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2009年4月の16件の記事

2009年4月30日 (木)

スタジオ萌え

Studio

 工場萌えというのがあるじゃないですか。
 そんな感じです。
 スタジオに萌えます。
 天井に張り巡らされたパイプとか、
 無骨なライトとか、
 これ値段いくらするんだろ的な機材とか。
 何度見ても飽きないすなあ。

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2009年4月27日 (月)

素朴な疑問として

 どうして新聞とかテレビの報道って、こういう切り取り方するのでしょうね。2009年4月25日23時49分にYOMIURI ONLINEに配信された記事のタイトル。報知ではなく読売新聞の記事です。

SMAP・香取さんも番組で謝罪…「絶対に許されない」

 で、中身はこう。後半部分を引用します。

 香取さんは「SMAPのメンバーである草なぎ剛が皆さんに多大なるご迷惑をおかけしたことを深くおわび申し上げます。今回してしまったことは、社会人として大人として絶対に許されることではありません」と謝罪。24日夜に電話で話したことを明かした上で「深く深く反省していました。みなさんに許していただけるのなら、SMAPに一日も早く戻ってくることを願っています」とした。

 普通の感覚として、あの香取さんの謝罪を切り取って「絶対に許されない」とは要約しないと思うんですね。だって、最後に「許していただけるのなら」と言っているわけだし。この謝罪の主題は、文字通り「しかし、もしみなさんに許していただけるなら、一日も早く戻ってくることを願っています」でしょう。

 広告で言えばタイトルはキャッチコピーだと思うんですね。こういうキャッチコピーは駄目。だって、本文読んで「なんだよ」って思いますから。あえて本文の内容とは逆から切り込むキャッチを書く場合は、本文を読んだときに「なるほどねえ」と思わせないといけないんですよね。ある種のカタルシスがないと。それもこの記事にはないし。この謝罪はテレビで見ましたが、タイトルのニュアンスはちょっと違うのではないでしょうか。なんかとっても下品。

 土日は、家でずっと仕事やら何やらをしていて、ながらでテレビばかり見ていたので、草彅さんがらみで、もうひとつ。記者会見でのこんな質問。

——プレッシャーはありましたか?
 ありません。
——じゃあ、どんなときにいつもお酒を飲みたいと思っていたのでしょう。

 まずは質問者のおまえが答えろよ、と思いました。この質問をした人の頭の中では、きっと「プレッシャーがあるから酒を飲む」しか答えがないんですよね。この質問、少し前に「今後、酒を飲みたいですか?」という質問があるんですよね。それに対して、草彅さんは「飲みたくありません。」とは答えなかったんです。で、この展開。

 なんかね、「いかに小さなことであろうと絶対に失敗を許さない」みたいな社会をつくりたがっているような気がするんですね。そういう意志がなければ、こんな要約や質問はできないです。香取さんがSMAPの仕事仲間として、あるいは親友として「絶対に許されない」というのは分かるけど、記事を書く人が「絶対に許されない」と内容をミスリードするタイトルをつける感覚が私にはわからないし、酒を飲む理由を問う質問者の感覚もわからない。

 要するに、自分をものすごく高い棚に置いているんですね。棚に置けているときはいいけど、いつか引きずり降ろされる時が来ます。こういう社会を想定する限りはね。

 そういう社会っていうのが、いかに惨い社会であるかというのを想像したことがないのかな、と思います。言うならば、持続的いじめ社会ですよね。ターゲットを延々と探しつづけることになります。些細な失敗を許さないということは、逆説的には、些細な失敗を探しつづけるということでもあるんです。誰か失敗をしないかと見張りつづける社会でもあるんです。

 しかしまあ、どうしてでしょうね。ミスリードや誘導をしてまでも、そうした価値観を社会に示したいのか、それとも、そういう価値観を求める市場というのが彼らには、はっきりと見えているのか。どちらにしても、とても嫌な感じがします。その嫌な感じは、案外根深いような気がしています。

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2009年4月26日 (日)

タレント広告のリスク

 日本の多くのテレビCMはタレント広告です。その中には、タレントがタレントとして商品なりブランドなりをお薦めするものもあれば、タレントがストーリーの中の登場人物として演じる場合もあります。前者の積極的なタレント起用の場合はもちろん、後者の場合でも、タレントさんが不祥事を起こしてしまうと、広告が取りやめになることが多いのが、残念ながら現在の風潮です。

 今回の草彅さん泥酔の件でも、ほぼすべての広告が取りやめになりましたし、彼の出演する番組が差し替えられたりしました。私の個人的な感想ですが、今回は草彅さんにとっては不運だったように思います。出来事としては、まあ酒にまつわる失敗でもあるし、日常でもよくあることだと思うのですが、なにせ内容が、ネタとしてキャッチーでした。芝生で全裸ですもの。しかも、あの草彅さんが、という感じで、これはもう、逮捕うんぬんでなくても、今の時代では同じことが起こっていたと思います。

 まあ、そうした風潮はちょっと世知辛いなと思うし、私は今回の件で、草彅さんも一人の人間なんだよなあ、みたいなことを思いましたし、草彅さんの真面目なイメージ通りのお酒の失敗だったような気もします。純な人なんだろうな、という感じです。あえて突っ込むとしたら、「人間として最低」ではなくて「学生じゃねえんだから」ですよね。ただ、企業にとっては、彼のイメージ資産を使って広告しているわけだから、わざわざイメージが一時的に下がっているときに、その人を使って広告する意味もないので、今回のようになるのは仕方がないですね。

 タレント広告には属人的なリスクがあります。みんなそれを承知でタレントを起用しています。だから、鳩山邦夫総務相を除いて、広告主側は誰一人として苛立ちを表明しなかったでしょ。内心は、「こんな、なにかと大変な時期に不用意なことしてくれるなよ、ほんとにもう」なんて思うのでしょうけど、起きてしまったことだし淡々とことを進めるしかありません。それだけでも何かと大混乱ではあるのですが。

 現場はみんなリスクを織り込み済み。もちろん、こういうことはないに越したことはないけれど、それがタレントを広告に起用するということですから。たぶん、今回のことくらいなら、お金の話を含めたビジネスライクなやり取りがドライに行われ、ある時期を過ぎれば、きっと多くの企業はまた草彅さんを起用するのではないでしょうか。冷静に見て、今回の件は、傷害事件のような致命的なものでもなんでもないですし。まあ、このへんのことは大手広告会社の所属ではないので、はっきりとしたことは言えませんが。

 私もタレント広告を制作することがときどきあります。いろいろ大変です。たとえば、まだ芽が出ていないタレントさんを起用して、そのCMで人気が出ると、次のクールの契約が予算的に難しくなったりすることもあります。要するに、契約料が上がるんですね。こうなると、広告主とタレント事務所の間に挟まれる広告会社としては、いろいろ調整が難しいです。

 逆に、企画段階では旬だった人が、オンエア時では落ち目になっていることもあります。流行のギャグを使ったCMなんかは、ほとんど賭けです。寒いCMになるリスクが大きくて、私はそういうのは怖くてやりません。

