この人にはぜったい勝たれへん
そんなふうに思ったことが何度かあります。そんなに多くないけど。大学時代はジャズをやっていて、やっていくうちに、ああ、この分野、自分にはまったく才能がないな、と気づきました。そういうことに気づくには、けっこう練習を重ねて、それなりに個性的なバンドサウンドができてきて、聴く人が「君らのバンドは独特の音だね。いいよね。」なんてほめてくれるまでかかりましたけど。下手っぴのままでは、才能がないことさえわからないものです。不思議なもので。
でも、それは、この人にはぜったい勝たれへん、みたいなことではありませんでした。そんな気持ちにさせられたのは、仕事として広告の制作をしはじめてから。いちおう、これでもお金をもらって広告をつくらせてもらっていて、それなりの自信も自負もある、そんな感じの自分の中に、「ああ、この人にはぜったいに勝たれへんな」という気づきは、猛烈な痛みとなって入ってきます。
まあ、私なんかは、誰もがその名を知るような、いわゆるスター制作者でもないし、そういう意味では、私のまわりはすごい人ばかりではありますが、それでも、その人たちに対しては、ああ、勝てないな、とは思わないんですよね。負け惜しみとかじゃなくて。負ける、みたいな意識で仕事なんかできませんし、やるときは、いつでも「俺がいちばん」な気分でやってます。プロレスなら負けるけど、セメントなら負けねえぜ、とか言ってね。
でも、そんな自尊心を木っ端みじんにしてくれるような人っていうのは、多くはないけどときどきいて、そんなとき、この人と同じようなことをやっていたら、どれだけ努力を重ねてもぜったい負け続けると思うんです。絶望的に。どうしよう、と思います。たったそれだけで、もうやめようとか思います。
で、考えるんですよね。あの人とは違う方法を。このやり方で、この感じは、あの人にはできないはずだ、と。考えてみると、いまの自分というのは、そんな、ぜったい勝たれへん、といういくつかの体験による決断みたいなものがつくってきたような気がします。
そんな痛みをともなう体験は、考えようによっては幸福な体験だったのかもしれません。でなければ、あの人とは違うやり方でやってみようなんてこと思わなかったのかもしれないから。私は、感性とか、センスとかいう言葉が好きではありません。はっきり言えば、けっ、と思うほど嫌いです。感性とか、センスとか、そんな、本来、他人だけが口にすることができる言葉を自身が使い、自身の凡庸な制作物を自身が擁護する、下品な姿を多く見てきたから。
個性なんてものは、きっと、あいつには負ける、みたいな、いくつかの痛みの総体なのだろうな、と思うんですね。そんでもって、あいつには負ける、みたいな感情は、じつは敬意というものの中身だったりするんじゃないかという気もして、そうだとすると、人間というのは、なんと複雑なものだのだろうと思うんですね。
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コメント
こんばんは。
そうですね、今では分かる「絶対勝てない」という感覚は、実は子供の頃からなぜか感じてきていて、その総体としての今の自分だと本当に思い当たります。
子供の頃はそれなりに、正体は分からないけれど痛かったのでしょう。
そして、植物の根が伸びるように、歩いている世界での隙間を這い伸びて、確かに隙間を埋める存在になっている。
痛みを感じるか、そしてそこでどう反応するか、そして下品さに対する感覚を持っているかが分かれ目のような気がしています。
こういう感覚って、子供を含め、他人に教えることのできるものなんでしょうかね?
投稿: takupe | 2009年1月24日 (土) 21:32
takupeさん、こんばんは。
確かに子供の頃からその痛みはあるような気がしますね。ほんの瑣細な事柄だったりもするけれど。例えば、逆上がりができない屈辱みたいな。
>こういう感覚って、子供を含め、他人に教えることのできるものなんでしょうかね?
どうでしょうね。共有することはできる気がしますが、教えることは難しいかもです。
若手のメンターみたいなことをしていても、それは思います。分かるヤツにはわかるけど、分からないヤツにはわからないというか。
まあ、本人がそういう個性で伸びていければ、それでもいいとは思う部分もあるんですが。
投稿: mb101bold | 2009年1月25日 (日) 00:23