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2009年2月の22件の記事

2009年2月28日 (土)

「制作のやつは馬鹿だから」みたいなことがあるのかもね。

 そういう自称コミュニケーション・デザイナーさんたちのインサイトは、統計学的には誤解じゃないかもしれないし、制作にもいろいろいるだろうと思うんですけどね。でもまあ、こういう、制作は表現の専門家ではあるけれど、基本的には「馬鹿」だから、俺たちが導かないといけない、みたいなムーブメントが定期的に出て来て、はっきり言えばちょっとうんざりです。そういうムーブメントを起こす人は、たいがい見たところでは、その心の奥で表現に対してルサンチマンを抱えていたりはするんですが、建前で言えば、正義というか使命みたいな前向きな気持ちに裏付けられていて、それがじゃまくさいといえばじゃまくさい。

 その人曰く、制作っていうのは表現の専門家でしょ、その表現に専念するためにも俺たちがフレームをつくらなきゃいけなくて、今までそれがなかったからうちの会社はいい広告が出せなかったわけでさ、みたいなの。で、その時点で、それを言っている本人の「いい広告」の観測範囲は恐ろしく狭くて、制作という職種の専門性というものに対する洞察も浅くて、その思考の浅さや視野の狭さゆえに自我は肥大化していて、これからはさあ、俺たちがいいと思う表現以外は、クライアントがほしいと言っても世の中に出さない、というシステムをつくろうと思うんだよね、やっぱうちの売りはクリエイティブだしさ、みたいな。

 よくその話を聞くと、そこにはまったく今までの自分の実績が担保されていなかったり、あえて言うと、その担保は本屋で売っている本を読んだことだったり(で、本人はこっちがその手の本を読んでいないと無邪気に信じてたり)、そのいい広告のジャッチに制作が含まれていない、みたいな感じで、限りなく軽薄だったりします。

 ほんと、どこまで人は傲慢になれるんでしょうね。ほんとはこういうの、馬鹿っていうんじゃないかな。でも、こういうムーブメントは、ほんと定期的にわいて出てくるみたいで、困ったもんです。

 一頃、アカウントプランナーという概念が流行りましたよね。外資系なんかで。「クリエイティブ=砂場で遊ぶ子供」論というのがあって、クリエイティブが砂場でクリエイティブに遊んでもらうためには、俺たちアカウントプランナーがいい砂場をつくってあげなくちゃいけない、みたいな考え方。結果、どうなったか。定着まで想像力が行き届かないガチガチのブリーフ(広告の設計書みたいなもの)をつくって、効かない広告がどんどん世の中に出て行った。で、そのアカウントプランナーは何を言ったか、というと、うちはクリエイティブが弱いんだよね、と。

 小さな外資系広告会社の場合、そのうち会社が傾いて、当のアカウントプランナーは、先進的な肩書きを履歴書に書いて、さっさと転職。こういう気分の悪い状況が、コミュニケーション・デザイナーという新しい職種とともに、このところまた盛り上がっていて、それはコミュニケーション・デザインというコミュニケーションの方法論とはまったく関係がないし、内心は馬鹿だと思っているクリエイティブを手足のように使おうという、甘い方法論を思いつく時点で、それは違うだろう、と。

 私がもし制作ではなくてそのようなことを思っていたら、今までの経験で自分が駄目だったと認定した制作は絶対に使わない。他をさがすか、やったことがなくても勉強して自分でやります。逆説的ですが、その覚悟さえあれば、広告表現は誰でもできます。制作でなくても。表現について責任をとる人を制作と呼ぶのだし、その覚悟が見える人なら、どんな職種であっても、優秀な制作を惹き付けていくはず。

 こういう責任の所在を自分に置かない方法論っていうのは、短いスパンでほっておいても挫折するだろうし、そんな妙なムーブメントはどこ吹く風で、優秀なマーケティング・プランナーやアカウントとの連携で、我々クリエイティブは淡々と仕事をして、淡々と結果を出していくわけなんですが、そういう自分の責任の所在が明快、かつ、横繫がり思考の優秀な他の分野の人たちにさえ影響が及ぶ、いまの自称コミュニケーション・プランナーっていうのは、ちょっと見過ごせないかもな、と思い出しています。

 というか、それを信じるのも、肥大化した自我で自分が万能になったような気分で毎日を過ごすのも、一向にかまわないから、早く結果出してください。但し、責任の所在がわからなくなるから、ごかましなしで、自分たちだけの力だけでね。結果が出せなければ、そのときは潔く立ち去ってください。見苦しいことはやらないほしいものです。

 結局、政治なんでしょうけどね、本人は目が澄んでいるんですよね。正義や使命感で。定期的にわいてくるムーブメントではあるけれど、それでも、やっぱり、冗談じゃねえ、と思います。それが善意だろうとなんだろうと、どう考えても道理があわないもの。よかれと思ったんだからで済むのは子供の時だけ。この不況の時期、もうそんな停滞は許されないから。みんなが不幸になるから。プロレス的につきあってばかりもいられないかな、そろそろセメントしかけるかな。そんな2009年2月末日の気分。

関連1:定着のイメージを持たないコミュニケーション・デザインの気持ち悪さ
関連2:制作側で「コミュニケーションデザイン」を設計する一人として(このエントリの続編です)

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2009年2月25日 (水)

サイキックが終わる

 大阪朝日放送ラジオの日曜深夜「誠のサイキック青年団」が3月29日の放送を持って終了するとのこと。放送開始から20年とのこと。(ナニワの“長寿ラジオ番組”『誠のサイキック青年団』20年の歴史に幕をおろす – ORICON STYLE

 先日のエントリにも書きましたが、あらためて数字で見ると、主要な広告手段の中では、ラジオはネットの半分以下、テレビの10分の1以下で、ラジオにお金がまわっていないのがよくわかります。マス4媒体と言われますが、今だにプロモーションとしてカテゴライズされる交通広告にさえ及びません。

 そういう意味では、今まで持ちこたえられたのが不思議なくらいで、大阪の朝日放送や毎日放送、東京のTBSなどのテレビ・ラジオの両方を運営している局はまだしも、ラジオ単体局はますます厳しいのではないでしょうか。存立自体が危うくなってくるような気がします。

 このサイキックが終わるというニュースには、2つのことを象徴しているような気がします。ひとつは、深夜ラジオらしいラジオ番組がまたひとつ消えるということ。私の個人的な意見になるけれど、今、深夜ラジオらしいラジオ番組は、東京の「伊集院光 深夜の馬鹿力」と大阪の「誠のサイキック青年団」だけで(最も、私がフォローできるのは東阪だけですが)、そのひとつの深夜ラジオの雄が終わるということは、いよいよ、長く続いて来たラジオ文化のある部分が終わるということなんだな、と思います。

 もうひとつは、ああ、20年なのか、ということ。私は大阪のラジオしかわかりませんが、もともと日曜深夜はラジオにとっては解放区でした。つまり、誰も聞かない時間。その時間を文字通り開放したのが、ラジオ大阪「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」です。始めの頃は、スポンサーもなく、民放にもかかわらずコマーシャルなしで放送をしていて、放送終了時間も定まっていませんでした。

 当時若手芸人だった鶴瓶さんと、年輩の売れっ子放送作家だった新野新さんが、ただただうだ話をするだけのその番組は、受験生などを中心に密かな人気を得て、私なんかもそうですが、ぬかるみを聴く人を「ぬかる民」と呼んだりしていました。サイキックを聴く人を、サイキッカーと呼ぶのと同じです。全国にリスナーがいるのも、サイキックと似ています。

 年代的には、ちょうど「ぬかるみ」と入れ替わり「サイキック」が始まり、日曜深夜の定番番組になっていきました。あれから20年。その後が続かなかったんだな、という感慨も少しあります。「ぬかるみ」はその後、長いブランクを経てネットラジオで有料の「nukarumi.com」を始めましたが、聴いた感想では、それはすでにノスタルジーでした。新野さんの健康上の理由ですぐに終わってしまいましたが、収益的に苦しかったのもあったのでしょう。

 少しいい話。今、東京の深夜枠はTBSジャンクの一人勝ち。ポッドキャストも人気があるとのこと。伊集院光、爆笑問題、雨上がりなどラジオトーク向きのパーソナリティを揃えていて、収益的にはわかりませんが、番組的には好調。一方のかつての雄だったニッポン放送の「オールナイトニッポン」は人気が低迷。かつては鶴光などのラジオ向きパーソナリティが勢揃いしていたのですが、一時期、人気アーチストばかりがパーソナリティを担当するようになり、リスナーとしては、そのアーチストのファンでもないわけですから、ラジオ番組としては、非常につまらなかった覚えがあります。

 オールナイトは、短期的にリスナーが見込める人気アーチスト起用に走り、まさか揺るがないだろうと思われていた深夜枠の主役をTBSに譲ることになってしまいました。オールナイトの熱心なリスナーだった私からみると、この逆転劇は、少し驚きがあります。まさか、なんですよね。

 東京の昼枠では、「大竹まこと ゴールデンラジオ」が好調。文化放送は、吉田照美さんを朝に持ってくるなど、朝から昼の枠の編成を大改変をしましたが、大成功しています。こういう話を聞くと、ラジオファンとしてはすごくうれしくなります。

 ポッドキャストは、番組中に流れる楽曲とCMの著作権の問題がクリアになれば、まだまだ成長する余地はありそうです。TBSジャンクのポッドキャストの人気がそれを示していますし、やはりトークのプロフェッショナルのコンテンツ力はあなどれないものがあります。それと、ラジオ局各社は、Appleに働きかけて、iPodにAM受信機能をつけてもらったりすればいいんじゃないか、と思うんですよね。AMならアンテナの問題もチープにクリアできそうだし、防災上もいいでしょうし。

 TBSと言えば「聞けば見えてくる」という広告コピーが素晴らしかったのですが、でも、やっぱり広告だけでは解決できない問題もたくさんあるように思うんですよね。このコピーは、テレビよりもラジオの方が想像力が働く分、コンテンツとしては豊かですよとメッセージしていますが、それよりも、その素晴らしさをわかっていただくためには、ポッドキャストの著作権問題をクリアしたり、受信できる環境を増やしたりするほうが有効な気がします。良くも悪くも、今はそういう時代なんでしょうね。でも、こういう広告は大事だとも思いますが。

 ラジオについて書くときは、私の場合、少し愛の成分が多めになってしまいますね。どう考えてもどん詰まりなんですけど、それでもなんとか踏ん張ってほしいというか。そろそろ新横浜に着きそうです。降車の準備をはじめなきゃですので、本日はこのへんで。

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2009年2月24日 (火)

「2008年広告費」雑感

総広告費 6兆6926億円(前年比4.7%減)

テレビ  1兆9092億円(同4.4%減)
新聞   8276億円  (同12.5%減)
ネット   6983億円  (同16.3%増)
折込   6156億円  (同6.0%減)
DM    4427億円  (同2.4%減)
雑誌   4078億円  (同11.1%減)
屋外   3709億円  (同8.2%減)
交通   2495億円  (同3.7%減)
ラジオ  1549億円  (同7.3%減)