 それと、誰を起用するかを決めるときが一番しんどいです。試しに思考実験。ある銀行のCM。誰を起用したいか3人くらい挙げてみてください。第一希望、Aさん。第二希望、Bさん。第三希望、Cさん。その中で、金融系のCMに出ている人は除外です。競合に出ている人は、出演できません。Cさんが残りました。第三希望なので、少しインパクトに欠けますが、とりあえずはよしとして、交渉してみます。すると、Cさんは金融系NG。で、全滅。振り出しに戻る。タレント起用の実務はそんな感じの繰り返しです。もちろん、起用が決まって、企画も決まって、制作に入ってしまえば、エンターテイメントのプロであるタレントさんとのお仕事はとても楽しいんですけどね。

 ちなみに、タレント広告は日本と韓国に多い手法です。欧米にもタレント広告はありますが、多くは、「セレブリティに語らせる」というアイデアとしての起用です。欧米の広告会社のクリエイティブ・ディレクターは、各国の支社を歴任して出世していくことが多いのですが、その赴任先で日本と韓国は人気がないそうです。オーストラリアやタイではうまく行く有能なクリエイティブ・ディレクターが、日本と韓国だけでは結果が出せないようです。なにせ、街に貼っている、確定申告やら火の用心などの政府公報系の小さなポスターなんかも、ほとんどがタレント広告の国ですものね。

 それがいいことかどうかはわかりませんし、私は正直言うとあまり好きではありませんが、まあ、それもひとつの文化ではあるのでしょうね。と外資系の広告マン的な皮肉っぽい締め方ですが、本日はこのへんで。ではでは。

関連エントリ:
タレント広告はなぜなくならないのか(1)
タレント広告はなぜなくならないのか(2)
スタンドインさん
「好感度」考
キャラクターはいいやつだ

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2009年4月22日 (水)

「新聞折り込みチラシ」の行方

 新聞を取らない人は増えてきましたが、新聞折り込みチラシは人気です。広告の話題というと、どうしても派手なマスメディアや新しいネットメディアでの広告になりますが、この新聞折り込みチラシという広告メディアは、この不況下でも効果が衰えてきたという話をあまり聞かない希有なメディアです。

 広告メディアとして新聞折り込みチラシを分析してみると、その有用性がよくわかるかと思います。

 ターゲットセグメントについては、新聞広告の場合、エリア広告の切り替え版を利用して地域セグメントはできることはできますが、その地域はどうしても広域になりますし、切り替えが細かくできる地域も、東京や大阪などの大都市に限られています。しかし、新聞折り込みチラシは、新聞販売店が広告配信の拠点になるので、かなり細かい地域の設定が可能です。だからこそ、スーパーマーケットが特売に利用するんですよね。

 広告の信頼性については、新聞広告にはかなわないけれど(最近は落ちてきているように思いますが)、新聞に折り込まれるということで、新聞の信頼性に準じています。これは、日中にポスティングされる投げ込みチラシと比較するとよくわかるかもしれません。郵便受けにたまるチラシは捨てられがちですが、新聞折り込みは読むという人はよくいますよね。それは、文字通り新聞に折り込まれているという信頼性が影響しているのでしょう。

 つまり、新聞折り込みチラシという広告メディアは、新聞宅配という制度がつくった、きわめて優良な地域広告メディアだと言えるのです。しかし、新聞をとらない人が増えてきて、新聞宅配は急速な勢いで減ってきています。つまり、それは新聞折り込みチラシという広告メディアを支える前提がなくなってきていることを意味していて、じつは、新聞で言えば、メディアの多様化で最近効果が落ちてきている本紙の広告よりも、まったく効果が落ちる気配のない新聞折り込みチラシの方が深刻度は上。

 そんな中、ネットでチラシを検索して見られる「Town Market」というリクルートが運営するPCサイトができたり、様々な取り組みが行われています。ただ、これは新聞折り込みチラシの代替にはならないな、というのが私の印象。理由は、新聞折り込みチラシの本質は、テレビCMや新聞広告と同じ「受動性」にあると思っているから。

 ネットで検索という方法では、どうしても見る人の能動性が問われてきます。私は、広告の本質は「受動性」だと思っています。その意味で言えば、ウェブでいえば、AdWordsなどのテキストバナーは、それが単にテキストだけの質素な広告であったとしても、きっちり「受動性」を満たしていますが、「続きはウェブで」の先にある、フラッシュ満載のリッチな特設サイトは、じつは広告の本質からは少し遠いものと言えます。余談ですが、ネットメディアが台頭してきたとき、広告代理店は、広告の本質により近いテキストバナーではなく、リッチな特設サイトに注力してしまったのは、今から思えば失敗だったと私には思えます。

Townmarket  話がそれました。「Town Market」の話です。東京中野の自宅のポストに、その「Town Market」のチラシが入っていたんですね。なんだろうと思ってチラシをみると、そこにはこんなコピーが。

 週刊TV情報紙と地域の広告・チラシを
 毎週(金)あなたのポストへ無料でお届け!

 なるほどなあ。さすがリクルートと思いました。やっぱり考える人は考えるんですよね。そのキャッチコピーの下には、赤色の囲いの中に想定ターゲットが示されたこんなコピーもあります。

週末にお得な情報が欲しい方、
ご自宅で新聞を購読していない方にオススメ!

 この宅配版「Town Market」の企画、かなり考え抜かれていますよね。新聞にあまり興味のない人、ニュースはネットで見るという人にとって、新聞本紙であえて必要だと思うのはテレビ欄。そのテレビ欄と芸能情報をコンテンツにして、まとめてチラシを届けてしまうという方法。しかも、信頼性はリクルートという企業名で担保。一応、これで、新聞折り込みチラシのメディア特性の要件は、完全にではありませんが、すべて満たしています。ただ、盲点はあります。テレビ欄でさえ、今はネットで代替できるんですよね。無料でも、このセットを申し込む人がどれだけいるのか、という部分。これは、ある意味本質的な部分でもありますが。でも、このサービス、化けるとかなり地域広告メディアの中核になりそうな予感がします。

 チラシには、「目黒区・世田谷区・中野区・杉並区・大田区・品川区の皆さんへ」と書かれていて、すでに始まっている横浜市、川崎市、町田市(きっとテストマーケティングでしょう)での実績で、勝算ありと読んで、いよいよ本丸へという段階なんでしょう。ちなみに、我が街中野区は全国ではじめて新聞購読率が5割を切った街。それと、人口密度が日本一の街でもあります。リクルートにとっては、まさに中野決戦といった感じなんでしょうね。

 追記(4月22日午前2時頃):

 はてなブックマーク経由で、こんな記事を見つけました。週刊ダイヤモンドが好みそうなネタではありますが、それを取っ払って考えても、やはり、業界的にはかなりのインパクトがあるようです。

