ちょっと前までは広告のことしか考えてなかった
これ、誇張なんかじゃなくて、ほんとにそう。もちろん、牛丼を並にすべきか大盛りにすべきか、それとも卵を付けるべきか、とかは考えてましたよ。でも、たいていは広告のことばかり考えていた。ということは、広告のことしか、というのは間違いなんだけど、まあ、そういう言い切り、気持ちいいじゃないですか。
広告のこと以外も考えるようになってきたのは、最近かも。それまでは、ああだこうだといろいろ考えるけれども、広告のまわりでいろいろ考えていただけで、半径1クリックじゃないけれど、わりと狭い範囲で考えていたように思います。今も狭いことは狭いんだけど、それでも、思考が広告からはみ出したりもしている自分に、ちょっと驚いたりしています。
広告というシステムが過渡期に来ているから、というのもあるけれど、それだけではないような。逆に、広告からはみ出した部分で考えるから、過渡期としての広告を新しい視点で考えられるようになったというのはあるかも。なんていうか、肩の力を抜いて広告を考えられるというか。なんでしょうね、この感じ。土の上にある茎とか葉っぱじゃなくて、地下茎の広がりというか。
そういう意味では、言うほど危機感はないんですよ。私の場合は。わりとオールドファッションの広告屋は、危機感ありありだろうなんて思われているかもしれませんし、東洋経済なんかの特集を読んで、やべえよ、やべえよって騒いでるイメージありますけど、私はそうでもないです。もちろん、それでまわりの空気が淀んだり、貧すれば鈍するみたいなことは、やだなと思いますよ。でも、まあ、それもしょうがないな、みたいな感じ。とりあえず、私は、それでも元気です。
こういう状況のとき、あっ、俺の時代が来たな、みたいなこと思うほうが精神的にはいいし、ほんとにクラッシュしたらクラッシュしたで、しょうがないしね。でもね、やっぱり、私の予想ですが、今のような広告はこれからも残ります。コアの部分はね。それで、表面上というか、形式的な部分は縮小はするだろうけど、コアの部分のカタチを変えた拡大は当然あるだろうし、そのときに、ある意味で、今までの広告以外のところの思考はもっていないと駄目だろうな、という感じはあります。柔軟にいかないと。
全体の受け皿が縮小して、もしそれで私が残れなかったら、別のとこいくし、その別の場所でも、コアの部分は広告をやっているとは思うんですね。思考としての広告というのか、なんというか。なんか、そのへん楽観的じゃないとしんどいですよね。不況、かかってこんかい、という感じ。
あれ、いつのまにか、いつまでも広告だよね、という話に変わってますね。でもまあ、広告以外のことを考えられるようになってきたのは実感なんですよ、というお話でした。ではでは。
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コメント
mb101boldさんは広告という表現手段で考えることが好きなんですよきっと(笑)。私は仕事が医療関係で、この仕事やめてやるって本気で思うことはあるのですが、じゃあ他に何やりたいって言われると思いつかなかったりするし。ただ、いろいろな物事の根本は同じではないかと思うのです。根元がしっかりしていれば、その後の枝葉は多種多様でも倒れにくいと思うのです。自分はまだ根元もふらふらしてますけど。ちょっとそんなことをエントリー見て思いました。
投稿: しばはな | 2009年2月 3日 (火) 21:07
私の場合は学生のときは広告なんてまったく興味はなくて、正直、世の中で広告がどういう人たちで作られているかなんてひとつも知らなかったんですよね。最初の職業は広告畑ではありませんでしたし。
それが何かの縁で広告をやるようになって、ずっと広告。私にはあっているのかもしれません。職業って、巡り合わせの部分はありますね。もしかすると、見えるカタチの職種というのは枝葉なのかもしれないですね。
投稿: mb101bold | 2009年2月 3日 (火) 23:08