「駅弁」と文化を担保するもの
本日は大阪へ。今、新幹線の車内で書いています。
予約したチケットの関係で、大急ぎで新幹線ホームへ行った関係で、崎陽軒のシウマイ弁当が買えませんでした。しょうがなく新幹線ホームの駅弁売場で弁当を。今、新幹線ホーム内は、ほぼすべてJR東海系の弁当屋さんになっています。商売上手というか何というか、その弁当屋さんにはきちんと、崎陽軒のチャーハン弁当とそっくりな「焼売炒飯弁当」というのが置いてあります。崎陽軒のより300円高く、そのかわり少し量が多くて、焼売はエビと肉の2種類。
味は、私はグルメではないので味にそれほど大きな違いがあるとは思えませんでしたが、崎陽軒の味が好きな私にとっては、まあしゃあないわなあ、という感じの味。可もなく不可もない、という感じでしょうか。
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新大阪の駅弁は水了軒が有名。でも、これは新幹線構内では買えません。新幹線のりば改札の外にあります。出張の多いサラリーマンの間では、わざわざ新幹線のりばの外にある水了軒の弁当売場で買ってから、構内に入るのが通とされています(というか私のまわりでは、という話かもですが)。
まあ、これには、地元のお客さんが買えるというメリットがあるけれど、中にあってもいいんじゃないか、とは思います。新大阪も構内は、やはりJR東海系列もしくはJR西日本系列。私には、なんか独立系の弁当屋さんにいじわるをしているように見えます。日帰り出張なんかで慌ただしいとき、行きも帰りも「21世紀出陣弁当」みたいなことがあり得るわけで、なんだかそれはあまりにもだなあ、なんて思います。
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私は仕事柄、都内のいろんなところに出かけることが多く、よく駅構内で食事をすませています。駅そばやカレー、最近ではラーメンなんかもあり、種類は充実してきているような気がします。
でも、ほぼどの駅も、そば屋もカレー屋もラーメン屋も同じ。つまり、JR東日本系列なわけです。その駅ならではの立ち食いそばを食べるためには、一旦、駅の外に出なくちゃいけません。新橋だとポンヌッフとか、中野だとかさいとか。品川はなんとか駅構内で2、3の独立系ががんばっているようですが、独立系駅そばファンとしては、いつまで残ってくれるのかという思いがあります。
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まあ、駅の中は、JRのものだから、JRの裁量でやるというのが筋だし、経営でいえば、系列のフード関連会社をつくってそこが独占すれば、効率的だし、自社の資産を十分に活かした賢い経営みたいなことにはなるでしょう。株主利益にもなりますし。
でもなあ。でもなあ、なんですよね。駅というのは、公共性みたいなものもあると思うし、鉄道というのはインフラでもあり、文化でもあると思うんですよね。甘いかもですが。
文化というのは、多様性が担保するものだと思うんですよね。伝統文化はどうなんだ、という話もありそうですが、それでも現代文化あっての伝統文化なわけで、だからこそ伝統文化は尊いんですよね。
なんの事業でもそうですが、これもひとつの文化を担っているという挟持を持たない事業は、長い目で見ると衰退してしまうと思うんですよね。まあ、たかが駅弁の話ではあるんですが、それもひとつの縮図のような気がしてしょうがないです。
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デパートは不調ですが、全国駅弁大会はあいかわらずの人気です。需要はあるし、私みたいなのが書くらいだから、その駅でしか買えない弁当というのは、それなりに人気も出そうな感じがするんですね。それぞれの駅にそれぞれの駅弁や駅そばがあること。そのプラン自体には、きっとマーケティング的な欠陥はあまりないはず。
でも、今は、その分野全体を豊かにしていくマーケティングより、特定の企業にとっての効率が上位にくるんですよね。今の時代は。私なんかは、JRなんだし、弁当の分野でがんばらなくてもいいじゃないですか、鉄道事業でがんばりましょうよ、と思うんですけどね。甘いのかな、甘いんでしょうね。
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なんかね、最近になってぼんやり思うのは、資本主義の行き着く先っていうのは、結局、なんだかんだの自由競争をそれなりに経たうえで、やがて独占に収斂していって、多様性のない社会主義的な社会なのかな、なんてこと。もしくは、業種自体の衰退か。
で、この先は私が苦手な分野なので、あまり偉そうなことは言えませんが、その低レベルの知識で考えても、この社会主義的な多様性のない状況をつくらないためには、ある種の社会主義的な施策、つまり保護みたいなことが必要になる、ということになるんですよね。パラドクス的ですが。その歯止めのために、資本主義は独占禁止というカードを持っていたりはするけれど、先に挙げた事例なんかは、一企業の裁量権の範囲内でしょうし、難しいところです。
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自分の足下を振り返ってみると、我が広告業界も、多様性の獲得に見事に失敗していたりして、逆に資本主義の本家である欧米の方が多様性豊かな業界を形作っていたりしていて(まあ向こうは向こうで、持ち株会社的な覇権というのもあるけれど)、このあたりどう考えていったらいいのか、という感じです。
やっぱりそれでも、考えのコアは、文化を担保するものは「多様性」であることというのは揺るがないでしょう。その「多様性」と、自社の繁栄みたいなものを、どのあたりで折り合わせてやっていくのか。せっかくの不況なんだし、そのあたりがこれから鋭く問われてくるのではないかな、と思います。
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コメント
地元の駅ビルがJR系のアトレになりました。テナントでこれまで無かったスターバックスやBK1、豪華な食品売り場ができ我が街もちょっと充実してきたかなと思っている一方で、アトレ傘下になったことで無個性になってしまったなぁとも思います。
投稿: ふくはら | 2009年2月24日 (火) 09:53
駅ビルは今転換期にあるように思います。私は、若い頃は電鉄系駅ビルの仕事をよくしてきたのですが、その頃とはビジネスモデルが少し違うみたいですね。箱だけでなく、中身を考えるようになったと言いますか。その中身が多様化に向かえばいいのですが、収益性を考慮すると、どの駅も同じになってしまうというか。それと、人気商売の真似、つまり偽物が多くなったような。
なんとなく、中堅駅の店舗を見ていると、地元の人なんだから、こんなものでも満足でしょ、みたいな気持ちが透けてみえるようで、なんだかなあ、という気持ちはありますね。
投稿: mb101bold | 2009年2月24日 (火) 20:18