えば、大都市でも名古屋は中日新聞というふうに、いわゆる「全国紙」があまり読まれていない都市はいくらでもあります。いまの時代、地方と言えども複数紙を購読する人は少なくなってきて、しかも、現状では、それぞれの地方紙は、通信社および提携全国紙から記事の配信を受けているので、全国ニュースはカバーできていることを考えると、ますます地方において、全国紙は苦戦していくのかもしれません。

 finalventさんが、「新聞社が潰れてもそれほどどってことはないよ – finalventの日記」の中で、「新聞っていうのは元来そういうローカルな存在。」と書かれていました。これにピンと来ない人も多いかと思いますが、広告実務をやっていると、それは痛感します。テレビはそこそこ全国をカバーできてしまいますが、新聞では地方紙を組み合わせないと無理。新聞社のマーケットというのは、そういう感じなんですね。このあたりを押さえておかないと、朝日新聞の赤字転落のようなニュースは過剰に意味付けをしてしまうのかもしれません。ただ、広告媒体として見た場合、首都圏と関西圏の大型広告媒体の大苦戦という見方はできます。これはこれで、広告業界で飯を食う我々にとってはきつい話なんですが。

 唯一、全国をカバーできてしまうメジャー新聞は、日経新聞ですが、これはそれぞれの都道府県でもまんべんなくシェアは低く、ある意味で専門紙とも言えるので、唯一の全国紙と言い切ってしまうのは微妙です。しかしながら、この専門という切り口は、今の時代にはマッチしていて、テレ東を除く関連の出版・放送関係も含めて元気な印象を受けますね。

 なんとなく思うのは、このまま紙媒体の苦戦が続くと、ネットでのニュース配信はいつか有料に移行するかもな、ということですね。ネットの新聞サイトの広告は、他のポータルへの配信も含めて、PVでも広告媒体の量でも価格でも、わりと飽和点に来ているのではないかという印象を持っています。となると、今のようなネットの新聞サイトは今のままで持ちこたえられるのかな、と思ったりします。ブログを書く一個人としては、リンク切れをよく起こす新聞サイトは、もっともっとネットにパーマリンク付きのアーカイブとして保存する方向でがんばってほしいとは思いますが、企業としてはどこかに収益を求めないとやっていけないはずで、その意味合いで、私は朝日新聞の赤字転落というニュースを受け止めました。

 私は、仕事柄もあり、新聞を含めた広告メディアを観測していますが、新聞の崩壊がもしあるとすると、それがネットに入れ替わるという意味合いではなく、折り込み広告を含めた、現状においてもネットよりも広告効率のいい巨大メディアがパンクしてしまうという意味合いだと思います。カテゴリーにもよりますが、現状においてもなお、ある程度の広告プロモーションを実施するときに、新聞は、きめ細かくて格段に効率がいいんですよね。つまり、ネットは代替にならない、というか。今のところ、そんな印象です。

 それは同時に、本格的なマスの終焉を意味するのかもしれませんし、それともマスはダウンサイジングしていって、社会が要請するある適正値に落ち着くのかもしれませんが、どちらにしても、大きな社会の転換期に来ているのは、間違いはなさそうな気がします。これからどうなるかを予測するのは、思いのほか難問な気がしています。

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2008年12月 6日 (土)

口もとで来たか

 今年の3月に「世の中がギスギスしているのは、クルマのデザインのせいかもしれない。」というエントリを書きました。今のクルマって、みんな目がつり上がってるよなあ、というコネタなんですが、それなりに読まれて、書いた甲斐があるよなあ、なんて思っていたのですが、あれから半年ほどたって、こんなクルマが出ましたね。

Life

 HONDAのLIFE。フルモデルチェンジですね。スローガンは「SMILE! LIFE!」。CMでは上田樹里さんがこんなことを言ってます。

SMILE! LIFE!
ほんどの生き物は笑うことができない。
笑うってすごい才能なんだ。
もっと笑おう、人生。
新しいライフも笑ってるよ。
見晴らしのいい人生だ。

Civic City  ある意味、時代ですね。とりあえず、笑いましょ。笑っときましょ。そんな感じ。昔のHONDAらしいデザインですよね。シビックも、シティもかわいかったし。

