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2009年3月の24件の記事

2009年3月31日 (火)

29年前の伊勢丹のコピー


女の記録は、やがて、男を抜くかもしれない。

女性と男性は、仕事で同じテーブルを囲むだけではなく、肉体のパワーでだって対等なんだということが次々と実証されてきました。男と女が肩を並べる、あたらしいパートナーシップの年、それが、たったいま始まったところです。どちらからも助ける手を出すことができる、これからの二人の生活。そこに、1980年を見ます。ことしも、スポーツの空気をいっぱいかかえて、汗を流す女性たちに声援をおくる、伊勢丹です。

 

 若い頃、2Bのエンピツで、何度も何度も書き写しました。土屋耕一さんの広告コピーです。年代で言えば、私は、糸井さん、秋山さん、仲畑さんに憧れる世代ですが、その先輩たちがお手本にした大先輩である土屋さんは、私の世代のコピーライターにとっては教科書みたいなものでした。

 糸井さんは、明治チョコレートの「オレ、ゴリラ。オレ、景品。」が好きだったと、今日の「ほぼ日」でお書きになっておられますね。私は、そのゴリラを欲しがった世代です。お会いしたことはありませんが、今までお世話になりました。土屋さん、ありがとうございました。

土屋耕一 - Wikipedia

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2009年3月29日 (日)

続・天気予報で流れてくるあの曲

 前回の「天気予報で流れてくるあの曲」というエントリーでは、日本のフュージョン限定のご紹介でしたが、今回は海外のフュージョンから。

 こういうテーマで書くならば、この曲ははずせません。もう、定番中の定番。私、この曲は子供の頃から耳についていました。きっと、このメロディは、だれでも口ずさめるはず。

 ジョージ・ベンソンの「Breezin'」ですね。この曲のヒットから、クロスオーバーというかフュージョンの世界的ブームに火がついたと言ってももいいでしょうね。こういう曲は、昔のFMのDJ的には「ゴキゲンなナンバー」と紹介していたような気がします。今の世の中では、「ゴキゲンなナンバー」がなくなってしまったような気がします。それは、やはり少しさみしいですね。揺り戻しはあるのかな。ないかもしれませんね。

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 続いては、天気予報で使われるナンバーの帝王といえるミュージシャン。ガットギターの名手であるアール・クルーです。オリジナルのおしゃれっぽいフュージョン曲もいいけど、彼の独壇場はスタンダードナンバーのインスト演奏だと思います。それは、彼が最も影響を受けたというチェット・アトキンスに通じるものがあります。

 チェット・アトキンスとの共演で、「Goodtime Charlie's Got The Blues」です。アメリカ人なら、この曲はもはや民謡みたいなものではないでしょうか。しかし、いいなあ。ほんと、いい。なんか雨上がりっぽいですよね。天気予報では、アール・クルーのアルバムに収録のバージョンがよく使われます。それは、もうちょっと落ち着いた感じのもの。このライブバージョンは、スチール弦というのもありますが、心なしかアール・クルーのギターがうれしそう。

 これもよく使われますよね。「Dance with Me」です。「関東地方の今日の天気です。」というアナウンスが聴こえてきそうです。YouTubeを見ると、たくさんのアマチュアの方がカバーしていますね。

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 ちょっと変わり種。しかも、関西出身の、しかも私の年代のまわりの人だけが分かる曲です。デイブ・グルーシンの「Catavento」。ラジオ大阪の深夜番組「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」のオープニングテーマです。懐かしいですね。笑福亭鶴瓶さんと放送作家の新野新さんがやっていたトーク番組。「いやぁ、センセ、よう言うわぁ。それ鬼畜ぃなあ。」「何をおっしゃる、鶴瓶くん。そんなこと言うたら…」「ククククク…」全国のぬかる民のみなさん、お元気ですか。

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 聴いたこともあるし、口ずさめるけれど、誰が作って、誰が演奏したのかは知らない。そんな名曲って、案外多いのかもしれませんね。私もCMをつくるときに、音楽屋さんに候補曲を持って来てもらったりして、「ああ、このメロディって、この曲なんだ」と思うことがよくあります。クラシックなんかは、私はあまりよく知りませんし。

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 少し前に、日産のCMで、ビル・エバンス作曲の「Waltz for Debby」が流れていてびっくりしました。しかも日本語の歌詞までついていて。この曲ですね。

 土岐麻子さんという方が歌っています。サックスプレイヤーの土岐英史さんの娘さんだそうです。この曲は「TOUCH」というアルバムに入っています。興味のある方はどうぞ。

 で、最後に本家本元はこんな感じ。

 ビル・エバンス・トリオのもなかなかいいでしょ。ではでは。

 日本篇はこちら

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2009年3月28日 (土)

ネットで質の高い記事を書くたったひとつの方法

 それは、各種マスメディアで活躍する"ジャーナリスト"と"大学生"が、共に取材を行い、記事を制作する、実践的かつ実験的な大学生向けのジャーナリスト育成プログラム「スイッチオンプロジェクト」で学ぶこと。

 ま、冗談です。釣りです。でも、結局のところ 日経IT-PLUS「書くことの難しさ ネットの言論はなぜ質が低いか」という記事の「質の低さ」は、そういうふうに読めてしまう記事広告的な部分に起因しているのではないかな、と思いました。この書き方、元記事が言及している意味での「既存のメディア」なら[PR]と小さく表示することになるだろうし、むしろこの元記事自体が、この記事が投げかける問いかけのひとつの事例になってしまっているように思います。

 で、本当はこういう部分に、ネットも含めた言論というかコンテンツ全体の「質」の問題があり、結局、コンテンツに対する「見返り」の部分をどこに求めるか、ということが問われているような気がします。多くは、これまで、コンテンツと分離された「純広」であったし、それなりにうまく機能していました。その「純広」でさえ「質」に影響を与えると考える人は、広告収入に依存しないメディアをつくっていきました。「暮らしの手帖」とか「ほぼ日刊イトイ新聞」とか。

 もしネット言論の質を上げていくという問題意識を持つ書き手が考えるとすれば、その「見返り」の部分を、個人がメディアを簡単に持てるネットという場自体が持つ甘さやゆるさを利用することを捨てるというか禁じ手にする「品」みたいなものが問われてくるような気がします。

 つまり、元記事で言えば、「スイッチオンプロジェクトのご紹介です。ネットで書くみなさんがなかなか習得できない書くことに対する体系的な技術がここで学べます。」と書く、みたいなこと。その記事を、メディアである日経IT-PLUSが記事として認めるかどうかは別問題として。(特にこのプロジェクトについては、異論はありません。見たところ、価格も安いし、おもしろそう。それぞれの人が熱意を持ってやっている有意義なプロジェクトっぽいなあと思ってます。)

 少なくとも、「スイッチオンプロジェクト」の紹介を落としどころにするならば、純粋な言論や問題提起を装わないとこが必要だったのではないかなと思います。それは、記事としてはつまらないけれど、そのつまらなさを引き受ける「品」というか、そんな書き手の問題意識が問われてきます。品質と言いますし、質を決めるのは技術よりも、むしろ品でしょう。もちろん、基礎的な技術は当たり前にいるとして。

 このへんのことは、たまたま前回書いた「判断の領域」というエントリの「認識」と同じなのかもしれないです。「品」を「認識」と言い換えてもいいのかもしれません。

 それと同時に、ネット単独での言論に対しての「見返り」のシステムをきちんと構築することだろうと思います。どちらかというと、こちらの方が「質」の部分では重要。衣食足りて礼節を知る、下部構造が上部構造を規定する、ではないですが、個々の「品」に求めるには限界があるでしょうし、現状、その構造が中途半端にしかない以上、手弁当による限界が、大きくはネット言論の限界ということになるでしょうね。(これは、どちらかと言うと、取材費とか、時間のかけ方とか、そういう部分での限界でしょうけどね。)

 ぶっちゃけ言えば、お金の問題。今言われている、既存メディアの問題も、ネットメディアの問題も、つまるところ、このお金の問題なんだろうな、と。既存メディアで言えば、この収益システムは壊れかけているし、ネットでは、ネット単独でメディアを成立させるには、まだ未熟。で、崩壊しかけている、もしくは未熟なシステムを最大化させるためには、過剰に、視聴率、部数、PVを追いかけないといけなくなり、それはやがて自身に牙を剥いてくる。そんなジレンマが、今の時代の息苦しさなのかな、とも思っています。

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2009年3月27日 (金)

判断の領域

 じつは知識とか技術っていうのは、あまり重要ではないのではないかと思うようになってきました。いや、違うな。もともと、あまり重要なこととして考えてこなかったような気がします。というか、知識なんてものは、その気になれば吸収できるし、技術っていうのも、たとえばコピーライティングについても、四六時中コピーばかり書いていたら、それなりに身に付くものだと思います。

 では、知識があって技術があれば、それできちんとした仕事ができるかといえば、そうではないような気がします。その知識なり技術を運用するとき、そこに判断がからむからです。

 経営という分野で考えるとわかりやすいかもしれません。経営についての知見が豊富で、多くの成功事例を知っていて、類例が出た際に事例同様に実行する力を持っていたとしても、その人がきちんとした経営ができるとは限りません。なぜなら、経営は、そのときどきの判断の連続だから。経営判断とよく言われますが、その判断の領域こそ、経営というものなのでしょうね。

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 ジャズをやるとよくわかりますが、早弾きができて、難しいコード進行に対応するアドリブパターンをよく知っているプレイヤーが必ずしもいいプレイヤーだとは限りません。プロの場合は、それぞれの個性に還元されるでしょうが、アマチュアの場合、その優劣は残酷に表現されてしまいます。つまり、上手いプレイヤーでも、つまらないプレイヤーは多いのです。

 つまらないプレイヤーは、インタープレイにおける判断が凡庸だったりします。バンドのアンサンブルがつくる音の場を、無理矢理自分の知見に引き戻して、自分のノウハウの中で判断が下されるから、つまらないのです。それは、彼にとっては、バンドはカラオケであり、誰が弾いていても同じなのです。そういうタイプのプレイヤーは、練習すればするほど、音がつまらなくなっていきます。残酷だけど、現実はそう。

 逆に、あまり上手くないプレイヤーでも面白い音を出すプレイヤーもいます。その人は、バンドの音の場にきちんといて、その瞬間、瞬間に判断を下しているような気がします。サキソフォンをはじめたばかりの初心者がジャムセッションに参加したとき、困り果てた彼は、B♭だけをブフォ、ブフォと吹き続けました。その間が独特で、面白くて、バンドは、初心者の彼がつくる空気に引っ張られて、新しい音の場をつくりはじめました。

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 だからといって知識や技術なんてなくていいとは思いません。逆説的な言い方になりますが、判断の領域が、自然と自分に必要な知識や技術を選び取り、積み重ねるのだろうと思います。プロのミュージシャンを見ると、ブルースが好きな人はブルース、バップが好きな人はバップ、そんなふうに世界を広げているように思います。そこから枝分かれをして新しい世界が生まれることがあっても、はじめからマルチを目指す人に、一流はほとんどいません。

 自分に引き戻して考えると、自分の可能性は、きっと判断の領域にあるのだろうし、その限界も判断の領域にあり、それは知識、技術の拡張によってなされるものではないような気がしています。これは、同じように、自分の判断の領域が新しい知識や技術を求めなくなったとき、その判断の領域はそこで終わり、ということにもなるんだろうし、ひとつのあきらめどころがそこなのだろうな、と考えています。あまり考えたくないことだけど。