ネット広告費6983億円の内訳
 検索連動広告費 1575億円 (同22.9%増)
 モバイル広告費   913億円 (同47.0%増)

マス4媒体広告制作費    3254億円 (同5.2%減)
 ※内テレビ広告制作費 1959億円 (同3.3%減)
ネット広告制作費     1610億円 (同14.0%増)

参考記事:2008年の国内ネット広告費は6983億円、前年比16.3%増-INTERNET Watch
ソース:2009年2月23日付け電通ニュースリリース(PDF

 主要メディアの2008年度広告費を多い順に並べてみました。詳しくは、分析含めて、情報元のニュースリリースをご覧いただきたいのですが、その内訳が広告制作費を含むものだったり、そうでなかったりはしています。また、このところのメディアミックスでは、広告制作費の主たる部分はメイン媒体における広告制作費に含まれてしまうことも多く、広告制作費は参考程度に見るべきかな、と思います。

 こうして並べてみると、実務における広告媒体の重要度とほぼ順位が連動しているように感じます。テレビ、新聞、ネット、折込、DMという流れは、今、その順番も含めて、わりと定石になっているのではないでしょうか。もっともこれは業種によって違いがあります。例えば、化粧品なら雑誌が重要になりますし、世の中の大半の商品やサービスは、テレビや新聞が必要ではありません。一般化するのは無理があるかとは思います。これは、増減についても同じことが言えます。

 2008年度は後半から景気の大幅な後退があり、その後退の影響を早く受けるのは、広告費が高額なテレビや新聞になります。つまり、検索連動やモバイルは景気の後退の影響を受けにくく、しかも業種的には、検索連動を止めることは一切の販促活動を止めることにつながる業種が多いでしょうから、このネット広告の増を単純によろこんでばかりはいられないのは、当のネット系広告会社の方はいちばんおわかりであると思います。

 新聞の広告パワーは、新聞本紙の広告と折込とあわせて見るべきで、そうして見ると、今なお新聞はテレビに匹敵するパワーを持っていることがわかります。このところの景気後退で直撃を受けるのは、テレビ、新聞などのリッチメディアです。

 構造的に、新聞はリッチメディアである本紙広告の後ろにチープメディアである折込がくっついていて、リッチメディアの衰退が、不況に強いはずの折込にも影響を与えるところがあり、他のメディアにはない特徴になっています。新聞はネットで代替しやすい媒体ですし、衰退しつつある宅配システムがこの折込という優良媒体を支えていることもあり、このマス4媒体の中では、新聞はもっとも深刻度は高いだろうと思います。

 ネット広告に関しては、まだ検索連動とモバイルが全体の半分に満たないですが、モバイルの伸びが大きいですね。これは、実務の感覚とまったく連動しています。昨年度に比べると、同じキャンペーンでもモバイルの伸び率が急激に上がっています。これは完全にケータイの高性能化でしょうね。ようやく本格的にモバイルが使えるようになってきた印象があります。

 検索連動に関しては、やはり広告というマーケティング手法の裾野を広げた、そして、広がったということなんでしょうね。ネット広告花盛りといっても、単体企業が検索連動を極端に増やすというわけにもいかず、ひとつひとつの企業にとっては、上限が低い広告なのかもしれません。

 またネット広告におけるもうひとつの「純広」であるポータルサイトの広告枠については、かつてのリッチ化の模索はなくなってきたのは、個人的にはいいことであると思っていますが(リッチ化は、広告効果という側面で言えば逆効果であるとずっと思ってきました)、検索連動の収益でなんとかなってしまうことで、逆に自社広告枠の進化が止まり気味なのではないかな、という印象を持っています。それは表現の分野でも同じです。

 その意味では、マス広告がいい意味でも悪い意味でもお手本です。私は、今後はマスで駄目なことはネットでも駄目になっていく可能性が高いと見ています。ネットは若い媒体だからこそ、今のマス広告のようにならないためにどうすればいいのかが考えられますし。

 そのとき、勝負になるのは自社広告枠(および検索連動広告をからめていくシステム)の質になるでしょう。凡庸すぎていやになりそうですが、結局、広告は、良質なコンテンツありきというのは時代が変わっても変わらないでしょうし。

 そういう意味では、私としても、そのネットの「純広」における表現の質をどう高めていくかが勝負になるだろうと思っています。ネットだからできる、という考え方は、逆にネットをなめているような気がしてなりません。時間はかかるかもしれませんが、ネットの大部分は、いずれリアルな社会とほぼ同じような感覚になるはずです。

 雑感でもあるので、さしたる示唆はありませんが、私は、この凡庸さやつまらなさも、ひとつの未来を指し示す指標でもあるのかなと思っています。なんとなく、私は極論が苦手。極論は気持ちがいいんですけどね。でも、その気持ちよさは、未来が見えるみたいな気持ちよさではなく、別のものなのだろうな、という感じがします。それは、このネタからおもろいことが書けないという言い訳でもあるんだろうけど。ではでは。

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2009年2月22日 (日)

「駅弁」と文化を担保するもの

 本日は大阪へ。今、新幹線の車内で書いています。

 予約したチケットの関係で、大急ぎで新幹線ホームへ行った関係で、崎陽軒のシウマイ弁当が買えませんでした。しょうがなく新幹線ホームの駅弁売場で弁当を。今、新幹線ホーム内は、ほぼすべてJR東海系の弁当屋さんになっています。商売上手というか何というか、その弁当屋さんにはきちんと、崎陽軒のチャーハン弁当とそっくりな「焼売炒飯弁当」というのが置いてあります。崎陽軒のより300円高く、そのかわり少し量が多くて、焼売はエビと肉の2種類。

 味は、私はグルメではないので味にそれほど大きな違いがあるとは思えませんでしたが、崎陽軒の味が好きな私にとっては、まあしゃあないわなあ、という感じの味。可もなく不可もない、という感じでしょうか。

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 新大阪の駅弁は水了軒が有名。でも、これは新幹線構内では買えません。新幹線のりば改札の外にあります。出張の多いサラリーマンの間では、わざわざ新幹線のりばの外にある水了軒の弁当売場で買ってから、構内に入るのが通とされています(というか私のまわりでは、という話かもですが)。

 まあ、これには、地元のお客さんが買えるというメリットがあるけれど、中にあってもいいんじゃないか、とは思います。新大阪も構内は、やはりJR東海系列もしくはJR西日本系列。私には、なんか独立系の弁当屋さんにいじわるをしているように見えます。日帰り出張なんかで慌ただしいとき、行きも帰りも「21世紀出陣弁当」みたいなことがあり得るわけで、なんだかそれはあまりにもだなあ、なんて思います。

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 私は仕事柄、都内のいろんなところに出かけることが多く、よく駅構内で食事をすませています。駅そばやカレー、最近ではラーメンなんかもあり、種類は充実してきているような気がします。

 でも、ほぼどの駅も、そば屋もカレー屋もラーメン屋も同じ。つまり、JR東日本系列なわけです。その駅ならではの立ち食いそばを食べるためには、一旦、駅の外に出なくちゃいけません。新橋だとポンヌッフとか、中野だとかさいとか。品川はなんとか駅構内で2、3の独立系ががんばっているようですが、独立系駅そばファンとしては、いつまで残ってくれるのかという思いがあります。

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 まあ、駅の中は、JRのものだから、JRの裁量でやるというのが筋だし、経営でいえば、系列のフード関連会社をつくってそこが独占すれば、効率的だし、自社の資産を十分に活かした賢い経営みたいなことにはなるでしょう。株主利益にもなりますし。

 でもなあ。でもなあ、なんですよね。駅というのは、公共性みたいなものもあると思うし、鉄道というのはインフラでもあり、文化でもあると思うんですよね。甘いかもですが。

 文化というのは、多様性が担保するものだと思うんですよね。伝統文化はどうなんだ、という話もありそうですが、それでも現代文化あっての伝統文化なわけで、だからこそ伝統文化は尊いんですよね。

 なんの事業でもそうですが、これもひとつの文化を担っているという挟持を持たない事業は、長い目で見ると衰退してしまうと思うんですよね。まあ、たかが駅弁の話ではあるんですが、それもひとつの縮図のような気がしてしょうがないです。

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 デパートは不調ですが、全国駅弁大会はあいかわらずの人気です。需要はあるし、私みたいなのが書くらいだから、その駅でしか買えない弁当というのは、それなりに人気も出そうな感じがするんですね。それぞれの駅にそれぞれの駅弁や駅そばがあること。そのプラン自体には、きっとマーケティング的な欠陥はあまりないはず。

 でも、今は、その分野全体を豊かにしていくマーケティングより、特定の企業にとっての効率が上位にくるんですよね。今の時代は。私なんかは、JRなんだし、弁当の分野でがんばらなくてもいいじゃないですか、鉄道事業でがんばりましょうよ、と思うんですけどね。甘いのかな、甘いんでしょうね。

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 なんかね、最近になってぼんやり思うのは、資本主義の行き着く先っていうのは、結局、なんだかんだの自由競争をそれなりに経たうえで、やがて独占に収斂していって、多様性のない社会主義的な社会なのかな、なんてこと。もしくは、業種自体の衰退か。

 で、この先は私が苦手な分野なので、あまり偉そうなことは言えませんが、その低レベルの知識で考えても、この社会主義的な多様性のない状況をつくらないためには、ある種の社会主義的な施策、つまり保護みたいなことが必要になる、ということになるんですよね。パラドクス的ですが。その歯止めのために、資本主義は独占禁止というカードを持っていたりはするけれど、先に挙げた事例なんかは、一企業の裁量権の範囲内でしょうし、難しいところです。

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 自分の足下を振り返ってみると、我が広告業界も、多様性の獲得に見事に失敗していたりして、逆に資本主義の本家である欧米の方が多様性豊かな業界を形作っていたりしていて(まあ向こうは向こうで、持ち株会社的な覇権というのもあるけれど)、このあたりどう考えていったらいいのか、という感じです。

 やっぱりそれでも、考えのコアは、文化を担保するものは「多様性」であることというのは揺るがないでしょう。その「多様性」と、自社の繁栄みたいなものを、どのあたりで折り合わせてやっていくのか。せっかくの不況なんだし、そのあたりがこれから鋭く問われてくるのではないかな、と思います。

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くやしい。もっとおもろなりたい。

 松本・高須の「放送室」(FM東京)より。

 ダウンタウンの松本さんが、鶴瓶さんのどこがすごいかという話をしていて、その時のエピソード。ある番組で、ダウンタウンが大先輩の鶴瓶さんをいじっていじっていじり倒した、つまり、松本さん曰く、ダウンタウンのペースで「笑いのためにプロレス」をやったとのこと。大爆笑の収録が終わって(追記:「いろもん」という鶴瓶さんの番組にダウンタウンにゲストで出演したとき、収録中に、が正しいようです。腹這さん、コメントありがとうございました)、鶴瓶さんが言った一言。

