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2009年3月 2日 (月)

冗談じゃねえよ(あるいは吉本隆明さんの道理)

 吉本隆明さんの対談やインタビューを読むと、「冗談じゃねえよ、って思うんですね。」という台詞をよく見かけます。この「冗談じゃねえよ、って思うんですよね。」という一言は、わりと吉本さんの考え方の根幹を示しているように思います。そこから気づいたことなどをメモがてらに。

 吉本さんは「道理」で考える人で、道理を超える「正義」みたいなものを徹底的に嫌います。文学者がアメリカの核政策に反対する署名活動を展開したときにも、反核を唱えるなら、その実効性においては、アメリカ・ソ連の両方を名指しで批判するしかあり得ない、冗談じゃねえよ、と。一文学者が単に反核を表明することが、ソ連主導の政治運動に吸収されてしまう活動の構造自体がおかしいじゃねえか、冗談じゃねえよ、と。

 吉本さんは、上記の運動のような、一部の指導者が大衆を指導する、つまり、その大衆は、その運動がソ連主導の運動に収斂されてしまうかもしれないというようなことを思考停止にさせるような運動のあり方を、スターリニズムと呼び、徹底的に批判します。普段は買い物カゴを下げて市場に出かける吉本さんが、このスターリニズム批判のときだけは、口汚く罵倒します。それを福田和也さんなんかは、あれは左翼独特の口汚さだと言いますが、ちょっと違うかもなあ、と思ったりもしますし、そうかもなとも思います。

 吉本さんは物事の「道理」を問うているような気が私にはしていて、その「道理」というのは、現実と密接にリンクしています。それを、吉本さん独特の用語では「世界認識」という言葉になるのでしょうが、その現実というのは、吉本さんの場合、世界経済とか国際政治における現実ではなくて、その諸々の上にありながら、そんなこととは関係なしに存在する「市民社会」の現実です。そのコアの部分を「大衆の原像」と吉本さんは呼んでいるような気がします。

 そんな現実は、社会に生きる様々な立場の人が持つ様々な思いや利害が錯綜していて、当然そこには理想論や極論だけでは捉えられない多様性があります。それが実社会のリアリズム。吉本さんは、そういう現実のどうしようもない多様性をデオドラントすることで成り立つ、理想主義的な「正義」というものに対しての批判なのだろうと思います。なぜ批判するのか。それは、その「正義」が対象とする市民というものは、その「正義」が規定する存在になるからです。それ以外の市民というものを疎外していくからです。

 その「正義」の枠からはみ出した市民は、「正義」が規定する論理的帰結から、当然、非市民になります。吉本さんが「国家はいずれ解体に向かう」と言います。それは、市民社会の疎外によるひとつの集合体としての国家の解体を意味していて、その解体の根拠として「共同幻想」と言っているような気がします。そういう意味では、吉本さんはきわめてマルクスに忠実。けれどもそれは、マルクス主義ではないのでしょうね。

 ひとつ断っておくと、私は学者でもないし、マルクスなんかも読み込んだわけではないので、細部においては間違っているかもですが、それなりに吉本さんの著作を読み込んできて、彼の言ってきたことはこういうことかな、みたいなことですね。ああ、なんとなくこういうことかも、という気づきがあり、それを整理してみた感じです。もしお気づきのことがありましたら、コメントいただければ幸いです。

 吉本さんは、80年代、カウンターカルチャーを評価しました。その中に、糸井重里さんや川崎徹さんのつくる広告なんかも含まれていました。あの頃、私はまだ学生でしたが、その言葉を今読むと、きわめて冷静なんですね。ポストモダンとかいった現代思想がブームだったので、その流れのような気もじつはしていたのですが、今読むと、かなり冷静。浮ついたところがまるでない。前にそのことは1年ほど前に「1980年代後半の広告事情」というエントリに書きました。

 映像としてのテレビと、テレビCMは、瞬間の高次映像と瞬間の現在と高速度を本質とする。それはただの映像とはちがうし、また映画の映像ともちがう。
状況としての画像 高度資本主義化の[テレビ](河出文庫)

 つまりは、「大衆の原像」を根拠にして、そのリアリズムを疎外する一切のものを「冗談じゃねえ」と切り捨てる吉本さんにとって、映画に憧れる広告映像、あるいは詩に憧れる広告コピーは、ある種の映像や言葉の理想、つまりそれが持つ美意識という「正義」を強いるものとして「冗談じゃねえ」ということになるんでしょうね。そのことを吉本さんは「おしまいのよさ」と呼んでいますが。

 広告という商行為の「道理」にとって、重要なのが「高速度」と言っていること。それが気になります。これは、あれから20年経って、メディアが多様化して、ますます実感させられることです。でもまあ、これについてはことさら現代を語るまでもなく、広告というものは昔から「速度」だったような気も。「本日土用丑の日」なんて、速度がめちゃ速だもの。

 よく吉本さんについては「大衆の原像」という概念が、大衆の解体によって廃棄されたと言われるようですが、まあそうでもないかもですね。むしろ、吉本さんの現在的な課題は、管理社会、情報社会による「大衆の原像」の抑圧のほうなんでしょう。それは、最近の著作を読むと感じることです。だからこその「沈黙」みたいなことかも。

 吉本さん批判としては、きっと「大衆の原像」にその根拠を置く、という前提自体の批判が核になるのでしょうね。私は、その根拠は正しいとは思っていますし、仕事の根拠もそこに置いている部分はありますが。吉本さんの違和感については、ぼんやりと思うのは「言葉の根幹は沈黙である」とか「共同幻想は対幻想と逆立する」といった、妙に詩的で物語的なところ。それは原理ではなく倫理なのでは、と思います。このへんの疑問は、書籍やブログを含めて表明している人がほとんどいないので、個人的な資質の問題なのかもしれませんが。

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