リクルートがエリア拡大する番組無料宅配に新聞業界激震 - DAIAMOND ONLINE

 記事にある「ある広告代理店幹部によると」という部分をどこまで信じるかによりますが、どちらにせよ、このサービスは、新聞の収益構造そのものに絡んでいるから、いろいろ微妙な大人の事情を含んでいそう。まあ、新聞はデイリーで、こちらはウィークリー(コンテンツ的にはウィークリーが限界でしょう)。その面できめ細かさでは新聞が勝ちだし、受動性の度合いも新聞のサブとしての新聞折り込みに利があります。

 そもそも、ロジカルに考えれば、昨今の新聞離れはこの件とは別問題だし、主に新聞を読まない層を狙っているわけだから、本格的な競合もなさそうな気もしますが。でも、広告予算削減傾向の今、今後は宅配版「Town Market」だけでいいやという広告主もいると思うし、広告メディアが広がっても顧客は広がらないわけで、記事にあるように客を奪われるというのはやっぱりあるでしょうね。「メディアの雄」を自負する新聞社の気分としては、あまり気分のいいものではないのかもしれません。

 追記2(4月22日午後2時頃):

 ダイヤモンドオンラインの記事が、はてなブックマークのトップに。そうか、やっぱりいろんな意味で刺激的なサービスなんだなあ、といまさらながら実感。あと、余談ですが、同じサービスを語るにしても、このエントリのような個人メディアが発信する記事の書き方と、ダイヤモンドのようなジャーナリズムが発信する記事の書き方は、ずいぶん違うもんですね。タイトルのつけ方とか、論の進め方とか。ま、私の場合は、ポストの中のチラシを見て「ほえぇ、リクルート、いろいろ考えるよなあ」という感想のがベースになっているからではあるんですけどね。

 このへんの話法の違いみたいなことって、いろいろ面白いなあ、なんて思いました。

 追記3(4月23日0時頃):

 このエントリを書いた時点ではダイヤモンドの記事が出ていなかったので、この時点の私の認識では「Town Market」はPC版のことでした。しかしながら、急速に宅配版「Town Market」がホットな話題になってきて、「Town Market」が宅配版を指すような状況が生まれ、今読むと、少しわかりにくくなってしまっているようなので、若干文章を手直ししました。文意は変えていません。また、そのへんの時間的な事情を加味して読んでいただけると幸いです。しかし、たった1日でずいぶん状況が変わるもんですね。びっくりです。

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2009年4月20日 (月)

ネットというものはない

 仕事柄、まだまだマスコミでのコミュニケーション立案が多いものの、ネットでのコミュニケーションを考える機会もそこそこ増えてきました。ネットというものを単一のイメージでとらえると、いろいろ見誤るのではないかと思うようになってきました。

 いろんな人と話をしていると、ネットというもののイメージがそれぞれ違います。Yahoo! JAPAN、楽天、発言小町、はてなブックマーク、2ちゃんねる、アメブロ、mixi。それぞれの人がメインで利用するポータルによって、その人のネットの世界観が決定されていて、それぞれのネットの世界観は、それこそ天と地ほどの違いがあります。これは、ほんと驚くほどに違います。

 例えば、私にとっては「ほぼ日刊イトイ新聞」や「デイリーポータルZ」は、知らない人はいないんじゃないかというサイトですが、案外知らない人はたくさんいます。ブログなんかも、ある人は「なんかごちゃごちゃリンクがあって、どこから見ていいのかわからない」と言っていたりします。けれども、そんな人でも、生活にネットがきちんと位置づけられているというのが今という時代。

 つまるところ、ネットとは、いまや単一的な世界ではなくて、様々な場の集合体であって、その場には、様々な暗黙の約束事があり、違う空気が流れている。それは、もはや、国に近いノリさえあるんじゃないかな、なんて思っています。ちょっと大げさかもしれませんが。

 欧米の広告をそのまま日本に持ってくると失敗することが多いです。それは文化が違うからです。どちらの文化がいいのかという価値判断はともかく、違うという事実をベースに考える必要性はあるように思います。欧米の広告が日本で失敗するパターンは、自国の成功事例に縛られることによることが多いようです。日本で成功しないのはおかしい。なぜだ。そして、多くのブランドマネージャーは、日本の文化は民度が低い、みたいな捨て台詞を残して、日本を去っていきます。

 同じことがネットでも言えそうです。場の特性を考えなければ、ネットでのコミュニケーションはうまくいかないように思います。例えば、日本には日本の場の理論があり、それはそれで必然と整合性があります。それが欧米的な価値観からは奇異に見えようとも。まあ、それをグローバルスタンダードの旗印の下に一元化していこうみたいな考えもありますが、広告は、基本的にはサブコンテンツとして運命付けられているわけだし、場の論理を読みながら、そこで受け入れられるために注力するのが筋だとは思っています。

 ただ、ネットが難しいな、と思うのは、その場と場がゆるくつながっているということで、それがネットのいいところでもあるのですが、そのつながり、すなわち違う場からの視線を意識することが、得てして企業コミュニケーションの場合は緊張につながるように思えていて、その緊張が解けて、個人サイトと同等の地平に立てるときがくるのかどうかは、ちょっとわからないし、ある意味で、そういう緊張がなくなってしまったら、それはそれで中間的な集合体としての弊害も出てしまうのだろうし、それが社会的存在としての強度が高い企業コミュニケーションの限界であるといえるのかもしれません。

 これは個人サイトにも同じようにいえるとは思うけれど、場を考えるということは、場に飲み込まれないという意思表明でもあって、それはどこまでいっても場ではなく個が起点であることを、絶えず確認することでもあるのだろうな、と思います。個を起点とするということは、様々な場に共通している、ある種の人間としての約束を確認するということでもあるだろうし、そういう上位の価値観の入り込む余地のない閉じられた場というのは、どこかで悲劇を生み出して、いずれ破綻を見るということもあって、そのあたりの理論的な整理というのは、思想的には、今の最大の難問なんだろうなんて思います。

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 ネットというものはない、ネットはいろいろな場の集合だよ、ということを書くのに、少し脱線してしまったみたいですが、それはきっと、「いじめの構造 人はなぜ怪物になるのか(講談社現代新書)」を読んでいたからですね。それが仕事の課題とごっちゃになって、という感じです。ちなみに、この本、「いじめ」という現象がメカニズムをしっかり説明しきっていて、同種の本の中では、最も優れた本のような気がしました。

 ただ、後半の施策についての論考は、大筋納得はできたのですが、そうしたことで生まれる別の弊害というものもあるのだろうな、という気がしないでもないです。ただ、それはバランスの問題だろうから、今、中間的な組織の全体主義に偏っているとしたら、その是正というのは必要な気はします。

 あと、論考を通して、そこで提示されている用語は、ほとんど的確なのに、ただ一点、本書が目指す社会としての「自由な社会」の反対である、「いじめ」にからめとられる中間的組織による全体主義の社会を「透明な社会」としたのは不正確なのではないかと思いました。そこでなぜ「透明」という異次元の概念が登場するのか、というのが疑問。きっと、この語を登場させる必然が著者にはあったのだろうとは思うのですが、その部分に、きっとこの著作の芯の部分があるし、そこは逆にウィークポイントを示しているのかもしれないな、という感想を持ちました。