 「くやしい。もっとおもろなりたい。」

 これが言えるって、すごいなあ。相当すごい。なかなか言える言葉じゃない。松本さんも言ってましたが、これ、自分に余裕があるから言える言葉ですよね。余裕がないとそんな言葉は出ませんし、後輩への嫉妬を、素直に、しかもポジティブな方向で表現できる鶴瓶さんは、やっぱりすごいもんだなあ、と思いました。

 私は言えるかな、と思うんですよね。言えるだろうとは思うけれど、私の場合、まだちょっと涙目になるかも。鶴瓶さんみたいに明るく「くやしい。もっとおもろなりたい。」と言おうと思うけど、本音がついていけてなくて、涙目。頭が嫉妬でくらくら。言い訳の言葉を探そうとする本能と、それを止める理性がせめぎあうと思う。つまり、まだまだ余裕なんてない、という感じ。

 私は芸人ではないけど、もっとおもろなりたいとは思う。そのために、考えて考えて考えまくりたいと思う。吐くほど考えていきたい。

 くやしい。もっとおもろなりたい。

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2009年2月21日 (土)

心の領域

 NHK教育の「サイエンスゼロ」のロボット特集再放送を見ていると、ヒューマノイド研究をしている石黒浩阪大教授が、平田オリザさん演出のロボット演劇を紹介しながら興味深いことをおっしゃっていました。

 「もし、その状況に応じて精密につくりこまれたロボットを人間が見て、その人間がロボットに心があると確信できるならば、人間が互いの心でコミュニケーションを行っていると私たちは思っているけれど、じつはコミュニケーションを成立させているものは、少なくとも今まで当たり前とされているような心ではないのかもしれない」

 ここでスタジオが一瞬凍りついて、その後番組は司会者の「でもアンドロイドは決して心で動いているわけではなくて、それを間違えてしまうと社会が混乱するとは思うんですね。テクノロジーの発展で心の再定義が急がれるのかもしれません」みたいな締めがあって、その話を、石黒さんが何か言いたそうな顔をしながら終わるんですが、石黒さん、典型的な関西人なんで、それを見ていて、けっこう面白かったです。「そういうことちゃうねん。つまりやね、心と言うのは」という話の続きが聞きたいなと思いました。

 石黒さんは、人間の脳は人間にいちばんのパフォーマンスを発揮するようにできていると考えていて、ゆえに外見を非常に重視する考え方をしていて、ヒューマノイド研究の理由としてこう話されています。

「認識とはなにか。体がないものには認識はありえない。だからロボットをやらなあかん。それでロボットなんですよ。じゃあロボットは何が面白いのか。認識の問題で面白いのは何か。モノを掴んで何かするよりも、認識するとは何か、認識するシステムは何かということを考えたい。」

等身大“コピーロボット”で存在感の本質を追求する〜大阪大学 石黒 浩 教授 ロボット業界キーマンインタビュー Reported by 森山和道 — RobotWatch

 この分野は私はあまり詳しくないのですが、ロボットに限らず、コンピュータにしても、人間の心とか脳とかをメタファーにしてできている部分はあるんだろうな、と思います。例えば、WindowsとかMacとかUNIXとかのオペレーティングシステムは、まるで人間の脳のようだし、それぞれの利点と欠点を見ていると、まるで人間やないか、みたいなことを思う部分もあって、かつて私も「人間のタイプをOSで言うと‥‥」というエントリを書いたりもしました。

 Googleを見ていると、まるでそれはこれまでの人間関係におけるGoogleが信じる価値観をシステム化しているように思えます。リンクの考え方を見ていても、「自分勝手に誰彼かまわずリンクを貼る人を信用しない(スパム)」とか「リンクを金で買うやつは駄目(有料リンク)」みたいな。その上で、みんなからリンクを多く貼られているやつは本物なんやで、みたいな。ページランクって、こういうことなんでしょうね。(ちなみに、ここのトップページであるhttp://mb101bold.cocolog-nifty.com/blog/は「PageRankの情報を利用できません」になっているようです。なんなんでしょうね。まあ、別にいいけど。)

 人間をメタファーにしたシステムが、逆に人間を規定するように見えてくる、みたいなことはよくあります。でもそれは、ある部分の無意識でやっていたようなことが分かりやすくなるみたいなことかも。意識化されるというか。ただ、ここで落とし穴があるかもな、みたいなことは思います。人間の脳のシステムは、いろんなバッファがあるような気がするんですね。例えば、Google的にはこいつスパムっぽいなあ、とか、お金でリンクを買っているよな、と思うような人でも、すぐには排除しない、ゆるい感じがありますが、それをメタファーとしたシステムっていうのは、そういうのを絶対に許容しないし、その脆弱性を突いてきたものに対しては、疑いもなく許容してしまう、みたいな感じ。

「特定のタスクを切り出してしまえば、たいていインフラに埋め込めるんですよ。洗濯機みたいに。しかし、我々の日常生活は、9割はコミュニケーションでしょう。情報収集やコミュニケーションが仕事の大半です。特定のタスクは1割しかない。特定タスクは自動化できるから、どんどん自動化されていくでしょうが、もっとも大きなマーケットはコミュニケーションにあるわけです。そこにテクノロジーを入れたい。タスクは機械にやらせて、もっと頭を使うところに技術を入れる。知識社会の本当のゴールはそこにあると思っているんです。人間は、人間にしか使えない頭の使い方をするべきです」

等身大“コピーロボット”で存在感の本質を追求する〜大阪大学 石黒 浩 教授 ロボット業界キーマンインタビュー Reported by 森山和道 — RobotWatch

 ま、ここらへんに、我々文系脳の人は怖さとか反発とかを覚えるんでしょうけどね。コミュニケーションに入ってくるのかよって。それに対しては、石黒さんはこう答えているようです。

 もちろん、人間が価値を見出しているのは、表面的に人の動きを真似た9割の部分ではなく、人まねではない残り1割の部分である。そこが大事なのだ。しかし「工学の立場からすれば、まずはロボットがちゃんと動くことが大事で、その意味では9割は真似でいいんだとなる」。石黒氏はこう語る。「ロボットを作る立場からすれば、まずは9割をちゃんと作るべきです。ところが、その9割を作らずして、残り1割だけ見ている研究が多い。工学は、能力を出さないと価値がないと思うんですよ。9割を作らずして1割だけやると、問題の本質を見失う可能性がある」。

等身大“コピーロボット”で存在感の本質を追求する〜大阪大学 石黒 浩 教授 ロボット業界キーマンインタビュー Reported by 森山和道 — RobotWatch

 そういう意味では、いままでコミュニケーション=心みたいなおおざっぱな話はテクノロジーの発展で、どんどん無効化されていくような気がします。特定タスクが1割で、9割がコミュニケーション。その10割を薄く覆っている1割くらいのものが心と呼ばれるものなのでしょうね。その心って、例えば、「わけわかんなくなってきたし、じゃまくさくなって来たので、今日はこのへんで」みたいなものかもなあ。

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2009年2月19日 (木)

村上春樹「エルサレム賞」受賞スピーチ報道は、新聞がネットユーザーから見直される絶好のチャンスだった。

 確かに、速報は新聞が速かったけれど、そのスピーチの全貌を日本に伝えるのは遅かった。その全貌を日本語で伝えたのは、新聞ではなく個人のブログだった。多くのブログで、コメントが書き込まれ、時間が経つにつれ、その翻訳は生き生きとした言葉に変わっていった。それを、一ネットユーザーとして眺めながら、なんとなく久しぶりにネットというのはいいものだと思った。

 新聞はチャンスだったと思う。今の日本の新聞は、どこもネットでサイトを持っている。なのに、どの新聞も速報とスピーチの部分引用だった。少なくともネットでは注目されていたし、新聞から全文および全訳が出ることを期待しているようだった。いくつかのブログでその日本語訳を読みながら、いいスピーチだったと思ったし、いろいろ考えさせられる内容だった。

 新聞あるいは通信社は記者を送っているはずで、その内容をライブで知る特権的な立場にあったはず。これだけの内容をライブで聴いて、きっとこれは全文を伝えるべきだと、その記者は思ったはず。そうであるならば、そのプライドにかけて、日本語訳をブログより速くサイトに掲載するべきだったと思う。もし、そうなれば、多くのネットユーザーは新聞を見直したはずだ。

 今、Googleで「村上春樹 スピーチ 全訳」という文字で検索すると、47newsという全国の地方紙ネットワークのサイトがトップでヒットする。その記事には、(仮訳=47NEWS編集部)とあるけれど、掲載時間が示されていない。仮訳という言葉に、すぐに出せなかった悔しさがにじみ出ている。でも、この悔しさをにじませた仮訳は、まだ新聞が新聞であることのプライドを示しているように思う。

 新聞が力を失ってきたと言われて久しい。私は、新聞広告という仕事が好きだったし、新聞広告を出す企業も、新聞広告という舞台は、企業メッセージを発信する舞台としては、最上の舞台だった。それは、新聞が、報道のプロフェッショナルだからだったと思う。そのプロフェッショナルのプライドや感性を失った新聞は、ただの紙にすぎない。

 村上春樹「エルサレム賞」受賞スピーチ報道は、失われた信頼を取り戻す絶好のチャンスだった。新聞終わったねと、オールドメディアだよね、と口にする個人メディア運営者から、やっぱりプロだね、と思ってもらえる絶好のチャンスだった。スピーチ全訳、新聞に出たね。速いよな。やっぱりプロは違うよね。そんなふうに見直してもらえる絶好のチャンスだった。

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2009年2月18日 (水)

広告というシステムの功罪

 本日はとくに何も書くこともなく、しばらくネットでも眺めてそそくさ寝ることにしましょか、なんて思っていると、ネットが突然つながらなくなりました。2月18日深夜1時頃から30分くらい、ずっとそんな感じでした。あれ、おかしいなと思って、WILLCOM 03でもネットに接続してみたけど、同じ症状が。現在、1時45分ですが、いまは普通につながっているみたいですね。何だったんでしょうね。ブログ検索で調べてみると、そういう記事も今回はなく、「Geekなぺーじ」のあきみちさんがお書きになっていた「今朝、インターネットが壊れました」とは別の原因なのかな。

 そんなわけで、結局、書いているわけなんですが、これで終わるのもなんだし、今、ぼんやりと考えていることなど、つらつらと。

 私は広告業に携わる人間ですから、広告というシステムには愛着を持っています。今、民放のテレビやラジオなんかが無料で見られるのは、きっと広告というシステムの導入があったからなんだろうな、と思うんですね。そうじゃなきゃ、電波塔を立てて、でっかい放送局をつくって、みたいなテレビ番組やラジオ番組が無料で見られるなんていう状況は生まれなかったはず。広告というシステムがなければ、今だに税金でつくる国営放送や、日本で言えばNHKみたいな放送しかなかったはずで、そういう意味では、まあなんだかんだ言われるにしても、広告の果たしてきた役割というのは、案外大きかったはず。