 でも、やっぱり新型ライフの目もとはつり上がり気味。笑顔は口もとで表現したんですね。やっぱり目もとのつり上がりは、どうしても譲れない一線なんでしょうかね。

 で、気付いたこと。目じりは下がっているほうが笑顔だけど、口もとは上がるほうが笑顔に見えるんですね。でもまあ、口もとを無理矢理上げると、私の場合、どうも引きつっているような感じになるので、ほがらかさんに見せようと思うと、目じりというか、眼鏡ですね。

 そう言えば、1年前に眼鏡を、やわらかい印象の丸い黒ぶちに変えました。それまでは、いかにもイタリア製という感じのクールなおしゃれ眼鏡でした。時代ですかね。ま、年明けくらいからいろいろきつくなると思いますが、笑っていきましょ、てな気分です。では、みなさま、よい休日を。

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2008年12月 5日 (金)

考える人

 ロダンの彫刻に「考える人」というのがありますよね。あれを見るといつも思います。ああ、この人はこの先何千年も考えつづけるんだよなあ、と。何があっても、考えるのをやめないんだよなあ、と。まあ、こういう書き方をすると、なんか説教臭い展開になっていきそうですが、私が思うのは、このアイデアを考えたとき、ロダンは、やった、これはいける、なんて思ったんだろうな、ってこと。

 1)考えるという行為を
 2)彫刻で時間を止めて
 3)世界に永遠に定着させる

 この3要素を思いついただけで、きっと「このアイデアはいけるんじゃないかな。うん、いける。おもろい。勝てる。」なんて小躍りしたんじゃなかろうか、なんて思っていたのですが、どうやらこの「考える人」は、ダンテの「神曲」の地獄篇から着想を得た「地獄の門」という未完の大作の一部だそうで、そこから考えると、そんなちんけなことは考えていなかったんでしょうね。

 この考える人は、広告にもよく登場し、それがムービーの場合は、たいがいは何か思いつくというオチだったりしますが、この彫刻を見るといつも「いつまで考えるつもりやねん」とツッコミを入れたくなります。それにしても、たいしたもんですよね。

Photo_5


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2008年12月 4日 (木)

こういうのって、ある意味で広告の理想形だよなあ。

 テレビにしたって、新聞にしたって、ウェブにしたって、所詮広告はおじゃま虫。コンテンツを中心に考えれば、広告なんてなかったほうがいいに決まっています。まあ民放なんかは、広告収入で成り立っているから、その猥雑さが民間のたくましさだったりするところはあるけれど、例えば映画館で映画を見ているときに、物語の途中でCMが入ったりすると興ざめですよね。

 基本的には、私は広告をそんな「おじゃま虫」という立ち位置をベースに考えていて、だからこそ、せめて広告はおもしろくなくちゃいけないだとか、せめて何かの役に立つものでなければならないだとか思うわけで、広告というものがそれ自体で自立しているものであるとはあまり考えていません。私がお得意さんに対して、これじゃいくらなんでも悲しすぎます、と抵抗する論拠は、ここ。広告はおもしろくあらねばならない、ではなく、「おじゃま虫」たる広告はせめておもしろくないと失礼じゃないですか、という感じです。

 おもしろい広告なんかつくっても誰も見ていないし、売り上げに寄与はしない、みたいな広告否定論を見かけたりしますが、その論とは私の考えは微妙に違います。おもしろいを美しい、かっこいいと言い換えてもいいんですが、そういうのは、必要。なぜなら、広告は「おじゃま虫」だから、そのくらいしないと受け入れられないし、つまりは効果を生み出さない、という考え方をしています。

 ま、だから、なんとなく製品やブランドの素晴らしさをまっすぐに表現する広告は、ちょっと苦手ではあります。もちろん、自ら広告であることをカミングアウトしているような広告らしい広告や、その表現自体が見事な広告は、それ自体がおもしろを表現してしまっているので、いいちゃいいんですが、中途半端な広告は、ちょっと恥ずかしく思えるんですね。(ま、自分もそういうの作ってるかもですが。)

2008y12m03d_221326977  そんな中、これいいなあ、ある意味、広告の理想がたくさん入っているなあ、という広告が、これ。Perfumeの「Baby cruising Love/マカロニ」のテレビCMで、スペースシャワーTVで放映されたそうです。時報に合わせて、かしゆかさん、のっちさん、あ~ちゃんさんが一言添えて時間をお知らせするというもの。ダンスのタイミングにもあっていて、すごく気持いいですね。

