個人的には。あくまで個人的には、ね。
不況。なげいてもしょうがないけど、経済が冷え込んでいます。交通費、交際費、広告費で3Kと言うけれど、どこの広告会社も存続のために躍起になっています。収入が少なくなれば、当然、残業費や経費の削減が行われて、それでもだめなら給料体系を含めた人事改革が必要だ、みたいなことになります。
経営の本音で言えば、優秀な人材の流出は防がないといけないし、優秀ではない人材にはあまりお金を払いたくないという意識が働きます。それは当然と言えば当然だし、会社は慈善事業でも何でもないので、しょうがないことではあるんでしょう。で、所謂、成果主義的人事制度みたいなものが構想されたりします。評価で上の人と、下の人の差を大きくする、というようなことですね。
そうなると、この評価をどうするか、という問題が出てきます。下方向の評価の幅が増えるわけだから、その評価が恣意的だったらたまったものじゃない、ということになります。で、多角的な評価、みたいなところに落ち着きます。成果に加えて、複数の評価をかませて、総合的に点数をつけるわけですね。その中には、部下が上司を評価する、みたいなことも含まれたりするのが、今風な感じ。
大義名分は、優秀な人を正当に評価する会社にしたい、とか、がんばれば給料が上がる希望のある会社にしたい、とかですね。つまりは、今いる優秀な人のモチベーションを下げないために我々はやっている、みたいなこと。
でもなあ。その優秀な人っていうのは、当然、会社だからひとりで仕事をしているわけではないんですよね。優秀な人、そうでない人、いろんな人と一緒に仕事をしているわけなんですね。それぞれのポテンシャルにあわせて役割を決めて、うまくチームとして仕事をドライブしているわけです。
こういう人事制度が始まると、まず反応するのは、優秀でないと会社から評価されるのではないかと思っている人なわけで、まずはそういう人の意識が変わっていきます。いや違う、私は優秀であるという自己表現が始まります。
それはしょうがないですよね。自己表現しなければ評価が下がり、給料が下がるわけだから。生活がかかっているから必死にもなりますよね。優秀な人が自然にやっているやり方を、その人もやりだします。でもね、その人は、今までそういうやり方をやってこなかったわけで、それは自然にそうなってきたわけだから、そもそもが無理のあることです。ちょっと残酷なことだけど、長い目で見ると必ず失敗します。
一方、優秀な人(その会社で成果を上げてきた人、という意味ですが)は、今までのチーム運営みたいなことが成り立たなくなりますし、むしろ、内部から足を引っ張られるみたいな状況も生まれてきて、やりにくい状況になります。つまり、この制度によって、優秀な人は、優秀でない人になってしまいがち。当然、優秀な人もそれは困るから、なんとかしようとします。もし、仕事の目的と自己目的の混同による混乱が生まれそうになったとき、それを打破するためには強権発動しか手がなくなるのです。
そうなるとギスギスしますよね。自己目的と書きましたが、その状態では、自己目的の利己性みたいなものは、その人にとっては、根拠のない自信というか、肥大化した自己にしか拠り所がない状況に追い込まれていて、自己目的が仕事の目的と同化しているわけですから、その同化が錯誤であったとしても、それを証明するには過去の実績にあたるしかないわけで、「君、いままでそういうやり方でうまくいったことないでしょ」みたいな身も蓋もないことを言えない限り、強権発動しかないですよね。で、チームは崩壊。
これ、大義名分とかけ離れた状況になるのではないかな、と私は思うんですね。まあ、優秀な人といってもいろいろあるから、わりとこういう成果主義的制度のもとでうまくやれる人もいるとは思うんですが、たいがいはモチベーションを削ぐ結果になるような気がするのですね。そもそも、優秀な人は、お金での評価をそんなに望んでいるものかな、と思います。私は独り者だし、そのへん甘いかもしれませんが。
謙遜しても意味ないとは思うので、あらかじめ言っておきますが、私は、ここでいう優秀な人に近いとは思います。とりあえずは、今いる会社では、という意味ですが。まあ、そのくらいのこと思わなければ、ブログで広告論なんて書かないわけでね。そんな私からみて、成果主義っていうのは、なんだかなあ、結果が大義名分とかけ離れすぎなんだよなあ、と思うんですね。むしろ逆。私より優秀な人もたくさんいるとは思うけど、その人たちは、本当に、こういう上と下の差が給料で激しく出る制度を望んでいるのでしょうか。とりあえず、耐えなきゃいけないこの状況で。
じゃあどうするの、と考えてみると、なんとなく、社員全員一律○○%給料カットでいいんじゃないですか、みたいなことを思うんですね。優秀な人側に、多少の不平等感も生まれるでしょうが、不平等感は優秀な人に吸収させた方が、ものごとはうまくいくような気もします。サラリーマンは、野球選手やサッカー選手と同じ感覚にはなれないですよ、やっぱり。現実的ではないかもしれませんし、とんでもないことを言っている気もしないでもないですが。あくまで個人的には、という感じです。
私は、会社に対しては、正当な評価は求めますが、それはお金だけではなくて、過剰なお金の評価(それは下方に評価される人の下がった給料分の評価なんですけどね)によって、今までうまくいっていた状況を壊されるくらいなら、そんなものなくてもいい、という気持ちがあるんですよね。業界自体が冷え込んでいる状況でもあるし。
まあ、壊れたら壊れたで、またひとりでやるだけなのかもしれませんけど。ちょっと前まではそうやってきたし、やろうと思えばいくらでもやりかたがあるしね。
関連エントリ:成果主義考
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- Riskという概念(2019.10.17)
- 「同和」という言葉をめぐって(2019.10.07)
- 久しぶりにコメント欄が荒れた(2019.09.07)
- 父の死(2014.09.02)
- ラジオのこと(2014.08.29)
コメント
若かった頃、自分と自分の周りの狭い範囲のことしか見えてなくて、それを評価されて 終わってた。
少し年を重ねて、上のことも下のことも見えてくると、評価したりされたりすることの基準に??を感じてた。
今は できる人、できない人、やれる人、やれない人を含めてかなり寛大に他人を見れるようになりましたね。
うーん、成長したかも、私。
と思うと同時に、あのぺ-ぺ-だった頃の先輩上司の方々には 恥ずかしいことだらけで 顔もあわせられません。
投稿: うずまき | 2009年4月14日 (火) 13:54
確かに年とともに、そのあたりは余裕を持って見えるようになりますね。ああ、あの頃は私もそうだったよな、なんて。
もうひとつは、自分を振り返ってみても、ある種の無鉄砲さが、案外本人の成長のトリガーになったりすることもあり、まあ、あまり否定せず、だからといってほめるばかりでもなく、みたいな感じでやっていけたらみたいな感じです。
投稿: mb101bold | 2009年4月14日 (火) 18:05