前回のエントリ「「制作のやつは馬鹿だから」みたいなことがあるのかもね。」でコメントをいただきました。いろいろ考えさせられるコメントでしたので、エントリにしてコメントに答えてみたいと思います。
私は、広告を発注するサイドの人間なのですが、今回のエントリーを拝見して、ブリーフした後、制作サイドでは、やはり、こういうことが起きているのか?と複雑な心境になりました。新しいパラダイムが導入されて、結果が出る前の間は常にこういう葛藤がありますよね。「広告人さん」の意図は、コミュニケーションデザイン自体を否定することではなく、プランナーが上目線で独りよがりで、クリエイティブと一緒に課題解決しようとしないことに対する問題提起ですよね?私は、広告代理店に対しては発注側ですが、社内では、そうした新しい試みを定着させていく推進派の役割を負っています。その視点から、「広告人さん」のエントリーを読むと、本当に示唆深いです。「広告人さん」がプランナーに対して抱いているような感情を関係者に抱かせてしまっては、新しい試みはうまくいかないのだと。その際、推進者(≒プランナー)として、取るべきスタンスについて、お聞かせ頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。
前回のエントリに書いているような事柄は、どこの分野でもある「勘違い」を題材にしているので、コミュニケーションデザイン全般の話としては一般化できにくいだろうと思います。おっしゃるように、それが今旬の新しいパラダイムだからこそ、ある種の「勘違い」を誘発している面があり、いずれは過渡期の笑い話としてこなれてくるだろうな、とは思うんですね。
制作側の反省としては、エントリの自称コミュニケーションデザイナーの制作に対する定着への敬意(に見える軽視)は、やはり、現実として制作の大部分が定着の人であるというのもあるのかもしれません。これも一般化は難しいかもしれませんが、私の認識では、少なくとも広告会社においては、制作≒プランナーであるべきですが、制作側にもその修練が足らない現状もあるのだろうなと思います。
逆に言えば、制作経験のないプランナー側は、定着についての認識が甘い、というのもあるかもしれません。もしきちんとした認識があれば、エントリの自称プランナーのような、全制作も含めた全機能を手足のように使おうとする「上から目線」ではなく、自身の構想に共鳴する仲間をまず探すことからはじめると思うんですね。
つまり、そこで、人を選ぶという過程があるはず。その過程を経ないと、新しい試みには反発があるだろうから頓挫することは、コミュニケーションの専門家であれば容易に想像できるはず。また、その時点で従順な制作は、自身の構想を十分に定着してくれないだろうとことも想像できるはず。
頓挫は発注先への成果物の質的低下につながります。過渡期の実験であるということもあるでしょうが、その実験過程でのいわゆる「はずれくじ」を買わされる得意先はたまったものではないのだろう、と私は考えます。
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私は、実際の仕事でのコミュニケーションデザインを実施している制作者でもあり、この新しい試みを実施するにあたってのもろもろを書きたいと思います。こういう話は具体的なほうがわかりやすいと思いますので。
時代の先端手法であるコミュニケーションデザインの神髄については、書籍などで触れていただくとして、こうした流れの中で、いわゆる中堅代理店の制作が、現場でどのような解釈で、予算的にもいろいろ制限が多い仕事の中、効果を最大化していくためにコミュニケーションデザインを応用しているのかを主眼に書いていきますね。神髄については、多分に「禅問答」的な部分があるので、私にはわからない部分もありますし、こういう地に足ついた感じがブログの良さでもありますしね。そのへんは、あらかじめご了承くださいね。
はじめにコミュニケーションデザインを定義ですが、これは最近広告の分野で言われている狭義のコミュニケーションデザインを指しています。広義では、単にコミュニケーションにおけるデザインを指すようですが。
コミュニケーションデザインは、メディアの全領域を立体的なひとつのメディアとして考え、その立体的なメディアを構成する下位のメディアにおけるコミュニケーションを、そのメディア特性を考え効果を最大化できるエピソードにすることで、そのひとつひとつのエピソードの相乗効果で、全体のコミュニケーションをストーリーとして見せていき、通常のマス投下だけのコミュニケーションでは得られない効果を指向していく広告の方法論だと把握しています。
下位のエピソードの事例では、gooの街頭Tシャツキャンペーンやユーザ参加型サイトなど、通常の広告とは違う個性的な施策が目立っていますが、それはコミュニケーションデザインを構成する一部であり、その個性的な施策=コミュニケーデョンデザインではなく、それも含めたストーリーの設計がコミュニケーションデザインと呼ばれるものだろうと思います。
