判断の領域
じつは知識とか技術っていうのは、あまり重要ではないのではないかと思うようになってきました。いや、違うな。もともと、あまり重要なこととして考えてこなかったような気がします。というか、知識なんてものは、その気になれば吸収できるし、技術っていうのも、たとえばコピーライティングについても、四六時中コピーばかり書いていたら、それなりに身に付くものだと思います。
では、知識があって技術があれば、それできちんとした仕事ができるかといえば、そうではないような気がします。その知識なり技術を運用するとき、そこに判断がからむからです。
経営という分野で考えるとわかりやすいかもしれません。経営についての知見が豊富で、多くの成功事例を知っていて、類例が出た際に事例同様に実行する力を持っていたとしても、その人がきちんとした経営ができるとは限りません。なぜなら、経営は、そのときどきの判断の連続だから。経営判断とよく言われますが、その判断の領域こそ、経営というものなのでしょうね。
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ジャズをやるとよくわかりますが、早弾きができて、難しいコード進行に対応するアドリブパターンをよく知っているプレイヤーが必ずしもいいプレイヤーだとは限りません。プロの場合は、それぞれの個性に還元されるでしょうが、アマチュアの場合、その優劣は残酷に表現されてしまいます。つまり、上手いプレイヤーでも、つまらないプレイヤーは多いのです。
つまらないプレイヤーは、インタープレイにおける判断が凡庸だったりします。バンドのアンサンブルがつくる音の場を、無理矢理自分の知見に引き戻して、自分のノウハウの中で判断が下されるから、つまらないのです。それは、彼にとっては、バンドはカラオケであり、誰が弾いていても同じなのです。そういうタイプのプレイヤーは、練習すればするほど、音がつまらなくなっていきます。残酷だけど、現実はそう。
逆に、あまり上手くないプレイヤーでも面白い音を出すプレイヤーもいます。その人は、バンドの音の場にきちんといて、その瞬間、瞬間に判断を下しているような気がします。サキソフォンをはじめたばかりの初心者がジャムセッションに参加したとき、困り果てた彼は、B♭だけをブフォ、ブフォと吹き続けました。その間が独特で、面白くて、バンドは、初心者の彼がつくる空気に引っ張られて、新しい音の場をつくりはじめました。
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だからといって知識や技術なんてなくていいとは思いません。逆説的な言い方になりますが、判断の領域が、自然と自分に必要な知識や技術を選び取り、積み重ねるのだろうと思います。プロのミュージシャンを見ると、ブルースが好きな人はブルース、バップが好きな人はバップ、そんなふうに世界を広げているように思います。そこから枝分かれをして新しい世界が生まれることがあっても、はじめからマルチを目指す人に、一流はほとんどいません。
自分に引き戻して考えると、自分の可能性は、きっと判断の領域にあるのだろうし、その限界も判断の領域にあり、それは知識、技術の拡張によってなされるものではないような気がしています。これは、同じように、自分の判断の領域が新しい知識や技術を求めなくなったとき、その判断の領域はそこで終わり、ということにもなるんだろうし、ひとつのあきらめどころがそこなのだろうな、と考えています。あまり考えたくないことだけど。
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私は判断の領域というものを信じています。仕事を振り返ると、知識や技術ではなく、その時、その時の判断が重要だったと実感させられます。よく、このブログで、仕事関連について書いていることを知っている人から、そんなに太っ腹に何でも書いてもったいない、とか言われるのですが、私としては、知識や技術なんかはそれほど重要ではないという思いがあるからかもしれません。
知識や技術を真似しても、私と同じようにはできませんって。逆に、あるとすれば、私が書いたことに触発されて、私のやり方ではない方法で新しいものを誰かがつくることくらいです。私と同じようにやられると商売上がっりだけど、違うやり方なら、それは、いいことじゃないですか。それが、私みたいな凡庸な人が書く意味のような気もするんですね。
この考え方は、ネットから学んだような気がしています。特にプログラミング領域のネット。この領域はあまりわからないですが、プログラミングの場合、多くの知識や技術が公開されているとのことです。であるならば、世の中には、優秀なプログラマーが続出するはずで、でも現実は、そうじゃない。やっぱり、判断の領域が勝負を決めるからです。