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 私は判断の領域というものを信じています。仕事を振り返ると、知識や技術ではなく、その時、その時の判断が重要だったと実感させられます。よく、このブログで、仕事関連について書いていることを知っている人から、そんなに太っ腹に何でも書いてもったいない、とか言われるのですが、私としては、知識や技術なんかはそれほど重要ではないという思いがあるからかもしれません。

 知識や技術を真似しても、私と同じようにはできませんって。逆に、あるとすれば、私が書いたことに触発されて、私のやり方ではない方法で新しいものを誰かがつくることくらいです。私と同じようにやられると商売上がっりだけど、違うやり方なら、それは、いいことじゃないですか。それが、私みたいな凡庸な人が書く意味のような気もするんですね。

 この考え方は、ネットから学んだような気がしています。特にプログラミング領域のネット。この領域はあまりわからないですが、プログラミングの場合、多くの知識や技術が公開されているとのことです。であるならば、世の中には、優秀なプログラマーが続出するはずで、でも現実は、そうじゃない。やっぱり、判断の領域が勝負を決めるからです。

 判断の領域が求める知識や技術が公開されているという時代の変化は大きいものだとは思うし、その変化は決して小さなものではないとは思うけれど、でも、それは図書館の拡張という意味を超えないような気がします。どこまで行っても、判断の領域が人には残されています。それを残酷な現実と見るか、希望と見るかは、年齢やキャリアによって違うでしょうが、基本は希望だと思いますよ。だってさ、知識や技術で勝負が決まる世界なんて、つまらないもの。それは、きっと希望ですって。

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2009年3月26日 (木)

WBC決勝戦の視聴率

 関東地区で、3月24日のWBC決勝戦の視聴率速報。

 10:35-14:48  36.4%
 
14:48-14:54  37.6%

 ちなみに昨年の対キューバ戦が43.4%。とはいえ、今回はまわりでやたらにワンセグを見ている人が多かったし、実質的には昨年並みといったところかも。ま、どちらにしても平日のお昼という時間帯を考えるとすごい数字。

 昨日のエントリにも書きましたが、メディアの多様化で人の時間の奪い合いという現象を数字で見せ付けられると、理屈ではとっくにわかっていたことでも、あらためて感慨深いものがありますね。なるほどねえ、そういうことなんだなあ、みたいな感じです。

 普段はネットがテレビの視聴者を奪うという流れの話が多いですが、今回見せつけられたのは、テレビがネットから奪うという逆の現象。こんなことを、ただの市井のブロガーが感じられることも、個人メディアの時代というものなんでしょうね。

 追記:

 不確かな情報ですが、テレビでは瞬間で46%という噂も。あと、Yahoo! JAPANでは24日が約20億PVで過去最高。Yahoo! Shoppingの扱いが前日比約80倍とのこと。Yahoo!というところがらしいですね。Yahoo! JAPANのトップバナーって、もはや閲覧層も数も値段も、ほとんどマス広告ですものね。それにしても、みんなWBCに注目していたんですね。私は完全に乗り遅れでした。

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2009年3月25日 (水)

すごいねWBC

 とは言っても、イチローの話ではなくて申し訳がないんですが。

 ココログには、わりときちんとしたアクセス解析機能がついていて、0時から24時までの1時間ごとのページビューとユニークアクセスが棒グラフで表示されるんですね。いつものようにそのグラフを眺めていると、14時のグラフだけが極端に低いんです。いつもの4分の1くらいの低さ。朝の4時頃とほぼ同じ。

 なんじゃこりゃ、もしかして、ココログのメンテナンスかなと思ったんですが、そうでもないらしく、あれこれ原因を考えていると、この時間帯、WBCの決勝戦の生放送があったんですね。すごいもんだなあ。まあ、誤差はかなりあるでしょうが、つまりは、ネットを見ている人が、いつもの4分の1になっているってこと。

 会社でも、このところテレビで試合中継を流してましたし(ま、広告会社だから、こういうことは甘いとこはあります)、得意先にミーティングに行っても、今日はその話題ばっかりでした。

 私は、この時間は得意先でミーティングをしていて、夜のニュースで見ましたが、みんな10回表のイチローはしびれただろうなあ。ほんと、マンガみたいな展開でしたものね。

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2009年3月24日 (火)

いまだに右左が即答できません

 これなんでしょうね。

 いつかはできるようになると思ってましたが、いまだに苦手。タクシーに乗って、運転手さんに「次の交差点を右折です」なんて指示するときも、右手をぎゅっと握って、頭の中で、こっちがお箸を持つ方だから右、と確認しています。

 私は右利きなんですが、お箸を左手で持ってしまうということはもちろんありません。それは体が覚えています。PCのマウスも、左クリック、右クリックを間違えることはないし、ペンも右で持ちます。でも、右左が即答できません。瞬間、右ってどっちだろ、という間があるんですね。だから、視力検診なんかはすごく苦手で、汗ばむほど右手を握りっぱなし。

 この感覚、なんだろ。こういうのって、よくあることなのかな。東西南北もあまり得意ではないし。そう言えば、サンデー、マンデー、ウェンズデー、といった英語の曜日も、いまだにすごくあやしいです。こんがらがることがときどきあります。

 すべてを意味で了解してしまっているからかなのかも、と思ったりもします。要は意味のないものが苦手。なんか、こう書くと、つまんないやつだなあ、という感じですね。すべて意味でしか理解できないのかよ、さみしいやつだね、君、芸術とかわかんないでしょ、みたいな。ちょっと自分で書いてて、やになってきますね。

 もちろん、ただどんくさいだけというのもあるんでしょうけど。それにしても、なんだろうな、この感覚。大人になればきちんと即答できるようになると思ってたけどなあ。でも、いつまでたっても苦手なんだよなあ。不思議。

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2009年3月22日 (日)

「好感度」考

 広告の効果を計るひとつの指標として、好感度というものがあります。好感度はどうやって計るかというと、テレビCMに関して言えば、CM総合研究所という民間の会社がテレビ視聴者1500人に対して独自に調査していて、その結果が月2回発表されます。また書店では、月刊で「CM INDEX」という雑誌が販売されています。

 好感度は、そのCMがどのくらい好かれているか、つまり受け入れられているかを見る指標で、その中の項目には、単純な「好き・嫌い」から、「商品を買いたくなったか」というものまで複数あって、その合計点で決められます。昔、三菱自動車でエリマキトカゲがでるCMがありましたが、あのCMは好感度調査でナンバーワンを獲得し、エリマキトカゲブームを巻き起こしましたが、自動車はさっぱり売れませんでした。

 あの時、わりとお堅い頭の持ち主たちから、それ見たことか、という意見がたくさん出ました。なんだ、好感度が高くても、ものが売れなきゃ意味ないよね。商品を語らず、エンターテイメントに走るからそんなことになるんだ。そんな感じ。なんか、その空気は、とっても嫌らしかった。だからといってCMに好感度は必要ない、ということにはならんでしょうに。

 一般的な傾向として、好感度ランキングではタレントCMが上位に来ます。理屈は簡単。タレントが、すでに好感度を持っているから。このタレントの好感度の持ち票は、事実としてかなりのものがあります。なかなかノンタレで、この持ち票を凌駕するのは難しかったりします。企画会議で、すぐにタレント起用の話になりがちなのは、わりときちんとした理由があるんですよね。

 ある出来事がありました。私は外資系ですから、タレントCMは広告の堕落だなんて言うクリエイターがわんさといます。私は、じつはタレント広告否定派。だって、タレントが持つ好感度票を使うのは、制作者としては安易だもの。それに、そのお手軽な好感度票は長持ちしないし。でも、事の成り行きからそのCMはタレント起用と相成りました。

 みんなが知っている女優さん。CMの撮影になって、基本的に我々関係者は、サインなんてもたったりしないのが慣例です。当たり前ですよね。仕事なんだから。でも、タレントCMは広告の堕落だ、なんて偉そうなことを言っていたクリエイターさん、タレントのマネージャーさんに黙ってサインをもらっていたんですね。我々には黙って。もう、ほんと、駄目な人ですよね。

 でも、人間なんてそんなもんです。それがタレントの力です。その人が実証してくれたわけなんですよね。

 好感度は大切です。こんな基本的な指標を否定してもしょうがないと思います。好感度は、私は、広告制作者としては、死ぬほどほしい。CMをつくるとき、業種別トップをいつも狙います。まあ、総合トップを狙う、と言わないところが弱気なとこなんですが。

 でも、その好感度の質は問いたいとは思うんですね。私が、あまりタレントCMが好きではないところは、結局はその好感度が借り物だからなんですね。借り物の好感度は、長続きしないんです。それと、ありものの好感度を借りずに好感度をつくるのは、かなり難しいことではありますが、そこが広告制作者の腕の見せ所でもありますし。

 好感度は、効率の指標でもあります。結局、3度見ないと印象に残らないものを、2度で印象に残すことだから、それは広告費の節約にもつながります。で、その好感度は、しくみでは作れなくて、どこまでいってもクリエイティブというか表現がつくるものです。こんな時代だからこそ、クリエイティブは大切。

 このポジショントークな落ちはどうよ、とは思いますが、まあ、とりあえずはそんな感じに、広告制作者である私は考えている次第です。それがクリエイティブのテクノロジーなんじゃないかな、みたいな。ではでは。

関連エントリ:
タレント広告はなぜなくならないのか(1)
タレント広告はなぜなくならないのか(2)

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2009年3月21日 (土)

天気予報で流れてくるあの曲

  フュージョンが好き。フュージョンが下火になってさみしいです。フュージョンが流行っていたのは80年代後半。日本だとCasiopeaとか、T-Square(The Squareと名乗っていたけど、海外進出のときにアメリカに同様の名前のバンドがあって名前を変えた)とか、Prismとか、Naniwa Expressとか。クロスオーバーとも言われていました。要は、ジャズロック。ジャズとロックのフュージョンであり、クロスオーバー。

 てんで聴かなくなったフュージョンだけど、ときどきテレビやラジオで流れてきます。懐かしい。でも、再評価の兆しとかではなく、天気予報などのバックグランドミュージックとしてですけどね。

 フュージョンという音楽は、商業的にはシングルカットでヒットを出すというビジネスモデルではなく、アルバムとライブ中心。だから、アルバムやライブの中休めの曲として、やさしい感じの爽やかな曲が1曲くらい必ず挿入されていて、その曲が今でも天気予報なんかに使われているようです。

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海外編はこちら

 いまは活動休止してしまったCasiopeaの「Sunny Side Feelin’」という曲ですね。これ、ほんとよく流れていますね。音楽の流通が変わって、1曲単位でダウンロードされるようになってくると、この手のいい意味でなんでもない曲はつくられなくなってくるのかもしれませんね。アルバムの途中の1曲としての存在価値みたいな感じですから。

 同じくCasiopeaの「Swear」。とってもCasiopeaらしいというか、野呂さんらしい1曲。野呂さんはスーパーギタリストでもあるけれど、きっと野呂さんがCasiopeaでやりたかったことの中心は作曲というか、楽曲づくりだったような気がしています。構成が緻密で、きちんと物語があって、インストだけど歌詞というか言葉が感じられるというか。

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 この曲は、一度は聴いたことがあるのではないでしょうか。Prismの「Morning Light」という曲です。リードギターが和田アキラさんで、サイドギターが四人囃子の森園勝敏さん。また、Prismには「TAKE OFF」というキャッチーな名曲もあります。この2つの曲だけ聴くと、ライトな感じのバンドのように思えますが、Prizmのほとんどの楽曲はとってもハードです。ロック好きの人にもファンが多いようです。