「おなかがすいたら早弁。パフュームのあ~ちゃんが午前11時をお知らせします。」
「何が出るのかな?恋話(こいばな)!パフュームののっちが午後1時をお知らせします。」
「お昼寝の時間だけど、チャンネルはそのまま。パフュームのかしゆかが午後2時をお知らせします。」

 という感じです。ちょっとユニクロの「UNIQLOCK」に企画が似ているとか、パフュームかわゆすとかを差し引いても、いい広告ですよね。そもそも、新譜のCMにしたって、新譜のCMは当たり前じゃん、という常識を取っ払ってよくよく考えれば、そもそもそんなに薦めたかったら15秒じゃなくて、楽曲全部聴かせたたらんかいな、といいう話だし、それでも広告したいのなら、これくらいの気の利かせ方というか、楽しませ方しないと広告としては駄目じゃん、みたいな理想の姿があるなあ、と思いました。

 しかも、その楽しませ方が、パフュームの新譜の世界観とは違うところから来ているのがいいですよね。そのへんの楽しませ方の太っ腹加減がすごく好ましいです。余談ですが、この手の広告は、日本の外資系広告会社は苦手なんですよね。外資の場合は、アイデアは製品やブランドに強力に結び付けたがります。こういう楽しい企画は「おもしろいけどオフストラテジーだよねえ。」とか言われてしまいがち。でもまあ、そんな不粋な人は無視すればいいだけですけどね。

 で、こういう広告は効果的だとも思うんですよね。データで確かめたわけではないけれど、こうしてYouTubeにアップされるくらい注目されているわけだし。なんとなく最近思うのは、広告をつくる人は、世の中の人はみんな広告が大嫌いだ、という前提でつくったほうがいいんじゃないかな、なんてこと。その中で、いかにして、広告を見てもらうのかを、なんかスパム的なベクトルではないところで追究したいな、と思っています。

 それにしても、最近は広告のことばかり考えています、というか、今、余裕がないから広告のこと以外考えられないというか。ほんと師走とはよく言ったものです。てな感じで、本日はこんなところで。ではでは。

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2008年12月 3日 (水)

総合の意地

 総合広告代理店という言い方があって、一頃、この言い方がかっこわるい時期があった。クリエイティブエージェンシー、ブランドエージェンシー、様々な言い換えが生まれた。当の総合代理店では、総合を名乗るために、様々な専門職種に分化していって、職種のたこ壷化が起こった。で、そこに捻れが起きていてるのが今なんだろう。

 クリエイティブ、コミュニケーション、ブランドという名のもとに、たこ壷の組織化が急がれていて、でもそれは、総合が歩んで来た末路から来る断末魔みたいなもの。総合の中のたこ壷が、市場で戦っている専門と違いがあるとすると、その責任の負い方なんだと思う。

 専門で戦っている人は、もっともっと厳しい場所で戦っているはず。実力があっても世界が変わって価値が変われば、淘汰もされる。総合って何だ。それはきっと、専門の連携なんかではなく、総合という職種なんだろうと思う。総合は多機能ではなく、思考のあり方の問題。そこでは総合としてのスキルが問われる。

 結局は、ひとりの人間の頭の中の問題だと思う。総合として、責任を負う。専門で戦う人たちと、少なくとも質的には同じ、もしくはそれ以上の厳しい場所で戦っていたいと思う。それでしか総合は専門と対等にはなれないだろう。少なくとも個人としては。総合には総合の意地がある。

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2008年12月 1日 (月)

12月ですね。

 ブログをはじめてから2回目の12月。これまで日記をつける習慣がなかったので、昨年のいまごろ何してたかな、なんてことを振り返る習慣もなく、流されるままに過ごしていたのですが、いまは去年の今頃のエントリを読み直すことで、書いた本人にはわりとありありとそのときのことが思い起こされるわけで、これまで日記をつける意味がいまいちわからなかったんですが、そういう個人のログを残すというのも悪いもんじゃないなあ、なんて思う師走の第一日目です。

 ここ数年、12月はわりと忙しく過ごさせていただいています。年末年始にまたがるキャンペーンと年末広告企画があり、去年も同じようなことを考えているんだなあ、なんて自分の残した過去ログを読みながら思いました。ひとつは広告制作チームの運営のあり方について。もうひとつは、今年はどんな年だったかな、といったこと。