判断の領域が求める知識や技術が公開されているという時代の変化は大きいものだとは思うし、その変化は決して小さなものではないとは思うけれど、でも、それは図書館の拡張という意味を超えないような気がします。どこまで行っても、判断の領域が人には残されています。それを残酷な現実と見るか、希望と見るかは、年齢やキャリアによって違うでしょうが、基本は希望だと思いますよ。だってさ、知識や技術で勝負が決まる世界なんて、つまらないもの。それは、きっと希望ですって。
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コメント
知識や技術が最重要なものではない・・・なんとなく共感しました。私には経験もないのですけれど。
思い返すに仕事の現場で判断できるひとを尊敬していたような気がします。
判断の領域。そんなことを考えながら、これから二年目を進んでいこうかと思います。
投稿: coro | 2009年3月27日 (金) 10:14
>仕事の現場で判断できるひと
私も長年の現場の実感としてはそうなんです。それも、その瞬間、瞬間の判断の質が最終的には仕事の質を決定してきたように思うんですね。
もちろん、その判断は経験や知識、技術が鍛える部分はありますが、ベースは判断の領域。そんな気がします。
投稿: mb101bold | 2009年3月27日 (金) 12:21
どう名乗っていたのか忘れましたが、かなり前にコメント欄でお話させていただいたものです。
音楽とプログラミングは、ある程度自分にとっての専門分野にあるので、興味深く読ませていただきました。
プログラミングで多くのオープンソースがあるのは、未だに発展する余地があり、明らかに発展しなければいけないものだからこそあるような気がするんです。そこには、「古きよきもの」はほとんどなく、計算速度やユーザビリティのような絶対的に見える尺度があって、過去を振り返ることはほとんどない、というような。(perlみたいな言語はネットの発展とともに見直されることはあったとも思いますが)
これが、プログラミング以外にも応用できる事象なのかわかりませんが、プログラミングという分野(?)で特徴のひとつとしてあるように思います。
しかし、音楽でももっとオープンソースであって欲しいです。ギター弾くにしろピアノ弾くにしろ、忠実にコピーするのに、耳コピだけで行くのは若干大変です。(聴きこむ重要性は前提として)創造性の対価みたいなものが、判断の領域だけに限定される仕組みがあればいいんですけどねー。いや、判断の領域、っていうものをはっきりと理解したわけではないですがw
投稿: イデラ | 2009年3月29日 (日) 00:48
>音楽でももっとオープンソースであって欲しいです。
この意味合いがいまいち理解できていないのですが(楽譜やTAB譜のこと?)、音楽は十分にオープンソース的な要素を持っていると思いますよ。というか、写譜すれば完全に再現できるし、個人で楽しむ分には誰にも止められないし。
ジャズの分野なんかでは、スタンダード曲がそれにあたるだろうし、ブルース進行や循環進行、枯葉進行などのオープンソース的なコード進行から思い思いの曲が生まれています。
話は変わりますが、耳コピは、コード進行の理論とスケールを理解すると簡単になりますよ。完コピじゃなければそれで十分かも。私はそれほど分かっているわけではないですが。
投稿: mb101bold | 2009年3月29日 (日) 01:24
いえ、和音や理論について一通りの感覚は持っていると自負しています。ミクソリディアンがどうだとか、専門用語には弱いですが。感覚的な部分で。
まず、市販の楽譜の質の低さが問題だと思っています。ジャズ系はまだましなのかもしれませんが、ポップスの譜面は、アーティスト本人が監修していないものは特にひどいと感じます。それに、ジャズは本当に昔からスタンダードがあって、多くの人が演奏してきた背景がありますが、今現在ネット上で発表されてるような音楽では、譜面が作られていることってほとんどないですよね。
それに、和音の進行ってかなり大枠で、それ以上に「キースのソロが弾きたい」とか思うわけです。大御所ならまだマニアの方がいそうですが、あのライブのあのバージョン、と探したらまずありません。とはいえ細部に拘っていくとプログラミングでも同じことかもしれませんが…
投稿: イデラ | 2009年3月29日 (日) 13:25
>それ以上に「キースのソロが弾きたい」とか思うわけです。
なるほど、そういう意味ですか。その領域だと今のところないですね。キースの場合は、確かケルンコンサートのキース直筆の写譜が販売されていた気がしますが、それでもなかなか弾けないのではないでしょうか。それこそ、知識や技術以上の「判断の領域」ですものね。
クラシック以外の市販の楽譜の質は確かに低いですよね。結局、需要との関係でしょうね。クラシックの場合、楽譜も含めて楽曲というプロダクトなんでしょうけど、他のジャンルはそうなっていませんものね。結局、ないものはつくるしかない、ということなんでしょうね。
投稿: mb101bold | 2009年3月29日 (日) 14:30