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2009年7月の23件の記事

2009年7月31日 (金)

おすそわけ

 毎日、暑いですね。暑中お見舞いの、おすそわけです。

 前に書いた「広告の定義」というエントリに関連して、tom-kuriさんからメールをいただきました(メール、ありがとうございました)。そこに添付されていた論文が興味深かったので、ひとりじめするのはもったいない、ということでご紹介します。ではでは。

  • 広告はadvertisementで、広告業がadvertisingですが、もともとはラテン語のadvertere(ad-へ+vertere向ける)、原義は「振り向かせる」「注意を促す」である、というのは有名な話。要は「目立たせる」ということですね。「違いを際立たせる」とも。「○○は、同じジャンルの製品の中でココが違います」「当社の◎◎は調査の結果、満足度が最も高いサービスです」とか、そういうセールスポイントを強調して、originality(独自性)を明らかにすることが広告に求められているわけです。
  • 一方、communicationの(com)というのは、ラテン語の前置詞 cum (with)の異形で、「共に(with,together);全く(completely)」という意味です。comedy, commerce,common(ly),commercial…といった言葉にも使われていますね。共に、共同して、一か所に、相互に、同時に、一斉に、調和して、続けて……。そういう行為、活動の総称です。つまり「あなたと私は一緒ですよ」「あなたのことはよく分かっています」「いつまでもよろしく」「同じ人間じゃないですか」というような。
  • 相手への理解、共感がなければ人は(指示命令以外で)自発的に動いてくれません。相手の心を動かして初めて、覚えてもらい、信頼されて、深い関係を築いていくことができるのです。
  • 芸術であれスポーツであれ、それが人を感動させるのは「自分と同じ人間が、こんなことができるんだ(もしかしたら自分もできるかもしれない)」と訴えかけてくるからです。一言でいえば、それは「普遍」ということです。
  • 広告コミュニケーションとは、この相反する行為「違いを明らかにして、独自性を出す」ことと「共感を得て、普遍性に訴える」ことを生活者(つまり人間)に対して同時に行う活動なのです。

 もうひとつ、おすそわけ。掲載許可をいただくためのメールのお返事に、このようなお言葉。また、お書きになった関連エントリはこちらです。

広告人は、基本的に「褒める人」だと思っています。
どんなヒトであれモノであれ、この世に産まれたからには、
何かしらいい所が、誰かの役に立つところがあるはずだ、
と信じて、それを見つけて褒める。伸ばす。

 これは忘れがちだし、自分に余裕がないとなかなかできないことでもあるだろうし、それを完璧に実行することはできないだろうとも思いますが、基本的に「広告」的な態度というのは、こういう態度のことを言うのだろうな、と思います。私は、これからも「広告人」であり続けたいと思っています。

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2009年7月27日 (月)

中野サンプラザが好きになってきた

R0010009  中野に住んでない人でも名前だけは知っていると思います。中野サンプラザ。東京の中野駅北口すぐにある20階建てのビル。1階から4階はコンサートホールになっていて、有名アーチストが度々コンサートを開くホールです。

 最近では、モーニング娘。の聖地とも言われています。また、北島三郎さんや、小林幸子さんなどの演歌の大御所もリサイタルを開くことが多いです。

 爆風スランプのサンプラザ中野くん(サンプラザ中野から改名されたそうです)という芸名もこのコンサートホールにちなんで付けられたそうです。当時から、バンドにとっては憧れの地だったということです。というか、中野サンプラザを全国的に有名にしたのは、サンプラザ中野くんさん(言いにくいですね)ですね。

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R0010050_2 このビル、カタチが独特。ルパン三世の五ェ門が斬鉄剣で斜めに切ったようなカタチをしています。横から見ると三角形なので、三角の白いビルと形容されることもあるようです。

 じつは、私、このビルのカタチがあまり好きではありませんでした。確かに、建築物としては斬新で面白いのですが、なんとなく建築家のエゴが垣間見えるというか。

 でも、この手の実験的なフォルムの建築物の場合、建築として有名である場合が多いのに、この中野サンプラザだけは、そうした話を聞いたことがなく、それはなぜなのかな、とずっと思ってきました。ということは、なんらかの必然があって、あの独特のカタチにしたはずで、ならばその必然は何かな、と思いますし、建築物の合理性としては、このカタチはまったく駄目なはずです。ビルは高層になればなるほどエレベーターや階段を多く設置しなければならず、そうなると、使える面積の割合が減ってしまいます。

 私がプランナー時代ににわか勉強で覚えた知識で言えば、スレンダー比(面積に対しての高さの比)が高くなればなるほど、法律的な問題からレンタブル比(総面積と収益性を生む面積の比)が下がるとのことで、この建物の場合、言わば、まったく経済合理性の逆をいくカタチであるわけです。

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 で、こういときはウィキペディア(ブロガーの駄目なクセですね)かな、と思って見ても、関連の記述はありませんでした。ひとつだけ見つけたのが、関心空間。そういえばあったなあ、関心空間、という感慨はさておき、こんな記述。

追記:中野サンプラザの、あの独特の三角サンドイッチのような建築構造は、地域住民に対する日照権の問題から設計された形状だったと記憶しています。
中野サンプラザ - 関心空間

