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2009年4月20日 (月)

ネットというものはない

 仕事柄、まだまだマスコミでのコミュニケーション立案が多いものの、ネットでのコミュニケーションを考える機会もそこそこ増えてきました。ネットというものを単一のイメージでとらえると、いろいろ見誤るのではないかと思うようになってきました。

 いろんな人と話をしていると、ネットというもののイメージがそれぞれ違います。Yahoo! JAPAN、楽天、発言小町、はてなブックマーク、2ちゃんねる、アメブロ、mixi。それぞれの人がメインで利用するポータルによって、その人のネットの世界観が決定されていて、それぞれのネットの世界観は、それこそ天と地ほどの違いがあります。これは、ほんと驚くほどに違います。

 例えば、私にとっては「ほぼ日刊イトイ新聞」や「デイリーポータルZ」は、知らない人はいないんじゃないかというサイトですが、案外知らない人はたくさんいます。ブログなんかも、ある人は「なんかごちゃごちゃリンクがあって、どこから見ていいのかわからない」と言っていたりします。けれども、そんな人でも、生活にネットがきちんと位置づけられているというのが今という時代。

 つまるところ、ネットとは、いまや単一的な世界ではなくて、様々な場の集合体であって、その場には、様々な暗黙の約束事があり、違う空気が流れている。それは、もはや、国に近いノリさえあるんじゃないかな、なんて思っています。ちょっと大げさかもしれませんが。

 欧米の広告をそのまま日本に持ってくると失敗することが多いです。それは文化が違うからです。どちらの文化がいいのかという価値判断はともかく、違うという事実をベースに考える必要性はあるように思います。欧米の広告が日本で失敗するパターンは、自国の成功事例に縛られることによることが多いようです。日本で成功しないのはおかしい。なぜだ。そして、多くのブランドマネージャーは、日本の文化は民度が低い、みたいな捨て台詞を残して、日本を去っていきます。

 同じことがネットでも言えそうです。場の特性を考えなければ、ネットでのコミュニケーションはうまくいかないように思います。例えば、日本には日本の場の理論があり、それはそれで必然と整合性があります。それが欧米的な価値観からは奇異に見えようとも。まあ、それをグローバルスタンダードの旗印の下に一元化していこうみたいな考えもありますが、広告は、基本的にはサブコンテンツとして運命付けられているわけだし、場の論理を読みながら、そこで受け入れられるために注力するのが筋だとは思っています。

 ただ、ネットが難しいな、と思うのは、その場と場がゆるくつながっているということで、それがネットのいいところでもあるのですが、そのつながり、すなわち違う場からの視線を意識することが、得てして企業コミュニケーションの場合は緊張につながるように思えていて、その緊張が解けて、個人サイトと同等の地平に立てるときがくるのかどうかは、ちょっとわからないし、ある意味で、そういう緊張がなくなってしまったら、それはそれで中間的な集合体としての弊害も出てしまうのだろうし、それが社会的存在としての強度が高い企業コミュニケーションの限界であるといえるのかもしれません。

 これは個人サイトにも同じようにいえるとは思うけれど、場を考えるということは、場に飲み込まれないという意思表明でもあって、それはどこまでいっても場ではなく個が起点であることを、絶えず確認することでもあるのだろうな、と思います。個を起点とするということは、様々な場に共通している、ある種の人間としての約束を確認するということでもあるだろうし、そういう上位の価値観の入り込む余地のない閉じられた場というのは、どこかで悲劇を生み出して、いずれ破綻を見るということもあって、そのあたりの理論的な整理というのは、思想的には、今の最大の難問なんだろうなんて思います。

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 ネットというものはない、ネットはいろいろな場の集合だよ、ということを書くのに、少し脱線してしまったみたいですが、それはきっと、「いじめの構造 人はなぜ怪物になるのか(講談社現代新書)」を読んでいたからですね。それが仕事の課題とごっちゃになって、という感じです。ちなみに、この本、「いじめ」という現象がメカニズムをしっかり説明しきっていて、同種の本の中では、最も優れた本のような気がしました。

 ただ、後半の施策についての論考は、大筋納得はできたのですが、そうしたことで生まれる別の弊害というものもあるのだろうな、という気がしないでもないです。ただ、それはバランスの問題だろうから、今、中間的な組織の全体主義に偏っているとしたら、その是正というのは必要な気はします。

 あと、論考を通して、そこで提示されている用語は、ほとんど的確なのに、ただ一点、本書が目指す社会としての「自由な社会」の反対である、「いじめ」にからめとられる中間的組織による全体主義の社会を「透明な社会」としたのは不正確なのではないかと思いました。そこでなぜ「透明」という異次元の概念が登場するのか、というのが疑問。きっと、この語を登場させる必然が著者にはあったのだろうとは思うのですが、その部分に、きっとこの著作の芯の部分があるし、そこは逆にウィークポイントを示しているのかもしれないな、という感想を持ちました。

 まだ自分の中では整理がつかない部分もあるし、社会制度を語る資格が自分にあるようにも思えないのですが、またあらためて書いてみたいと思います。いい本でした。お薦めです。ではでは。

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