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 この曲もよく使われますよね。天気予報だけではなくて、さまざまな番組で。The Squareの「All about you」という曲で、アルバム「Adventures」に入っています。きちんとしたテーマが1枚のアルバムに表現されていて、聞く人を拒まないし、すごくいいアルバムです。かなり売れました。日本のフュージョンのひとつの成果でしょうね。

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 これは、どちらかと言うと、天気予報というよりも、FMなんかの深夜のミニ番組で使われていますね。「それではおやすみなさい」みたいな。Naniwa Expressの「Meteor」です。前半に清水興さんのMCが入っていますね。ナニワが解散するときに(今は再結成しています)、新聞に「ベースの清水興さんは司会業に専念」とか根も葉もないこと書かれてて、笑いました。MCの上手さでは、東の向谷実、西の清水興という感じでした。

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 てなわけで、天気予報的な番組によく使われる日本のフュージョン曲を紹介してきましたが、最後に、カシオペア、スクエア、プリズム、ナニワの「このバンドにこの1曲」というような、それぞれの代表曲を。上の映像では、日本のフュージョンって、こんなに甘い曲ばかりなの、と思われるでしょうが、代表曲はこんな感じ。ライブでトリの曲というか、待ってましたの定番楽曲。まあ、海の向こうのフュージョンと比較すると甘めではありますけどね。日本はメロディ重視の傾向はありました。

 上から、Casiopeaの「ASAYAKE」。ポップで、歌ものも含めた日本のポップスの中でも、垢抜けさ加減でひとつ抜きんでたものがあるような気がします。The Squareの「Travelers」。クロスオーバー色が強い、安定感ある演奏が特徴。大人な感じ。Prismの「Karma」。ジャズとハードロックの影響が色濃いバンドサウンド。Naniwa Expressの「Belieavin'」。力哉さんとシミさんの腰に来るリズムが関西らしいでしょ。では、引き続きよい休日を。

 海外篇はこちら

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2009年3月20日 (金)

トラックバックについての私の考え方

 前回の「コメントについての私の考え方」に引き続き、トラックバックについて書きます。2007年6月にこのブログを開始し、もうすぐ2年になるので、とりあえず中間報告的な意味合いで、私にとってのトラックバックと、トラックバックを受ける側の気持ちなどを、なるだけ率直にまとめてみます。

 トラックバックの受信は、コメントと違って、現在90件。こちらは、かなり大胆に非公開、削除をしています。というのは、大半はスパムトラバだから。それはもうひどいもんですね。ブログを運営している人なら、そうそうと同意していただけると思いますが、削除するのは結構大変です。ただ、最近はココログのフィルタがよくなってきたのか少なくなってきたような気がします。

 まあ、コメントに比べると、トラックバックはかなり経験値が高い人が使うものでもあるから、このエントリの意味合いは少し低めかもしれません。経験値が高い人は、トラックバック歓迎と書いてあってもしないものはしないし、するものはする。また、スパムトラバは、機械に対してものを言っているようなものだから、そもそも無意味。

 なので、私が心がけているトラックバックの使い方を書きます。私の中の原則論ですね。

  1)送信先のエントリの中心課題について書いている記事であること
  2)その際に言及している記事のリンクをかならず入れること
  3)共感であれ批判であれ送信先の記事の内容が発展すると思えること

 この3つに該当しなければ、トラックバックは送信しません。3つめについては、私独特のものかもしれません。私は個人メディアでは「発展」という契機を大事にしたいのですね。これは異論もあるでしょうし、その考え方もありだとは思いますが、私はトラバは「発展」に使いたいと思っています。仕事では、わりと、力を持ちそうな浅い考え方や間違った考え方、凡庸な考え方を潰しにかかることも多いのですが、それは仕事だけでいいや、みたな気分ですかね。まあ、甘ちゃんです。受けるほうは、潰しにかかるトラバも歓迎ですけどね。

 私は、Movable Typeをはじめとするパーソナル・パブリッシング・ツールであるブログという発明は、印刷に匹敵するものだと思っています。言い過ぎではなくて、ちょっぴり本気で。その中で、トラックバック機能はブログ特有のものです。送信、受信の両方がなければ成り立たない機能だし、相互の合意で成り立つその新しいコミュニケーションは素晴らしいものだと思います。

 だからこそ、よってたかって悪用されました。昔だと、「相互リンクお願いします」みたいな人力でやっていたことを、双方の合意なしに、簡単に自動化しますし、相手先にだけ自分のリンクを貼ることも簡単にできてしまいます。使い方が定められていないから、どう使おうと勝手でもありますが、一方的に自分に利することのためにトラックバックを使うのは、なんとなく品がないように思うし、ただでもぐだぐだ気味のトラックバック機能をこれ以上駄目にしたくないな、という思いもあります。

 こういう考え方を、言及リンク派というのでしょうが、そうではない人も多くおられると思います。内容が似通っていたら、トラックバックを送るのはありだと考えている人も多いと思いますし、わりとネットリテラシーが高く、ネット広告やSEOにかかわっておられる方にも、そういう人は多いと思います。これはトラバに関する考え方の違いに過ぎませんが、私は、そういうのは苦手。

 この言及リンクがなく、当該記事に言及をしていないけれど、似通った話題について書いている記事をトラックバックで送信する行為には、相手のことを考えていないように思うんですね。考えているとすれば、「私が書いた関連記事も押さえておけ、それにこのブログの読者もね」みたいな感じがします。それが嫌。また、その考えの延長線にはスパムトラックバックがあるような気もするし、私はスパム大嫌いだから、そのもとになるのは認めない、という感じです。

 まあ、この手の方針は、ブログ運営者の勝手にすればいいとこではあるので、このあたりについてはわりと原則論でバッサバッサやっています。で、こういう考え方を表明すると、リンクを入れてくる広告だらけのブログがトラックバックを送信してこられます。でも、それも内容で判断して、バッサバッサ。

 ただ明らかに文化圏が違う方や、ブログの経験値が低い方で、こちらのリンクがないけれど、内容的にはきちんこちらの主題に言及しているし、誠実なコミュニケーションが成り立っているブログのトラックバックは公開することもありますし、一概に原則論とは言えない部分もあるんですけどね。

 トラバは死んだとか言われますが、いただいたトラックバックはほとんどが、これぞトラックバックでしか成り立たないコミュニケーションだと思えるものばかりですし、集合的な場所ではなく、個と個をつなぐトラバという仕組みは大好きです。トラバを殺すのはもったいないと思うんですね。だから、少し逆説的ですが、私はトラバについてはわりと厳し目の運用をさせていただいています。

 で、私自身が送信するトラバもそうありたいと思っています。トラックバックを送っていただいたみなさま、これからトラバで出会うであろうみなさま、今後ともよろしくお願いします。

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2009年3月18日 (水)

コメント欄についての私の考え方

 ブログ運営ポリシーってほどでもないけど、あらためてコメント欄についてのあれこれを書いてみようかなと思いました。まあ、私のブログの場合、それほどコメント欄での応酬があるわけでもなく、のんびりとやれているとは思うんですが、承認制(コメントをいただいてから、運営者である私が承認して公開するやり方です。承認制にした理由はこちらをご覧ください。)にしています。どちらかというと、ネットにまだ慣れていなくてコメントをとまどっている人に気軽に書き込んでいただくためにも、承認制にしている部分もあって、この機会にコメント欄についてきちんとした考えを記しておこうかなというわけです。

 承認性にしてから公開しなかったコメントは2件です。ひとつは、あからさまな差別観が見えかくれしていて、しかも差別用語が書かれていたもの。もうひとつは、エントリの趣旨とは関係なく、ある特定の企業についての根拠の薄い誹謗中傷が書かれていたもの。あと、過去には公開していて後に削除したコメントが2件あります。エントリに関連なく精神疾患を揶揄するコメントと、ある特定のコメント記入者を誹謗中傷するものでした。

 現在、コメントは自分のコメントを含めて全1232件で、そのうち4件削除したことになります。具体的には、このようなコメント承認制の運営になっています。このブログでは、いわゆる「黒木ルール」のような厳しい運用はしていません。お名前、URL、メールアドレスも必須にはしていません。ただ、継続してコメントを書き込んでもいいかなと思う方は、同じ名前で書いていただけると、非常に助かります。

 基本的には、すべてのコメントにお返事を書いています。それがうざいと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、まあ、運営者の性格だと思っていただけるとありがたいです。但し、例外もあって、コメントをされている方の間での論議になった際や、別のコメントされている方への言及には、運営者である私はコメントを差し控えるときがあります。このへんは、当人同士のコミュニケーションに私がかかわるのは野暮だよなあ、という感覚です。でも、すべてのコメントに返事を書くタイプのブログでは、コメントでの論議は起きにくい傾向はありますね。あと、何回かやり取りがあって、相手のコメントが締めっぽい空気のときも。(コメントやメールの締め方というか終え方って、悩みますよね。)

 コメントについて、運営者である私が思っていることなど。基本的には、どんなコメントでもいいと思っています。感想でも、日々の暮らしの中で思ったことでも、単なるごあいさつでも、エントリに関係ないことでも、運営者的にはまったくかまいません。エントリに関連する話題を書き込むべきであるとも思っていません。

 その一方で、個別エントリで言及した領域に近いけれど、エントリの論旨とは関係のない領域における持論の展開と、明らかな誤読に基づく意見などについては、その旨を私がコメントで伝えることがあります。基本的には、エントリに関係のない持論の展開は、責任問題や、ブログメディアの発展のためにも、各人のブログで展開されるのが望ましいと個人的には思っていて、その個人的な信条をコメントにも反映しているので、気を悪くされた方はすみません。

 また、誤読については、それをすぐに指摘しなければ、さらなる誤読を生み出し、書き手が意図しない方向に動き出してしまうトリガーになると思っていますので、いつもより厳しい口調になることがあり、基本的にこの指摘は、どのコメントに対しても差別なく等しく行ってしまっているので(これも性格ですね)、過去に気を悪くされた方もいらっしゃるのではないかと思っています。悪意はありませんし、コメントを頂いた方の人格の否定でもありません。

 また、ブログを書いている人はだれもがそうだと思いますが、書き手には、内容を正しく伝えたいという思いが先走る傾向があり、特に冷たい口調になってしまっているようです。特に、私には、基本的に不特定多数に公開しているブログであるという思いから、いつもコメントを書き込んでいただいている方や、個人的にやりとりのある方にも、態度を変えないようにしたいと考えていることから、どうしても拒絶感が大きく出てしまうようです。私にも、好意をもってくださる方から嫌われたくないという思いがあるのですが、誤読に関してはそういう態度を取りがちになります。書いたあと、私もけっこうしばらく悩むんですよね。

 なんか、どうしてもネットって、生身の人間が見えにくくなっています。私としては、批判されるのは仕方がないけど、誤読されるのは結構つらくて、つい誤読だよって、誰彼となく言ってしまいます。それに、原則的には誤読は指摘するというのが、健全な論議のルールでもあるし。でも、言われた方も、せっかく書き込んだのに気分が悪いよなあ、なんて思うんだろうなとは思います。日常の会話では、そんな誤解は流れていったり、話を変えたりできるんですが、文字でできているブログでは、そんなしなやかな感じにはなりにくいですね。このへんの線引きは、ブログを運営している方なら、誰もが思っているのでしょうね。

 ブログのコメント欄は、他の掲示板的なコミュサービスのように、さあどんどん自由にコミュニケーションしてください的なものでもないと思いますし、コメント欄を公開しているのだから、どんなふうに使ってもユーザーの自由だろというふうにも思わないのですが、まあ、それは原則論ではなく倫理の話でもあったりして、技術的には自由に使って構わないように存在しているわけだし、だったらコメント欄を公開するなよというのもひとつの倫理でもあります。私のブログではそんなに問題はありませんが、人気のあるブログの運営をされている方は、結構悩ましいのだろうなとは思います。あと、このブログの程度でも、トラックバックはスパムやサイトの宣伝トラバが多いですしね。

