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2009年3月11日 (水)

村上春樹「僕はなぜエルサレムに行ったのか」を読みました

 文藝春秋四月号の「独占インタビュー&受賞スピーチ 僕はなぜエルサレムに行ったのか 村上春樹」(参照)をさっそく読みました。やはり、葛藤があったようです。賞を受けることについて、村上春樹さんは、率直に短い言葉で語っています。

受賞を断るのはネガティブなメッセージですが、出向いて授賞式で話すのはポジティブなメッセージです。常にポジティブな方を選びたいというのが、僕の基本的な姿勢です。

 ネットの日本語訳については、こう語っています。

ネット上では、僕が英語でおこなったスピーチを、いろんな人が自分なりの日本語に訳してくれたようです。翻訳という作業を通じて、みんなが僕の伝えたかったことを引き取って考えてくれたのは、嬉しいことでした。

 朝日新聞で報道された「ネット空間にはびこる正論原理主義」(参照)というのは、あそこだけ抜き取ると、ネット批判のように読めましたが、村上さんは、この正論原理主義を60年代の学生運動、そしてその結末であった連合赤軍事件とからめて語っていました。

 つまり、ネットという一般に開かれた言論空間に目立って現れた「人間一般の心性」として語っていて、朝日新聞の『他方、「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」とも語っている。』という文章の抜き出し方は、ちょっと大雑把すぎるかな、と思いました。「怖い」の意味合いが違うように読めてしまいます。

 また、村上春樹さんは、スピーチの原稿を英語と日本語であらかじめ用意されていたそうです。まあ、当たり前と言えば当たり前ですが。文藝春秋には、英語と日本語の全文が掲載されています。

 私は、このエルサレム賞を受賞すると聞いた時、オウム事件被害者の方のインタビュー集である「アンダーグラウンド」を思い出しました(参照)。それは、私が村上文学を読み込んでいないからでもありますが。

 このインタビューでもオウム事件について語っています。村上さんは、オウム事件の死刑囚、そして、BC級戦犯を例に挙げて、こう語っています。

自分だけはそんな目には遭わないよと断言できる人がどれだけいるでしょう。システムと壁という言葉を使うとき、僕の頭にはその独房のイメージもよぎるのです。

 彼が言う「卵の側に立つ」という言葉には、こうした人とシステムとの複雑な関係を含んでいることをあらためて思いました。あのスピーチを読んで、そうだ、その通りだ、と感情を高揚させることもまた、彼の言う「魂をシステムに委譲」することでもあるのでしょう。なんとなく思ったのは、あのスピーチを、誰にも置き換えられない村上春樹という生身の人間の「生の言葉」として感受することが必要なのではないか、ということでした。

 私は、村上春樹さんが、あの場所で、彼自身の生の言葉で話してくれたことが、この先の社会にとって大きな意味を持ってくるのだと、少しばかり本気で思っています。どういう意味を持つのかは、今はうまく言葉にできませんが。

関連エントリ1:アンダーグラウンド
関連エントリ2:村上春樹「エルサレム賞」受賞スピーチ報道は、新聞がネットユーザーから見直される絶好のチャンスだった。
関連エントリ3:「正論原理主義」」という言葉の危うさ

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コメント

はじめまして。
「ビル・エヴァンス」で検索してこちらに辿りつき、以来ちょくちょくお邪魔しています。
村上さんのスピーチに関しては、最近になって氏の作品を読むようになったこともあり、興味深いものがありました。
村上さんのスピーチの内容にはおおむね共感できましたが、システムを「我々のつくったもの」としながらも、システムと個の関係をあくまで対立的に述べられていたことには若干の違和感を感じました。
わたし的には「個」のそれぞれが「システム」の一部(もしくはそれに加担している)であるという自覚が必要なのではないかと思います。
その自覚こそが「システムの自己増殖」を防ぎ、「システム」を「個」引き戻すことができる手立てなのはないかと感じました。

投稿: mitsu7716 | 2009年3月13日 (金) 23:53

mitsu7716さん、はじめまして。

システム(The system)は、「アンダーグラウンド」と「約束された場所に」あたりから出て来たような気がします。そこには、その人がつくったはずのシステムへの「絶対帰依」という心性が問われています。

その「絶対帰依」されるシステムは、自分たちがつくったものであるにもかかわらず対立してしまうよ、という感じに私は捉えています。なんとなく思うのは、吉本隆明が言った「共同幻想と対幻想は逆立する」という逆転です。村上春樹はその状態を問うているのではないか、と。

それは、吉本の言説に感じる、対幻想を支援するという感じに近いかもしれません。ただ、私はその対幻想というものは共同幻想と地続きに見えてしまっていて、その対立がよくわかっていない部分があります。

それと、それが語られた場所も重要だと私は思っています。そういう文脈では、現象としてはやはり「対立」なのでしょう。

はっきりした答えはまだ私には出せませんし、それほど割り切れる問題でもないのだろうな、とも思っています。

なんとなく村上春樹の思考のコアの部分が表れている、オウム信者のインタビュー集で「アンダーグラウンド」の続編として書かれた「約束された場所へ」の中の、あるオウム信者への違和感として語られた言葉を引用します。

『僕は人間というものはブラックボックスを開くという作業と、それをそのまま呑み込んでしまうというふたつの作業を、同時的におこなうべきだし、そうしなければ多くの局面において危険なことになると思っています。』

投稿: mb101bold | 2009年3月14日 (土) 01:46

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