 でも、無料のコンテンツを成り立たせる広告というシステムは、やがてテレビやラジオを支配するようになるんですよね。つまり、視聴率や聴取率という基準にコンテンツが縛られるようになります。今度は、広告というシステムがつくりだした視聴率至上主義というシステムが、テレビを滅ぼしていくんです。ラジオの場合は、スペシャルウィークでがんばるみたいな甘さがありますが、それでも広告に依存するということは、つねに広告がつくかどうかということがコンテンツの基準になったりして、斜陽メディアであるラジオなんかは、今、深夜はアニメの声優さんが出演する番組ばかりですよね。特に地方は。それで、年輩のリスナーが、深夜はNHKのラジオ深夜便に逃げるという状況が、ここんところずっと続いています。

 ネットで言えば、広告収入を生み出すものはPVになるんでしょうが、PVを生み出すためには、もちろんサービスの魅力を高めていくというテレビやラジオと同じ道が当然あるのでしょうが、その先は、かなりの挟持を持っていない限り、いろんな敷居をどんどん低くしていくという道につながっていて、mixiなんかでは「魂」であった招待制を登録制にしたり、年齢を下げてみたり、一方、最近好調な他のSNSは、要するに無料ゲームがコンテンツだったりしていますし、そうなると、今度は、普通の人には敷居の高いサービスになるという、テレビやラジオと同じような逆転が起きます。

 テレビにおける視聴率はPVに置き換えて考えると、非常にわかりやすくなるな、なんて思います。ネットは新しい分野だと言われますが、その新しさのベールを取り去ると、案外、既存メディアと同じジレンマに陥っているような感じがします。

 村上春樹の受賞スピーチではないですが、人が便利になるために、人がシステムをつくり、そのシステムが人をがんじがらめにしてしまう、というね。なんというか、それは戦争とかの話ではなく、たかが広告とメディアの話ではありますが、構造は同じような気がしていて、人がシステムに食われてしまわないためには、システムの上位に、かならず人を君臨させることなんでしょうね。間違っても、テレビやネットコンテンツは広告のためにあるんだ、なんて開き直ることはしないことなんだろうね。難しいことだけど。

 私は、ブログ名からしても広告人なんですが、私がなんか偉そうなことを言ったら「黙れ、広告屋」くらい言われる立ち位置がちょうどいいような気がします。人がいちばん醜く残酷になれるのは、自分の立ち位置を絶対だと思って、それを真理や正義を持って語り始めるときだと思うし、その底抜けの明るさや、それを逆転させた魅惑的な暗さみたいなものは、直感的に信用しないというか嫌悪するような感覚が私にはあって、その感覚を失って、明るく、あるいは、暗く、広告の未来を語り始めるとき、今の私にとって、その時の私は最悪の広告人なんだろうな、と未来の私に今言っておこうかな、なんて思います。

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2009年2月16日 (月)

お好み焼き

 「あんたら、お好みが好きやったから、助かったわあ。」

 社会人になって少し経ってから、母親がしみじみそうつぶやいたことがありました。うちは自営だったので、給料日前はいろいろたいへんだったみたいで、食費のやりくりもいろいろあったんだろうな、と今になって思います。お好みは、お金がかからないですから、家計的には助かるんですよね。

 お好みというのは、お好み焼きのことです。お好みに限らず、大阪の人は略して言うことが多いです。天神橋筋六丁目を天六、谷町九丁目を谷九と言いますし、マクドナルドはマクド。ロイヤルホストはロイホ。ついでにアイスコーヒーは冷コー。レイコーと発音します。

 お好み焼き、焼きそば、たこ焼き。この3品フルコースの夕食が多かったです。鉄板で自分でつくるんですね。参加性があるから、子供はよろこびますよね。たこ焼き用の鉄板もありました。というか、大阪の家は、今もみんな持っているんじゃないかな。

 お好み焼きのコツは、小麦粉と卵の生地にだし汁を入れることと、キャベツは多めにすること。生地に卵を入れすぎると駄目。堅くなります。4人分に1個くらいで十分。どうしても卵感が欲しい人は、鉄板の生地に直接卵を落とすといいです。豚肉とかイカとかがないときは、竹輪を輪切りにしたものをちらしてもいい感じ。

 たこ焼きに関しては、やっぱりたこが大事。というか、たこ焼きにおけるたこの重要度は、お好み焼きにおける豚に比べ物にならないくらい大きいような気がします。こたエキス、あなどるべからずです。明石焼(やわらかい卵焼きみたいなものをだし汁につけて食べるもの)も工夫して作ってました。何回かやるうちに、かなり上手く作れるようになりました。

 東京だともんじゃ焼きなのかな。でも、もんじゃ焼きは夕食になりにくいような気が。そのへんどうなんでしょ。それとも、手巻き寿司かも。でも、この手巻き寿司って、けっこう新しめの食べ物のような気もします。

 昔はよく食べていて、最近はめっきり見かけなくなったもの。サバの水炊き。濃いめの醤油味のときもありましたし、すき焼風に溶き卵で食べるときもありました。サバ缶でも代用できます。庶民的な味ですが、あれはあれで美味しかったです。もう誰もやらないのかな。

 ここ最近は、とある事情で月に2回は大阪に帰っているのですが、年始はちょっと忙しかったので、なかなか大阪に帰れずじまいで、なんとか休みをつくらなきゃな、という感じ。まあ、こういうご時勢、忙しいのはありがたいことなんですが。

 さあ、月曜日。お仕事、がんばりましょ。

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2009年2月15日 (日)

「およげ!たいやきくん」の世界

Oyogetaiyakikun_2  この「およげ!たいやきくん」は、日本で最も売れたシングルレコード・CDとのことで、ギネスには455万枚と記録されていて、オリコンに記録されていないものも含めると推定500万枚以上とのこと。発売が1975年12月で、翌76年に大ヒット。このレコードは、確か私がはじめて買ったシングル盤でした。私が9歳のとき。

およげ!たいやきくん - YouTube

 この曲は、後半の歌詞が秀逸というかシュールというか、YouTubeのコメントでも「トラウマの曲だ!笑」とあって、当時の子供たちは、この「死のイメージ」に敏感に反応したのではないかな、と思います。あらためて聴くと、いろんな矛盾がさらっといなされている感じがして、不思議な感覚があります。

毎日毎日 僕らは鉄板の 上で焼かれて 嫌になっちゃうよ
ある朝 僕は 店のおじさんと けんかして 海に逃げこんだのさ

初めて泳いだ海の底 とっても気持ちのいいもんだ
お腹のあんこが重いけど 海は広いぜ心がはずむ 

桃いろさんごが手を振って 僕の泳ぎを眺めていたよ 

毎日毎日 楽しいことばかり 難破船が 僕のすみかさ
ときどき鮫に いじめられるけど そんなときゃ そうさ 逃げるのさ

一日泳げばはらぺこさ 目玉もくるくる回っちゃう
たまにはえびでも食わなけりゃ 塩水ばかりじゃふやけてしまう

岩場のかげから食いつけば それは小さなつりばりだった

どんなにどんなに もがいても 針が喉からとれないよ
浜べで見知らぬおじさんが 僕を釣り上げびっくりしてた 

やっぱり僕はたいやきさ 少し焦げあるたいやきさ
おじさん つばをのみ込んで 僕をうまそに食べたのさ

高田ひろお 作詞 佐瀬寿一 作曲

 この曲の出だしは有名だから口ずさめる人も多いでしょう。「毎日毎日 僕らは鉄板の 上で焼かれて 嫌になちゃうよ」です。ここからすでに不思議な世界。この「たいやきくん」は、まず「僕ら」から始まります。つまり、出だしは、1匹の「たいやきくん」ではなく、毎日鉄板で焼かれて、売られて、食べられる、幾千ものたいやきです。で、「僕ら」の一人である「たいやきくん」は「店のおじさんと喧嘩」して、「僕」になります。

 これは、考えてみると矛盾のある世界で、おじさんに鉄板で焼かれる、つまり「僕」が誕生する前から「僕」は「僕ら」の日常を知っていることになります。しかも、まだ生まれていない「僕」は、すでに「僕ら」の日常が「いやになっちゃう」日常であることを知っているんですよね。この曲がぼんやりと「死のイメージ」を想起させるにもかかわらす、妙にその「死」が生々しくなく、子供たちが惹き付けられる理由は、じつはこの冒頭部分にあるのかもしれません。

 そして、おじさんと喧嘩して「僕」になった「たいやきくん」の海での日常は、子供の目線ではとても不思議な世界です。小麦粉と餡でできたたいやきが、自由に泳げることとふやけてしまわないこと。大人の目で見ると、まあファンタジーだからね、と簡単に理由付けしてしまえるのですが、子供はじつはこういう矛盾で引っかかってしまうと先へは進めないだろうと思います。

 で、この曲が秀逸なところは、自由に泳げることに対しては「お腹のあんこが重いけど」という「僕」側の実感が示され、ふやけてしまわないことに対しては「たまにはえびでも食わなけりゃ 塩水ばかりじゃふやけてしまう」とふやけないための対策が示されます。

 物語としては、「浦島太郎」などの類型です。だから最後は、ファンタジーの世界から現実に引き戻されるオチがあり、それがこの曲の「死のイメージ」の源泉であるエンディングとなります。

どんなにどんなに もがいても 針が喉からとれないよ
浜べで見知らぬおじさんが 僕を釣り上げびっくりしてた 

やっぱり僕はたいやきさ 少し焦げあるたいやきさ
おじさん つばをのみ込んで 僕をうまそに食べたのさ

 これまでの海の中でのファンタジーの世界から、いきなり強烈な現実世界に引き戻され、これがYouTubeのコメントにあった「トラウマ」の部分でしょうが、この部分も、前半のエビを食べているという伏線がうまく機能しているんですよね。おじさんは、うまそに食べるわけですから。ほんと、この歌、よくできていますよね。

 この「たいやきくん」、食われてしまう「僕」を「僕ら」が見ている構造になっています。つまり、この曲は「僕ら」という集合的な主体が、おじさんに反抗して、個を持つ「僕」になって、その夢が破れて、また「僕ら」に戻っていくという物語でもあるのです。「僕ら」が「僕」になることの挫折が「死」として表現されている、とも解釈できます。これは、もしかすると1976年という時代背景があったのかもしれません。

 同年のヒット曲に、東京で変わっていく恋人を歌った「木綿のハンカチーフ」、東京の乾いた日常を描く「東京砂漠」、東京に出る君の変化を歌った「なごり雪」があり、この時期を境にして、高石ともや、岡林信康らのプロテスタントソングの旗手たちが沈黙していきます。そして、時代は、ニューミュージック、そして、J-POPへ。「僕ら」というテーマは次第に力を失い、「僕ら」という集合的な主体を捨象して「僕」が表現されるようになっていきます。それは、「僕」の勝利だったのか、それとも敗北だったのか、そのあたりのことが、今という時代を生きる私としては、すごく気になるところです。

※1976年のヒット曲「山口さんちのツトム君」を親の転勤をモチーフにしたと書きましたが、記憶違いでした。ツトム君のお母さんが田舎に帰省してさみしいという歌でした。私はこの歌を親の転勤で離ればなれになるという歌と記憶してて、なぜそうなったのか、そっちが気になります。あと、岡林信康さんについては、finalventさんの「岡林信康の - finalventの日記」が参考になります。なるほど、高度成長とプロテスタントソングは時期的に重なるんですね。