 最後になりましたが、エントリのタイポミスや事実誤認をコメントで指摘してくださった、たくさんの方々、ありがとうございます。助かりました。

 そんなわけで、みなさま、当ブログを今後ともよろしくお願いします。

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2009年3月17日 (火)

大阪のラジオ番組「誠のサイキック青年団」の異常な終わり方

 大阪の朝日放送(ABC)ラジオで、15日日曜日25時、本来なら3月29日で20年の歴史に幕をおろすはずだった「誠のサイキック青年団」が始まる時間、事前のリスナーへの告知もなく、突然こういう放送が流れたそうです。

ABCラジオからのお知らせです。
長年にわたりご愛聴いただきました「誠のサイキック青年団」は、今月29日をもって終了するとお伝えしていましたが、諸般の事情により、先週、3月8日の放送を最終回とさせていただきます。番組を楽しみにされていた皆さん、ほんとうに申し訳ありません。
なお、ラジオをお聞きの方から様々なご意見を頂戴しましたことにも、お礼を申し上げます。中には、放送内容についてのご指摘もありました。お調べしたところ、一部に、リスナーの方々に大きな誤解を与えるような表現があり、この点について、話題で取り上げた関係者の皆さまに、ご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。
改めて、長年のご愛聴に感謝申し上げます。ありがとうございました。

参照:【誠のサイキック青年団】★急きょ打ち切り~詳細な説明無し - YouTube

 このアナウンサーのナレーションの後、BGMが流れ、その繰り返しで、本来の放送終了時間である26時45分まで延々と流れていたそうです。聞かれていたリスナーの方がエントリを書かれています(参照)。番組ホームページ(参照)にも同様の文章が告知されています。

 東の「伊集院光 深夜の馬鹿力」、西の「誠のサイキック青年団」。今、本当に深夜ラジオらしい深夜ラジオはこの2つだと思ってきただけに、この後味の悪い異常な終わり方は、すごく残念です。心がざわつきます。上記の「諸般の事情」や「放送内容のご指摘」が何かも含めて、終了の理由はまだわかっていません。

 北野誠さんは、ブログでこのように書かれています。

ここに改めて…深くお詫び申し上げます(T_T)
本当にすみませんでした(><)名古屋のCBCラジオまで…たくさんのメール下さり、北野誠…感謝しております!長い間…ありがとうございました!

サイキックブラザーズ1号(北野誠さんのブログ)「リスナーの皆様へ!」

 竹内義和さんは、こう書かれています。

今回の結果に関しては、僕たちも納得しています。

竹内義和のどきどきブログ「リスナーの皆さまへ」

 この番組終了の前にも、イベント中止があったりしていて、そこから察するに、どうしようもない事情があったのかもしれません。また、番組終了の情報をORICON STYLEにもらしたのが松竹芸能のマネージャーだったそうで(参照)、こうした動きも局側の不信につながったのかもしれません。それにしても、タイミングが悪すぎます。

 今、番組コンテンツとしてのラジオは崩壊寸前です。これを示しているのが、ラジオスポットCM(20秒)の減少で、広告主も広告会社も、ラジオ媒体は、実質的に広告番組である30分または15分の冠番組、もしくは、番組内でのパブリシティにしか興味がないような空気ができています。ラジオなのにショッピング番組も増えて来ています。これは、ラジオ自体に魅力がない証拠です。放送局制作コンテンツにスポンサーをつけるという本来の放送コンテンツのあり方が、ラジオにおいては成り立たなくなりつつあります。

 少し前に、このブログを通して出会ったラジオディレクターの方と、ラジオの今とこれからについての情報交換する機会があったのですが、そのディレクターさんの現場の話を聞いても、明るい材料がまったく見いだせない状態です。

 大人の事情があるならあるで、それはしょうがないとは思うんですね。もう私も子供ではないし、この業界の端くれとして、どうしようもないことがあることは理解できます。許せない、とは言いません。でも、なんか最低限の筋を通すこともできたんじゃないかな、とは思います。それが、この状況で、少し残念に思ったことです。

 (これから「伊集院光 深夜の馬鹿力」がTBSラジオで始まります。この一連の出来事について、何か言及があるかもしれません。もしあれば、この後追記します。ではまた。)

 追記(1時30分):

 TBSのストライキの話題が中心でしたね。でも、この話題も、「これ以上言うと、偉い人に怒られるから」との理由でお好み焼きの話題に移りました。こういうしなやかさは、伊集院さんらしいですね。このへんが、関西と関東の違いかもしれません。ちなみに、伊集院さんはとろろ入り、ちょっと硬めの「関西風お好み焼き」派らしいです。

 あと、CM契約に「深夜ラジオだけはライバル商品のこともしゃべるよ」という条項を入れてほしい、という話題もされていました。で、そんな「調子乗っている」条項を受け入れる広告主はねえよな、みたいなオチでした。「深夜ラジオだけは」というところに、深夜ラジオ愛が感じられますね。私的には、設定によってはありだと思いますけど、広告主を説得する自信はちょっとないかもです。

 追記(3月23日):

 このエントリが書かれた次の週ですが、また同じアナウンスが1回流れ、そのまま放送終了でした。代替番組はありませんでしたね。日曜日の深夜でもあるし、もともとこの枠は、大阪では(もしかすると全国でも)ラジオ大阪の「ぬかるみ」以前は空白地帯だったので、このまま1時で放送終了という感じが定着しそうな予感がします。

 追記(4月11日):

 北野誠さんの芸能活動無期限休止のニュースがスポーツ新聞等(参照)で配信されていますね。「報道によると、松竹芸能 は10日までに北野の謹慎処分を決め、テレビやラジオのレギュラー番組を順次降板する方向で、関係者と調整に入っているという。」とのこと。北野さんのブログも閉鎖されています。原因がいまひとつわからないだけに、一連の流れが少し気持ち悪いですね。リスナーの話を見ても、あれが原因だろうな、というようなこともなかったような気がしますし。

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2009年3月16日 (月)

まあ、それは書くなということなんだろう

 書いては消して、書いては消して、そんな感じでコツコツと書き進めていた文章が飛んでしまいました。ワープロソフトの「保存しない」をクリックしてしまったんですね。まあ、それ自体はよくあることなんですが。個人的に気になるぼんやりしたことを、ひとつひとつ言葉にして、はっきりさせよう、みたいな動機があって、私には珍しく、迷いながら、ちいさな熟考を積み重ねるという感じで書いていたんですね。結論は書いているうちに見つかるでしょ、なこと。

 あまり気持ちのいいエントリではなかった気もしていて、結果的には良かったかなみたいな感じもしています。もうちょっと心の中で寝かしたほうがいい感じもしていたし。仕事であれば、一度書いたものはほぼ完全に再現できるのだけれど、ブログだからというわけではないけれど、自分としては、そのエントリは捨ててしまおうと思いました。なんとなく、そういう気分は自分としては珍しいです。

*    *    *    *

 ここ最近、吉本隆明さんがしきりに「言葉の根幹は沈黙である」みたいなことを言っていて、それが私にとってはちょっと難解で、ちょっと吉本さん、詩的に過ぎるよな、なんて思っていたけれど、具体的にはこういうことなのかも、なんて思いました。簡単に言うと「その感情、まだ言葉にしちゃいけないよ」みたいな。

*    *    *    *

 考えるのも言葉だけど、きっと、その考えを言葉にすることとは違うのでしょうね。というか、後者を吉本さんは「言葉」と言っているのでしょうね。一度放たれた言葉は、もう自分だけのものではなくて、その言葉を受け止めた人のものでもあり、それはたとえ後に消された言葉であっても、一度放たれたその言葉は、その言葉を受け止めた人の心の中で生き続けてしまうわけだから。そして、その受け止めた人の中には、自分も含まれるのでしょう。自分が放った言葉は、他人としての自分にも突き刺さる。

*    *    *    *

 愛だとか恋だとか、そういうことを書くのは苦手なのだけれど、ひとつの愛が終わるときというのは、そんな言葉以前の言葉が放たれてしまうときだと思います。言ってはいけない言葉を言いあって、互いに傷ついて終わる。だから、恋愛も節度ある言葉を、と言いたいわけではなく、愛だとか恋だとかは、そうした言葉以前の言葉の了解でもあるわけで、だからこそ、言葉以前の言葉というものを放つためには、覚悟がいるということ。その覚悟と、相手に思いやる言葉の制御が自然に、というか無意識でできることが、恋愛というもののような気がします。

 それを自分と自分という関係性でみると、自意識にもあてはまることだと思います。自分への愛が先に立ち、その内面の言葉が、自己愛というかたちで他者に放たれるとき、その言葉には、他者に対する想像力、つまり他者が言葉には出さないけれど、自分と同じような内面を持っているという想像力が決定的に失われています。

 なぜなら、対象を自分とする恋愛状態にあり、その状態に他者は入り込む余地はそこにないから。そこに描かれる他者は、じつは生身の他者ではなく、自分なのでしょう。それがたぶん、ある意味で若さというものでもあるだろうし、初恋というものの構造でもあるのだろうと思います。逆説的だけど、終わることが運命づけられているからこそ、初恋は美しいのかもしれません。

*    *    *    *

 ここまでは、正しいか間違っているかはともかく、きっと言葉の原理ではあると思うけれど、これ以上は、きっと倫理の領域になるんだろうなと思います。つまり、この先は、私という人間の考え方だろうな、と。倫理の話を人様に言えるほど偉いわけでもないし、つまらない話になりそうなので、このへんでやめときます。倫理は、行動で示されると思いますし。

*    *    *    *

 まあ、こういうふうに書くと、消えたエントリは、いったいどんなにひどいエントリだったんだよ、てな感じですが、とりたてて刺激的でもないぼんやりした、いつものエントリだったんですけどね。まあともあれ、書いたから公開みたいな感じはよくないですね。ちなみに、今回のものは、きっかけは保存ミスでしたが、内容は、わりと私の中では言葉として熟成された感じのものです。熟成されずぎて腐りかけかもしれませんが。

 しかしまあ、月曜の朝から何書いているんでしょうね。ほんと、ブロガーってやつは。困ったもんです。では、今週も元気にいきましょう。

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2009年3月14日 (土)

慣れ

 前に買った「Apple Mighty Mouse」がネットの評判通りぶっ壊れ、しばらくELECOM製の古いマウスを使っていました。でも、この古いマウスはどうもMacではうまく動作しないことが多く、ちょっとした動作の不備でも日常使うものはイライラするもので、ついついノートパソコンのトラックパッドを使うことが多くなっていました。

 私のパソコンはMacBookの黒ですが、トラックパッドが素晴らしくよく出来ていて、二本指でなぞるとスクロールできるし、その動き具合も絶妙な感じになっていて、以前使っていたノートパソコンと比較すると、マウスレスの操作性が格段によくなっています。このへんの微妙な進化具合は、Appleはやはりすごいもんだなと思います。

Vxrevolution_3  そんなこんなでトラックパッド使いで何の不自由もなかったのですが、Mighty Mouseが調子良かった頃は、マウスはマウスで便利だったし、いくらマックのトラックパッドが使いやすいとは言ってもされどマウスでもあるだろうし、ということで、新しいマウスを買いました。せっかくだから、いいやつを買っちゃえと思い、マイクロソフトのマウスと迷いながら、グッドデザイン賞受賞というのが決め手になり「Logicool VX Revolution」を購入。

 で、使ってみました。いい。確かに、いい。高い分だけある。クリック感も心地いいし、ホイールの回り具合も申し分なく、それによく手になじみ、こりゃヘビーユーザーが良いって言うのもわかるよなあ、なんて思いながら使っていたのですが、ひとつだけ困ったことが。

 なんか慣れで、いまだにトラックパッドに手がいってしまうんですよね。で、二本指でスクロールやらをしてしまうんですが、そのとき、ふと思うんです。

 もしかすると、トラックパッドの方が使いやすいのではないか?