実務においては、そういう個性的な施策だけでなく、あらゆるメディアにおける表現が、上位の設計の一エピソードをなすものになります。つまり、ひとつのエピソードがこけると全体のストーリーはこけるという構造を持っていて、制作実務では、あらゆるメディアの定着管理が、これまでの手法とは考えものにならないくらい重要になってきます。
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ここからは、中堅で働く制作である私の本音モードで。
具体的に言えば、作業が10倍増しなわけですね。当たり前ですよね。今までみたいにテレビCMつくって、新聞広告つくって、リサイズ、リサイズではすまなくなりますから。それは受注側だけでなく、発注先もたいへん。でも、このたいへんさは省力化できないたいへんさなわけです。なぜなら、ひとつ手を抜くと全体がこわれるから。
いきなり小さな話で申し訳ないですが、たった1枚のDMでさえ、いままでのような安易なつくり方ではすみません。それに、ひとつひとつの表現も大事ですが、メディアを立体的に見ながら、時系列でもその変化を考えるので、スピード感覚も桁違いです。私の認識では、コミュニケーションデザイン的な手法の成功は、このスピード感覚も重要な気がします。決断の速さや修正を恐れない強い心というか。
もちろん初期設計段階もたいへんなんですが、実施におけるたいへんさもすごいものがあり、また、設計と実施が同じ担当者でないとできない方法論でもあります。初期設計が壮大で、実施段階でいろいろあって失敗してしまうケースが多いですよね、このコミュニケーションデザインは。
なので、コミュニケーションデザインは、発注先、受注先も含めて、良好な関係と即断できる風通しのいい組織がなによりも大切な手法なわけで、それが今まで以上に密接に定着にひも付けされているという手法なんですね。
変わったTシャツ着た人を街頭に出して話題をつくりましょ、だけがコミュニケーションデザインではないんです。それは、コミュニケーションデザインの一部ではあるけれど。
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そうなると、制作側としてはどうなるか。マスを経験している制作というのは、テレビ大好き、30段ヤッホーな人たちなわけです。ぶっちゃけすぎですが。でも、そういうメンタリティでは困るわけなんですよね。それは、同じように自称コミュニケーションデザイナーさんにも言えることなんですけどね。派手な初期設計だけでは、コミュニケーションデザインは動いていかないわけなんですね。
この分野では、純粋なプランナーというのはあり得ないのではないか、と私は思っています。つまり、それを設計し仕切る人は定着について責任を持たなければならない。その長期にわたるもろもろの作業についての責任を持とうと思う人でないと、失敗をするやり方なわけです。その責任をあいまいに考えるならば、マス低調と言われる今でも、マス投下型の従来のやり方の方が効果があります。
それは覚悟と言い換えてもいいかもしれません。私の制作スタッフについては、DMであろうとおまけであろうとテキストバナーであろうと、等価かつ同じ力で取り組む考え方の徹底に苦労しました。それは自分も含めてですけどね。それと、これについては、発注先から学んだことでもありますし、その結果から身にしみたことでもあります。
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私としては、今も段階では、「コミュニケーションデザイン指向」の制作はプランニングを、「コミュニケーションデザイン指向」のプランナーは定着を、きちんと身につけたほうがいいと思っています。もう時代がそうなっているんだから、互いの領域の浸食なんて言わなくていいと思うんです。重要な部分を人任せにする思考は、時代遅れです。
で、そうした努力の中で、自然と優秀な専門性を持った人が引き寄せられるはずで、今活躍するコミュニケーションデザイナーでいい制作がついている人は、そうした自然過程を経ているはずで、かつては外部スタッフの協力を含めて、手探りで未体験の定着に取り組んで来た人です。つまり、定着の責任を自分に帰させてきた人。
制作である私なんかも、私の場合は元CIプランナーではありますが、その過程で、私の取り組みに興味を持ってくれる優秀なプランニング領域の人との出会いもありましたし、営業の信頼もその過程で得てきました。そういうことからできた信頼が、いいチームをつくると思うんですよね。なんか、きちんとした答えにもなっていないし、結論が凡庸で申し訳ないんですが。
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