1967年生まれの僕が、1949年生まれの鹿島茂さんが書いた『吉本隆明1968』を読んでみて思ったこと(2)
吉本隆明という思想家は、独特の問題意識を持っているように思います。私の思い込みかもしれませんが、思想家というものは、原理を追求し、倫理を問うてくるものだと思います。もちろん、ここでいう思想家とは、著作が多くの人に読まれ、語りつくされるような思想家ですが、例えば、僕のような一般の人が書くブログにしても同じです。
僕は広告屋で、広告の過去、現在、未来を僕なりに語っています。それはひとつの党派性であり、「僕」という独立した個の中での原理でもあります。そして、その言説は、当然のように倫理を問うてくるものです。問うてくると言っても、その影響力の問題がフィルターとしてあるのですが、そのフィルターを捨象したうえで純化して言えば、僕のブログを読んだ人は、共感か拒絶か、という態度表明を少なからず強いてくるものです。
そうした人間の思考が持つ「世界共通性」つまり原理の希求は、この現実の生活や実際のビジネスのリアルからどんどん離れていくベクトルを持っています。つまり、それ正論だけど、理想論だよね、と言った具合に。純粋に、個が「世界共通性」を希求するとき、それは必然のような気がします。
そうして獲得された「世界共通性」、しかし、それはあくまで個が希求した「世界共通性」のひとつに過ぎないのですが、その原理は、やがて現実との不具合を、日々平々凡々と「現実」を暮らしている人々の意識、倫理、行動を変えることで整合をつけようとします。ときたま僕がこのブログで批判的に書いている、「素晴らしい広告を理解しない日本の国民は民度が低い」と語る広告屋みたいなことですね。
しかし、そうして、ネットの言葉で言えば「上から目線」で語る本人も、そういう「現実」に生きる人間です。その「世界共通性」は、やがて生み出した本人さえも否定していくようになります。そのようなプロセスに対しての問題意識が、初期著作のみならず、とってもいい感じのお爺さんになられた今においても、凄まじく激しいのが、思想家吉本隆明のような気がします。
アマゾンのレビューに、こんな文章がありました。
吉本は個人的な密かな楽しみや、独り善がりな自分勝手にも寛容である。「社畜」などとサラリーマンの哀しさを捨て置き、罵倒することは決してない。彼自身特許事務所にいたときの経験から、仕事が終わった後に同僚と一杯飲みに行くことの「たまらない」楽しさを知っている。そして、思想の営為とは、そうしたたまらない楽しさと決して無縁ではないということを語ったのが吉本だった。
Amazon.co.jp : 吉本隆明1968 (平凡社新書 459)
この吉本さんの視線は、単に、「私は民衆とともにある」という使命から来るものではないのは言うまでもありません。そうした身勝手な使命こそ、吉本さんの批判対象であり、その「たまらない楽しさ」は、吉本さんにとっての市民としての自然から来る実感だと思います。
ではなぜ吉本さんは、彼の用語で言えば「大衆の原像」にこだわるのか。それは、きっと、思想家として希求する「世界共通性」のためなのでしょう。「大衆の原像」を折り込まない「世界認識」は無効であることを強く意識してのことだろうと思います。そこには、知識人として原理を突き進める本能との激しい葛藤が見えます。こういう問題意識を持つ思想家は、私は、吉本隆明という人がはじめてでした。
ジャズピアニストの山下洋輔さんが、どこかで「プロになるということは、今までアンサンブルを楽しんでいたアマチュアの仲間たちと決別することでもある」ということをおっしゃっていたように記憶しています。思想家としての吉本さんにとって、この決別の痛みは当然あるのだろうと思います。なんとなくこの『吉本隆明1968』という本を読みながら、吉本さんの言う「大衆の原像」というものは、その決別の痛みのことなのだろうと思いました。そして、その痛みを忘れて希求された「世界共通性」は破綻し堕落すると吉本さんは言っているような気がします。思想とは、その痛みも取り込むものなのだ、と言っているような気がするのです。
鹿島茂さんが「個人的に一番好きな文章である」という「別れ」という吉本さんのエッセイを、孫引きになってしまいますが、引用します。小学5年生の吉本少年が私塾に通い始める頃のお話です。
わたしはあの独特ながき仲間の世界との辛い別れを体験した。別れの儀式があるわけでも、明日からてめえたちと遊ばねえよと宣言したわけでもない。ただひとりひっそりと仲間を抜けてゆくのだ。(中略)わたしが良きひとびとの良き世界と別れるときの、名状し難い寂しさや切なさの感じをはじめて味わったのはこの時だった。これは原体験の原感情となって現在もわたしを規定している。
『背景の記憶』(平凡社ライブラリー)
僕は思想家でも知識人でもないけれど、なんとなくこの感覚がわかるような気がしますし、生きるとことは、多かれ少なかれ、こうした「名状し難い寂しさや切なさ」の繰り返しだったりすることも、ぼんやりと分かりだしてきました。そして、そこには二度と戻れないのでしょう。その痛みの感覚を「成長」という名のもとになかったとこにして、やりすごすこともできるだろうし、実際、そうしてきたときもあるような気もしますが、それは違うだろう、ということなんでしょうね、きっと。
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