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2009年3月13日 (金)

「正論原理主義」という言葉の危うさ

 村上春樹さんが「文藝春秋」のインタビューで語ったこの言葉、マジックワードになりますね。つまり、どうにでも使えます。キャッチーな言葉だから、まず朝日新聞がこう紹介しました。

他方、「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」とも語っている。

 これだけ読むと、「ネットの正論原理主義」と読める。それを、村上春樹さんが「怖」がっている、とも読める。つまり、「ネットって怖い」とあの世界的作家である村上春樹さんも言っている、と。読んだ人は、きっと「ネットは普通の社会とは違って、怖そうだし、なんか違う論理で動いている世界なんだな。あの村上さんもそう言っているし。そうだよね、ネットって、正論ばっかりなんだよ。」と思うでしょう。というか、そういう意図をやっぱり感じてしまいます。こういう切り取り方は、駄目でしょ。面白くても。実際は、こう。

 ネット上では、僕が英語で行ったスピーチを、いろんな人が自分なりの日本語に訳してくれたようです。翻訳という作業を通じて、みんな僕の伝えたかったことを引き取って考えてくれたのは、嬉しいことでした。
 一方で、ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思うのは、ひとつには僕が1960年代の学生運動を知っているからです。おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されていった。その結果学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまったのです。そういうのを二度と繰り返してはならない。

 ここから読み取れること。それは、現代の社会一般に見られる「正論原理主義」が、ネットユーザーひとりひとりが「僕の伝えたかったことを引き取って考えてくれた」という現象が見られる開かれた言論空間である「ネット空間」にも「はびこ」っているという事実確認と、その「正論原理主義」が、最終的には(あるいは原理的には)「連合赤軍事件」のような悲劇に行き着いてしまう、という懸念。そして、だからこそ、「正論原理主義」的な傾向が、社会のこれからにとって「怖い」傾向であるという認識。決して、村上春樹さんが怖がったわけではない。

 村上春樹さんは、オウム事件を題材とした自著「アンダーグラウンド」と「約束された場所に」を冒頭で紹介していて、ひとつの「正論」を信じて、その「純粋な理屈を強い言葉で言い立て」る「正論原理主義」傾向そのものを憂慮しているわけであって、ここで「ネットにはびこる」という表現が出て来ているのは、ネットが一般人を含めた開かれた言論空間だから目立つ、ということにすぎません。それがネットの特性ではありません。

 仮にネットの特性かもしれないとすれば、当然、一般人に開かれているということがあるのでしょうが、少なくとも、あのインタビューで、村上春樹さんはその功罪を論じていません。彼に受賞を辞退するようにコミットしたのがネットの団体であり、スピーチを翻訳したのがネットのブロガーであったという事実だけがあり、その個人的体験から、「ネット空間」を例にとっているに過ぎません。これは、インタビューを読めばわかります。読んでください。立ち読みでもいいから。それ以外のことは語っていません。それがテキストを読むということだと思います。

 なぜ私が、こんなことにこだわるかというと、こういう「正論原理主義」というキャッチーな言葉は、その語られた時点の意味からニュアンスを変えて持論の補強に都合良く使われがちだからです。「コンビニ医療」もそうだったし、「後期高齢者」もそうだった。

 少なくとも「ネットにはびこる」を「ネット特有の」とか「ネットにおける」いう文脈に置き換えるのは、それがいかにキャッチーであっても違うと思うんです。「ネット特有」ということであれば、それがつながる、というシステムの問題であり、それは開くことのリスクとリンクしているはず。具体的には、コメント機能、トラックバック機能。それと、あえて加えればメール。さらには、個人メディアゆえの、編集と執筆が同一人物であるという問題。単に、そこのことによって、個人が、いとも容易くダメージを受けてしまう、ということに過ぎません。

 村上春樹さんは「正論原理主義」という言葉を、最終的には連合赤軍事件やオウム事件に行き着く重い言葉として使っていますが、それにしても言葉の選択が甘かったように思います。この言葉が「ネット特有」のものという流れができると、あらゆる個人の「正しい」を言う自由を阻害するものとして機能してしまう気がします。こんな時代であっても、一般の人の言論空間はネットしかないわけですから。それは、言った本人である村上春樹さんの本意ではないはずです。

 追記(3月14日):

 たぶん「正論原理主義」の「正論」が余分だったんでしょうね。まあ「正論」のうっとおしさというのはわからないではないけど、ある意味では「正論」に依拠して語るというのは、世界の広さが見えていない未熟さや思考の狭さを示しているみたいなことに過ぎないし、うちの親父やお袋なんかの話を聞いていると、それこそ「正論」オンパレードなわけで、それこそが「卵」、吉本隆明流に言えば「大衆の原像」なんだろうし。でも、「約束された場所に」を読み返すと、確かに「正論」の未熟さ自体を危惧する村上さんの気持ちはわからなくもなく、微妙な問題なんだろうね。

関連エントリ:村上春樹「僕はなぜエルサレムに行ったのか」を読みました

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コメント

言葉の選択や言葉の解釈を重視したこのブログにとても好感を持ちました。思うところありましたので、村上氏の「ネットにはびこる正論原理主義」について、私個人の解釈について書かせていただきたいと思います。
私は、彼は「エルサレム賞を辞退せよ」という警告(あるいは脅迫)をメール、ブログ、掲示板などあらゆるネットツールを通じて想像以上の数受取ったのだと推察します。この警告は人道的社会正義の観点で「正論」ですが、彼は「正論が常に物事を解決してくれる」とは思っていない(理想主義ではない)。にもかかわらず、この「正論」がネットの特徴から容易に想定以上に増幅・暴走し、彼の言動をコントロールしようとしてきた。
この事実を危険と見なし警鐘を鳴らしたのではないか、と解釈しました。もちろん「ネットが危険」なのではなく「ネットが内包する一側面にそのような要素がある」という意味ですが。いかがでしょう。

投稿: shinystar | 2009年3月24日 (火) 14:15

私は「ネットが内包する」ではなく「人間」が内包する一側面だと思いますよ。それが、まあ個人の言論空間であるネットにはびこっている、と。ネットは大衆の言論インフラになってますから。
たぶん、彼が言いたかったのは、そういう人間の一側面である「正論原理主義」が増えてくると、社会がえらいことになるよ、と。そういう意味では、彼はアンダーグラウンドの頃から一貫しています。

投稿: mb101bold | 2009年3月24日 (火) 16:04

村上氏が言っている事は要するに、ある問題についての提言が、一つ以上認められない雰囲気に危機感を持つべきだ、という事ではないでしょうか?。

例えば原子力以外の選択肢を模索する時、自然エネルギーの選択肢を太陽光や風力しか認めず、実現性や実績がある程度蓄積されている、他の発電方法を強力に排除するようなのはまさしく正論原理主義と言えるでしょう。

投稿: yapon | 2011年7月 2日 (土) 14:54

原子力で言えば、「絶対危険」対「絶対安全」対立の構図があって、この構図は、村上氏が言うように60年の学生運動からオウムへと脈々と続く構図なんでしょうね。もう今さら感がありますが、学生運動やオウムへの総括というものをやってこなかったことへのつけを今払っている気がします。

投稿: mb101bold | 2011年7月 3日 (日) 16:32

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