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2009年5月16日 (土)

広告を残すか、商品を残すか。あるいは、「広告的」という考え方。

 若手だ、若手だ、と思いながらやってきて、いつのまにか「若手って、あんたいつまで。甘えんじゃねえ。」なんて言われるお年頃になってきました。この業界は、純粋に経験年数でキャリアを計りにくいとは思うんですが、なんだかんだで私も20年弱(弱って書くところが、甘えてるんだな、きっと)くらい広告で飯を喰ってきているわけでして、ベテランとは言わないまでも、まあ中堅くらいにはなるのかも。

 私は、わりと若い頃から独り立ちして広告をつくってきたところがあって、ちょっと嫌な若手的な言い方になるけれど、CD(クリエイティブ・ディレクター)について制作スタッフとしてやってきた時でも、実質的には、私がCDをやっているみたいな感じが多かったです。なぜそうなったかというと、私の場合、会社をいっぱい移ってきたから。たいがい、中途採用として新しい会社に入る場合、問題のある制作チームの案件での人材募集が多いわけで、そんなチームに配属されると、「ああ、これは自分でやらないといかんな」と直感的に思うんですね。そういう生意気なやり方は、やはり自分にとっても心理的な負荷はかなりあるし、もともと私は、少なくとも見た目的には「俺は、俺は」のタイプではないから、いろいろ最初はつらいものなんですが、中途で入社、しかも試用期間あり、みたいな条件では、その仕事をよい仕事にしないと自分の食い扶持につながるわけで、こっちも必死なんですね。

 わかりやすく言えば、荒れた制作チームというか、荒れた仕事なわけです。過去作品を見ても、ぐちゃぐちゃだし、ひとつひとつの表現についてこちらが尋ねても、言い訳しか出てこない状態。「これはね、クライアントさんが、ああして、こうなって」とか、そんなことばかり。で、最後に出るのは決まって「このクライアントはね、いい広告つくらせてくれないから」。

 でも、「いい広告」をつくらせてくれるのが「いい商品」とは限らないのが現実で、その商品がいいかどうかは見てみないとわからないし、そういう目線でもって得意先で話を聞くと、たいがいは「いい商品」だったりもするんですよね。で、たいがいは過去作品は、その商品の「いい部分」をまったく語っていなかったことが多かったです。違う文脈で話そうとしているんですね。その文脈は、たいがいその業種の最も優れた広告の文脈をなぞろうとしている。だから、まず表現よりも、文脈をその商品が持っている「いい部分」を語れる文脈に変えてあげる必要があるんです。

 このやり方は、企業から市場へと向かうベクトルで言えば、「パーセプション・チェンジ」ということでしょうし、その「パーセプション・チェンジ」をやるためには、まずはこちら側の語り方のパーセプションを変えないといけないんですね。お笑い芸人が、ハリウッド俳優のやり方で自分を語ってもしょうがないでしょ、ということ。お笑い芸人のすばらしさがきわだつ語り方、つくりましょうよ、ということですね。

 そんな感じでやってきたから、意識しているわけでもなく、そういう「パーセプション・チェンジ」を核とする考え方に親しみを持つようになってきたんだろうなと思います。もちろん、この手法は、ある特定の作風を生むわけで、いち広告表現としては地味目なものもあったりします。具体的に言えば、華のある、おもしろいコンテみたいなことにはなりにくいし、有名スターとストーリーの奇抜さで話題を呼ぶ広告にはなりにくいです。それよりも、どちらかというと、あの商品が気になって気になってしょうがない、みたいな残り方をする広告。

 広告を残すか、商品を残すか。

 そういう視点に立てば、私は「商品を残す」やり方が得意。でも、私は、広告というのは、そういうものでなければならない、とは思いません。楽しくて、おもしろくて、あのスターが出ていて、広告がめいっぱい話題になって、みたいな広告もありだと思うし、それでも、その圧倒的なパワーで商品が売れれば、それでいいとも思います。作り手としても、もっともっと人間のベーシックなところ(つまり、普遍性のあるところ。つまり、それは差別性のない部分でもある)で、人間を描く広告をつくりたいとも思う部分もあります。

 でも、ここ最近ぼんやり思うのは、「私よりうまくやる人がいるものを、わざわざ私がやらなくてもいいんじゃないかな」みたいなこと。このブログは、同じ領域や関連領域で働く人のために、ある「気付き」を共有するためにあるものでもあるけれど、ある一面としては、私自身の思考の整理のためのものでもあって、そういう思考の整理の中で出て来たひとつの結論としては、そういうことかな、なんて。ま、必然があれば、「広告を残す」やり方もやることはあるかもですけどね。節操はないから。それと、この話、視聴者に残らない広告を肯定するものではないですからね。念のため。それは、基本条件としての個別の話ね。

 私が得意とする「商品を残す」という方法論は、究極のところ、いまある、テレビCMとかの広告文化みたいなものとはあまり関係のない思考なのかもしれません。商品が広告の上位概念であるという考え方ですから。というか、正しく言えば、商品という概念は、それ自体が広告を含むということかな。

 前にコメント欄で「mb101boldさんは、いろんなことを広告という思考を通して考えるのが好きなんですよ」みたいな言葉をいただきました。そのときは、照れくさい気持ちとともに「俺って、仕事中毒?」みたいなことを思いましたが、この方が言われている「広告」っていうのが、きっと私にとっての「広告」なんだな、とぼんやり理解しはじめています。それは、テレビCMとか新聞広告のような広告コンテンツというよりも、何か「広告的」としか言いようがない思考のことなんだろうな、と。あまりまとまりがないけれど、この「広告的」というものを、もうすこししっかり考えていきたいな、というふうに思っています。

関連:
広告的、ウェブ的
リテラシー考

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