広告は作品か
面白い論議には乗っておくが吉なので、私も考えてみます。というか、このテーマ、このブログでも何度も何度も書いてきているので、あらためて考える、かな。(興味のある方は、下ほうにある@niftyブログ内検索で「広告 作品」で検索するとある程度追えるかもです。)
まず、ブログ「analog」のhidetoxさんの論点。これに尽きるでしょうね。
広告評論の欺瞞、それを私は次のように告発する:おまえはその広告を褒めているが、その広告を見て商品を自腹で買ったのか?
まあ、確かにね。「買わないし、買いたくないけど、評価する」とかね、そういうのは多いですよ、実際。なぜそうなるか、というと、まあ、あれです。身も蓋もない話をすると、広告制作者って多い訳ですよ。作家になりたかった、とか、画家になりたかったとか。だから、その表現が広告という枠組みを離れれば離れるほど評価したがる。新しい広告の可能性とか言って。(私は、とある高級外車の広告を担当していたことがあって、それは自分では買ったことがないです。自分がターゲットじゃないし、そんな余裕もなかったから。でも、こういう話ではないですよね。すみません。余談でした。)
崩れ系が多い広告制作者。
これが駄目と言いたいわけではなくて、むしろ、私は若いときそういうことを一度も思ったことがない人は、すごく高い確率で広告制作者には向いてない、とも思っていて(たまにものすごい例外はあるけど)、どこまで言っても、広告表現っていうのは、そういう言葉やビジュアルが持つアート性みたいなものを利用してつくるわけです。それは、ロートレックの時代からそう。元電通関西の堀井さんの言葉ですが、ご紹介します。
広告を芸術に利用するんやない。芸術を広告に利用するんや。
私は、この言葉は至言だと思っていて、自分が仕事をするときは、出来る限りこの言葉に忠実であろうと思っています。世の中の「これは商品が売れるだろうな」とか「実際に広告で商品が売れたよな」という広告を批評的に見てみてください。涙ぐましい「芸術の利用」がそこにあるから。写真、イラスト、音楽、その他もろもろ。
もちろん、その広告の戦略みたいなものが間違っているとものは売れない(売りが目的でなければ効果は生まない)し、そこも含めて広告の設計だとは思いますが、その設計だけではやっぱり広告はつくれないです。例えそれが芸術性がゼロに見えようとも、その素人くささはやっぱり芸術が寄与しているわけです。それは、お笑いの世界でいうと「天然」を評価する、ということに近いですね。で、この「天然」の領域。真似してもできるものではないので、私はその領域は敬して遠ざかろうと思っています。
それと、広告の役割は、長期的に見ると、すべてが「売り」なんだけど、短期的に見ると「売り」だけじゃなく、最終的に安定して「売れ続ける」ための投資ということもあります。それを「ブランド」とか言ったりするけれど、この「ブランド」という言葉がくせ者で、当人の好きなように定義できます。なので、私はなるだけ使わないです。その場合は「知名度を上げる」とか「マインドシェアを高める」とか「ポジショニングを変える」とか具体的な目標設定をします。
でも、hidetoxさんの苛立も分かります。多くの広告制作者と広告作品を批評する人たちって、ビジネスについて「甘ちゃん」だからね。それと、私は広告制作者だから分かりますが、芸術性が高いけど広告になっていない広告作品を、ありゃ駄目だね、って言うのは勇気がいるんです。ルサンチマン風味が加わるから。制作者以外の人は、わりと素直にそれが言えるのでしょうが、制作者はなかなかそれが言えないんです。で、黙っちゃう。そういう感じかな。
続いて、ブログ「smashmedia」の河野さん。私もほぼ同意です。
広告=作品論と、その否定論は極右と極左な感じがしていて、大事なのはきっとその間にある。今はまだ広告を絶賛する人の声が大きすぎるので、反対派がもっと増えたほうがいいんだろうな。
そうですよね。大事なのはその中間。ただ、これはバランス論というのではなくて、私なんかは、広告をやるときは、徹底的に「芸術」を利用しつくしたいと思っているので、そういう意味では、私は、自分の広告をある種の「広告作品」でもあると思いながら広告をつくっています。でも、それは広告「作品」ではないですね。まあ、他人が評価して、それを「作品」と呼ぶぶんには何の問題もありませんが。広告活動も広く言えば「文化」だし、商いを含めてそこに「文化」を担う気概がなくなったら、それこそ世の中終わりだし。