 キーボードを打ちながらスクロールとかクリックとかする時の手の移動は、トラックパッドのほうが少ないし、以前は、トラックパッドとか、ThinkPadとかのトラックポイントとかは、スクロールが不便さの最大の原因だったわけで、二本指スクロールができるようになった今、もしかするとマウスって意味あるのか、という疑問がふつふつと。

 VXのスクロールはほんとよくできていて、何の問題もないのですが、Appleのトラックパッド二本指スクロールも、スクロール調整がそれはそれはよくできていて(特に高速スクロール)、実際、操作感でいえば甲乙つけがたい感じがどうしてもするのです。

 わりと高かったし、マウスの便利さを堪能したかったのですが、逆にAppleのトラックパッドの優秀さを証明する結果になり、ちょっとがっかりな感じ。ヘビーユーザの人は、そのへんどうなんでしょうね。もしかすると、マウスの優位性は、今やショートカットボタンの多さだったりしているのでしょうか。キーボードを多用するプログラミング作業なんかだと、明らかにトラックパッドのほうがやりやすかったりするような気がしますし、そのへんの業界の実体はどうなんでしょう。

 まあ、使い慣れてくると違ってくるかもですが、なんか買い物の醍醐味が少し味わえなくて、ちょっと残念な結果に。VXはいいマウスだと思いますし、いまのところさしたる不満もなく、おすすめなんですけどね。

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2009年3月13日 (金)

「正論原理主義」という言葉の危うさ

 村上春樹さんが「文藝春秋」のインタビューで語ったこの言葉、マジックワードになりますね。つまり、どうにでも使えます。キャッチーな言葉だから、まず朝日新聞がこう紹介しました。

他方、「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」とも語っている。

 これだけ読むと、「ネットの正論原理主義」と読める。それを、村上春樹さんが「怖」がっている、とも読める。つまり、「ネットって怖い」とあの世界的作家である村上春樹さんも言っている、と。読んだ人は、きっと「ネットは普通の社会とは違って、怖そうだし、なんか違う論理で動いている世界なんだな。あの村上さんもそう言っているし。そうだよね、ネットって、正論ばっかりなんだよ。」と思うでしょう。というか、そういう意図をやっぱり感じてしまいます。こういう切り取り方は、駄目でしょ。面白くても。実際は、こう。

 ネット上では、僕が英語で行ったスピーチを、いろんな人が自分なりの日本語に訳してくれたようです。翻訳という作業を通じて、みんな僕の伝えたかったことを引き取って考えてくれたのは、嬉しいことでした。
 一方で、ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思うのは、ひとつには僕が1960年代の学生運動を知っているからです。おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されていった。その結果学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまったのです。そういうのを二度と繰り返してはならない。

 ここから読み取れること。それは、現代の社会一般に見られる「正論原理主義」が、ネットユーザーひとりひとりが「僕の伝えたかったことを引き取って考えてくれた」という現象が見られる開かれた言論空間である「ネット空間」にも「はびこ」っているという事実確認と、その「正論原理主義」が、最終的には(あるいは原理的には)「連合赤軍事件」のような悲劇に行き着いてしまう、という懸念。そして、だからこそ、「正論原理主義」的な傾向が、社会のこれからにとって「怖い」傾向であるという認識。決して、村上春樹さんが怖がったわけではない。

 村上春樹さんは、オウム事件を題材とした自著「アンダーグラウンド」と「約束された場所に」を冒頭で紹介していて、ひとつの「正論」を信じて、その「純粋な理屈を強い言葉で言い立て」る「正論原理主義」傾向そのものを憂慮しているわけであって、ここで「ネットにはびこる」という表現が出て来ているのは、ネットが一般人を含めた開かれた言論空間だから目立つ、ということにすぎません。それがネットの特性ではありません。

 仮にネットの特性かもしれないとすれば、当然、一般人に開かれているということがあるのでしょうが、少なくとも、あのインタビューで、村上春樹さんはその功罪を論じていません。彼に受賞を辞退するようにコミットしたのがネットの団体であり、スピーチを翻訳したのがネットのブロガーであったという事実だけがあり、その個人的体験から、「ネット空間」を例にとっているに過ぎません。これは、インタビューを読めばわかります。読んでください。立ち読みでもいいから。それ以外のことは語っていません。それがテキストを読むということだと思います。

 なぜ私が、こんなことにこだわるかというと、こういう「正論原理主義」というキャッチーな言葉は、その語られた時点の意味からニュアンスを変えて持論の補強に都合良く使われがちだからです。「コンビニ医療」もそうだったし、「後期高齢者」もそうだった。

 少なくとも「ネットにはびこる」を「ネット特有の」とか「ネットにおける」いう文脈に置き換えるのは、それがいかにキャッチーであっても違うと思うんです。「ネット特有」ということであれば、それがつながる、というシステムの問題であり、それは開くことのリスクとリンクしているはず。具体的には、コメント機能、トラックバック機能。それと、あえて加えればメール。さらには、個人メディアゆえの、編集と執筆が同一人物であるという問題。単に、そこのことによって、個人が、いとも容易くダメージを受けてしまう、ということに過ぎません。

 村上春樹さんは「正論原理主義」という言葉を、最終的には連合赤軍事件やオウム事件に行き着く重い言葉として使っていますが、それにしても言葉の選択が甘かったように思います。この言葉が「ネット特有」のものという流れができると、あらゆる個人の「正しい」を言う自由を阻害するものとして機能してしまう気がします。こんな時代であっても、一般の人の言論空間はネットしかないわけですから。それは、言った本人である村上春樹さんの本意ではないはずです。

 追記(3月14日):

 たぶん「正論原理主義」の「正論」が余分だったんでしょうね。まあ「正論」のうっとおしさというのはわからないではないけど、ある意味では「正論」に依拠して語るというのは、世界の広さが見えていない未熟さや思考の狭さを示しているみたいなことに過ぎないし、うちの親父やお袋なんかの話を聞いていると、それこそ「正論」オンパレードなわけで、それこそが「卵」、吉本隆明流に言えば「大衆の原像」なんだろうし。でも、「約束された場所に」を読み返すと、確かに「正論」の未熟さ自体を危惧する村上さんの気持ちはわからなくもなく、微妙な問題なんだろうね。

関連エントリ:村上春樹「僕はなぜエルサレムに行ったのか」を読みました

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2009年3月12日 (木)

丸善のブックカバー

 三越前にある、とある企業でプレゼン。その帰り。いい天気でしたので、日本橋の丸善まで足を伸ばしてみました。少し前にリニューアルをして、ずいぶん現代的な本屋さんになっていて、すこしびっくり。前はもっとやぼったかったというか、男くさかったような気が。

 そう言えば最近は本を買ってないよなあ、なんて思ったので、特にお目当てもなく、タイトルを見て、気になったものを手に取って、ちょっと立ち読みして、これよさげと感じた文庫本と新書を何冊か購入。リアル書店は、こうでなくっちゃ。

 「ブックカバー、お付けになりますか?」

 と店員さんが聞くので、はい、と答えました。というか、最近、どこのお店でもよく聞かれます。スーパーに行っても、ポリ袋いりますか、なんて聞きますよね。あれ、どうなんでしょう。ポリ袋がいらないと意思表示したお客さんにはつけない、でいいような気が。はい、と答える自分が、なんとなく悪いことしているような気分になるんですよね。時代ですかね。

 人によっては、本にカバーがついているのに、そのうえにカバーかよ、みたいなことを言う人もいます。まあ、それはそうなんですが、私はなんとなく、本屋さんのブックカバーは好き。古本屋さんなんかは、すごく丁寧にカバーをつける店員さんがいたりして、本を大事にしているんだなあ、なんて思います。

  ●    ●

 丸善のブックカバー、変わりましたね。私は、ふだんはあまり丸善には行かないので、今頃気づきました。写真がいまいちピンボケだけど、こんな感じ。写真が下手ですみません。雰囲気は伝わるでしょうか。

Ura_3

 硬派になりましたね。ベーシックデザイン感があって、いいですね。紙もちょっと厚めで、シンプルだけど高級感があります。ロゴの下の部分を大胆にカットしていますね。これ、何気ないですが、企業のデザインとしてはかなりアバンギャルドです。その上には「日本の知、本の力。丸善」というコピーがベーシックな明朝体のフォントで組まれています。

Omote_4

 裏表紙もなかかなカッコいいです。MARUZENと、長い縦いっぱいに、タイポをドーン。いいなあ、こういうの。文字間の取り方とか、いろいろ微妙なことろがバウハウス的。なんか、こういうベーシックなタイポグラフィー、久しぶりに見ました。表紙のMがローマン系で下位置、裏表紙がヘルベチカ系で横端位置。そのコントラストももいいですね。鮮烈です。

Naka_2

 扉です。右肩には新聞明朝っぽいクラシックなフォントで丁寧に組まれたメッセージがあります。ちょっと読みにくいので、書き起こしてみました。

触れることから、本との冒険は始まる。

明治二年(一八六九)横浜に産声をあげた「丸善」は、翌年には日本橋にも店舗を構えました。丸善創業者の早矢仕有的(はやしゆうてき)は、福澤諭吉の日本近代化思想に共鳴し、門下となった人物です。福澤の描く近代化を実現するために、早矢仕は、西欧の科学、技術、文化の導入が力になると考え、知と文化を事業とする丸善を興しました。二十一世紀、創業の志を胸に丸善は、書籍、文具、雑貨を通して知的環境を創造していきます。

 なるほど。こういうのを読むと、本は丸善で買おうと思う人もいるかもしれませんね。でも、人によってはくどいと感じる人もいるかも。本の脇役のブックカバーなのに、がんばりすぎという意見もありそうです。

 でもまあ、振り切れているので気持ちはいいです。みんなに好かれようとして、どっち付かずになるより、ずっといいですね。こういう振り切りはいいと思います。実際、仕事では振り切りが甘くなりがちなので、これをつくった人、いい仕事をしているなあ、と思いました。

Mukasi

 ちなみに、上の写真は、昔の丸善のブックカバー。これはこれでいいですね。ポスターカラーを練ってたころのグラフィックデザインというか、日宣美という感じで、一周回って新しく感じます。今、こういうデザインを本気でやろうと思っても、なかなか難しいのではないでしょうか。デザインって、案外、というかものすごく時代を反映しますから。

 ●    ●

 ネットを眺めていると、ブックカバーが好きな人はやっぱりいらっしゃいました。全国のブックカバーを収集されています。眺めているだけで、楽しい気分になるウェブサイトです。本屋さんのブックカバーが好きな人は、ぜひどうぞ。

YAKONEKO ROOM 書皮館
http://yakoneko.hp.infoseek.co.jp/index.html

ブログ「YOKONEKOと本と…」
http://blogs.yahoo.co.jp/chesyakoneko

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2009年3月11日 (水)