 まだ自分の中では整理がつかない部分もあるし、社会制度を語る資格が自分にあるようにも思えないのですが、またあらためて書いてみたいと思います。いい本でした。お薦めです。ではでは。

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2009年4月16日 (木)

「不況になると短い企画書が流行る」説

 このところ「これぞ完璧企画書ー「1枚企画書」パターン実例3題」やら「「5枚プレゼン」のレイアウトを理解する」やら、やたら短い企画書が流行っているようですね。まあ、これは「はてな」界隈だけかもしれないし、職種によっても違うし、一概には言えないのですが、経済の調子が悪くなると企画書が短くなる傾向は確かにあるように思えます。

 バブルの頃の企画書はものすごく長かったですし、糸井重里さんは「おいしい生活。」というコピーのために100枚の企画書を書いたという伝説(本当かどうかは知りませんが)がありました。私はわりと長くてドラマティックな企画書が好きなのですが、そう言えば、かく言う私も、このところは企画書がどんどん短くシンプルになってきているような気がします。

 これは、物事が「やる」前提で「いかにやるか」ではなく、「やる」か「やらない」かを決めるという感じだからかもしれませんし、そもそもこんな世の中では企画書を楽しむみたいな気持ちも起きないのかも。まあ、結果は同じなら速い方がいい、みたいなことですかね。なんか世知辛い気もしますが。

 私が個人的に影響を受けた企画書の書き方は、「高橋メソッド」です。これには相当な衝撃を受けました。なにしろカッコいいです。なんか低予算CMっぽくて、いいですよね。ときどきやります。あと、企画書ではないけど「べつやくメソッド」も。応用例は、こちら。これは、ちょっと勇気がいるので、仕事ではやったことはありません。

 ちなみに明日の朝一のプレゼンは、企画書全3ページ。やっぱり短くなってますねえ。なんか不況に負けているみたいで、少しくやしいです。ではでは。

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2009年4月14日 (火)

個人的には。あくまで個人的には、ね。

 不況。なげいてもしょうがないけど、経済が冷え込んでいます。交通費、交際費、広告費で3Kと言うけれど、どこの広告会社も存続のために躍起になっています。収入が少なくなれば、当然、残業費や経費の削減が行われて、それでもだめなら給料体系を含めた人事改革が必要だ、みたいなことになります。

 経営の本音で言えば、優秀な人材の流出は防がないといけないし、優秀ではない人材にはあまりお金を払いたくないという意識が働きます。それは当然と言えば当然だし、会社は慈善事業でも何でもないので、しょうがないことではあるんでしょう。で、所謂、成果主義的人事制度みたいなものが構想されたりします。評価で上の人と、下の人の差を大きくする、というようなことですね。

 そうなると、この評価をどうするか、という問題が出てきます。下方向の評価の幅が増えるわけだから、その評価が恣意的だったらたまったものじゃない、ということになります。で、多角的な評価、みたいなところに落ち着きます。成果に加えて、複数の評価をかませて、総合的に点数をつけるわけですね。その中には、部下が上司を評価する、みたいなことも含まれたりするのが、今風な感じ。

 大義名分は、優秀な人を正当に評価する会社にしたい、とか、がんばれば給料が上がる希望のある会社にしたい、とかですね。つまりは、今いる優秀な人のモチベーションを下げないために我々はやっている、みたいなこと。

 でもなあ。その優秀な人っていうのは、当然、会社だからひとりで仕事をしているわけではないんですよね。優秀な人、そうでない人、いろんな人と一緒に仕事をしているわけなんですね。それぞれのポテンシャルにあわせて役割を決めて、うまくチームとして仕事をドライブしているわけです。

 こういう人事制度が始まると、まず反応するのは、優秀でないと会社から評価されるのではないかと思っている人なわけで、まずはそういう人の意識が変わっていきます。いや違う、私は優秀であるという自己表現が始まります。

 それはしょうがないですよね。自己表現しなければ評価が下がり、給料が下がるわけだから。生活がかかっているから必死にもなりますよね。優秀な人が自然にやっているやり方を、その人もやりだします。でもね、その人は、今までそういうやり方をやってこなかったわけで、それは自然にそうなってきたわけだから、そもそもが無理のあることです。ちょっと残酷なことだけど、長い目で見ると必ず失敗します。

 一方、優秀な人(その会社で成果を上げてきた人、という意味ですが)は、今までのチーム運営みたいなことが成り立たなくなりますし、むしろ、内部から足を引っ張られるみたいな状況も生まれてきて、やりにくい状況になります。つまり、この制度によって、優秀な人は、優秀でない人になってしまいがち。当然、優秀な人もそれは困るから、なんとかしようとします。もし、仕事の目的と自己目的の混同による混乱が生まれそうになったとき、それを打破するためには強権発動しか手がなくなるのです。

 そうなるとギスギスしますよね。自己目的と書きましたが、その状態では、自己目的の利己性みたいなものは、その人にとっては、根拠のない自信というか、肥大化した自己にしか拠り所がない状況に追い込まれていて、自己目的が仕事の目的と同化しているわけですから、その同化が錯誤であったとしても、それを証明するには過去の実績にあたるしかないわけで、「君、いままでそういうやり方でうまくいったことないでしょ」みたいな身も蓋もないことを言えない限り、強権発動しかないですよね。で、チームは崩壊。

 これ、大義名分とかけ離れた状況になるのではないかな、と私は思うんですね。まあ、優秀な人といってもいろいろあるから、わりとこういう成果主義的制度のもとでうまくやれる人もいるとは思うんですが、たいがいはモチベーションを削ぐ結果になるような気がするのですね。そもそも、優秀な人は、お金での評価をそんなに望んでいるものかな、と思います。私は独り者だし、そのへん甘いかもしれませんが。

 謙遜しても意味ないとは思うので、あらかじめ言っておきますが、私は、ここでいう優秀な人に近いとは思います。とりあえずは、今いる会社では、という意味ですが。まあ、そのくらいのこと思わなければ、ブログで広告論なんて書かないわけでね。そんな私からみて、成果主義っていうのは、なんだかなあ、結果が大義名分とかけ離れすぎなんだよなあ、と思うんですね。むしろ逆。私より優秀な人もたくさんいるとは思うけど、その人たちは、本当に、こういう上と下の差が給料で激しく出る制度を望んでいるのでしょうか。とりあえず、耐えなきゃいけないこの状況で。

 じゃあどうするの、と考えてみると、なんとなく、社員全員一律○○%給料カットでいいんじゃないですか、みたいなことを思うんですね。優秀な人側に、多少の不平等感も生まれるでしょうが、不平等感は優秀な人に吸収させた方が、ものごとはうまくいくような気もします。サラリーマンは、野球選手やサッカー選手と同じ感覚にはなれないですよ、やっぱり。現実的ではないかもしれませんし、とんでもないことを言っている気もしないでもないですが。あくまで個人的には、という感じです。

