アンダーグラウンド
村上春樹さんが「エルサレム賞」という文学賞を受賞する(参照)とのことで、よく読んでいるブログなんかにも村上さんについての言及が多く、ちょっとした村上春樹論ブームみたいな感じになっています。私は、まあ普通に読んでいるという程度なので、村上春樹論など書けるはずもなく、あまりその中には入れないなあという感じなんですが、ちょっと気になることもあるので、メモ程度に書いておこうと思います。
ざっくりとした言い方をお許しいただければ、村上春樹という人は、日本を代表する世界的作家であり、世界に多くのファンを持っていて、次回作を世界が待っているという作家。たぶん、そういう世界的作家というのは日本では唯一の存在なのではないでしょうか。大江さんもそうかもしれませんが、若者にも読まれるという同時代性みたいな基軸では、たぶん唯一。
過去にたくさんエッセイも書いておられるけれど、エッセイではなく小説を期待される作家だと思うし、小説という形式に対してのこだわりは、最近見たテレビでのインタビューでも熱く語っておられたし、海外文学の翻訳でも、そのこだわりは発揮されているように感じます。
そんな文学者が、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた「アンダーグラウンド」という重厚なノンフィクションを書き下ろしているというのが、私の中の村上春樹さんについての最も大きな興味のコアになっています。
この本は、地下鉄サリン事件で被害に遭われた62人の方への1996年1月から12月までの1年にわたってのインタビューを中心に収録し、筆者である村上さんの考察、論考が加えられたもの。完全なノンフィクション手法。この本が出た当時、「なぜ村上春樹が?」というふうに思いました。正直、それは今もあります。
でも、それが村上春樹さんによって書かれなければならなかったのでしょう。しかも、小説と言う形式ではなく、ノンフィクションという形式で。
これはかなり大きな命題(オウム真理教という「あちら側」の提示する物語に対して、「こちら側」の私たちが有効な物語を提示できるかという命題=mb101bold注)だ。私は小説家であり、ご存じのように小説家とは「物語」を職業的に語る人種である。だからその命題は、私にとって大きいという以上のものである。まさに頭の上にぶら下げられた鋭利な剣みたいなものだ。そのことについて私はこれからもずっと、真剣に切実に考え続けていかなくてはならないだろう。そして私自身の「宇宙との交信装置」を作っていかなくてはならないだろうと思っている。私自身の内なるジャンクと欠損性を、ひとつひとつ切々と突き詰めていかなくてはならないだろうと思っている(こう書いてみてあらためて驚いているのだが、実のところそれこそが、小説家として、長いあいだ私のやろうとしてきたことなのだ!)
「アンダーグラウンド」村上春樹(講談社文庫版753Pから引用)
地下鉄サリン事件の当日の朝、私は六本木にあるデザイン事務所に通勤途中でした。山手線の恵比寿で降りて、地下鉄日比谷線の恵比寿駅に向かおうとすると、改札に通じる階段入り口の前には人だかりができていました。近くにいる背広を着た会社員風の男性に「何かあったんですかね。」と聞くと、男性は「なんか地下鉄が止まっているらしいですよ。車内で食中毒があったみたいで。」と答えました。「へえ、そうなんですか。」などと応答して、ああタクシーで行くか、などと歩き始めながら「食中毒で地下鉄が止まるかな?」と思ったのを覚えています。
で、かなり遅刻してデザイン事務所に着き、仕事を始めて2時間くらいしてから、会社に大阪にいる私の母から電話がありました。
「大丈夫やったか。」
「何が?」
「えっ、テレビ付けてみ。」
結局、東京のデザイン事務所で働く私たちが、地下鉄サリン事件が起こったことを知るのは、その母の電話でした。私は、なんとなくこの凄惨な事件が、この滑稽なやりとりの記憶と結びついています。阪神大震災では、私は大阪にいて、タンスが倒れた以外は直接の大きな被害はありませんでした。直後、街から自動車が消え、ヘリコプターの音と「救援物資輸送中」と書かれた幕をつけた巨大な輸送車、阪神高速の入り口の電光掲示板に表示された「震災発生通行止」のオレンジの文字の記憶が、私の直接の記憶です。
その、すぐ近くで起きた出来事にもかかわらず、身に迫った出来事ではなかったという、決定的な「直接性の欠如」が、この2つの出来事への想像力に何かしらの影響を与えているはずで、そうした個人的な背景からも、「アンダーグラウンド」という本が村上春樹という小説家によって書かれたことに、不思議な感覚を持ちました。
あなたは誰か(何か)に対して自我の一定の部分を差し出し、その代価としての「物語」を受け取ってはいないだろうか?私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか?もしそうだとしたら、その制度はいつかあなたに向かって何らかの「狂気」を要求しないだろうか?あなたの「自律的パワープロセス」は正しい内的合意点に達しているだろうか?あなたが今持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか?あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか?それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間の夢ではないのか?