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 広告制作チームの運営論をこの時期になぜ考えるかと言えば、キャンペーンの仕事で、わりとなりふり構わず走って来て、テレビCMや新聞、ポスターの制作が終わり、すこしゆとりが出て、走って来たことによる、ちょっとしたひずみや反省点が、じわじわと出てくる頃だから。ああ、あのときこうしときゃよかったな、なんて思うわけです。

 去年も同じようなことを考えていましたが、去年と今年の違いは、迷いが少しだけなくなってきたな、ということでしょうか。そのぶん、結果というか成果を最大化するために、けっこう無理というか無茶もするようになって、要は面の皮が厚くなってきたということなんでしょうが、そのぶん、ひとりになったとき、ずーんと重く自分にのしかかってくることも多く、ああ、俺、ちょっと嫌われてるだろうな、でもしょうがねえよなあ、なんて思いながら、走っています。

 嫌われないようにやることは簡単なんですが、それをつづけていても前には進めないし、嫌われることを引き受けながらやろうと思ってやっているんですが、同じように、嫌われるようにやることは簡単だ、とも言えるし、そのへん、根本的に考えなくちゃいけないな、なんて思うのが今頃。でも、根本的に考えると、壊れてしまうこともあるし、これは難しいです。悩みながら、そのときそのときの決断を積み重ねていくしかないんでしょうね。

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 今年はどんな年だったのか、ということは、ある広告企画のコピーのために、仕事として考えます。そういう企画なんですね。今年で4回目になりました。けっこう長く続いてくれています。自主プレからはじまった企画なので、まあ、それはほんとによかったなあ、と。

 ここ数年はいつも、1年がぼんやりとしています。911やオウムの年みたいに、時代の変わり目がはっきりしている年に比べれば、それはいいことでもあるでしょうが、なんかぼんやりした不安につつまれた感じで、1行の広告コピーにするには、ちょっと難しい感じです。悩みます。

 なんとなく思うのは、変化をしなくちゃいけない、というような気持ちを持たされた年だったんじゃないか、と思います。みんなが、変わらなくちゃ、と考えているけど、どう変わればいいのか、いまいちわからない。そんな気分のような気が。ほんと、どう変わっていくんでしょうね。

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 ブログのよさは、どんどん日々のログを積み重ねていけるところですが、それがたまってくると、自分でもわけがわからなくなってしまうんですよね。タグとか、検索ワードで見つけることはできますが、それが目でわかるかたちで過去ログの集積を確認はできにくいんですよね。つまり、目次がない。はてダは時系列で目次が出ますが、ココログは出ない仕様ので、これは自分でつくるしかないな、と思っています。

 ブログの目次生成サービスというのがあって、登録してみたけれど、なぜか私のブログは2日たった今も「解析中」の表示が。トップの「ようこそ。何かの縁だし、ゆっくりしていってくださいな。ブログだからお茶は出せないけどね。」にhtmlタグを使っているからなんでしょうか。それとも、何か使っているうちに妙なことになっているのでしょうか。テクノラティでも、解析がへんな感じになっていることが多く、なんか問題があるのかもしれません。

 目次については、自分でつくるかな、なんて思っています。なんだかんだで456もエントリができてしまっているので、なんかうんざりするんですが、今のうちに手をつけないと、もっともっと邪魔くさくなりそうですし。ココログに関しては、いろいろと不細工なところもまだありますね。例えば、このブログのサイドバーにあるカテゴリーの「日記・コラム・つぶやき」をクリックしたら、そのエントリがだーっと表示されてしまうんですよね。その数、266エントリ。これは駄目でしょ。というかご迷惑かけています。すみません。

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 てなわけで、新しい年まであと1ヶ月。私事では、母がたぶん病院で年を越しそうな気配。これだけは私の力ではどうすることもできないので、時の流れの中で、やれることを精一杯やっていくしかないです。いま政治が不安定で、そのせいもあって、入院90日規定とか、もろもろが凍結になっていて、おかげでゆっくりじっくりいい医療が受けられています。それは、ほんと助かります。世の中、構造の問題が個人に与える影響は大きいですね。

 ま、今年のラストスパート、明るく元気にいきましょう。思わず、本年もありがとうございました、と書きそうになりましたが、それを言っちゃ、鬼が笑いますよね。まだまだ、31日も残っています。明日は、朝からちいさな撮影。晴れそうで、よかったです。ではでは。

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