 私は、会社に対しては、正当な評価は求めますが、それはお金だけではなくて、過剰なお金の評価(それは下方に評価される人の下がった給料分の評価なんですけどね)によって、今までうまくいっていた状況を壊されるくらいなら、そんなものなくてもいい、という気持ちがあるんですよね。業界自体が冷え込んでいる状況でもあるし。

 まあ、壊れたら壊れたで、またひとりでやるだけなのかもしれませんけど。ちょっと前まではそうやってきたし、やろうと思えばいくらでもやりかたがあるしね。

関連エントリ:成果主義考

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2009年4月12日 (日)

ちょっと昔の人の気持ちになって街を眺めてみる

 たとえば、東京駅で山手線を待っているとき、向こう側に東海道線の電車がやってきます。オレンジ色の電光掲示で「東海道線」と表示されているのを見て「そうか、この時代でも東海道は東海道と呼ばれているんだなあ。すごい。」と思うんです。思わなくても。そうすると、ほんの少しだけ風景が変わってみえてきます。

 電車なんかも、あらためて見ると「何、この蛇のような物体。すごい。」と思えてきます。金属でできた細長い物体が、いくつも連なって、ひとつひとつは固いのに、電車全体で見ると、線路の曲線に沿ってうねうねとしなやかに動いているんですよねえ。

 線路は続くよ、どこまでも、ではないですが、新幹線の「博多」という表示を見ながら「少なくとも博多までは続いているということなんだよなあ。すごい。」と無理矢理思うと、少しだけ新鮮な気分になれます。

 新幹線に乗ると、静岡あたりでは富士山とか、京都では五重塔とかが見えます。現代の街の中に、昔の人も見たそのままの風景が同居していて、妙な気分になります。こういう風景を、昔の人が見たらどんなことを思うのだろう、と思います。まったく別の世界なんだけど、ほんの一部は昔のままだったりするのは、脳のへんなところがかゆくなるような感覚がありますね。

 中野駅の高架下に、中野駅120周年とのことで、明治、大正、昭和の中野駅の写真パネルが展示されていたのですが、すごかったなあ。今とまったく違うんですよね。でも「あっ、これサンモールだよなあ」みたいなことがおぼろげにわかって、そこを人力車が通っていたりするんですよね。歩いている人は和服の人が多いし。

 で、現代の中野の街を眺めてみると「うーん、思ったほど未来っぽくはなってないなあ。ちょっと残念。」と思ったりします。中野サンプラザなんかは、できた当時は相当な未来だったんだろうけど、今ではちょっと過去感のおもしろさが勝っているような気がします。

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2009年4月11日 (土)

関西4タワー、ぜんぶ答えられますか?

 大阪、通天閣。
 大阪、大阪タワー。
 神戸、ポートタワー。
 京都、京都タワー。

 残念。大阪タワーは、もうありません。という私も、大阪タワーかな、と思っていました。

 大阪タワーがなくなったから、そのかわりに「梅田スカイビル」が関西4タワー入りなんですね。あれはビルなんじゃないかな、と少し思いますが、展望台があるし、ま、タワーといえばタワーかな。まあ、細かいことは言いっこなしということで。

4towers  そんな通天閣、梅田スカイビル、神戸ポートタワー、京都タワーが共同で運営している「関西4タワーブログ」というのがあって、わりと活発に更新が続いているようです。管理人さんがマメなんでしょうね。

 中を見ると、京都タワーのキャラクター「たわわちゃん」がいいですね。なんか、屋外ロケとかしてて、すごくがんばってます。

 こういうの、いいですね。肩の力が抜けてて。

 企業ブログって、いろいろ難しくて、まずは誰が書くのか、という問題があるし、広告というかプロモーション要素をどこまで入れるかというさじ加減も難しいです。で、そもそもネタ的要素や、書いている人の姿が見えなければ、PV的にも企業コミュニケーションとしてはしんどい部分はあって、実務的にはいろいろ微妙なところです。

 企業の場合は、トライアンドエラーを繰り返して成熟という感じにもいかず、このへん悩ましいところですね。このブログみたいに、いいかげんな感じでゆるゆるに運営というわけにもいかないでしょうし(そのへんは、個人運営の良さですね)、どうしてもウェブマガジン的な限界がありそうな気がします。その限界を超えるのは、かなりの努力と運がいりそうです。

 なんとなく、こういう売り上げとかをわりと度外視な感じの、平熱で継続的な企業コミュニケーションは好きだし、チャレンジはしたいとは、いつも思っているんですが、今も提案するかどうか迷っています。ブログをやる状況は整っているんですけどね。

 要は勇気がないんでしょ、ってやつですね。でもまあ、企業ブログなんかは「マス広告の時代は終わりました。今はCGMの時代です。御社からの情報発信でファンを醸成し、新時代の双方向的コミュニケーションをうんたらかんたら」なんて嘘で進めちゃだめだという思いもあるんですよね。テレビCMなんかより、よっぽど覚悟がいるんですよね。

 肩の力を抜くっていうのが、いちばん難しい。そんな感じです。ではでは。

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2009年4月10日 (金)

最後からしゃべらんかい!

 「じゃりン子チエ」でのテッちゃんとヤクザの会話。賭博場にて。ヤクザが、「警察対策のためにビスコ1枚を1000円で買って、それを掛け札に勝負をし、後に現金に清算する」というシステムをテッちゃんに説明しようとしています。

「ビスコ!?」
「知らんのか… ほら、クリームサンドのビスケット…」
 テッちゃん、ヤクザの頭をどつく。
「なんの話しとるんじゃ。ワシ、カブやりに来たんやど!」

「そやから、ワシらカブでビスコの取り合いやるんや…」
 テッちゃん、またまた頭をどつく。
「こいつ〜〜 死ぬ気で冗談ゆうとるなあーー!」

「た…頼むから、最後まで聞いてくれ。頭もたん」
最後からしゃべらんかい!

 これ、そのまま企画書なんかのビジネス文書やメール、電話に応用できますね。ベテランの人にとっては当たり前の話でしょうが、春に入ったばかりの新人さんは、このテッちゃんの台詞「最後からしゃべらんかい!」を覚えておくほうがいいですよ。

 たとえばね、電話。

「もしもし、いま忙しいですか?」
「忙しいけど…」
「ちょっと時間あります?」
「ちょっとってどのくらい?」
「5分少々…」
「あるけど、何?」
「A社の仕事の件なんですが…」
「ああ、A社の新聞広告の件ね」
「いえ、A社のテレビCMの件です」

 というのが案外多いんですね。これは結構ベテランの人でも、こういう話し方をする人がいますねえ。こちらに気を使ってくれているのが裏目に出ているんでしょうが、ちょっと効率が悪いです。テッちゃんの教えに沿えば、こうなります。

「もしもし、あの、A社のテレビCMの件ですが、5分ほど時間もらえます?」

 聞き手とすれば、「A社のテレビCMの件」という情報で、まず重要度や緊急度の判断ができますし、その話がどのくらいかかるかが「5分」という情報でわかります。この2つの情報があれば、時間を空けるか、後回しにするかの判断がつきます。日常会話ではそうとは限りませんが、ビジネスではこっちの方が親切。

