泣きの達人
なんか最近の恒例、テレビ番組を観て感想を書くエントリ。本日は「あっぱれ!!さんま新教授」から。いろんなエキスパートが教授として、さんまさんとゲストの方々にレクチャーするといった趣向の番組。小学校1年生の女の子の子役さんが、「泣きの達人」として出演されていました。
まあ、見事に泣いておられましたね。涙もポロポロこぼれ落ちていました。さんまさんやゲストの方々も心配そうな顔で、息をのんで見守るしかないといった様子。演技だとわかっていても、やはり人は、人が泣くという姿を見ると悲しいという感情で反応するようにできているのでしょうね。理屈ではわかっちゃいるが、というやつですね。
小学一年生の泣きの教授さん曰く、こんなことらしいです。
- 心の中に大中小のスイッチがある
- そのスイッチを押すと大中小の泣きが自在にできる
- 泣けない人は心が詰まっている
- 心の詰まりは橋の上で「自分のバカヤロー!」と叫ぶととれる
ゲストのカバちゃんが橋の上を模したセットで、何度も「自分のバカヤロー!」と叫んでいましたが、結局は泣けずにいました。最後には、小さな教授さんに「泣けなかったら帰って来ていいですよ」と言われていました。
大人になるにつれ、なんとか泣かずにいるための努力をするようになるような気がします。自分なんかでも、「あっ、やばい、泣きそう」という感じになると、泣かないために必死になっている感覚があるし。それは、映画やドラマを見ているときもそう。きっと、小さな教授さんの言う通り、心にたくさん何かが詰まっている状態なんでしょうね。それがいいことなのか悪いことなのかは、いまいちわからないけれど。
きっと、その小さな教授さんも、年を重ねるにつれ、泣けないようになっていくんでしょうね。年をとるということはそういうものだと思うし、きっと、その小さな教授さんは、まだ役者でもなくて、だからこそ、役に入り込んで泣くのではなくて、それこそスイッチを押すように泣けるのでしょうけど、だんだんそうはいかなくなってくるはず。たぶん。
だからこそ、大人で泣いている人を間近にすると、どうしようもない感情が押し寄せてきて、もらい泣きをしてしまったり、動揺して、逆に明るく振る舞ってしまったり、ほんと大人ってやつは複雑なものだよなあ。
ちなみに、感情が高ぶって涙を流すのは、ヒト特有の行為らしいのですが、なぜ涙を流すのかは、はっきりとはわかっていないとのことです。フレイという科学者が、玉葱を刻んだときにでる涙と映画を見て流した涙の成分の違いを調べたそうで、その実験の結果では、映画を見て流した涙に高濃度のタンパクが含まれていたとのこと。で、なんらかの感情的な緊張状態を開放するための生体反応としての合理性があるのでは、みたいなことは言えるかも、ということなんですが、それでもよくはわからないみたいなんですね。
このあたりの話は、永井俊哉さんという在野の研究者の方が「人はなぜ泣くのか」という題名でまとめられています。泣く、という行為は、けっこう難問みたいです。
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コメント
ちなみに年を重ねていくと、涙もろくなってきたような・・・
ドラマを見ていても、(誰かが言うてはった「初めてのおつかい」をみていても)ウルウルきちゃいます。
また、言葉より先にじわわんときちゃうこともあり、
ドタマにきてると体がふるえて、口がわなわなしてきちゃいます。
・・・あ~タンパク質というのは、おっぱい=白い血液、に似てますね~・・・?
だんだん感情のタガがゆるんでくるのでしょうかね~・・・。
投稿: Aうなぎ | 2009年6月22日 (月) 18:17
私は「ROOKIES」が非常にやばかったです。最後に逆転で勝つと思っていても、やっぱり感動してしまいます。鉄板は、映画版「キャプテン」のエンディング。あれはもうだめです。
>ドタマにきてると体がふるえて、口がわなわなしてきちゃいます。
年を重ねるということでは、ドタマに来ることが少なくなったというか、少々の理不尽にも耐えられるようになったというか。なんだかなあ、面の皮が厚くなってきたなあ、さみしいもんだなあ、と自分では思うんですけどね。
投稿: mb101bold | 2009年6月22日 (月) 19:13
つい10日前、大泣きしてしまった自分です(笑)。小さな教授のおっしゃるとおり、なんだかいろいろ行き詰ると私の場合、「泣き」で蓋を開放しています。ただ、意識して泣こうと思っても、やっぱりそう簡単には泣けなくなってきていますね。喜怒哀楽があるといいながら、世間体には「喜」「楽」ばかりが求められてる風潮が。でも「怒」「哀」があるからこそ感情なんかのバランスがあるのでしょうね。
投稿: しばはな | 2009年6月22日 (月) 23:21
>ただ、意識して泣こうと思っても、やっぱりそう簡単には泣けなくなってきていますね。
確かにねえ。大人になるってせつないですねえ。でも、最近は泣ける話みたいなのが映画とかテレビで流行ってきているよな感じもします。揺り戻しなんでしょうか、それとも世間も蓋を開放したがっているのでしょうか。
投稿: mb101bold | 2009年6月23日 (火) 00:04
下條 信輔先生の講演を聴いたことがあるのですが、泣くから悲しいのか、悲しいから泣くのか、どちらとも言えない、という話を思い出しました。(リンク先では後者を前提としているように思いますが、先生の話では前者を推していたと思います)
とはいえ、泣くという行為に限定した話でもなく、ヒト特有の事象という意味ではあまり示唆のあることではないのかもしれません。
ただ、音楽を聴いて泣くのは、悲しいからというより、本能的な次元で泣くスイッチにつながって、それから悲しい気持ちになるほうが自然なように、思え…なくもないでしょうか。
投稿: イデラ | 2009年6月27日 (土) 00:43
「欲望とは他者の欲望である」みたいなことをラカンという精神分析学者が言っていましたが、そのことと似ているような気がします。でも、この問題、実感としてはすごくわかるのですが、本気で考えるとけっこう難しい問題ですよね。
一時期、消費社会論の文脈で「シニフィアン/シニフィエ」という概念とともにこの欲望の定義がよく引用されていて、ラカンの「エクリ」という本を読んでみたけれどさっぱりわかりませんでした。
コメントを読んで、そのあたり、少し真剣に考えてみるかな、なんて思いました。
投稿: mb101bold | 2009年6月27日 (土) 01:44