若い頃は、そのへんの整理があまりついていなかったけれど、今は完全に広告原理主義でやっています。まあ、若い時はしょうがないんですよね。自分のキャリアを高めたいという、広告にはまったく関係ない動機が働くから。で、それをコントロールするのは、上司の仕事なんだろうな。
あと、補足的に言えば、今の時代、かつて効いた広告表現手法が徹底的に効かなくなってきているのはあると思います。かつて輝いていた広告表現手法は、今出すと「ああ、広告だよねえ。ご苦労さん。」となってしまうような気がします。広告制作者界隈では、けっこうこの社会の変化は残酷。今まで自分が積み上げてきたスキルが無意味になってしまうんだもの。
そんな時代のリアルな表現って何だろう、というのが私の今のテーマであって、手応えがあるかと思えば、するりとこぼれる毎日ですが、なんかあるとは思っています。たぶん、それでも旧来の表現手法は生き続けていくとは思うんです。でも、私は、旧来の表現手法を守っても、私にとっていいことがある場所には今いないし、ちょうどそれを考えるいいポジションにいるかもな、と思って模索しています。なんか広告が、その行為を含めてリアルに思える企て。それを見つけたいなあ。そんな感じで、中途半端な規模の広告代理店にて仕事をしている次第です。ではでは。
なぜ広告を作品だと思ってはいけないのか。(広告のing感の話。少し論点は違うけど。)
広告を芸術に利用するんやない。芸術を広告に利用するんや。(堀井さんの言葉についてのエントリです。)
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コメント
mb101boldさん、こんにちわ(^^)
このお話、おっしゃるように何度か読ませていただいてますけど、いつも思うのは、広告ってアトラクティヴというか、魅力がなくちゃならないので、そこに芸術的要素が含まれるのは当然なのではないかと思います。(芸術だけじゃないだろうけど)で、それを評価するのも自然の流れというか。広告にとってのものさしは売れたか売れないかでよいのだろうと思うし、そういうこととは別のものってことですよね。
で、リアルなんですけど、私は(広い意味で)自分も参加できるかもしれないという感じがするのがリアルと言う考えに従って、たとえばこの間のぶたさんたちでいえば、孫のためにこつこつしようかなと思うおじいちゃんみたいな感じかな。と思いました。
投稿: ggg123 | 2009年1月20日 (火) 10:54
ggg123さん、こんにちは。
>そこに芸術的要素が含まれるのは当然なのではないかと思います。(芸術だけじゃないだろうけど)で、それを評価するのも自然の流れというか。
自然の流れとしてありますよね。広告もひとつのコンテンツではありますから。目的を離れて評価されたり消費されたり。ある意味では広告は他にはないコンテンツの独自性が発揮されることもあるし。
という意味で言えば、コンテンツとしての広告は、他のコンテンツともフラットに並んだ状態で比較されている状態で、広告である限り、その埋没は無いに等しいことになるので、コンテンツ力を取り戻さなくちゃいけないんだけれど、私は、そのコンテンツ力って、やっぱり広告力というか、その広告そのものの独自性から導き出される力なんだろうなと思います。
>私は(広い意味で)自分も参加できるかもしれないという感じがするのがリアルと言う考え
このへんにリアルのヒントがあるような気が。近々、その具体的な企てをしようかなと思っています。今はまだ何もいえないんですが。
投稿: mb101bold | 2009年1月20日 (火) 13:36
>今はまだ何もいえないんですが
うわっつ(^0^)たのしみ。
実は、あのぶたさんたちを見ていて、まだ小さい孫のいるおじいちゃんが、孫の将来(学費とか)のためにこつこつしようとか思いつく。という連想がうかんだので、そう書いてみました。
というわけで楽しみに待ってます。
ではでは~
投稿: ggg123 | 2009年1月20日 (火) 20:59