 企画書やプレゼンでも、ほぼ同じ。分かりやすいんですよね。もし、結論を最後にもってくる演出のプレゼンでも、最初に、「新しい発見がありました。他とは違うまったく新しい回答を私たちは出します」みたいなことを言った方がいいです。つまり、最初から違う視点であることを提示する方が得。その提示がなく、延々と考察が続くプレゼンがよくありますが、あれは聞いているほうは、ちょっとしんどいですね。

 ビジネスでは、時間はお金です。そのへんが学生時代とはちょっと違うところかもです。そんなわけで、新社会人のみなさん、明日も張り切っていきましょう。ではでは。

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2009年4月 8日 (水)

ユートピアについての覚え書き

 古今東西、太古の昔から、人はユートピアを夢見てきたようではあるけれど、昔の人が残してくれたユートピア思想を読むと、ああ、これは人の方が変わらないと成り立たないよな、なんて思う。今でもユートピアを実践するちいさな集団もあるし、社会主義国家なんかも、空想的とか科学的とかぜんぶ含めて、根本の部分はユートピア思想なんだろうと思う。そのユートピアは、ユートピアが成り立つためには、人が変わる必要がある。ま、このへんはあまり詳しくないから、あまり言い切ることはできないけれど。

 では、いま私が住む国の基本原理であるところの資本主義というものは、そうではないのか、と言えば、まあ、これも根本はユートピア思想の部分もあるように思う。資本主義というものに人の方が変わることによって、なんとかやっているという感じでもあるのだろう。対抗原理が今のところ思いつかないから、とりあえずはこれでいいのと違いますか、みたいな感じで、いろいろと修正しながらやっているのが今なんだろう。

 ユートピア思想としての資本主義は、うまくいかなかったら修正すればいいんだし、みたいなこととか、そもそもみんなしあわせ、みたいなことは無理ですがな的なゆるさというかいいかげんさがあるし(そういう意味では、資本主義というものはないのかもしれない)、とりあえずは、なんだかんだありながらも、それなりにうまくいっていた。これからはどうなるかわからないけれど。

 どちらにしても、なんとなく思うことは、人が変わらないといけないユートピアというのは、本末転倒とまでは言わないけれど、なんか違うのだろうなと言うこと。ユートピアでしょ。そのユートピアを成立させるために、人のほうが変わらなきゃいけないのは、その時点でユートピアではないじゃない、みたいな感じ。

 人が思い描けるユートピアというのは、なんとなくだけど「じゃりン子チエ」が描く世界くらいが限界ではないだろうか、ということをぼんやり考えています。今、「じゃりン子チエ」を読み返していて、ああ、この世界、ある意味でユートピアなんだな、みたいなことを感じた。もちろん、このマンガをユートピアと評したのは私がはじめてではないけれど、私は、いわゆる人情ものという部分ではなく、人の駄目さやえぐさみたいなものの存在を認めて、さらにはそれを嫌悪しつつ、それでもそれを許すというか、流すみたいなリアリズムの部分で。

 いまある世界は、ユートピアではない。テツのような人は排除されるかもしれないし、「うちは世界でいちばん不幸な少女や」と嘆くチエちゃんは、本当の「不幸な少女」になってしまうかもしれない。春になると決まってノイローゼになる猫のジュニアは、ノイローゼから回復しないかもしれない。「チエちゃん」というホルモン屋は、フランチャイズの居酒屋に客を奪われ、つぶれてしまうかもしれない。

 それが現実だ。だからこそ、ファンタジーとして、あの作品は多くの人に愛されてきたのだろうけれども、読み返してみて思うあの作品の特筆すべき点は、人の駄目さやずるさ、いいかげんさ、えぐさみたいなものが、徹底的に肯定されている点だと思う。なんとなく気づくことは、その肯定を成り立たたせるために、極端な悪と、極端な善が、その作品世界から徹底的に排除されていること。

 もし、「じゃりン子チエ」というユートピア思想にラディカルなものがひとつあるとすれば、そこだろう。その一点で、「じゃりン子チエ」が、いわゆる大衆文学とは違う地平にある作品なのだと思う。それは、ある意味で、作者であるはるき悦巳が子供の頃に生きていた、大阪の下町の倫理あるいはリアリズムなのだろう。なんとなく、この作品を読むと、吉本隆明が言ってる「大衆の原像」という言葉を思い出す。この「大衆の原像」という概念は、今もまだ有効なんだろうか。そんなことを少し思った。

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2009年4月 6日 (月)

なぜ外国人は肩がこらないのか

 日本語以外の言語には「肩こり」にあたる言葉がないので、外国人は「肩こり」に悩まされないとのこと。でも、日本で生活して「肩こり」という言葉を知ると、とたんに「肩こり」に悩まされるようになるそうです。有名な話ですが、おもしろいですよね。

 もちろん、外国人にだって「肩こり」という症状は当然あります。でも、それを表す言葉がないと、自覚されにくかったりするそうです。だから、タイトルの「肩がこらない」というのは、ちょっと正確ではないかもしれません。きっと、肩のあたりが痛いなあ、だるいなあ、みたいな感じなんでしょうね。

 肩のだるさみや痛みという感覚を「肩こり」という言葉によって切り離すという言葉の作用によって、「肩こり」はつくられたとも言えます。つまり、哲学用語で言うところの「疎外」です。切り離された「肩こり」という感覚は、ぼんやりとしただるさや痛さから「疎外」されて、「肩こり」という特別な感覚に昇格し、そのとたんに気になりはじめる、と。

 このプロセスは、広告そのものですね。清涼飲料から「コーラ」を疎外し、コーラから「コカ・コーラ」や「ペプシ・コーラ」を疎外するということですから。広告っていうのは、極論で言えば、ブランドや商品の疎外です。

 もちろん、この言葉の疎外作用には功罪があります。新しい言葉の創作によって、意図的に世論にバイアスをかけることもできるわけです。妙な言葉の流行によって、ことの本質が隠蔽されてしまったり、ミスリードしたり、ということはよくありますよね。私がこだわったもので言えば「コンビニ受診」という言葉とか。もちろん、広告も同様です。この肩こりの話が示唆するものは、私にとっては、けっこう重いです。

 ちなみに、「肩こり」という言葉をつくったのは、夏目漱石とのこと。つまり、「肩こり」大国日本にも、夏目漱石以前は「肩こり」はなかったとも言えそうです。日本人もかつては肩がこらなかったんです、みたいなオチですが、もちろん、夏目漱石が「肩こり」という新しい言葉をつくるくらいの、きつい肩の悩みは、夏目漱石以前の日本人にも存在していたわけで、それを「肩こり」と言うならば、外国人も肩がこります、ということでもあるんですが。

※文中の「コンビニ受信」を「コンビニ受診」に修正しました。ご指摘、ありがとうございました。

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2009年4月 4日 (土)