村上春樹「僕はなぜエルサレムに行ったのか」を読みました

 文藝春秋四月号の「独占インタビュー&受賞スピーチ 僕はなぜエルサレムに行ったのか 村上春樹」(参照)をさっそく読みました。やはり、葛藤があったようです。賞を受けることについて、村上春樹さんは、率直に短い言葉で語っています。

受賞を断るのはネガティブなメッセージですが、出向いて授賞式で話すのはポジティブなメッセージです。常にポジティブな方を選びたいというのが、僕の基本的な姿勢です。

 ネットの日本語訳については、こう語っています。

ネット上では、僕が英語でおこなったスピーチを、いろんな人が自分なりの日本語に訳してくれたようです。翻訳という作業を通じて、みんなが僕の伝えたかったことを引き取って考えてくれたのは、嬉しいことでした。

 朝日新聞で報道された「ネット空間にはびこる正論原理主義」(参照)というのは、あそこだけ抜き取ると、ネット批判のように読めましたが、村上さんは、この正論原理主義を60年代の学生運動、そしてその結末であった連合赤軍事件とからめて語っていました。

 つまり、ネットという一般に開かれた言論空間に目立って現れた「人間一般の心性」として語っていて、朝日新聞の『他方、「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」とも語っている。』という文章の抜き出し方は、ちょっと大雑把すぎるかな、と思いました。「怖い」の意味合いが違うように読めてしまいます。

 また、村上春樹さんは、スピーチの原稿を英語と日本語であらかじめ用意されていたそうです。まあ、当たり前と言えば当たり前ですが。文藝春秋には、英語と日本語の全文が掲載されています。

 私は、このエルサレム賞を受賞すると聞いた時、オウム事件被害者の方のインタビュー集である「アンダーグラウンド」を思い出しました(参照)。それは、私が村上文学を読み込んでいないからでもありますが。

 このインタビューでもオウム事件について語っています。村上さんは、オウム事件の死刑囚、そして、BC級戦犯を例に挙げて、こう語っています。

自分だけはそんな目には遭わないよと断言できる人がどれだけいるでしょう。システムと壁という言葉を使うとき、僕の頭にはその独房のイメージもよぎるのです。

 彼が言う「卵の側に立つ」という言葉には、こうした人とシステムとの複雑な関係を含んでいることをあらためて思いました。あのスピーチを読んで、そうだ、その通りだ、と感情を高揚させることもまた、彼の言う「魂をシステムに委譲」することでもあるのでしょう。なんとなく思ったのは、あのスピーチを、誰にも置き換えられない村上春樹という生身の人間の「生の言葉」として感受することが必要なのではないか、ということでした。

 私は、村上春樹さんが、あの場所で、彼自身の生の言葉で話してくれたことが、この先の社会にとって大きな意味を持ってくるのだと、少しばかり本気で思っています。どういう意味を持つのかは、今はうまく言葉にできませんが。

関連エントリ1:アンダーグラウンド
関連エントリ2:村上春樹「エルサレム賞」受賞スピーチ報道は、新聞がネットユーザーから見直される絶好のチャンスだった。
関連エントリ3:「正論原理主義」」という言葉の危うさ

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2009年3月 9日 (月)

もっと専門分野の方がブログを書くようになればいいと思うんですが

 なんだかんだで、世の中には、専門分野の人たちにとっては当たり前のことでも、一般の人にはいまいちわからないことがたくさんあって、それを知りたい一般の人もたくさんいるわけです。例えば、入院中の母のこと。かれこれ、もうすぐ1年になります。入院した時点では「入院90日ルール(入院90日を超えると保険点数が極端に下がる制度)」があり、転院を迫られました。表向きは、対応しきれないので、より専門性のある病院への転院をすすめるというものでしたが。そのときに「転院後も、また3ヶ月経ったら考えないといけません」とケースワーカーさんに言われましたが、その後、新しい病院に移り、今のところ、そういうことを言われることもなく、入院生活を続けています。

 去年の8月に後期高齢者の90日ルールが見直しとなる公算が高いという新聞記事が出て(参照)、その後、たぶん見直されたはずで、その影響なのかもしれませんが、はっきりしたことはわかりません。この「90日ルール」は、苦労している方が多いにもかかわらず、あまりニュースにもなりませんでした。ネットで検索しても、私の過去記事が上位に出てくる始末で、マスメディア、ミドルメディア、個人メディアとメディアが多様化しても、世の中に取りこぼされる情報はたくさんあるものだな、と思います。

 ま、プライベートな領域の事柄だから、書かないことも多いけれど、高齢者の医療にはたくさんのアクシデントが待ち受けていて、母の場合も、投薬をやめて、やっと意識が戻ったとたんに、気道にものをつまらせたことが原因で肺炎になったり、いろいろありました。

 ただ、入院当初にくらべると気分的には相当余裕があって、仮にこの「90日ルール」の見直しによるものだとしたら、制度によってこんなにも違うものなのか、とは思います。お医者さんのブログを見ても、この「90日ルール」についての記事がめっきり減っているので、いま医療関係では、この問題については比較的に落ち着いているのかもしれません。

 Web2.0、集合知、ロングテールなど、いろいろとウェブの可能性が叫ばれていますが、本当は、こういう医療も含めて、世の中のいろいろな部分の情報が、ある程度の専門性のフィルターを通して、社会に可視化されることが大事なような気がします。そういう意味でも、もっともっと専門分野の方がブログを書くような世の中になればいいな、と思います。

 あと、私のブログでは、仕事柄もあり、既存のマスメディアについて書くことも多いのですが、ネットでの発言の中では、比較的、既存メディアについては肯定的で、その存続のためにどうしたらいいのか、みたいな保守的な論調になっているとは思います。

 新聞は終わってはいけないし、テレビも、雑誌も終わってはいけない。そのメディアが存立する構造が崩れるということは、今、マスメディアが「90日ルール」のようなニッチな情報を伝えきれていないとしても、このような情報を広く伝える手段を社会が失うことを意味していて、そういう未来は、明らかに後退ではないかと思うからです。情報を伝えるプロがいない。ほんとうのことがわからない。ほんとうのことが通らない。そういう社会は、私はごめんだから。

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2009年3月 8日 (日)

「雑誌廃刊」についての覚え書き

 大きなところでは「読売ウィークリー」「月刊現代」「論座」「ロードショー」「週刊ヤングサンデー」「Cawaii!」「月刊PLAYBOY」「SEVEN SEAS」「Esquire」など、雑誌休刊・廃刊が相次いでいます。休刊を謳ったものでも、それは雑誌コード保持のためでしょうから、実質廃刊に近いのだろうと思います。

 部数減少と広告収入の鈍化が理由として挙げられています。部数減少と広告収入の鈍化は、関連もあるし、その一方では別々の問題であり、それぞれの廃刊が同じ原因であるとはいいにくいのだろうとは思います。それに、雑誌の廃刊数と創刊数は、今だに創刊数が若干上回る状況にあり(今年は下回りそうな気もしますが)、流行や世相に左右されがちな雑誌媒体の新陳代謝、つまりいつもの風景とも言えそうな気もします。

 なんとなく思うのは、広告収益が大部分を占める「SEVEN SEAS」型、主な流通経路である街の書店の現象とコンビニの台頭を原因にする「月刊現代」型は、今を映すものでしょうね。「ダイアモンド」や「日経ビジネス」などの週刊ビジネス誌の広告はそれなりに好調なようですし、早くからコンビニで売られていた「文藝春秋」も好調。つまり、金融バブル期に創刊された広告モデル系雑誌と、旧来型の購入経路を前提にしていた書店売り系雑誌が淘汰されているような気がします。

 私はわりと雑誌が好きな人間ですし、仕事柄、広告の掲載誌を手にすることも多く、たくさんの雑誌を読むほうですが、そういう広告収入前提、既存流通前提の雑誌は、ここ最近は内容が劣化していたような気がします。執筆陣も貧弱だったし、内容も浅かったです。どこかで慢心が見えていたというか。ここ最近の経済悪化で、有料雑誌としての存立条件の限界を超えて、突然クラッシュというのが本当のところかなと思います。つまり淘汰ですね。もちろん、流通を含めた構造の変化というのは、それはそれで大問題ではありますが。

 つまりは、既存のビジネスモデルの破綻っぽい事態ではありますが、このジビネスモデルの本格的な破綻を示すものではなさそうな感じもしています。あくまで雑誌分野で見ると、という感じですが。これが問われるのは、今、わりと好調で執筆陣、内容ともに濃い雑誌が成り立たなくなるときでしょう。「週刊文春」とか「SPA!」とか「AERA」とか「日経ビジネス」のようなビジネス誌とか、月刊で言えば「文藝春秋」とか。そのあたりの危機感は、新聞のそれとは、少し違うのかもしれません。

 基本的な認識としては、雑誌にしても広告一般にしても、私は、わりと景気悪化による市場の縮小と根本的なビジネスモデルの破綻を別のものとして考えています。なんとなく、そうした区別がないと、中長期的には道を誤りそうな気がしていて、「極論はネタというかエンターテイメントとしては面白いけれど、それは違うんじゃないか」ということがこのところの問題意識です。もちろん、市場自体が縮小すれば、仕事が少なくなったり、退場させられるかもしれない一個人や一企業としては、どちらも同じことなのかもしれませんが、情を優先させたところで理は変わらないとも思うし、個人メディアの書き手としても、そのあたりを意識し続けながら書いていきたいと思います。

 そういう意味では、このブログのタイトルにある「愚痴」は「愚痴」として書くようにしなきゃな、なんて思います。でも、人間は個人の思いを一般化したがるものだろうし、実際はなかなか難しいのでしょうけど。では、残り少ないですが、みなさまよい日曜日を。

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「デュラムおばさんのフェットチーネ」に上戸彩さんのCMは必要なんだろうか

Packege_4 Rogo_3  サッポロ一番から地域限定で発売されている「デュラムおばさんのフェットチーネ」というカップパスタ、ご存知ですか?

 フェットチーネと呼ばれる平べったいパスタで、「お湯をかけて5分待てば本格パスタ」的な商品です。私は、すこし前にコンビニで見かけて、一度食べてみました。215円。まあ、おいしい。上品だけどね。で、人気が出て来たのか、スーパーマーケットでも見かけるようになりました。

 最近、上戸彩さん出演のCMがテレビで流れています。地域限定商品なので関東ローカルのスポットだと思うんですが、派手さはないけどおしゃれっぽくてかわいいCM。白ホリに白い服を着た上戸さんが、パッケージを持って商品を紹介しているシンプルな構成。商品パッケージに描かれた「デュラムおばさん」がイタリア語で何かしゃべっていて、上戸さんがおばさんの口もとを指で押さえる。そんなストーリー。

 このCMを見て、自分が注目していた商品のCMがやってることに、「おっ、やってる」とは思ったものの、なんとなく、「これちょっとおいしいかもなあ」と密かに感じていた自分のちいさな楽しみがこわされた感じもありました。「デュラムおばさんのフィットチーネ、食べたことある?あれ、おいしいよ。」と人にすすめる楽しさがなくなるやんか、みたいな。

 ネーミングやパッケージデザインを見た限りでは、商品設計的にも「Spa王」とは違って、口コミで徐々に広がっていく的な感じになっているのに、上戸さんか、と思いました。これによって、口コミが「デュラムおばさん」から「上戸さんのCM」に変わってしまうと思うし、それは長期的には損だよな、と思います。

 ま、人がやっている仕事ではあるので、どうでもいいと言えばいいのですが、こういうところに今の流通とか広告の置かれている微妙な状況があるのだろうとも思います。口コミを信じ切れるのかといえば、きっと限界はあるでしょうし、POSで管理された今のコンビニ、スーパーの棚を考えると、ある程度は瞬間風速的なコミュニケーションも必要になってきます。「口コミを信じて、じっくり待ちましょ」と言い切れない状況もあるでしょう。