私たちがオウム真理教と地下鉄サリン事件に対して不思議な「後味の悪さ」を捨てきれないでいるのは、実はそのような無意識の疑問が、本当には解消されてからでないのだろうか?私にはそう思えてならないのだ。「アンダーグラウンド」村上春樹(講談社文庫版754Pから引用)
自律的パワープロセスという言葉は、アメリカの連続小包爆弾犯人、ユナボナーが「ニューヨークタイムス」に掲載させた論文の中の言葉で、社会に適応しない人間が自分の目標を達成しようとするときに、その人間は「病気」とみなされ、社会システムというものは、そうした人間の「自律的パワープロセス」を破壊するという使われ方をしています。
「アンダーグラウンド」以降、村上春樹さんのつくる「物語」の主題が変わったと言われています。私は、それほど読み込んでいるわけではないから、そのことを語る資格はありませんが、なんとなくそのような感じはします。そして、私はどうなんだろう、とそんなことをぼんやり考えました。時代が変わって、あの出来事が記憶から消えそうになっていたときに、多くの人たちが村上春樹さんに言及する多くの言葉を目にしながら、なんとなくこの異質の著作について書きたくなりました。
村上春樹さんのエルサレム賞受賞についての言及や、主要小説についての論考を期待してここに来られた方、すみません。読んだ中では、「村上春樹なる存在 - moonshine---the other side」が最も中立的で私にはおもしろく読めました。主要エントリのリンクも列記されていますので、このエントリを起点にしたり、はてなブックマークなどで辿ると、村上春樹さんについての深い言及をたくさん読むことができると思います。
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コメント
それぞれに一理ある考え方だと思います。
如何せん、日本人がアメリカの
「グラミー賞」や「アカデミー賞」の
ノミネートを受けたり受賞した時には、
ほとんど同様の議論にならないことが、
極めて「日本的」な問題なのかなぁ。
と考えてしまいました。
投稿: オスギ | 2009年2月 1日 (日) 09:53
大江さんのノーベル賞のときも同様の論議がありましたが、エルサレム賞の場合は賞の趣旨がちょっと政治的だったりするのと、スーザン・ソンダクさんの授賞式での批判演説とか、やっぱり村上春樹さんっていうところもあるのでしょうね。
投稿: mb101bold | 2009年2月 1日 (日) 13:17
エルサレム賞のことを知っていましたが村上春樹氏ファンとの一人として、ああ賞がもらえるんだと素直に喜んだだけの私でした。皆さん、このことでいろいろなディスカッションされているのですね。びっくりしました。
アンダーグラウンドは今でも時々読み返します。一つの事件によって、多くの人生の物語が余儀なく変更されていくことを村上氏独自の視点で書かれているので、自分の生きる方向性とか、価値観を自問自答するようなときによく手に取るような気がします。
投稿: しばはな | 2009年2月 1日 (日) 23:21
私もなぜかアンダーグラウンドは何度も読み返す作品です。私もある意味、紙一重でしたし、アンダーグラウンドが投げかけた主題は、今も続いている気がします。
投稿: mb101bold | 2009年2月 2日 (月) 09:21
どうも。いつも楽しく拝見してます。
僕は実はそれなりな村上ファンだとおもっていますが、なぜかこのアンダーグラウンドだけ読んでいません。
なんでだろうな、なんてちょっと自問してみましたが、作家が書くドキュメンタリーと言うのがちょっと解らないのかもしれません。もちろん「作家が書くドキュメンタリー」ということ自体が間違った認識なのでしょうけれども、なんかそういうフレーミングをしてしまってます。
事の重大さというのは、きっと後になってからしか評価できないのだと思っています。なのであれば、今がどうであれ、やれることはやっておいたほうがいいとも思っています。
投稿: ICE9 | 2009年2月 3日 (火) 10:09
>作家が書くドキュメンタリー
という違和感は村上春樹さんの場合、より際立ちますね。でも、読んでみると、わりと合点がいくんです。ああ、そういうことか、というかかなり動機としては強いものが感じられます。
投稿: mb101bold | 2009年2月 3日 (火) 12:12