いいプレゼンって何でしょうね

 これは人によっては違うんでしょうね。それと相手によっても違うし、規模によっても違うから、この手の話には正解はないでしょうから、ごく個人的に。

 私はプレゼンが苦手でした。人前で話すのが苦手というか、極度の緊張しい(関西弁で緊張する人のこと)でした。今はどうかというと、ほとんど緊張しません。華麗なプレゼンではないけれど、まあ、理路整然と話せるし、飽きがこないように、というか、印象的なプレになるように緩急もつけられます。なぜ、できるようになったかというと、慣れでしょうね。あと自信。このあたりの話はかつて書きましたので、今悩んでいる人は、よかったら読んでみてください。

プレゼンの時、声が震えて、心臓がバクバクして、汗が噴き出し、自分で何を話しているのかがわかんなくなって、会議室から逃げ出したくなることはありませんか。

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 私は広告の仕事をしていますので、たいがいのプレゼンは広告案の提示だったりします。このところの傾向としては、広告案をスチレンボードとかに貼らなくなりました。分厚いボードは、プレゼンが立派に見えるけど、過度に立派に見えすぎるというか、そんな感じ。得意先でも、小声で、処分に困るから次からはボード貼りはやめてね、なんて言われたこともありますし。

 パワーポイントにjpegを貼って、スクリーンに映し出す方法もあります。この場合は、企画書も紙で手渡しではなく、スクリーンベース。大規模なプレだけでなく、そういうプレになれている得意先なんかでは、小規模でもやります。

 これは、終始こっちのペースでプレゼンを進められるから都合はいいのですが、そのぶんプレゼンのインタラクティブな熱さみたいなものがなくなります。プレゼンテーターと聴衆みたいな感じになるし、プレゼン、質疑応答、みたいな段取りが、なんとなく冷たい感じになってしまいます。

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 私のパワポのスライドショーの使い方。テレビCMのプレゼンを、紙芝居形式でやるんですね。

 日本のCMコンテは、縦長の用紙に、キーになる重要なコマを大きくして、普通のマンガみたいにコントラストをつけた表現をしますよね。キャッチフレーズは大きめの太字フォントで斜めにして、みたいな感じで。でも、あれは、実際に作るときには、けっこうバイアスがかかってしまいます。テレビではコマに優劣はないですから。単純に等価のフレームが連続するだけ。

 一方、海外の絵コンテは、横長の用紙に、均等の面積のコマを並べる方法が多いです。テレビCMの構造から言うと、本当はこちらの方が理にかなっています。ただ、単調に見えます。海外は長尺が多いからそうなるのでしょうし、日本の場合は15秒が多いから、絵コンテはデフォルメがきついということでしょう。

 絵コンテだと、どちらの方法も一長一短があるのですが、これをパワポのスライドショーでやると、なかなかいい感じになります。1ページにひとつの絵。それをどんどんスライドしていって、その絵と同時に、しゃべりでナレーションと少しの絵の補足を加えていきます。

 わりとオンエアに近い感覚でプレゼンできます。説明も、オンエアに比べてほんの少し長いくらいですみますし。それに、何よりも、聞いている方が面白い。絵コンテは、慣れている人は読み込めるんですが、慣れていない人だと、絵コンテを理解するのは結構難しいものです。演出コンテだと、このコマはこういうふうに撮影するんだ、みたいな理解につながりますが、企画コンテの段階だと、紙芝居のほうがわかりやすいような気がします。

 これは、よく考えると、絵でつくるアニマティクス、写真でつくるフォトマティクスといったビデオコンテの廉価版みたいなものですね。

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 スライドショーではなく、企画書を配って話す場合、ときどきいる困ったちゃん。配ると、どんどん先を読んでいく人。あれは、プレゼンをする方としては、すごくやりにくいです。いくら熱心に話しても、人の話なんか聞いちゃいないんですよね。そういうタイプの人は。

 顔には「俺は人の話なんか聞かないよ。ぜんぶわかっているからさ。」みたいなことが書いてあって、先先読む行為が、自分を偉く見せようみたいな発露だったりするんでしょうが、あれは見ててみっともないなあ、なんて思います。

 こういうとき、どうするか。企画書にからめて、企画書に書いていない裏話的なことを話しはじめるんです。同席している他の方が熱心に聞き入るような話をします。そうすると、場がこちらに集中しますよね。全員の視線がこちらの目元に向きます。そうなると、先々読んでいた人は、その場の流れから一歩遅れるんです。その人はあせります。で、追いつこうとします。

 で、ようやくプレゼンがまとまりのある場になって、通常営業に戻れるという感じです。まあ、先々読む人だけが相手の場合は打つ手なしですけどね。いや、ひとつだけあります。企画書に見積もりをつけないことですね。別紙にして最後に渡すようにすること。そういうタイプは、要するに見積もりを見たいわけですから。

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 いいプレゼン。何でしょうね。相手によっては企画書ではなく、1枚のシートを出して、それについてあれこれディスカッションみたいな方法が、いいプレゼンにつながることもあるし。逆に長くて物語になっているような、エンターテイメント性のある企画書を楽しみにしてくれている人もいるし。

 私としては、相手によって柔軟にプレゼンの手法は変えていったほうがいいんじゃないかな、なんて思っています。CIブームの頃は、司会進行にプロのアナウンサーを起用するみたいなここともありましたし、海外の広告会社なんかでは、プレゼンに本物のライオンを連れてくるみたいな話もありますが、まあそれも相手によって、それが最適だと思った結果だったんでしょう。今は時代が違いますし。

 最後に、とっておきのテクニック。とある人から盗んだテクニック。

 プレゼンが散漫になってきたら、わざと小声で話しはじめるんです。それこそ、聴こえないようなささやき声で。そうすると、人は聴こうとしますから、話し手に集中するようになります。大きくはっきりした話し方だけがプレゼンの話し方ではないんですよね。若いとき、そういうふうに話す上司を見て、なるほどなあ、と思ったやり方で、私もときどき使います。

 けっこう効きますよ。

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2009年4月 3日 (金)

エレキギターとケータイのテンキー

 活字離れとよく言われるけれど、電車に乗るとそうでもないような気がします。みんなケータイで活字を読んでいるんですよね。もちろん、それは、ドットでできた液晶上の活字だし、ごく親しい人の言葉だったりしますが、それでも、活字は活字でしょう。それに、以前に比べて、みんなよく言葉を書くようにもなっています。よくあんなに器用にケータイのテンキーを打てるなあ、と感心します。

 エレキギター。これだけ多くの人に音楽を演奏することを広めたのは、音楽教育とかではなくて、結構ギブソンとかフェンダーがつくったエレキギターなのではないかと思います。もちろん、エレキギター以前にもギターはあったけど、エレキギター以前と以降では音楽は違うはず。

 小学校の音楽の時間。あくびをしてやる気がなかったヤツが、エレキギターと出会って、音楽を商売にするようになった人はきっと多いと思います。そんなタイプの人は、私も幾人か知っていて、最初は、彼らはヘビメタの有名なリフを真似ることからはじめて、やがてコードとかメロディを弾けるようになって、あっというまにいっぱしの曲をつくっていました。

 それ以前にもギターはあったけど、もちろん、家にあったフォークギターやガットギターで同じことをやった若者も多かっただろうけど、やっぱり、今の音楽文化は、エレキギターという発明がつくったもののような気がします。エレキギターが、音楽を爆発させたというのは、きっと言えるでしょう。