 じゃあ上戸さんに、ブログとかインタビューとかで「デュラムおばさんのフェットチーネが、最近のお気になんです。」みたいに語ってもらえばいいじゃん、みたいなことですが、そう思った時点で、その手法というのは、その商品を出している企業から閉じられてしまうというのが、私は「口コミ」だと思います。それでもやろうとすればやれるとは思うけど、でも、その一線を超える企業は、どこかでそのコミュニケーションの魂みたいなものをスポイルしてしまうのでしょう。

 今、タレントCMに代表されるようなマス広告も曲がり角ですが、インターネットの成長とともに、その可能性を高らかに誇ってきた「口コミ」も今、曲がり角のような気がします。「口コミを信じましょ」という場合の「口コミ」は、このブログで書いているような、どこからも頼まれもしないのに「ディラムおばさんのフェットチーネ」について書いてしまうような自然発生的な口コミであって、その自然発生的な口コミを誘発する状況はつくれるけれど、それを組織化したりシステム化すると、集まってくるのは無料もしくは格安で商品がもらえるといった別の動機の消費者を呼び込むとこになるし、口コミが「仕込み」に転換すると、その価値も180度変わってしまいます。

 ウェブだからといって、人の価値が大胆に変わるわけでもなく、かつてウェブで「先進的」と言われていたものの「先進的」という衣の陰にかくれていた「うさんくささ」が表に出始めているのが今だろうと思います。けれども、情報の消費のスピードだけは、どんどん速くなって、「口コミ」を待っている間にどんどん時代から取り残されてしまう。そんな、ちょっとしんどい時代なのかもしれません。

 「デュラムおばさんのフェットチーネ」に上戸彩さんのCMは必要なんだろうか。

 そういう問いかけに、いらねえんじゃねえの、と即答できない状況が一方であり、だからといって、手放しで肯定もできない、そんな感じの広告コミュニケーションの現在です。しかしまあ、いろいろ難しいですね。

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2009年3月 6日 (金)

モバイルの時代

 とあるキャンペーンを昨年に引き続き運営していて、去年に比べて変わったことがひとつあります。それは、モバイルのレスポンスが格段に増えたこと。昨年に比べると倍以上。これからはモバイルだよ、と言われてきましたが、いよいよ来たな、という感じです。

 私がブログを書いていることを知っている会社の営業さんは、ケータイで読んでいるそうです。えっ、こんな長文ブログをケータイで読むのか、と思ったけれど、「話をあわせるために一応は毎日チェックしてるんだけど、じつは、途中まで読んで挫折していることが多いんですよね。本人には言っちゃだめですよ。」なんてことを、その営業さんと一緒に仕事をしている制作さんから聞いて(すみません、ばらしちゃいました。でもそういうの偉いですよね。その営業さん、営業の鏡だと私は思います。)、まあそうだろうなと思ったわけなんですが、このブログでもケータイで読みました、なんてコメントをいただいたりするので、ケータイで読む人はちゃんと読んでくれているんだな、と書き手である私も実感することもあったりします。

 私は、ココログのベーシックコースというもので、ケータイのPVがわからないので、数字的な実感が持てないのですが、いちおうこのブログもきちんとケータイサイトを持っていて(参照)、私もケータイ(と言ってもウィルコムですが)で読んでみたりしました。あと、ココログのユーザブログページ(参照)で他のブログも。ちなみに、私のブログは、「政治・経済」カテゴリーの「論壇系」に分類されているようです。

 帰宅の電車に乗りながらケータイで自分のブログを読んでみて、なるほどねえ、こんな感じなのか、なんて思いながらも、なんとなく読みにくいよなあと思っていたのですが、いろいろ他のブログも探していって、面白そうなエントリを読んでいくうちに、どんどん目がケータイのインターフェイスに慣れてくるんですよね。すごく不思議な感覚でした。ある意味で、無骨でノンデザインな感じが、生のテキスト感を醸し出していて、PCで読むよりリアルに思えて、けっこう夢中になってしまいました。

 何よりいいのは、ページが軽いことですね。次々読んでもまったく苦にならないんですね。だから、次から次へといろんなブログをめくっていって、時間に途切れがない感じになります。結局、中野で降りるところを三鷹まで行ってしまって、そんな自分に「ほっほーっ」となってしまいました。

 まあ、このへんのお話は、Twitterユーザのブログなんかを読んでも書いてありますし、女子高生なんかが友達と頻繁にメールのやり取りをするのも珍しいことではないので、知識としてはわかってはいたんですが、自分で実際に体験してみて「ああ、この感覚か」と思いました。広告屋のくせに、今頃気づいて遅せえよなあ、なんて話ではありますけどね。

 私の仕事におけるケータイの使い方は、わりとリアルやウェブなんかで情報を持ってくれている人が、ケータイで申し込むという形なので、ケータイサイトはできるだけ軽く、短く、クリック数は少なく、みたいな感じでつくっています。それにパケット代もあるから、重いのは嫌われるし。でも、定額が当たり前になってきて、このへんは違ってきているのでしょうね。

 なんとなく、ケータイは、むしろブランディングに使えるのではないかな、とも思ったりします。生のテキスト感があるので、より身近で等身大なメッセージが伝わりますしね。これ、いわゆるメールマガジンなんですが、でもメールマガジンって、どうしても送信という、企業から顧客へというベクトルがあるけれど、私がココログでブログを探したような、自然な導線がつくれたら、小さいけれど楽しいコミュニケーションができそうな感じもしますね。というか、モバイルの世界では、今はわりと当たり前のことかもしれませんが。

 まあね、当然、こういう素人くさい感想を書いていても、最新のモバイルキャンペーン事情なんかも業界人の常識程度には押さえていたりはするんですが、そういうのを見ていると、技術可能な世界を広告分野で最大化しましたです、みたいな感じがしていましたが、今回の速度とか、データ定額の普及とかのインフラの整備による変化は、ちょっと違うなと感じたりします。

 それは、PCにおけるウェブが辿って来た道を、ギュッと短縮した感じで、すごく興味深いです。動的なバナー広告というのが一頃流行りましたが、すぐに下火になりましたよね。技術が高まって、なんでも苦にせずできるような環境が整ってくると、逆に、コンテンツはテキストとかそういうプリミティブなものになっていく。そんな逆説が、現象としてすごく面白いですね。そういう生のテキストが勝負になるような環境になっていくと、結局、人柄が勝負になってくるんですよね。

 いろいろあるけど、人柄みたいなものがもう一度見直される(かもしれない)時代の流れっていうのは、悪くないよなあ、とは思いますね。(最後に広告。このブログは、下のQRコードからでも当ブログのケータイサイトにアクセスできます。ケータイユーザの方、どうぞよろしくお願いします。)

Qrcode

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2009年3月 4日 (水)

喫茶店に行きたかった

 デイリーポータルZの大塚さん的なタイトルですが、なんだかんだで喫茶店の利用率は高いほうですね。連れ立っても行くし、ひとりでも行きます。私の職種の大部分はどこでも成立するので、個人のノートパソコンを持っていろいろまとめものをすることもあるし、最近の喫茶店は、壁際のひとり客向けバーテーブルにコンセントがついていることもあります。気が利いてますよね。お店の電源を勝手に取るのは窃盗だ、みたいなことで揉めていた頃から比べると、それだけモバイルが一般化したということなんでしょうね。トラブルごとの陰には商機あり、ということなんでしょう。トラブルになる、すなわちニーズがあるということでしょうから。

 オフィスの雰囲気が重いなあ、と感じるときには喫茶店に逃げます。いろいろなお得意の仕事をしていると、社内の雰囲気がそのまま仕事に反映されることもままあって、なんとなく逆のこともあるだろうから、できるだけそういうことに影響されないようにしていたいもんだなあ、なんて思いから、積極的にそうする感じです。

 オフィスの必要性は、私のような職種にとってはミーティング。ミーティングには何かしら考えやアイデアを持って望みたいと思うし、それがなければ大勢でやるミーティングは時間の無駄なので、そのためにもひとりの時間は必要。というか、ネタをつくるところを人に見られたくないし、私、唸りながらがんばってアイデア考えてます、みたいなことを見せる必要は感じない、というような子供っぽい動機も多分にあります。

 コーヒーがとりたてて好きなわけではないんだけど、喫茶店は好き。わりと喫茶店は、そういう人たちのニーズに支えられているのでしょうね。もちろん不味いコーヒーを出されると腹はたつけど。地方の喫茶店なんかは、地元の人の社交場になっているし。だからといって、貸しスペースになると、なんか違う気も。要は、それだと利用する側の言い訳が立たん、ということでしょうかね。

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2009年3月 2日 (月)

冗談じゃねえよ(あるいは吉本隆明さんの道理)

 吉本隆明さんの対談やインタビューを読むと、「冗談じゃねえよ、って思うんですね。」という台詞をよく見かけます。この「冗談じゃねえよ、って思うんですよね。」という一言は、わりと吉本さんの考え方の根幹を示しているように思います。そこから気づいたことなどをメモがてらに。

 吉本さんは「道理」で考える人で、道理を超える「正義」みたいなものを徹底的に嫌います。文学者がアメリカの核政策に反対する署名活動を展開したときにも、反核を唱えるなら、その実効性においては、アメリカ・ソ連の両方を名指しで批判するしかあり得ない、冗談じゃねえよ、と。一文学者が単に反核を表明することが、ソ連主導の政治運動に吸収されてしまう活動の構造自体がおかしいじゃねえか、冗談じゃねえよ、と。

 吉本さんは、上記の運動のような、一部の指導者が大衆を指導する、つまり、その大衆は、その運動がソ連主導の運動に収斂されてしまうかもしれないというようなことを思考停止にさせるような運動のあり方を、スターリニズムと呼び、徹底的に批判します。普段は買い物カゴを下げて市場に出かける吉本さんが、このスターリニズム批判のときだけは、口汚く罵倒します。それを福田和也さんなんかは、あれは左翼独特の口汚さだと言いますが、ちょっと違うかもなあ、と思ったりもしますし、そうかもなとも思います。

 吉本さんは物事の「道理」を問うているような気が私にはしていて、その「道理」というのは、現実と密接にリンクしています。それを、吉本さん独特の用語では「世界認識」という言葉になるのでしょうが、その現実というのは、吉本さんの場合、世界経済とか国際政治における現実ではなくて、その諸々の上にありながら、そんなこととは関係なしに存在する「市民社会」の現実です。そのコアの部分を「大衆の原像」と吉本さんは呼んでいるような気がします。

 そんな現実は、社会に生きる様々な立場の人が持つ様々な思いや利害が錯綜していて、当然そこには理想論や極論だけでは捉えられない多様性があります。それが実社会のリアリズム。吉本さんは、そういう現実のどうしようもない多様性をデオドラントすることで成り立つ、理想主義的な「正義」というものに対しての批判なのだろうと思います。なぜ批判するのか。それは、その「正義」が対象とする市民というものは、その「正義」が規定する存在になるからです。それ以外の市民というものを疎外していくからです。

 その「正義」の枠からはみ出した市民は、「正義」が規定する論理的帰結から、当然、非市民になります。吉本さんが「国家はいずれ解体に向かう」と言います。それは、市民社会の疎外によるひとつの集合体としての国家の解体を意味していて、その解体の根拠として「共同幻想」と言っているような気がします。そういう意味では、吉本さんはきわめてマルクスに忠実。けれどもそれは、マルクス主義ではないのでしょうね。

