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2009年2月28日 (土)

「制作のやつは馬鹿だから」みたいなことがあるのかもね。

 そういう自称コミュニケーション・デザイナーさんたちのインサイトは、統計学的には誤解じゃないかもしれないし、制作にもいろいろいるだろうと思うんですけどね。でもまあ、こういう、制作は表現の専門家ではあるけれど、基本的には「馬鹿」だから、俺たちが導かないといけない、みたいなムーブメントが定期的に出て来て、はっきり言えばちょっとうんざりです。そういうムーブメントを起こす人は、たいがい見たところでは、その心の奥で表現に対してルサンチマンを抱えていたりはするんですが、建前で言えば、正義というか使命みたいな前向きな気持ちに裏付けられていて、それがじゃまくさいといえばじゃまくさい。

 その人曰く、制作っていうのは表現の専門家でしょ、その表現に専念するためにも俺たちがフレームをつくらなきゃいけなくて、今までそれがなかったからうちの会社はいい広告が出せなかったわけでさ、みたいなの。で、その時点で、それを言っている本人の「いい広告」の観測範囲は恐ろしく狭くて、制作という職種の専門性というものに対する洞察も浅くて、その思考の浅さや視野の狭さゆえに自我は肥大化していて、これからはさあ、俺たちがいいと思う表現以外は、クライアントがほしいと言っても世の中に出さない、というシステムをつくろうと思うんだよね、やっぱうちの売りはクリエイティブだしさ、みたいな。

 よくその話を聞くと、そこにはまったく今までの自分の実績が担保されていなかったり、あえて言うと、その担保は本屋で売っている本を読んだことだったり(で、本人はこっちがその手の本を読んでいないと無邪気に信じてたり)、そのいい広告のジャッチに制作が含まれていない、みたいな感じで、限りなく軽薄だったりします。

 ほんと、どこまで人は傲慢になれるんでしょうね。ほんとはこういうの、馬鹿っていうんじゃないかな。でも、こういうムーブメントは、ほんと定期的にわいて出てくるみたいで、困ったもんです。

 一頃、アカウントプランナーという概念が流行りましたよね。外資系なんかで。「クリエイティブ=砂場で遊ぶ子供」論というのがあって、クリエイティブが砂場でクリエイティブに遊んでもらうためには、俺たちアカウントプランナーがいい砂場をつくってあげなくちゃいけない、みたいな考え方。結果、どうなったか。定着まで想像力が行き届かないガチガチのブリーフ(広告の設計書みたいなもの)をつくって、効かない広告がどんどん世の中に出て行った。で、そのアカウントプランナーは何を言ったか、というと、うちはクリエイティブが弱いんだよね、と。

 小さな外資系広告会社の場合、そのうち会社が傾いて、当のアカウントプランナーは、先進的な肩書きを履歴書に書いて、さっさと転職。こういう気分の悪い状況が、コミュニケーション・デザイナーという新しい職種とともに、このところまた盛り上がっていて、それはコミュニケーション・デザインというコミュニケーションの方法論とはまったく関係がないし、内心は馬鹿だと思っているクリエイティブを手足のように使おうという、甘い方法論を思いつく時点で、それは違うだろう、と。

 私がもし制作ではなくてそのようなことを思っていたら、今までの経験で自分が駄目だったと認定した制作は絶対に使わない。他をさがすか、やったことがなくても勉強して自分でやります。逆説的ですが、その覚悟さえあれば、広告表現は誰でもできます。制作でなくても。表現について責任をとる人を制作と呼ぶのだし、その覚悟が見える人なら、どんな職種であっても、優秀な制作を惹き付けていくはず。

 こういう責任の所在を自分に置かない方法論っていうのは、短いスパンでほっておいても挫折するだろうし、そんな妙なムーブメントはどこ吹く風で、優秀なマーケティング・プランナーやアカウントとの連携で、我々クリエイティブは淡々と仕事をして、淡々と結果を出していくわけなんですが、そういう自分の責任の所在が明快、かつ、横繫がり思考の優秀な他の分野の人たちにさえ影響が及ぶ、いまの自称コミュニケーション・プランナーっていうのは、ちょっと見過ごせないかもな、と思い出しています。

 というか、それを信じるのも、肥大化した自我で自分が万能になったような気分で毎日を過ごすのも、一向にかまわないから、早く結果出してください。但し、責任の所在がわからなくなるから、ごかましなしで、自分たちだけの力だけでね。結果が出せなければ、そのときは潔く立ち去ってください。見苦しいことはやらないほしいものです。