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2009年2月14日 (土)

カラオケ

 昨日は、とある競合プレゼンのお祝い会。ま、ともあれ、年始最初のプレゼンに勝ててよかったです。7時頃にとっても美味しい小さな中華料理屋さんで祝杯。そのあと、ダーツバーみたいなことろに行き、最後は朝までカラオケ。御徒町から山の手線に乗って、まだ快速が走っていない中央線で帰ってきました。なんかこういうの久しぶり。

 昔はことあるごとにこういう飲み会があって、それこそ人によっては飲み会がやりたいから仕事をするんだ、みたいな営業もたくさんいてました。店選びも、仕切りも抜群。で、そういう人は仕事もよくできて、若い営業なんかは、そういう先輩の仕切りを手伝うことで、営業スキルを学んでいくみたいなこともあったようです。

 私はカラオケが苦手で、プライベートではめったにカラオケに行きません。こういうタイプは、ジャズとかをやっていたヤツにも多かったような気がします。なんか違うだろ、みたいな不粋なことを言いがちでした。私はどちらかというと、人前で歌うのが少し恥ずかしい、最近の曲をあまり知らない、みたいなことですかね。でも、歌いますけどね。

 昔、市川準さん企画と勝手に称して(参照)、いろいろな得意先に長ものCMを自主プレゼンしていた時期があり、某カラオケ会社の企画をつくったことがありました。それは、こんなストーリー。

 ある会社員の女の子。ま、とりあえず名前を山本さんとしときます。

 先輩の男性社員が転職することになって、お別れ会。山本さんは、その先輩に少し憧れの気持ちを持っています。3次会くらいのカラオケ店にて。みんな楽しそうに歌っている。その山本さんは引っ込み思案で、歌があまり上手くないので、手拍子をとってながら聞き役になっている。

 ある人が「そういえば、山本、歌ってないんじゃねえ?歌え、歌え。」と。

 最初は、山本さん、私いいです、みたいな素振りをするんですが、まわりは面白がって「歌え、歌え」と盛り上がり、山本さんは曲を選んで送信。で、山本さんの番がやってきて、山本さんはマイクを持って歌い始めるんですが、そのときにはみんな山本さんの歌を聴いちゃいなくて、それでも山本さんは、緊張しながら歌い終えます。

 朝。みんなそれぞれタクシーを拾って帰って行く中、その先輩が山本さんに近寄って、「今日は歌ってくれてありがとう。うれしかった。」と一言。山本さんは、先輩が乗ったタクシーを見送ります。深夜に少し降った雨にぬれた道。山本さんを朝日が照らします。山本さんは、ひとり「雨に歌えば」をハミングで口ずさみ、駅に向かいます。そこにコピー。

 歌を歌おう。

 こんな感じのコンテでした。残念ながらこの企画は実現しませんでしたが、カラオケに行くと、いつもこの自分がつくった没コンテを思い出します。私は、カラオケは、楽しそうに歌っている人を見るのが好き。あ、この人、こんな歌い方をするんだ、みたいな発見もあります。

 カラオケ慣れしている人は、抑揚がちゃんとあり、うへえ上手いよなあ、という感じなんですが、ときどき、つじあやのさんみたいな抑揚のない歌い方をする人がいてて、それは歌を歌い慣れていないからなんでしょうが、そういうのはとってもいいなあ、と思います。

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2009年2月13日 (金)

今回のGoogle騒動を雑誌媒体になぞらえると

 世の中のありとあらゆるコンテンツを集めるという「Google」という名の雑誌があって、読者の投票と編集委員の厳正なる投票でランクが高いものが前の方のカラーページに掲載されていて、読者は読者でカラーページを楽しみにしていて、人気が高い。その雑誌の主な収入源は広告収入で、当然、大人気のトップのカラーページの広告媒体費は高くて、ページを追うごとに安く設定をされている。

 この雑誌、なぜかこの分野ではナンバーワンになっていて、今、世の中のコンテンツで何が人気があるのかがすぐ分かるみたいな感じに思われていて、なぜそんなに信頼があるのかというと、それは不正な読者の投票を防ぐ仕組みがしっかりしていて、編集委員もすごく厳正だ、と思われているから。それが本当かどうかは分からないけれど、世間的にはそう信じられている、と。

 で、この「Google」という雑誌、欧米なんかでは名実ともに圧倒的なナンバーワン雑誌なんですが、日本では「Yahoo!」という、明るくて、楽しそうで、垢抜けていて、総花的で便利情報なんかも取り揃えたランキング雑誌が人気で、どうしてもトップシェアがとれない。で、どうしたもんか、と日本の「Google」編集部は考えた。そうだ、キャンペーンやりましょ。

 世の中のありとあらゆるコンテンツ制作者が注目しているキーワードがすぐにわかって自動で更新される早見表をおまけに付けましょう。で、読者にこの早見表の便利さを記事にしてもらいましょう。記事にしてもらうために、読者ライターをとりまとめる会社に依頼して、たくさん記事を書いてもらいましょう、と。で、この日本の編集部の考えたキャンペーンを知った「Google」本部。

 「我々は世の中のありとあらゆるコンテンツを厳正なシステムでランキングすることで人気がある雑誌だ。広告の意図を隠した読者の記事を排除するシステムもがんばって作ってきた。だから、我々の雑誌は読者から信頼を集めているし、トップのカラーページの広告枠はクライアントから高い評価をいただいている。その中に、自らが仕掛けた広告記事をコンテンツに紛れ込ませるとは、どういうことだ。即刻中止せよ。」

 と激怒。日本の編集部はキャンペーンを即刻中止。まあ、これは自分の雑誌の信頼を守るという内向きな理由での中止だから、謝罪文は、あいまいでちょっとわかりにくくなってしまったけれど、とりあえずすぐに謝罪。

*    *    *    *

 とまあ、こんなところなのでしょうか。間違っていたら、ごめんなさい。あと、補足しておくと、雑誌でいう「純広」の媒体費の大小というのは、Google的にはクリック単価×クリック数の大小になります。

 Googleさんとしたら、検索精度を高めることは、収入源としての「純広」であるAdWordsの信頼を守ることにもつながっていて、そこから派生するAdSenseは、AdWordsの信頼に支えられている構造ができていて、Googleさん的には、多くの良質な手弁当コンテンツ制作者に対して、コンテンツの独立性(これがGoogleの信頼を支える担保になるもの)を保持しながら、金銭的な支援しているという気概があるに違いないし、手弁当コンテンツ制作者にとっては、今は妙な広告が表示される技術的な問題はあるけれど、コンテンツの独立性をこれまでの新聞とか雑誌程度には保つことができる「純広」収益システムが手に出来るということだし、コンテンツの独立性を阻害するあらゆるものは排除しなければ、という強い動機があったんでしょうね。まあ、事実としては、単なる日本Googleの内規違反に過ぎないのでしょうが。

 GoogleだってブログをAdSenseとかで利用して来たじゃないか、ブログなんてほとんどスパムじゃないか、日本の新聞だってテレビだって提灯記事や提灯番組がいっぱいじゃないか、という論があるでしょうが、そういう意味では、それなりにスパムを排除するシステムをつくっているし、Googleは、「記事広」という広告システムを持つ既存の新聞や雑誌よりも厳しいし、徹底して「純広」一本でいく気概があるのでしょう。この種の批判については、Googleは痛くも痒くもないはず。わしゃ、既存の新聞や雑誌、テレビのようにはならんぞ的なこと思っているはず。

 ペイパーポストの是非については、WOMの専門家ではないから正直よくわからないところはあるけれど、個人的には、自然発生的に記事が生まれるのが理想だな、とは思います。だから、広告屋としても、ブロガーとしても、あれは利用しないだろうな。でも、ブロガーミーティングについては肯定派です。どう書かれるかはわかりませんし、書かれないこともあるし、それに、一度企画して実施したけれど、ああいうふうに実際に生の声を聞く機会はなかなかないし、手法としてはイベントに近い感じを持っています(追記:でも運用次第かも)。それよりも何よりも、噂をしたくなるような仕掛けや企画は常に考えなくちゃな、と思っています。自発的な噂のほうがWOMとしては強力だし。

 でも、今回は日本支社が本社の内規に引っかかったというのが、ちょっと分かりにくくしているところもありますね。自身については、商売の根幹にかかわるので厳しくなりがち。なので、WOMマーケティングについてのGoogle的な基準がわかりにくくなっていますね。そういう「記事広」的なコンテンツに対してどう許容してどう拒絶するのか。その基準は何なのか。それが不明瞭。

 それと、日本ではYahoo!がトップシェアだけど、やはりGoogleの独占みたいなものがあって、Googleの基準がウェブの基準みたいなことろがあるから、ややこしいんでしょうね。ほんとは、この問題は、Googleという一民間企業の判断の問題にすぎないのだろうし。でも、現実はそうじゃないからこその騒動でもありますね。

CNETJAPANのブログ「渡辺隆広のサーチエンジン情報館」の記事「Google、ペイパーポストのブログマーケティングで謝罪で騒動の概要が分かりやすく解説されています。また、この中に出てくる「純広」という広告用語については私のエントリ「「純広」という言葉が持つ意味」をお読みいただければと思います。

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2009年2月12日 (木)

死ぬまでにやってみたい10のこと

 ぼんやりテレビなどを見ていると、榊原郁恵さんが出ていて、「死ぬまでにやってみたい10のこと」を実現する企画があって、その中で、郁恵さん、7つ目くらいで煮詰まっていました。最初のほうは、ハンググライダーで空を飛んでみたいとか、非常ベルを押してみたいとか、ポンポンと出ていたのですが、最後のほうは、ありすぎて迷ってるという感じではなく、ほんと何を挙げればいいのかわからない感じでした。

 人間なんて欲のかたまりなんて言いますが、こうして10個挙げなさいというと出ないということは、案外、人間の欲望なんてたいしたことはないのかもしれません。それに、子供の時は、自分の可能性が大きく広がってる感覚がありますが、年を重ねるにつれ、その可能性はどんどん狭くなるわけで、例えば、プロ野球選手になりたいみたいなことは、自分の子供時代を思い出せば、フライとかがとれなかったみたいな経験があり、ああ、それ無理、ぜったい無理だから、みたいな感じになってしまって、その夢はなしということになるんですよね。

 子供の夢は、まったく根拠がなくても描けますが、大人の夢は、やっぱり今までの自分のやってきたこととかの根拠がいりますよね。ちいさな根拠でも何でも、少なくとも根拠は必要で、まったく根拠がなければ夢さえ描けない。そんな感じがします。

 ただ、大人になって広がったことは、ちいさくても確かな根拠であれば、そこを起点にして、わりと大きな夢が描けることかな。それに、異なる分野どうしは、じつは地下茎でつながっている感じもあるし、自分の専門分野での「知恵」を蓄えておけば、自分の知らない世界にまで夢が広げられるみたいなことはあるかもですね。異分野でも「知恵」は通用するし、そこで必要になる「知識」はまあ勉強すればなんとかなります。でも「知恵」は、やっぱり経験が必要かも。ということは、異分野でも、もともとの専門分野の「知恵」でいくという感じにはなるでしょうけど。

