「純広」という言葉が持つ意味
興味深い出来事がありました。日本のGoogleがペイパーポスト(広告主または広告会社がブロガーに報酬を与えて記事を書いてもらうこと)を利用したプロモーションを行い、それがGoogleのサーチガイドラインに抵触して中止したとのことです。CNETJAPANのブログ「渡辺隆広のサーチエンジン情報館」の記事「Google、ペイパーポストのブログマーケティングで謝罪」で詳しく解説されています。興味のある方は、ご一読ください。
これはインターネットでの出来事ですが、従来の広告でも同じようなことはよく起こっていて、そのため、広告主が広告媒体を購入して、自社もしくは広告会社で制作した広告のことを「純広」または「純広告」と呼び、新聞社や雑誌の中に記事として広告を溶け込ませる広告手法のことを「記事広」または「記事体広告」と呼ぶことで、明確に区別をするようになっています。自社もしくは広告会社で制作した広告でも、文章が多めの記事風に作るものをたまに「記事広」と呼ぶこともありますが、厳密に言うと、それは「記事広」ではなく「純広」です。但し、記事と著しく混同するデザインの「純広」は、新聞社や雑誌から、[広告]と明示するように求められることがあります。
「純広」は、インターネットが始まる前から「できれば見ずに済ませたいもの」としてあります。民放だって、新聞だって、ほんとうは広告枠なんかじつはなければないほうがいい。そんな存在です。広告がエンターテイメントだ、貴重な情報だ、なんて後付けの理屈というか、良質の広告群がもたらした結果に過ぎないのですから。
だからこそ、記事のように見せる「記事広」や、情報を配信して、新聞や雑誌、テレビなどに自発的に報道してもらおうとする「PR」、広告主がテレビ番組を買ってまるごと広告番組にしてしまう「通販番組」なんかの、あの手この手の広告手法が生み出されたわけですね。今どきでは、ドラマや番組コンテンツの中に広告要素を紛れ込ませる「ブランデッド・エンターテイメント」なんかもあります。
けれども、その手法は、決して主流になるようなものではなく、存在自体がある節度と限度を持って存在しなければいけないような手法であると私は思っています。これらの広告手法は、突き詰めていくと、広告主の広告や媒体社が存立する基盤であるコンテンツの力を削いでしまい、自らの首を絞める結果になるからです。このことは、いくら時代が変わったとしても、変わることはないだろうと思います。
分かりやすいのでブログに話を限定しますが、例えばブログの記事がペイパーポストだらけになったとして、本人が楽しければそれでいいとは思うけれど、それでも、そのブログのコンテンツは確実に魅力を失っていくでしょうし、コンテンツとしての力を失っていきます。今、わりと無邪気に「純広」以外の手法が礼賛されている傾向がネットマーケティングではあるように思いますが、「そうは問屋が卸さない」ということだと思います。長い目で見ると、やっぱり、ある限度があるとは思うんですよね。ビジネスとしての飽和点というか閾値もかなり低い。
そういう意味でも、今回のGoogleの中止と謝罪は賢明だったと思います。Googleは「純広」で食っている会社ですから。今、わりと広告の現場レベルでも、軽いノリで「BUZZとかWOMとかあるじゃない。ブロガーに記事書かせてさあ」なんて言う人が多かったりして困るんですが(真剣にBUZZやWOMを考えている人には迷惑な話でしょうが)、そういうのは絶対に主流になりませんし、なっちゃいけないです。どんな時代でも、広告屋の基本は、真っ当な広告として噂にされるようなコンテンツ(まあ、それは「純広」に限らず「情報=ネタ」だって何だっていいんですけどね)を地道につくっていくことなんですよね。それが、しんどくても。
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