 結局、政治なんでしょうけどね、本人は目が澄んでいるんですよね。正義や使命感で。定期的にわいてくるムーブメントではあるけれど、それでも、やっぱり、冗談じゃねえ、と思います。それが善意だろうとなんだろうと、どう考えても道理があわないもの。よかれと思ったんだからで済むのは子供の時だけ。この不況の時期、もうそんな停滞は許されないから。みんなが不幸になるから。プロレス的につきあってばかりもいられないかな、そろそろセメントしかけるかな。そんな2009年2月末日の気分。

関連1:定着のイメージを持たないコミュニケーション・デザインの気持ち悪さ
関連2:制作側で「コミュニケーションデザイン」を設計する一人として(このエントリの続編です)

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愚痴ってしまいました」カテゴリの記事

コメント

mb101boldさん、こんにちわ。
いやはや、何処の世界にも人のふんどしで相撲をとろうとするというか、おいしいとこだけ、口先でゲットみたいなひとはいるんですね。
┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~そういうひとって、どうして自分に疲れないのかなあ。

投稿: ggg123 | 2009年2月28日 (土) 18:17

まあねえ。こういう人は、世の中が元気じゃなくなると元気になりますからね。
それでもお金を稼いでくれりゃみんながしあわせになれるんですけど、たいがいはみんなのモチベーションを下げるだけというか、その先は恐怖政治みたいな感じになって、外圧によって自滅、みたいな。
そうなったときの彼らの逃げ足の速さもすごいもんで、20年くらいこの業界でやってると、そのプロセスまで見通せてしまうんですよね。
ほんと定期的に起こります。やになっちゃいますね。

投稿: mb101bold | 2009年2月28日 (土) 18:35

制作が理論武装して、営業が表現を学ぶ。その切磋琢磨が結果としてコンテキストの共有となって、良い成果につながる。

これが理想ですよね。

問題は、自分から歩み寄ることは簡単だが、相手に歩み寄らせるのは難しいこと。

投稿: hidetox | 2009年2月28日 (土) 20:08

コンテキストの共有は大事だと私も思います。でなければ、専門性が異なる専門家の協業なんてあり得ないわけで。
制作でも営業でも、見えている部分は葉っぱの部分で、互いのスキルを理解することで、根っこでつながるみたいなことが必要なのではないか、と思います。
そう言うと、自称コミュニケーション・デザイナーの人も納得するのですが、どうしても道理が通らないことになってしまう。それはきっと制作の専門性が、絵を考える、言葉をひねる、という定着である、という浅い理解があるからなのでしょうね。
ほんと、相手に歩み寄らせるのは難しいです。

投稿: mb101bold | 2009年2月28日 (土) 23:43

はじめまして。
いつも、楽しく、拝読させて頂いています。
私は、広告を発注するサイドの人間なのですが、今回のエントリーを拝見して、ブリーフした後、制作サイドでは、やはり、こういうことが起きているのか?と複雑な心境になりました。新しいパラダイムが導入されて、結果が出る前の間は常にこういう葛藤がありますよね。「広告人さん」の意図は、コミュニケーションデザイン自体を否定することではなく、プランナーが上目線で独りよがりで、クリエイティブと一緒に課題解決しようとしないことに対する問題提起ですよね?私は、広告代理店に対しては発注側ですが、社内では、そうした新しい試みを定着させていく推進派の役割を負っています。その視点から、「広告人さん」のエントリーを読むと、本当に示唆深いです。「広告人さん」がプランナーに対して抱いているような感情を関係者に抱かせてしまっては、新しい試みはうまくいかないのだと。その際、推進者(≒プランナー)として、取るべきスタンスについて、お聞かせ頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。

投稿: マルセリーニョ | 2009年3月 1日 (日) 10:42

マルセリーニョさん、はじめまして。
コメントありがとうございました。すごく啓発されることがありましたので、お返事は新しいエントリにすることにしました。今しばらくお待ちくださいね。

投稿: mb101bold | 2009年3月 1日 (日) 15:30

こんにちは。

プランナーとしては、mb101boldさんの愚痴とマルセリーニョさんのコメントになかなか触発されるものがあります。

「定着」という表現がされていますが、それはつまり広告代理店が「広告主さんのためのアイディアを、生活者の中にイメージ定着させること」だと理解しました。その点においては、僕は広告主さんを含めて、広告に身をおく人間すべてが、定着に向けて責任を持つことの大事さを感じるところからスタートしなければ、何の意味も持たないかな、と思います。

