« 慣れ | トップページ | 大阪のラジオ番組「誠のサイキック青年団」の異常な終わり方 »

2009年3月16日 (月)

まあ、それは書くなということなんだろう

 書いては消して、書いては消して、そんな感じでコツコツと書き進めていた文章が飛んでしまいました。ワープロソフトの「保存しない」をクリックしてしまったんですね。まあ、それ自体はよくあることなんですが。個人的に気になるぼんやりしたことを、ひとつひとつ言葉にして、はっきりさせよう、みたいな動機があって、私には珍しく、迷いながら、ちいさな熟考を積み重ねるという感じで書いていたんですね。結論は書いているうちに見つかるでしょ、なこと。

 あまり気持ちのいいエントリではなかった気もしていて、結果的には良かったかなみたいな感じもしています。もうちょっと心の中で寝かしたほうがいい感じもしていたし。仕事であれば、一度書いたものはほぼ完全に再現できるのだけれど、ブログだからというわけではないけれど、自分としては、そのエントリは捨ててしまおうと思いました。なんとなく、そういう気分は自分としては珍しいです。

*    *    *    *

 ここ最近、吉本隆明さんがしきりに「言葉の根幹は沈黙である」みたいなことを言っていて、それが私にとってはちょっと難解で、ちょっと吉本さん、詩的に過ぎるよな、なんて思っていたけれど、具体的にはこういうことなのかも、なんて思いました。簡単に言うと「その感情、まだ言葉にしちゃいけないよ」みたいな。

*    *    *    *

 考えるのも言葉だけど、きっと、その考えを言葉にすることとは違うのでしょうね。というか、後者を吉本さんは「言葉」と言っているのでしょうね。一度放たれた言葉は、もう自分だけのものではなくて、その言葉を受け止めた人のものでもあり、それはたとえ後に消された言葉であっても、一度放たれたその言葉は、その言葉を受け止めた人の心の中で生き続けてしまうわけだから。そして、その受け止めた人の中には、自分も含まれるのでしょう。自分が放った言葉は、他人としての自分にも突き刺さる。

*    *    *    *

 愛だとか恋だとか、そういうことを書くのは苦手なのだけれど、ひとつの愛が終わるときというのは、そんな言葉以前の言葉が放たれてしまうときだと思います。言ってはいけない言葉を言いあって、互いに傷ついて終わる。だから、恋愛も節度ある言葉を、と言いたいわけではなく、愛だとか恋だとかは、そうした言葉以前の言葉の了解でもあるわけで、だからこそ、言葉以前の言葉というものを放つためには、覚悟がいるということ。その覚悟と、相手に思いやる言葉の制御が自然に、というか無意識でできることが、恋愛というもののような気がします。

 それを自分と自分という関係性でみると、自意識にもあてはまることだと思います。自分への愛が先に立ち、その内面の言葉が、自己愛というかたちで他者に放たれるとき、その言葉には、他者に対する想像力、つまり他者が言葉には出さないけれど、自分と同じような内面を持っているという想像力が決定的に失われています。

 なぜなら、対象を自分とする恋愛状態にあり、その状態に他者は入り込む余地はそこにないから。そこに描かれる他者は、じつは生身の他者ではなく、自分なのでしょう。それがたぶん、ある意味で若さというものでもあるだろうし、初恋というものの構造でもあるのだろうと思います。逆説的だけど、終わることが運命づけられているからこそ、初恋は美しいのかもしれません。

*    *    *    *

 ここまでは、正しいか間違っているかはともかく、きっと言葉の原理ではあると思うけれど、これ以上は、きっと倫理の領域になるんだろうなと思います。つまり、この先は、私という人間の考え方だろうな、と。倫理の話を人様に言えるほど偉いわけでもないし、つまらない話になりそうなので、このへんでやめときます。倫理は、行動で示されると思いますし。

*    *    *    *

 まあ、こういうふうに書くと、消えたエントリは、いったいどんなにひどいエントリだったんだよ、てな感じですが、とりたてて刺激的でもないぼんやりした、いつものエントリだったんですけどね。まあともあれ、書いたから公開みたいな感じはよくないですね。ちなみに、今回のものは、きっかけは保存ミスでしたが、内容は、わりと私の中では言葉として熟成された感じのものです。熟成されずぎて腐りかけかもしれませんが。

 しかしまあ、月曜の朝から何書いているんでしょうね。ほんと、ブロガーってやつは。困ったもんです。では、今週も元気にいきましょう。

|

« 慣れ | トップページ | 大阪のラジオ番組「誠のサイキック青年団」の異常な終わり方 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

おはようございます

ブログでは、何度も下書き保存してちまちまレイアウトを眺めているのでごっそり消えてしまう事はほとんど無くなったのですが、掲示板とかコメントだとあまり下書きができないので、うっかり消してしまって「…まあいいか」となることがしばしばあります。あれはぐったりきますねえ。

茂木健一郎さんがいつだったかの講演会で話された釈迦の教えのひとつ、「無記」を思い出しました。
kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2009/01/post-4512.html
その時は、「相手の弱点欠点に対して、無記の心で言及しない。」悪口はよくないよ。というお話だったような…。
(講演録のバックナンバーが今消えてしまっているのが残念です)

それと、山田ズーニーさんが「ほぼ日」で書いていた
「どんな小さなネガティブも、ネットには流す気がしない」
www.1101.com/essay/2004-11-10.html
このふたつを、僕は主にブログ、コメントを書く時の基準にしています。
※下の「確認」ボタン、何回押したかなあ。

投稿: ノビ | 2009年3月18日 (水) 06:54

こんばんはになってしまいました。こんばんは。

そうですね。ネットの言葉って、おしゃべりのような感じでありながらも、文字として定着される言葉でもありますから、言葉を記しているという意識は必要なようです。

>※下の「確認」ボタン、何回押したかなあ。

そうそう。私もブログにコメントするときは何回も押します。たまに、やっぱりやめとこ、みたいなことが何回もあります。

投稿: mb101bold | 2009年3月18日 (水) 20:11

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: まあ、それは書くなということなんだろう:

» [Web][雑記]そういうことはよくありますね [夏のひこうき雲]
ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね): まあ、それは書くなということなんだろう  私の場合は保存ミスということではないんですが、書いたものを迷ってアップしないということはよくあります。  はてなブックマークのコメント欄でも書ける程度の短い反応ですが、記事と... [続きを読む]

受信: 2009年3月17日 (火) 08:25

« 慣れ | トップページ | 大阪のラジオ番組「誠のサイキック青年団」の異常な終わり方 »