 こんなタイトルをつけたら、ブログ的には「10のこと」を書かないといけなさそうですが、うーん、思いつきません。なんだか軽やかじゃねえなあと自分でも思いますが、まあ、今までもそういう感じだったし、これからもそういう感じだろうし、なんかあいかわらず煮え切らんエントリで恐縮ですが、本日はこんなところで。ではでは。

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2009年2月11日 (水)

「純広」という言葉が持つ意味

 興味深い出来事がありました。日本のGoogleがペイパーポスト(広告主または広告会社がブロガーに報酬を与えて記事を書いてもらうこと)を利用したプロモーションを行い、それがGoogleのサーチガイドラインに抵触して中止したとのことです。CNETJAPANのブログ「渡辺隆広のサーチエンジン情報館」の記事「Google、ペイパーポストのブログマーケティングで謝罪」で詳しく解説されています。興味のある方は、ご一読ください。

 これはインターネットでの出来事ですが、従来の広告でも同じようなことはよく起こっていて、そのため、広告主が広告媒体を購入して、自社もしくは広告会社で制作した広告のことを「純広」または「純広告」と呼び、新聞社や雑誌の中に記事として広告を溶け込ませる広告手法のことを「記事広」または「記事体広告」と呼ぶことで、明確に区別をするようになっています。自社もしくは広告会社で制作した広告でも、文章が多めの記事風に作るものをたまに「記事広」と呼ぶこともありますが、厳密に言うと、それは「記事広」ではなく「純広」です。但し、記事と著しく混同するデザインの「純広」は、新聞社や雑誌から、[広告]と明示するように求められることがあります。

 「純広」は、インターネットが始まる前から「できれば見ずに済ませたいもの」としてあります。民放だって、新聞だって、ほんとうは広告枠なんかじつはなければないほうがいい。そんな存在です。広告がエンターテイメントだ、貴重な情報だ、なんて後付けの理屈というか、良質の広告群がもたらした結果に過ぎないのですから。

 だからこそ、記事のように見せる「記事広」や、情報を配信して、新聞や雑誌、テレビなどに自発的に報道してもらおうとする「PR」、広告主がテレビ番組を買ってまるごと広告番組にしてしまう「通販番組」なんかの、あの手この手の広告手法が生み出されたわけですね。今どきでは、ドラマや番組コンテンツの中に広告要素を紛れ込ませる「ブランデッド・エンターテイメント」なんかもあります。

 けれども、その手法は、決して主流になるようなものではなく、存在自体がある節度と限度を持って存在しなければいけないような手法であると私は思っています。これらの広告手法は、突き詰めていくと、広告主の広告や媒体社が存立する基盤であるコンテンツの力を削いでしまい、自らの首を絞める結果になるからです。このことは、いくら時代が変わったとしても、変わることはないだろうと思います。

 分かりやすいのでブログに話を限定しますが、例えばブログの記事がペイパーポストだらけになったとして、本人が楽しければそれでいいとは思うけれど、それでも、そのブログのコンテンツは確実に魅力を失っていくでしょうし、コンテンツとしての力を失っていきます。今、わりと無邪気に「純広」以外の手法が礼賛されている傾向がネットマーケティングではあるように思いますが、「そうは問屋が卸さない」ということだと思います。長い目で見ると、やっぱり、ある限度があるとは思うんですよね。ビジネスとしての飽和点というか閾値もかなり低い。

 そういう意味でも、今回のGoogleの中止と謝罪は賢明だったと思います。Googleは「純広」で食っている会社ですから。今、わりと広告の現場レベルでも、軽いノリで「BUZZとかWOMとかあるじゃない。ブロガーに記事書かせてさあ」なんて言う人が多かったりして困るんですが(真剣にBUZZやWOMを考えている人には迷惑な話でしょうが)、そういうのは絶対に主流になりませんし、なっちゃいけないです。どんな時代でも、広告屋の基本は、真っ当な広告として噂にされるようなコンテンツ(まあ、それは「純広」に限らず「情報=ネタ」だって何だっていいんですけどね)を地道につくっていくことなんですよね。それが、しんどくても。

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2009年2月10日 (火)

「個人メディア」考

 いちおう、私個人としては、現状でも「個人メディア」たるブログを使うに足る動機は十分にあって、現にここに広告論みたいなことをいっぱい書いているわけだし、率直に言えば専門分野について書くという時点で、ある程度読んでいただける人は想定できるわけで、しかも、ブログを始めるまでは、仕事でしかウェブやPCに親しんでこなかった、つまり、フォーラムも使ったことがない、そんな私に書く資格があるのかどうかという問題はあるけれど。

このブログのサブタイトル、単にコンコルドが引退しちゃった、ってだけじゃないんです。
そういう、『場で、みんなで』というのも過去のものになっちゃったね、という嘆息をね、掛けてあるんです。
ブログ、それこそ「個人メディア」が脚光を浴びた時ですからね、ココログの始まりは。

ソロプレイの悲哀、と表現しましょうか。:CONCORDE

 このエントリをトラックバックしていただいて、そのエントリを読みながら、ウェブ上にあるニフティフォーラム関連の記事をつらつらと眺めてみました。意外と少ないんですよね。WWWではなくて、閉じられたパソコン通信時代のものだからなのかもしれません。それと、フォーラムのデータは、もう@niftyのサーバには残されていなくて(参照)、閲覧もできない状態なんですね。

 私は、パソコン通信はやったことがなくて、フォーラムも実際には見たことがありません。今で言うと、仕組み的にはmixiに近いものがあるような気がしますが、でも、mixiにも自分のページがあって、ブログと同じように、自分の記事が基点になっています。

 フォーラムユーザーの有志によってつくられたfolomyは、OpenPNE というmixiクローンの技術によって構築されていますが、自分の日記はつけられないようになっているそうで、mixiのように「個」と「個」が友達としてつながって、仲間になるような関係ではなく、folomyの言葉を借りると「多対多」のコミュニティ群を目指しているということです。こういう、mixiのようなSNSではなく、2ちゃんねるのような匿名「掲示板」でもない、ある程度の個性というか固有性が明確になった個がそこに集まってみんなで同じ題材について論議(会話)する「会議室」的なコミュニティが、CONCORDEのTristarさんのおっしゃる『場でみんなで』というコミュニティのあり方なんでしょう。

 確かに、それは掲示板のようにも、SNSのようにも見えるけど、前者には匿名性というか個が見えなさ過ぎるような気がするし、SNSは結局、ブログなんかよりもきつい「個」の個性が試されるような気がします。SNSの「個」の個性というのは、私の感覚ではブログよりきつい感じがしていて、ブログの場合は「言葉」というフィルターを通した「個」の個性(つまりは、私なんかがわりとなじみやすい場ではあります)ですが、SNSはもっと生な「個」が勝負になってくるような気がして、Tristarさんの表現する悲哀が私に理解できるとすれば、きっとSNS的な部分で、なんだろうな、と思いました。

 もっとオープンにウェブでつながっていこうとする取り組みとして「はてな」があるのでしょうが、どちらにしても、「はてなダイアリー」はブログを書く個人同士のidでのつながりで、その意味ではアメブロとかにも毛色はまったく違うけど近いような気がするし、「はてなブックマーク」のコミュニティ的な部分は、そのネタ元を「個人メディア」であるところのブログとしてつながるという感じなので、ウェブという空間の中での「会議室」というコミュニティ感とは違うのでしょうね。

 今の時代は、個人か匿名か、みたいな両極しかないような息苦しさというのは確かにあって、かつてのフォーラムのような『場でみんなで』という感じが失われつつあるのかもしれません。それは、なんだかお茶の間の消滅と、それを起点とするテレビの影響力の低下みたいなものと同期しているような気もします。

 マスメディアというのは、みんなが見ているというのが存立の根拠であって、それを担保として、広告というシステムは組まれていて、それが成り立たなくなってくると、広告は細分化されて、よりパーソナルな小さなメディアに分散されていくしかなく、まあそれでも広告なんてどうなってもいいじゃね、みたいなことかもしれませんが、広告ではなく文化みたいなものを考えた場合、ひとつの話題を共有するよろこびみたいなもので言えば、それだけではあまりにさみしい気がしますし、人間はそれだけではやっていけないのだろうなと思います。

 お正月にも書いたけれど、個人と匿名という間に、じつは「大衆」というか、吉本隆明さんが言うところの「大衆の原像」というものがあるはずで、このところ「大衆」というものをつらつらと考えていて、まあ、あの人は詩人であるから、「言葉の根幹は沈黙である」みたいなことと同じように、「沈黙」が活き活きとした「言葉」を生むし、「場」によってこそ「個人」は生かされるというところはあるんでしょうね。

個人で伍してゆくことになりますからね。孤独にもなろうってもんです。
何度も書いているように、まず淘汰されるわけで。

ソロプレイの悲哀、と表現しましょうか。:CONCORDE

 まあ、このへんのことで言えば、私はそもそもが専門分野から始まっているわけで、冒頭にも書いたように、そのことに答える資格があるのかどうかはわからないんですが、ブログは「メディア」だから、メディアが大きくなるには、頻繁な更新と、持続、継続だったりするので、読まれようと思えば、ある閾値までは簡単にいくのだろうなとは思うんですよね。私の場合は、そもそもが、ああこれ、いわゆる「雑誌」と同じだな、というのが始まりだし。

 でも、商業雑誌と同じような「メディア」の成長の法則を使ってまで読まれることに意味を見出せるかどうか、というのは「個人」としての充実みたいなものとは別の話なんだろうと思います。また、タイトルをなぞれば、いつまでもソロプレイをしていておもろいか、という問題もあって、音楽で言えば、やっぱりアンサンブルあっての音楽だとも思いますしね。

 そういう意味では、今は「個人」が参加できるウェブの場があまりにも「個人メディア」たるブログに偏重しているというのはありますね。でも、掲示板では「個人」は見えにくいし。はてなで言えば、「はてなハイク」みたいなシステムは、わりとフォーラム的な場ではあるとは思うんですが、でもあれは話題が恣意的で分散的な部分が少し違うのかも。コンセプトはTwitter的だし。敷居を下げるという部分に注力しているような。ウェブはどうしてもPVですしね。

 folomyが盛んなのかどうかはわかりませんが、きっと時代的にはメインストリームではないんでしょうね。@nifty的には押しは、ココログとアバウトミーみたいですね。やっぱり、時代は俺俺ですね。なんか結論が出そうになさそうなので、このへんで。でもまあ、私は、この分野は関心領域ではないけれど、こうして小さなきっかけで、個人と個人で、しかも、Tristarさんのエントリにおんぶにだっこではありますが、なんとかコミュニケーションが成り立っているというのは、「個人メディア」たるブログの素敵なところではあるかなとも思います。まあ、私も気張らず続けていこうかなと思っています。

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2009年2月 9日 (月)

