スナフキンはどこへ行った
コピーライターが若い人の憧れだった頃、コピーライターの言葉はスナフキンの言葉だった。少なくとも多くの若いコピーライターは、スナフキンの言葉を書きたがった。つまり、スナフキンになりたがった。企業の言いたいことの代弁でもなく、かといって消費者の生の言葉でもない、そのふたつの境界上で語られる言葉。その言葉を書けるのは、コピーライターしかいない。そんなふうに思っていた。その自負があった。
スナフキンというのは、春になるとムーミン谷に戻ってくる吟遊詩人。自由と孤独、音楽を愛し、ややこしい人間関係からも、厳しい現実からも一歩身をひいて、真実らしい言葉を言葉少なに語って、その言葉だけを残して、冬が来る前にまた旅に出かけていく。
「そのうちなんてあてにならないな。 今がその時さ。」
「大切なのは、自分のしたいことを、自分で知っている事だよ。」
「おまえさん、あんまりおまえさんがだれかを崇拝したら、ほんとの自由はえられないんだぜ。」
「この世にはいくら考えてもわからない、でも、長く生きることで解かってくる事がたくさんあると思う。」
「明日も、きのうも、遠く離れている。」
そんなスナフキンの言葉をコピーライターは新聞に、ポスターに、刻みたがった。消費社会の中で、コピーライターだけが、その消費社会の汚れの中から逃れられると、本気で思っていたふしがあるように私は思う。また消費社会のシステムは、そんなコピーライターの浮世離れした「真実」の言葉を望んでもいた。
スナフキンは、いまどこを旅しているのだろう。スナフキンは、春になったら戻ってきてくれるのだろうか。いま、広告の言葉は、スナフキンになれない。それは幸福なことか、不幸なことか、私にはわからない。スナフキンを気取る広告の言葉は、今の時代のリアルにはなれない。おまえはスナフキンではない。そんなふうに思う人々が、そこにいるから。
けれども、コピーライターという語り手の専門性がもしこの先、企業の言葉、あるいは消費者の言葉に取り込まれてしまわないとすれば、それは、どちらにしてもスナフキンにならざるを得ないとも言えるかもしれない。スナフキンをやめたとき、コピーライターの専門性は終わる。
であれば、方法はひとつしかないのかもしれない。旅に出ないこと。ムーミン谷に止まりつづけて、ときには怒り、ときには落ち込み、ときにはよろこび、ときどき間違いしくじる、それでも、そのときどきの「真実」を語りつづけるスナフキンになること。そんな身の丈なスナフキンの言葉を、もうかつてのように人はありがたがらないかもしれない。けれども、それでいいのだろうとも思う。
スナフキンがムーミン谷に戻り、もう旅をしないと決意するとき。それが、消費社会の新しい局面だろうと思う。そのときは、まだ来ていないし、来ないという公算も高い気もする。そうなれば、広告の言葉は、企業の言葉、あるいは消費者の言葉に取り込まれてしまうことになるだろうと思う。そんな社会は、私は息苦しいと思うけれど、それは私が決めることではなく、社会が決めていくのだろうと思う。
いま、スナフキンはどこを旅しているのだろう。そして、スナフキンは、いつの日か戻ってくるのだろうか。私にはわからないけれど、やがて来る新しい消費社会が、ムーミン谷にとどまりつづけるスナフキンを必要とするという希望に、かけてみたい気持ちが私にはある。
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コメント
スナフキンはもう、個人的なことしか言えなくなってきているのかもしれないな。と私は思いました。スナフキンの言葉が響くひとと、響かない人の断絶が大きいというか。それに、スナフキンは一人ではないかもしれません。ムーミン谷も実は沢山存在しているのかもしれないです。でも、沢山のムーミン谷で、たくさんのスナフキンたちが見上げる夜空に輝く星は、きっと同じ星だと思うんですよね。
投稿: ggg123 | 2009年4月 3日 (金) 10:37
「それにしても、せちがらい世の中になったもんやなあ」なんてスナフキンたちは今日もどこかの街で愚痴っているのかもしれませんねえ。
投稿: mb101bold | 2009年4月 3日 (金) 11:04