 ひとつ断っておくと、私は学者でもないし、マルクスなんかも読み込んだわけではないので、細部においては間違っているかもですが、それなりに吉本さんの著作を読み込んできて、彼の言ってきたことはこういうことかな、みたいなことですね。ああ、なんとなくこういうことかも、という気づきがあり、それを整理してみた感じです。もしお気づきのことがありましたら、コメントいただければ幸いです。

 吉本さんは、80年代、カウンターカルチャーを評価しました。その中に、糸井重里さんや川崎徹さんのつくる広告なんかも含まれていました。あの頃、私はまだ学生でしたが、その言葉を今読むと、きわめて冷静なんですね。ポストモダンとかいった現代思想がブームだったので、その流れのような気もじつはしていたのですが、今読むと、かなり冷静。浮ついたところがまるでない。前にそのことは1年ほど前に「1980年代後半の広告事情」というエントリに書きました。

 映像としてのテレビと、テレビCMは、瞬間の高次映像と瞬間の現在と高速度を本質とする。それはただの映像とはちがうし、また映画の映像ともちがう。
状況としての画像 高度資本主義化の[テレビ](河出文庫)

 つまりは、「大衆の原像」を根拠にして、そのリアリズムを疎外する一切のものを「冗談じゃねえ」と切り捨てる吉本さんにとって、映画に憧れる広告映像、あるいは詩に憧れる広告コピーは、ある種の映像や言葉の理想、つまりそれが持つ美意識という「正義」を強いるものとして「冗談じゃねえ」ということになるんでしょうね。そのことを吉本さんは「おしまいのよさ」と呼んでいますが。

 広告という商行為の「道理」にとって、重要なのが「高速度」と言っていること。それが気になります。これは、あれから20年経って、メディアが多様化して、ますます実感させられることです。でもまあ、これについてはことさら現代を語るまでもなく、広告というものは昔から「速度」だったような気も。「本日土用丑の日」なんて、速度がめちゃ速だもの。

 よく吉本さんについては「大衆の原像」という概念が、大衆の解体によって廃棄されたと言われるようですが、まあそうでもないかもですね。むしろ、吉本さんの現在的な課題は、管理社会、情報社会による「大衆の原像」の抑圧のほうなんでしょう。それは、最近の著作を読むと感じることです。だからこその「沈黙」みたいなことかも。

 吉本さん批判としては、きっと「大衆の原像」にその根拠を置く、という前提自体の批判が核になるのでしょうね。私は、その根拠は正しいとは思っていますし、仕事の根拠もそこに置いている部分はありますが。吉本さんの違和感については、ぼんやりと思うのは「言葉の根幹は沈黙である」とか「共同幻想は対幻想と逆立する」といった、妙に詩的で物語的なところ。それは原理ではなく倫理なのでは、と思います。このへんの疑問は、書籍やブログを含めて表明している人がほとんどいないので、個人的な資質の問題なのかもしれませんが。

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2009年3月 1日 (日)

制作側で「コミュニケーションデザイン」を設計する一人として

 前回のエントリ「「制作のやつは馬鹿だから」みたいなことがあるのかもね。」でコメントをいただきました。いろいろ考えさせられるコメントでしたので、エントリにしてコメントに答えてみたいと思います。

私は、広告を発注するサイドの人間なのですが、今回のエントリーを拝見して、ブリーフした後、制作サイドでは、やはり、こういうことが起きているのか?と複雑な心境になりました。新しいパラダイムが導入されて、結果が出る前の間は常にこういう葛藤がありますよね。「広告人さん」の意図は、コミュニケーションデザイン自体を否定することではなく、プランナーが上目線で独りよがりで、クリエイティブと一緒に課題解決しようとしないことに対する問題提起ですよね?私は、広告代理店に対しては発注側ですが、社内では、そうした新しい試みを定着させていく推進派の役割を負っています。その視点から、「広告人さん」のエントリーを読むと、本当に示唆深いです。「広告人さん」がプランナーに対して抱いているような感情を関係者に抱かせてしまっては、新しい試みはうまくいかないのだと。その際、推進者(≒プランナー)として、取るべきスタンスについて、お聞かせ頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。

 前回のエントリに書いているような事柄は、どこの分野でもある「勘違い」を題材にしているので、コミュニケーションデザイン全般の話としては一般化できにくいだろうと思います。おっしゃるように、それが今旬の新しいパラダイムだからこそ、ある種の「勘違い」を誘発している面があり、いずれは過渡期の笑い話としてこなれてくるだろうな、とは思うんですね。

 制作側の反省としては、エントリの自称コミュニケーションデザイナーの制作に対する定着への敬意(に見える軽視)は、やはり、現実として制作の大部分が定着の人であるというのもあるのかもしれません。これも一般化は難しいかもしれませんが、私の認識では、少なくとも広告会社においては、制作≒プランナーであるべきですが、制作側にもその修練が足らない現状もあるのだろうなと思います。

 逆に言えば、制作経験のないプランナー側は、定着についての認識が甘い、というのもあるかもしれません。もしきちんとした認識があれば、エントリの自称プランナーのような、全制作も含めた全機能を手足のように使おうとする「上から目線」ではなく、自身の構想に共鳴する仲間をまず探すことからはじめると思うんですね。

 つまり、そこで、人を選ぶという過程があるはず。その過程を経ないと、新しい試みには反発があるだろうから頓挫することは、コミュニケーションの専門家であれば容易に想像できるはず。また、その時点で従順な制作は、自身の構想を十分に定着してくれないだろうとことも想像できるはず。

 頓挫は発注先への成果物の質的低下につながります。過渡期の実験であるということもあるでしょうが、その実験過程でのいわゆる「はずれくじ」を買わされる得意先はたまったものではないのだろう、と私は考えます。

*     *     *     *

 私は、実際の仕事でのコミュニケーションデザインを実施している制作者でもあり、この新しい試みを実施するにあたってのもろもろを書きたいと思います。こういう話は具体的なほうがわかりやすいと思いますので。

 時代の先端手法であるコミュニケーションデザインの神髄については、書籍などで触れていただくとして、こうした流れの中で、いわゆる中堅代理店の制作が、現場でどのような解釈で、予算的にもいろいろ制限が多い仕事の中、効果を最大化していくためにコミュニケーションデザインを応用しているのかを主眼に書いていきますね。神髄については、多分に「禅問答」的な部分があるので、私にはわからない部分もありますし、こういう地に足ついた感じがブログの良さでもありますしね。そのへんは、あらかじめご了承くださいね。

 はじめにコミュニケーションデザインを定義ですが、これは最近広告の分野で言われている狭義のコミュニケーションデザインを指しています。広義では、単にコミュニケーションにおけるデザインを指すようですが。

 コミュニケーションデザインは、メディアの全領域を立体的なひとつのメディアとして考え、その立体的なメディアを構成する下位のメディアにおけるコミュニケーションを、そのメディア特性を考え効果を最大化できるエピソードにすることで、そのひとつひとつのエピソードの相乗効果で、全体のコミュニケーションをストーリーとして見せていき、通常のマス投下だけのコミュニケーションでは得られない効果を指向していく広告の方法論だと把握しています。

 下位のエピソードの事例では、gooの街頭Tシャツキャンペーンやユーザ参加型サイトなど、通常の広告とは違う個性的な施策が目立っていますが、それはコミュニケーションデザインを構成する一部であり、その個性的な施策=コミュニケーデョンデザインではなく、それも含めたストーリーの設計がコミュニケーションデザインと呼ばれるものだろうと思います。

 実務においては、そういう個性的な施策だけでなく、あらゆるメディアにおける表現が、上位の設計の一エピソードをなすものになります。つまり、ひとつのエピソードがこけると全体のストーリーはこけるという構造を持っていて、制作実務では、あらゆるメディアの定着管理が、これまでの手法とは考えものにならないくらい重要になってきます。

*     *     *     *

 ここからは、中堅で働く制作である私の本音モードで。

 具体的に言えば、作業が10倍増しなわけですね。当たり前ですよね。今までみたいにテレビCMつくって、新聞広告つくって、リサイズ、リサイズではすまなくなりますから。それは受注側だけでなく、発注先もたいへん。でも、このたいへんさは省力化できないたいへんさなわけです。なぜなら、ひとつ手を抜くと全体がこわれるから。

 いきなり小さな話で申し訳ないですが、たった1枚のDMでさえ、いままでのような安易なつくり方ではすみません。それに、ひとつひとつの表現も大事ですが、メディアを立体的に見ながら、時系列でもその変化を考えるので、スピード感覚も桁違いです。私の認識では、コミュニケーションデザイン的な手法の成功は、このスピード感覚も重要な気がします。決断の速さや修正を恐れない強い心というか。

 もちろん初期設計段階もたいへんなんですが、実施におけるたいへんさもすごいものがあり、また、設計と実施が同じ担当者でないとできない方法論でもあります。初期設計が壮大で、実施段階でいろいろあって失敗してしまうケースが多いですよね、このコミュニケーションデザインは。

 なので、コミュニケーションデザインは、発注先、受注先も含めて、良好な関係と即断できる風通しのいい組織がなによりも大切な手法なわけで、それが今まで以上に密接に定着にひも付けされているという手法なんですね。

 変わったTシャツ着た人を街頭に出して話題をつくりましょ、だけがコミュニケーションデザインではないんです。それは、コミュニケーションデザインの一部ではあるけれど。

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 そうなると、制作側としてはどうなるか。マスを経験している制作というのは、テレビ大好き、30段ヤッホーな人たちなわけです。ぶっちゃけすぎですが。でも、そういうメンタリティでは困るわけなんですよね。それは、同じように自称コミュニケーションデザイナーさんにも言えることなんですけどね。派手な初期設計だけでは、コミュニケーションデザインは動いていかないわけなんですね。

 この分野では、純粋なプランナーというのはあり得ないのではないか、と私は思っています。つまり、それを設計し仕切る人は定着について責任を持たなければならない。その長期にわたるもろもろの作業についての責任を持とうと思う人でないと、失敗をするやり方なわけです。その責任をあいまいに考えるならば、マス低調と言われる今でも、マス投下型の従来のやり方の方が効果があります。

 それは覚悟と言い換えてもいいかもしれません。私の制作スタッフについては、DMであろうとおまけであろうとテキストバナーであろうと、等価かつ同じ力で取り組む考え方の徹底に苦労しました。それは自分も含めてですけどね。それと、これについては、発注先から学んだことでもありますし、その結果から身にしみたことでもあります。

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 私としては、今も段階では、「コミュニケーションデザイン指向」の制作はプランニングを、「コミュニケーションデザイン指向」のプランナーは定着を、きちんと身につけたほうがいいと思っています。もう時代がそうなっているんだから、互いの領域の浸食なんて言わなくていいと思うんです。重要な部分を人任せにする思考は、時代遅れです。

 で、そうした努力の中で、自然と優秀な専門性を持った人が引き寄せられるはずで、今活躍するコミュニケーションデザイナーでいい制作がついている人は、そうした自然過程を経ているはずで、かつては外部スタッフの協力を含めて、手探りで未体験の定着に取り組んで来た人です。つまり、定着の責任を自分に帰させてきた人。

 制作である私なんかも、私の場合は元CIプランナーではありますが、その過程で、私の取り組みに興味を持ってくれる優秀なプランニング領域の人との出会いもありましたし、営業の信頼もその過程で得てきました。そういうことからできた信頼が、いいチームをつくると思うんですよね。なんか、きちんとした答えにもなっていないし、結論が凡庸で申し訳ないんですが。

関連:定着のイメージを持たないコミュニケーション・デザインの気持ち悪さ

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