 そのエレキギターと同じことが、ケータイのテンキーにも言えるんじゃないかなあ、なんてふと思いました。もうひとつ、ここで面白いことが見えてきます。エレキギターも、ケータイのテンキーも、便利という軸ではないんですよね。エレキギターなんか、アンプがなければ音が出ないし、ケータイのテンキーにいたっては、まあ甘めに見ても、入力は不便になっていますよね。

 ケータイのテンキーは、言葉をどんどん書いていくうちにやがてはキーボードに移行していくと思うから、エレキギターと同じだと言うわけにはいかなさそうだけど。しかしまあ、みんなよくあんなに高速に打てるなあと思います。中学生の頃、ヘビメタ君がギターを弾くのを見ていたときのような感覚になりました。ちなみに、これはケータイのテンキーで書いたものではありません。旧人類ですから。ではでは。

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2009年4月 2日 (木)

スナフキンはどこへ行った

 コピーライターが若い人の憧れだった頃、コピーライターの言葉はスナフキンの言葉だった。少なくとも多くの若いコピーライターは、スナフキンの言葉を書きたがった。つまり、スナフキンになりたがった。企業の言いたいことの代弁でもなく、かといって消費者の生の言葉でもない、そのふたつの境界上で語られる言葉。その言葉を書けるのは、コピーライターしかいない。そんなふうに思っていた。その自負があった。

 スナフキンというのは、春になるとムーミン谷に戻ってくる吟遊詩人。自由と孤独、音楽を愛し、ややこしい人間関係からも、厳しい現実からも一歩身をひいて、真実らしい言葉を言葉少なに語って、その言葉だけを残して、冬が来る前にまた旅に出かけていく。

「そのうちなんてあてにならないな。 今がその時さ。」

「大切なのは、自分のしたいことを、自分で知っている事だよ。」

「おまえさん、あんまりおまえさんがだれかを崇拝したら、ほんとの自由はえられないんだぜ。」

「この世にはいくら考えてもわからない、でも、長く生きることで解かってくる事がたくさんあると思う。」

「明日も、きのうも、遠く離れている。」

 そんなスナフキンの言葉をコピーライターは新聞に、ポスターに、刻みたがった。消費社会の中で、コピーライターだけが、その消費社会の汚れの中から逃れられると、本気で思っていたふしがあるように私は思う。また消費社会のシステムは、そんなコピーライターの浮世離れした「真実」の言葉を望んでもいた。

 スナフキンは、いまどこを旅しているのだろう。スナフキンは、春になったら戻ってきてくれるのだろうか。いま、広告の言葉は、スナフキンになれない。それは幸福なことか、不幸なことか、私にはわからない。スナフキンを気取る広告の言葉は、今の時代のリアルにはなれない。おまえはスナフキンではない。そんなふうに思う人々が、そこにいるから。

 けれども、コピーライターという語り手の専門性がもしこの先、企業の言葉、あるいは消費者の言葉に取り込まれてしまわないとすれば、それは、どちらにしてもスナフキンにならざるを得ないとも言えるかもしれない。スナフキンをやめたとき、コピーライターの専門性は終わる。

 であれば、方法はひとつしかないのかもしれない。旅に出ないこと。ムーミン谷に止まりつづけて、ときには怒り、ときには落ち込み、ときにはよろこび、ときどき間違いしくじる、それでも、そのときどきの「真実」を語りつづけるスナフキンになること。そんな身の丈なスナフキンの言葉を、もうかつてのように人はありがたがらないかもしれない。けれども、それでいいのだろうとも思う。

 スナフキンがムーミン谷に戻り、もう旅をしないと決意するとき。それが、消費社会の新しい局面だろうと思う。そのときは、まだ来ていないし、来ないという公算も高い気もする。そうなれば、広告の言葉は、企業の言葉、あるいは消費者の言葉に取り込まれてしまうことになるだろうと思う。そんな社会は、私は息苦しいと思うけれど、それは私が決めることではなく、社会が決めていくのだろうと思う。

 いま、スナフキンはどこを旅しているのだろう。そして、スナフキンは、いつの日か戻ってくるのだろうか。私にはわからないけれど、やがて来る新しい消費社会が、ムーミン谷にとどまりつづけるスナフキンを必要とするという希望に、かけてみたい気持ちが私にはある。

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2009年4月 1日 (水)

オフコースが再結成するらしいです

Offcourse_4  広告業界では結構噂になってはいたんですが、まさか本当だとは思いませんでした。プレスリリースが出ているはずだから、このブログでも情報を解禁。

 某自動車会社とか、某化粧品会社とかの間で、タイアップの争奪戦が繰り広げられていた、みたいなことを聞いてましたが、結局それはないみたいです。まあ、そんなきな臭い話にならなくてよかったとは思うけれど、きっと、不況の影響もきっとあったんでしょうね。それはそれでさみしい話でもありますね。

 ファンとしてはなんか複雑な思いがします。私も「オフコースは絶対に再結成しないと思うけど…」みたいなエントリを書いていたりもしますし、この再結成は良いことなんだろうか、みたいなことは思います。でもまあ、小田さん、YASSさん、松尾さん、清水さん、ジローさんの5人が決めたことだから、その事実を受け止めるしかないですね。きっと、彼らにとって意味があるからこその再結成なのでしょうから。なんか素直によろこべばないのも、オフコースファンの特徴ですね。

 再結成ライブの第一弾は、札幌の道新ホールだそうです。かつて、観客が13人しか入らなかった伝説のホールです。第一部が小田、YASSのみの出演で、第二部が5人の二部構成とのこと。最後の4人のオフコース時代の曲が演奏されるのかどうかは今のところ不明。再結成を考えたとき、YASSさんが抜けた4人時代をどう捉えるか、とかあると思うんですが、それは時が解決した部分もあるのでしょう。当事者ではない私にはよくわかりませんが。

 それにしても、ちょっと唐突すぎてうまく言葉にできません。そりゃそうですよね、嘘ですもの。本日は4月1日。エイプリルフールのエントリでした。エイプリルフールネタ初挑戦でしたが、私にはこの手のものの才能ないですね。あまり面白くなりませんでした。それと、一瞬でも真に受けたオフコースファンの方、ごめんなさい。

 それにしても、嘘でもいいから、再結成してくれないかな。そろそろいいんじゃないですか、みたいなことも思わなくもないです。なんか、一度こじれたものはもとに戻らないし、戻せないというのは分かっているけれど、なんかそういう考えが最近きつく感じるんですよね。もうちょっと人生いいかげんでもいいじゃないですか、みたいな。でも、やっぱりしてくれないんでしょうね。特に小田、YASSの二人、頑固だし、再結成をしないことも、彼らの友情の証みたいなものでしょうから。

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 新社会人のみなさん、今日から社会人の仲間入りですね。最初は慣れないと思うけど、ひとつひとつ吸収して自分のものにしていってください。お互い、がんばりましょう。ではでは。

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