ブログなんてものは

 ウェブパブリッシングツールを使って、そこに文章や写真を掲載して、ウェブ上に公開するということに過ぎなくて、それは、形式的には雑誌とか書籍とかと何ら変わりがありません。あるとすれば、その流通経路がウェブであることと、パブリッシングに対するコストが雑誌や書籍とは比べ物にならないくらい安いということ。もちろん、ウェブサイトとブログの最大の違いである、記事ごとのパーマネントリンクやコメント、トラックバックという付加機能はあるけれど、それはやはりブログというものの付加価値であるのだろうと思います。パーマネントリンクについては、記事とURLの同一性の問題、つまり、主にそれを閲覧する人、引用する人のための付加機能だし、コメント、トラックバックについては、無効化することもできます。

 ウェブという流通経路に乗せられるということも、従来の文章の流通経路と比べると、コストがかなり低くおさえられることを意味しています。つまり、ブログの最大の特徴は、個人ベースで出版と同じようなことができてしまうということだろうと思います。それは、従来のウェブサイトも同じですが、私のようなhtmlタグとかをあまり知らない人まで、ブログによって自分の文章などを簡単に流通に載せられるようになったという意味では、私は、個人的には、この出版と同じような機能が大多数の人に開かれたということが、ブログの最大の特徴だと言い切ってもいいのではないかと思っています。

 それは「個人メディア」ということなのだろうけど、この「個人メディア」というのは、「個人」でない「メディア」と形式的には何ら変わりはありません。あるとすれば、本屋に並ばないことくらいです。で、この「個人メディア」というものには、その敷居の低さ故の特徴があって、それは書き手が編集責任者もしくは出版人を兼ねるということだろうと思います。つまりは、自分の文章やコメントを含め、掲載するものすべてについての管理を自分でしなければならないということです。個人でできる気軽さはあるけれど、それはメディアなんだから、当然管理は必要。

 このメディアという言葉は、ブログに書かれる内容に関係はありません。身辺雑記でも、広告論でもなんでも、メディアであることには変わりがありません。気軽な内容だから、私のブログはメディアではない、ということはありえません。ブログをはじめる、ということは、自分のメディアを持つということだと私は思うのです。

 これからブログをはじめようと思っている人は、このあたりをきちんと考えた方がいいんじゃないかな、と思います。それほど恐れる必要もないかもしれませんし、ブログをはじめたから、全世界がそのブログに注目、なんてことはないわけだから、まあ当たり前の線に落ち着くのだろうけど、だからといって、万が一のことをまったく考えずにブログをはじめるのはもうそろそろやめにしたほうがいいと思います。ウェブテクノロジーの知識に疎い私がブログを熱心に運営する、大衆化したウェブの時代なのだから、それなりの個人メディアを運営するという気持ちは持っていたほうがいいと思うのです。

 むしろ、はじめから言及上等な論壇系の人よりも、気軽な身辺雑記という感じの人の方が、心の奥ではしっかり自分が管理するんだという気構えを強く持っていたほうがいいと思います。それは、突発的なトラブルを防いでずっといい感じにブログを運営していくことにもつながるし、そのへんは臆病になりすぎるくらいでちょうどいいんだと思います。

 ウェブでは、フラットでオープンなコミュニケーションが実現できる。それが、もしウェブだから、ブログだから、という循環論法的な根拠を担保にしているのならば、すなわち、無根拠にそれを信じているだけに過ぎず、その幻想は必ず現実が裏切っていきます。逆に言えば、フラットでオープンなコミュニケーションを実現するためには、それを実現するための覚悟や挟持、責任みたいなものがいると思います。私が書くと重くなるけど、フラットでオープンなコミュニケーションを楽しむ軽やかな人たちも、その覚悟のようなものは胸に秘めているはずだし、いろんな経験を経ているはずです。

 ブログブームみたいなものも下火になってきたことだし、ブログだから、という幻想はそろそろ終わりにしてもいいのではないかな、と思います。もし、あなたがブログをはじめていなくて、いろんなブログを見ているうちに私もブログをやってみようかな、みたいなことを思う時があれば、そう言えば、広告人の人がなんか言ってたな、と思い出していただければ幸いです。ブログなんてものは、それほど自由なものでも何でもなくて、個人が運営できる、ひとつの小さな「メディア」に過ぎないんだから。

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 TristarさんのブログCONCORDEの『「闇の中の光」ってことは、基本は「闇」なんだから。』というエントリに触発されて書いてみたものの、元エントリとはまったく違う話になってしまいました。きっと、私の場合、「明るい(ポジティブな)ことだけで構成されたブログ論」というとき、こっち方面に関心が行ってしまうんでしょうね。

 でも、こうしたズレみたいなものが、ブログ間のコミュニケーションの特徴なのかもしれませんね。きっと、個人メディアたるブログは孤独がベースだからなのでしょう。ブログは、本質的にはコミュニティ指向ではないような気がします。(きちんとした言及ではないけれど、トラバ送りました。)

※「むしろ~思います。」の6段落目を追加しました。

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2009年2月 7日 (土)

継続が速度を上げる

 ♪ガリガリ〜クン ガリガリ〜クン ガリガリ〜ク〜ン 

 たとえば、ガリガリ君のTVCMのコミュニケーション速度。その速さは、同じ歌詞、同じメロディで、何年にもわたって継続しているから出ているものでしょうね。年長組が歌ってるのを聴いて、年下の子供たちが真似をして、そういうサイクルがずっと続いているのだと思います。初見だと、今のコミュニケーションの速度には到達していないはず。

 このいいサイクルがあるおかげで、通常のコマーシャルより、ガリガリ君のコミュニケーションのコストはずっとずっと下がっているはずです。何クールかでタレントを変え、コミュニケーションのコンセプトさえも変えてしまう数多のブランドより、ずっとずっとコミュニケーションの効率は高くなっていると思います。

 この効率の高さは、何億円をつんでも手に入れられないもの。もし、どこかのアイスキャンディー屋さんが、「いくらかかってもいいから自社のブランドを、ガリガリ君のように、いつでもコンビニに置いてあるようにしてほしい」と言われても、なかなかできるものではないと思います。

 ある一方向のベクトルとしては、広告コミュニケーションはアイコン化を目指すものだろうと思います。信号の「止まれ」を意味する赤。これを一夜にして青に変えることはできません。言葉のコミュニケーション速度の優位性は、この領域に入ると、確実に逆転します。色、音、カタチの絶対的優位がそこにはあって、私なんかの言葉をベースにする広告制作者がアートや映像ベースの広告制作者に対して抱く憧憬みたいなものは、この部分だったりします。

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 追記です。YouTubeの「ガリガリ君のCMを集めて見た!!」という動画の引用を追加しました。それにしても、見事なマンネリ。素敵です。私は、こういうのこそブランディングのお手本だと思うんですよね。本気で。だって、いろいろ長くやってたら自社のCMでも飽きるし、調子が悪いときには、CMを変えたくもなると思うんですよ。右肩上がりだけではないですからね。特にコンビニ商品は。

 こういうの、簡単にできるようで、なかなかできることではないんですよね。

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2009年2月 6日 (金)

言葉の速度について

 広告は見てもらえる、みたいな気持で作るなというのは、マス広告の危機だなんだといわれる前からよく言われることで、とあるクリエイターは、きれいなポスターをつくってきた後輩クリエーターに対して「キミ、この広告で人が振り向くと思う?例えばさ、白いポスターの真ん中にうんこがあるとするじゃない。それ、気持いいかどうかはともかく、見るよね。そのうんこのポスターに勝たないといけないのよ。」と言ったそうです。まあ、うんこのポスターは極論だとは思いますが、広告は、「そんなもの誰も見るかいな」みたいな気持でつくってちょうどいいんじゃないか、と思います。

 新聞広告でも、テレビCMでも、ポスターでも、ウェブバナーでも、広告である限り、まずは見てもらうことが大事。でもそれは第一段階クリア、みたいなことに過ぎなくて、そのあとの段階がいくつもあります。これだけ情報が多くなってきた今の世の中、人々の広告に対するスルー力はかなり上がってきています。ちょっとうっとおしいな、と思われるだけで、華麗にスルーされてしまうんですよね。

 なので、広告の言葉は、どうしても読みたくなるくらいの魅力、もしくは、言いたいことがストレートかつすぐに伝わる「速度」が求められます。魅力の部分は、まあ魅力的な言葉をつくりましょうってことだから、あまり語ることもないんですが、「速度」については、広告独特のものでもあるし、ここが文芸の言葉と広告の言葉の決定的な違いのような気もするので、ちょっと書いてみます。

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 たとえば、とあるキャンペーンが2月28日で終わるとして、そのことを「あ、終わってしまう、急がなきゃ」と思わせるコピー。次の2つのコピーのどちらをチョイスするべきか。

2月28日終了。

2月28日まで。

 この2つのコピーは、「速度」という観点からは明快な違いがあると私は思っています。特に調査をしたわけでも実験をしたわけでもありませんので、あくまで私は、ということですが。答えは、下の「2月28日まで。」です。

 理由は明快。「終了」が頭の中で音に変換されるときに「終了→しゅうりょう」という1プロセスが必要なことに対して、「まで」はそのまま見たままで音だからです。その余分の1プロセスで、人の感情における理解の「速度」は遅くなります。しかも、「まで」は音が2つに対して、「しゅうりょう」は「しゅ」を1つと数えると2倍の4つ、数えなければ3倍の6つあります。

 よく広告コピーでは「なるだけ漢字はひらけ(ひらがなで表記しろ)」と言われます。「下さい」は「ください」のほうがよく、「私達」は「私たち」のほうがよい、みたいなこと。これは、誰にでもやさしく表記するという部分もあるけれど、きっと速度の問題でもあるのでしょう。で、ここで「私」はひらきませんでした。これは、「私」という漢字は、ひらがなの「わたし」より速度が速いからです。たいがいの漢字はひらくほうが速度が速く、日常で頻出する簡単な漢字は、ひらがなより漢字のほうが速度が速いということなんですね。

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 広告コピーをつくる人。コピーライターという職業ですが、華やかな言葉をつくる職人(ってもう誰も思ってないかもですね)であるだけでなく、こういう「速度」みたいなものもねちっこく考える職業でもあります。最近、広告がやたら多様化してきて、広告のコピーはインパクトでしょ、みたいな感じになってきて、そういうのなら誰でも書けるみたいな空気がさみしいのですが、まあ、それでも自信をもってコピーライターと言える人たちは、こんなことも日頃から考えていることをちょっとお伝えした次第です。

 これからの世の中、コピーひとつの表現の良し悪しって、結構大切だと思うんですよね。クリエイティブって、販売促進の中では何気に「予算削減」の機能を果たすので。目的に対して100万円かかるところを、広告の表現が優れていると50万円で済むみたいなことはありますから。ビジュアルの良し悪しは予算の多い少ないに左右されがちだけど、コピーは基本はそれがありませんしね。

