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2008年12月11日 (木)

成果主義考

 成果主義という考え方は、「それ俺がやりました」ということを組織が報酬と賞賛で正当に評価していこうということだと理解しています。また、ここで言う成果主義は、正確に言えば、成果主義の一般従業員への適用のことです。

 よく言われることですが、日本の組織の場合、多くは「それ俺がやりました」は正当には理解されず、むしろ「でも、みんなでやったことでしょ」というふうに理解することが求められすぎて、そのために「それ、ほんとは俺がやったのに」というふうに、本当の貢献者の心の中に不満を蓄積させていき、その組織で自己の能力を発揮するモチベーションを削いできました。そのことが、多くの会社で成果主義が歓迎されてきた表向きの理由になっているのだと思います。

 そこには、優秀な人材の流出を防いでいくことや、低成長により原資そのものが、従業員に均等に配分しにくくなったことなど、様々な動機があるでしょう。どちらにしても、ここ数年、日本の多くの企業で成果主義が求められたのは、青天井の成長ではなく、本音としては、天井のある成長やマイナス成長、低成長が前提になっているのだろうと考えます。これまで日本で成果主義があまりうまく運用できなかったのは、その前提に理由があるように思います。

 アメリカで成果主義が導入されてきたその前提は、天井のない成長だったような気がしていて、それが幻想であろうと、そこには成長に対するおおらかなオプティミズムがあったのだと思います。そのオプティミズムを支える成長も実際あったし。成果主義は和を重んじる日本人には本質的になじまないという言い方がありますが、日本で成果主義がうまく運用できなかった大きな理由は、じつは民族的な違いではなく、その前提の違いなのだろうと私は見ています。つまり、単なる下部構造の違い。

 低成長という下部構造で成果主義を導入すると、どういう現象が起きるのか。たぶん、原資そのものが十分にない状態では、とりあえずみんなが「それ、俺がやりました。」と言っておこうということになるんだと思います。なぜなら、それは、基礎的な報酬の奪い合いになるから。みんな生活があるし、家族がいるし、背に腹は代えられないですものね。嘘でも何でも「俺がやりました。」と言いますって。それは、しょうがないことですよね。

 成果主義の一般従業員への適用がもたらした最大の罪は、評価をめぐる身も蓋もない立ち振る舞い、つまり嘘も含めて言ったもん勝ちという立ち振る舞いを一般従業員に強いてしまったことだと思います。それは、きっと、組織に所属して組織として成果を上げていくということで求められる従業員のモチベーションとは逆のモチベーションを各人が持たざるを得ないように作用すると思うし、少なくとも原理的には、結果として、組織として成果を上げていくことの効率を下げてしまうことにつながるのだろうな、と思います。

 でも、今の状況では、組織のスリム化という目的のために、人材をふるいにかける網目として成果主義が導入されていくのだろうし、これはもう後戻りはできないのかもしれません。今さら、今はみんなで耐えよう、みたいなことにはならないでしょうし(ま、そういうのも駄目な部分はありますし、結局は「行き過ぎた」というバランス論になるのでしょうけど)、その状況は人ごとではないな、とも思うし、当分は少し組織あるいはチームとして仕事がしにくくなる状況が続くのだろうし、そのやりにくさは、当然、お得意さんの組織にもあるだろうから、なんかぎくしゃくしてしまうんだろうな、と思います。

 純粋に仕事の目的を遂行しにくくなるというか、そこに仕事の目的ではない各人の思惑が見え隠れするというか。そういうのが苦手で気持ち悪いと思う私にとっては、憂鬱な時期が当分続くかもなあ、早くもとうんざり感が出てきました。まあ、今はひたすら耐えて辛抱していく、ということなんでしょうね。

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コメント

どうもです。

憂鬱な問題ですね。
産業能率大学に依頼して1990年代のロボットベンチャー時代に成果主義を取り入れ地方企業では先進的な年俸制に変えました。
開発部隊は出来たの、出来ないの、で答えが比較的出易かったが、管理部門は難しい側面が多かった。
結局の所”査定”とゆう旧態依然とした評価から抜け出せず、完全なる機能は実現しませんでした。
アメリカに事務所を持ち、成果主義の典型みたいな所で仕事をして気が付いた事は、厚化粧の履歴書を片手にした企業ジプシー化だった。
日本人には”らっきょうの皮むきみたいな成果主義”は馴染まないような気がします。
現在はロボット個人企業で有無を言わさない”超成果主義”にドップリ浸かっています。

投稿: あんぷおやじ | 2008年12月13日 (土) 08:10

ほんと憂鬱な問題です。富士通の例を見ても、うまく行かないのは今や見えているのですが、それがスリム化とかの後ろ向きの動機と結びつくと、安易に採用されてしまう傾向があって、それとあんぷおやじさんのコメントで気付いたのですが、システムとしては「査定」で、マインドは「成果主義」という、どうしようもなく日本人的なあいまいな運用がされてしまうんですよね。
企業ジプシーは、私の業界では転職ゴロと言い方もします。また、大企業では社内昇進ゴロもいますね。そういう担当に当たったり、それがスタッフだったりすると大変で、ひたすら前任者否定。もう、理屈もへったくれもあったもんじゃありません。このあいだも、自主プレからはじまって4年間続いて、わりあい見る人に愛されて来た広告企画が、実質破壊されてしまいました。ちょっと残念ですが、これはもうしかたがないですね。でも、まあ私の短い経験でも、長い目で見ると、そういうゴロツキタイプは成功しないんですけど、短期で見ると迷惑きわまりないんですよね。

投稿: mb101bold | 2008年12月13日 (土) 15:37

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