プランナーとして心がけている点が2点あります:ひとつは、広告主さんがもっている商品・サービス・ブランド周りの情熱と事実をしっかりと理解すること、もうひとつはそれに基づいて、クリエーティブを含めて表現の手段を持つ人々に納得と共感を持って「定着」させてもらえるように努力すること、です。言い換えると、僕自身は定着に向けた表現手段を身に付けていない、ということを意識しているのだと思います。

僕は「振る」というのが嫌いです。それは「依頼」と違って責任回避でしかない。表現できない自分を棚に上げて、役割を盾にしているだけで自己防衛をしているだけに過ぎず、結果仕事をしていない。結果として生活者のためにも広告主のためにもなっていない。それは何を意味するかというと、マルセリーニョさんのような意識をお持ちの広告主さんがいらっしゃると、全くをもってプランナーに対する対価などは無駄な投資になりますし、クリエーティブとの共同作業という広告にかかわることの喜びを放棄することになる。つまり「何のためにこの仕事をしているのか」というアイデンティティーの根幹が崩れる気がします。

広告代理店のどの機能でも、「定着」イメージのチーム内共有と、そこに対するここの役割のイメージがなくてはコミュニケーション・デザインは出来ないと思います。そういったことから、僕自身は常に臆病さと大胆さを併せ持って会議をするようにしています。その中で培う事柄を束ねて「依頼」することは、間違っていないことを信じながら。。。

投稿: ICE9 | 2009年3月 2日 (月) 19:50

ICE9さん、こんばんわ。

私は元CIプランナー(CIのコンセプトを考える人)でしたので、おっしゃることの感覚はなんとなくわかります。最終の定着はロゴやシステムデザインをつくるデザイナーでしたし、その微妙な立場についての葛藤もありました。最終定着物(デザイン)についてのコミットメントが薄く、自分のaccountabiltyはどこにあるのか、と。

で、制作稼業になっていく年か経ち、いまやっていることの半分はプランニングでもあるんですね。つまり、ものづくりの半分はプランニングなわけです。

そのプランニングの領域では、私が専門にしていない領域が上方に広がっていて、それは具体的にはデータの読みだったり、そのデータに基づいた時代や市場の読みだったりして、私のプランニング領域は、定着へと下方へ伸びる領域であることに今さらながら気がつきます。

>マルセリーニョさんのような意識をお持ちの広告主さんがいらっしゃると、全くをもってプランナーに対する対価などは無駄な投資になりますし、クリエーティブとの共同作業という広告にかかわることの喜びを放棄することになる。

それは正解でもあるけれど、正解ではないとも言えます。それは、我々には外部性という場所があるからです。外部でないと見えないもの、というのは確実にあると思いますし、発注先、受注先という非対称の関係性にしかできないことは、上方へと伸びるプランニングと下方へと伸びるプランニングの非対称の関係性にしかできないことと同じようにあると思うのです。

このエントリの話は、どちらかというとプランニングは実施と近い、時間の経過とあわせて瞬間、瞬間で走りながらプランニング、実施が必要とされるコミュニケーションデザイン限定の話なのかもしれません。

このコミュニケーションデザインは、禅問答的な概念でもあるので何とも言えませんが、私は、そんな汗をかくような、手離れというものがない泥臭い部分が含む方法論のような気がしているのです。少なくとも現場レベルでは。そこをオミットすると始まらないかな、と。

そういう意味では、チームの中のプランナーにも実施、すなわち定着への覚悟みたいなものが求められるのかもしれません。

投稿: mb101bold | 2009年3月 2日 (月) 23:56

>ICE9さん 僕はプランナー的な意識は常に持とうと心掛けています。実際、自分のプランをタタキとして代理店さんに提示することもよくあります。ただ、その行為は、その通りに実施して欲しいということではなく、あくまで、それを上回るプランを提示して欲しいということに過ぎません。まさに、広告人さんのおっしゃる「外部性」に対する期待は大きいです。正解を導き出す為にも、社内を説得する為にも(笑)。自分自信が、プランナーに対抗することで、あるいはPR会社のプランナーを対抗で立てることによって、その行為が触媒となり、プランナー魂に火をつけ、より良い企画ができあがる、そういうことを常に期待しています。

投稿: マルセリーニョ | 2009年3月 4日 (水) 00:32

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