 1千万円かけてつくった豪華なポスターがB倍2連貼りであったときに、隣に4分の1の大きさのB1ポスターで、しかも白地にコピーだけの超低予算ポスターを貼って、その1千万円ポスターを圧倒する快感みたいなことを昔、仲畑貴志さんがおっしゃっていましたが、まあ、そんな感じですよね。特に物量作戦が取れない小さな会社なんかには、言葉の力って、すごく有効だと思います。そういう意味では、これからしばらくは言葉の時代が続くんじゃないかな、と思っています。

関連:継続は速度を上げる

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2009年2月 5日 (木)

ノイズキャンセリングヘッドフォンをiPod nanoに差して使っているんですが

Sony_2  なかなかいいんですよね、これが。今、空き時間でドトールにて作業中なんですが、付けていると快適。音楽を音量小さめがグッド。完全に静寂とまではいかないけれど、おっ、と思うくらいには静かにはなります。たいしたもんですよね。

 iPodも中に入っているデジタルアンプとかDSPの性能が上がっているのか、それとも圧縮技術が高くなっているのか、ものすごく音質がいいし。まあ、比較対象が私の場合は大昔の携帯MDだったりしますが。

 ノイズキャンセリングヘッドフォンはSONYのやつ。単4電池を使うから、コントローラーが少し重くてめんどう。OFFにするのを忘れると、次に使うときには電池切れなんてことも。道で付けていて、後ろからクルマの音が聞こえて振り返ると、けっこうクルマが近くまで来ている、ということもあって、道で使う時は気をつけないと危ないかもしれません。それと、完全に静寂になるというわけではないので、それを期待すると、なんだこんなもんか、と思うかもしれません。あと、サーッというノイズは無音状態だと気になるかも。これは技術的にはしょうがないらしい。

 私はジャズのピアノトリオを良く聴きます。この場合は、ノイズキャンセリングヘッドフォンは最高なんですよね。小さな音量にしていても、アコースティックベースの音がはっきり聴こえます。屋外で聴いている時は、たいていベースソロの部分はまわりの雑音にかき消されますが、これなら何の問題もなし。

 それといいのは、満員電車の中。他人がヘッドフォンを付けていて、シャカシャカが気になりますよね。その人がリズムを取ってたりすると、なんかイライラしますよね。で、そのリズムで、「おっマイケルシェンカーか、懐かしいなあ」とか思いますよね。だから、満員電車では小さな音量で聴いた方がいいですよね。マナーとして。でも、小さな音量では、まわりの騒音にかき消されて音楽が聴こえにくい。こんなとき、ノイズキャンセリングヘッドフォンの出番です。小音量でも大丈夫なんです。これ、この製品のいちばんの利点かもしれません。

 まあそんな感じで、私的にはおすすめです。

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2009年2月 4日 (水)

「なにわ遊覧百貨店」の末路

 そごう心斎橋店をセブン&アイ・ホールディングが売却を決めた(参照)とのこと。フランク永井さんのヒット曲「有楽町で逢いましょう」の有楽町そごうは、ずいぶん前にビッグカメラになっていて、なんか切ないですね。

 2000年にそごうが破綻して、本店である心斎橋そごうはしばらく閉店していました。2005年の心斎橋そごう再開時、宮沢りえさんを起用して「なにわ遊覧百貨店」として大々的にアピールしたけれど、大阪の人たちは、そんなそごうを支持しなかったようです。

 景気のせいでもありますが、それだけとも言えない部分があります。大阪の心斎橋地区は、わりと活況ですし、御堂筋沿いには高級ブランド店が軒を連ね、周辺のアメリカ村や南船場、堀江には個人経営のカジュアルなブティックが集まっています。心斎橋そごうのお隣の大丸心斎橋本店は、不況のあおりは受けていますが、不調は不況によるものに限定されているようです。

 私が子供の頃は、大丸は庶民的で、そごうは少し都会的で上品なイメージがありました。難波の髙島屋は伝統的なイメージで、ミナミにある百貨店はきちんと棲み分けができていたように思います。そんなブランドイメージを持っている大阪の人にとって、そごうの「なにわ遊覧百貨店」というコンセプトはピンとこなかったのかもしれません。それにこのコンセプトは少し東京目線があるようにも感じます。「なにわ遊覧」は、なにわに住み、毎日その土地で暮らす人には興味ありませんよね。このコピーが話題になっていたとき、私は大阪で広告の仕事をする先輩とそんな話をした覚えがあります。

 もちろん百貨店という業態自体が今も鮮度を持っているかどうか、という問題もあります。私は大阪のなんばCITYに始まり、東京の日本橋三越本店などを担当し、ある時期まで流通中心にキャリアを積んで来た広告屋ですから、百貨店には個人的には思い入れがあります。だから百貨店という業態をひいき目に見てしまうところはありますが、やはり、百貨店という業態を変えるつもりがないならば、百貨店の本質みたいなものは忘れてはいけないのだろうな、と思います。

 結局、百貨店というのは、その名が示す通り、百貨、つまり、いろいろなモノを売る場所であって、「遊覧」の場所ではないのだろうなと思うんですね。で、百貨店のイメージを決めるものは、モノの選択であり、その選択眼に個性が出てくるのだろうと思います。その個性で集められたモノたちが集合して、ひとつの個性的な場ができて、それを百貨店と呼ぶのだろうな、と。だからこそ、その百貨店の個性を究極的に表現するのは、じつは外商だったりするんです。百貨店という組織の中で外商、とりわけ外商のバイヤーが一目置かれているのには、きっとそういう理由があるのだと思います。

 南船場も、堀江も、東京で言えば原宿も、その場所が個性的であるのではなく、売りモノの集積が場の個性を形作りますよね。神田古書街も、秋葉原も同じ。80年代のバブル期の反省があるとすれば、そこなのだろうと思います。モノがあり、それが集まり場の個性をつくる。でも、バブル期は、それが逆転するんです。コンセプターはそれを逆転できると思ってしまった。場の個性を先に規定し、それで人を集めていける、と。そこにはモノが抜けているんです。

 私の認識でしかありませんが、バブル期はコンセプトの時代でした。「気まぐれコンセプト」という広告業界を題材にした漫画がありますが、言い得て妙だと思います。気まぐれなコンセプトがまずありき。そこからすべてが始められると誤解してしまった。でも、それって、ある意味神の領域ですよね。バブルを追い風にでもしなければ、そんなことは人間には無理だと思うんですね。

 日本の場合はという注釈はつきますが、百貨店は、もともと呉服店である「越後屋(現在の三越)」が、呉服を店頭にたくさん集めて、一見のお客さんも店に入れて、「現銀掛値無し」という正札販売という当時は画期的な商法を打ち出して(世界初だそうです)、呉服を大衆化したことからその歴史が始まっているわけで、やっぱり始まりはモノなんです。モノがたくさん集まって、場をつくり、そこに人が集まり、少しずつ時が積み重なり、歴史になって、今の百貨店が出来てきたんですよね。時代が変わっても、この順序は変わらないと思います。

 心斎橋そごうは大丸を抱えるJフロントリテイリングに売却される方向で詰めの作業をしているとのこと。大丸ブランドで統合して、大丸心斎橋店を、巨大な売り場面積を持つ百貨店にするのか、それとも、そごうはそごうとして別ブランドとして立て直していくのか。気になるところです。時期が時期だけに、難しいところですね。

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2009年2月 3日 (火)

ちょっと前までは広告のことしか考えてなかった

 これ、誇張なんかじゃなくて、ほんとにそう。もちろん、牛丼を並にすべきか大盛りにすべきか、それとも卵を付けるべきか、とかは考えてましたよ。でも、たいていは広告のことばかり考えていた。ということは、広告のことしか、というのは間違いなんだけど、まあ、そういう言い切り、気持ちいいじゃないですか。

 広告のこと以外も考えるようになってきたのは、最近かも。それまでは、ああだこうだといろいろ考えるけれども、広告のまわりでいろいろ考えていただけで、半径1クリックじゃないけれど、わりと狭い範囲で考えていたように思います。今も狭いことは狭いんだけど、それでも、思考が広告からはみ出したりもしている自分に、ちょっと驚いたりしています。

 広告というシステムが過渡期に来ているから、というのもあるけれど、それだけではないような。逆に、広告からはみ出した部分で考えるから、過渡期としての広告を新しい視点で考えられるようになったというのはあるかも。なんていうか、肩の力を抜いて広告を考えられるというか。なんでしょうね、この感じ。土の上にある茎とか葉っぱじゃなくて、地下茎の広がりというか。

 そういう意味では、言うほど危機感はないんですよ。私の場合は。わりとオールドファッションの広告屋は、危機感ありありだろうなんて思われているかもしれませんし、東洋経済なんかの特集を読んで、やべえよ、やべえよって騒いでるイメージありますけど、私はそうでもないです。もちろん、それでまわりの空気が淀んだり、貧すれば鈍するみたいなことは、やだなと思いますよ。でも、まあ、それもしょうがないな、みたいな感じ。とりあえず、私は、それでも元気です。

 こういう状況のとき、あっ、俺の時代が来たな、みたいなこと思うほうが精神的にはいいし、ほんとにクラッシュしたらクラッシュしたで、しょうがないしね。でもね、やっぱり、私の予想ですが、今のような広告はこれからも残ります。コアの部分はね。それで、表面上というか、形式的な部分は縮小はするだろうけど、コアの部分のカタチを変えた拡大は当然あるだろうし、そのときに、ある意味で、今までの広告以外のところの思考はもっていないと駄目だろうな、という感じはあります。柔軟にいかないと。

 全体の受け皿が縮小して、もしそれで私が残れなかったら、別のとこいくし、その別の場所でも、コアの部分は広告をやっているとは思うんですね。思考としての広告というのか、なんというか。なんか、そのへん楽観的じゃないとしんどいですよね。不況、かかってこんかい、という感じ。

 あれ、いつのまにか、いつまでも広告だよね、という話に変わってますね。でもまあ、広告以外のことを考えられるようになってきたのは実感なんですよ、というお話でした。ではでは。

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2009年2月 1日 (日)

Googleのすべての検索結果に「このサイトはコンピュータに損害を与える可能性があります。」という表示が出ている件(解決済・追記あり)

 なんだろう、と思ってGoogleのブログ検索をしてみると、みんなそうみたいですね。と思っていたら、12時15分頃解消。そんでもって、すでにITmediaが報道(参照)。速い。ネットはなんでも速い。それに比べて、私のいる業界はずいぶん遅いよな。これでも、版下がPCになり、フィルムがハードディスクになったりして、昔に比べりゃずいぶん速くなってるんだけど。
 ま、GoogleのPageRankも揺れているみたいだし、いつものGoogle Danceなんでしょうね。と思っていたら明日の朝、大変なことになってたりして。まあ、それはないかな。

 追記:人的ミスだそうです。「マルウェア対策プロジェクト」が手作業で行っているときに、問題があるURLリストの中に「/」がまぎれていて、その結果、「/」が含まれるURL、つまりすべてのURLが問題ありになったとのこと。しかし、こういう悪さをするサイトリストの作成、人力だったんだ。ちょっと驚き。

Google検索、世界で不具合 「人的ミス」で全URLに「コンピュータに損害を与える可能性」 - ITmedia

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