 「だったと記憶しています。」とお書きになっていますから、リテラシーのある方々は話半分に読んでいただいて、という前提で書きますが、私は、ほお、なるほどねえ、と思いました。この近辺に住んでいて、このあたりが通勤のルートなので、日当りに関しては、そういえばそうだな、と思うところもあります。

R0010042  その近辺には意外と昔からの民家が多くて、しかも緑が多いんですね。歩くと、とっても気持ちのいい場所なんです。例えば、右の写真のような感じ。この写真は早稲田通りから撮影しましたので、少し中野サンプラザから離れていますが、ここからJRの高架まで並木道が続いています。

R0010049  並木道を通ると、木陰で少し暗いのですが、上を見上げると、葉っぱに燦々と太陽が当たっています。ちなみにこちらの写真は、中野サンプラザのわりと近くです。

 もちろん、中野サンプラザや近くのNTT中野ビルの陰になる部分はあるにはあるのですが、実感としては、わりと少なめな感じにはなっている印象はありますね。

R0010053  中野サンプラザ裏の中野区役所にある緑の小道を撮影してみました。夕方頃ですが、中野サンプラザの陰と日向の境界線はこんな感じ。1973年に出来たそうですが、かなり綿密に計算してつくったカタチなのかな、と思ったりします。(でもまあ、穿った見方をすれば、だったら低層にすればいいじゃない、とは思いますが、当時は、中野のランドマークとして「高層」というのは外せなかったんでしょうね。)

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 一頃、中野区で、このあたりの再開発の話があって、この中野サンプラザも取り壊しの話が出ていました。その時にも、理由として出て来たのは、施設の老朽化と使い勝手の悪さ(きっとレンタブル比の低さでしょうね)でした。でも、最近は経営が変わって、経営も順調だと言いますし、景気が悪くなって来たのもあって、このまま残りそうな感じです。

 緑に囲まれた道から中野サンプラザを見上げながら、「まあ、そういう理由があったんだったら、あのカタチもいいもんだよなあ」なんて思いだしてきました。中野区民にも親しまれているようですし、中野サンプラザさんにおかれましては、ますますご清栄でいてほしいもんだな、と思っております。

■Google Mapの航空写真です。(時間の問題でエントリの話とは陰が逆になってますが。)

大きな地図で見る

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2009年7月26日 (日)

いろいろ試し撮り 3

R0010040

お昼の中野。今日は晴れたなあ。雲ひとつないっす。

R0010033

今日の朝の中野。できたての雲。いい天気です。

R0010009

こちらは雨の日に撮影。サンプラザ。少し昔の未来。

R0010010

同じく。中野サンモールは入り口の外観がビルの様。

R0010030

晴れの日の東京駅。ビルの間に、都会の空。

R0010032

見上げると、少しだけ空が大きくなりました。

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空はそのときそのときで違うから、面白いですね。
朝はやさしい空で、昼は元気な感じがします。
GR DIGITAL Ⅱはオートフォーカスの速度が速いようなので
気になったらすぐシャッターを押しても大丈夫っぽいです。

まだいろいろな機能は使っていませんが、
カメラまかせでもそれなりに撮影できますね。
時間が出来たらゆっくり試していこうと思っています。

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2009年7月25日 (土)

自分で書いておいてなんですが

 前回のエントリ「おこり方がわからない」のテーマについて、なおまだひっかかり続けています。結構難問のような気がするし、これを追求していくと、文学の世界のような気もするし、結局は明快な解はないような気もします。

 立て続けに2つのテレビドラマを見ました。ひとつはフジテレビ『任侠ヘルパー』。草彅剛さん主演で、ヤクザの大親分から跡継ぎを選考するために舎弟の組長たちを老人ホームに送り込み、ヘルパーとして働かせるという話。そこで草彅さん演じるヤクザヘルパーさんは、最初はやさグレのチンピラで、些細なことに怒りをぶつけている。老人から金をくすめるし、ヘルパーの仕事はサボる。でも、介護の現実に触れていくうちに、その怒りは、現在の介護ビジネスのあり方、本当の介護とは何かといったもっと大きなものにぶつけられていく。そこが、このドラマの最大の面白さ。

 もうひとつのドラマは、NHK名古屋制作の土曜ドラマ『リミット〜刑事の現場2』。人間の見たくない心の奥底をえぐるドラマ。NHK名古屋といえば『中学生日記』が有名ですね。昔から内容が深く、かつ後味が悪い終わり方をよくしていて、テレビドラマとしてはかなり異質でした。このドラマもかなり異質で、主人公の武田鉄矢さん演じる中年刑事は心に強烈な怒りを持って、その怒りを核に刑事を続ける男。その相棒である若い刑事は森山未來さん。この若者は怒りを押さえ込んで、理知的であろうとするという、通常とは逆の設定。中年刑事はその若者の理知の欺瞞を見抜き、怒りであばいていく。その身も蓋もない様は、強烈に後味が悪かった。さすがNHK名古屋。

 この2つのドラマ。どちらにしても怒りが軸になっています。そして、どちらの主人公も「おこり方」が普段から身に付いている。この部分で言えば、「おこり方」が上手であるとも言えるし、この怒り方は怖い。その怖さは、前回のエントリで書いた「おこり方」がヘタな人の独特の怖さと同質です。これは、「おこる」という行為にかけるものの重みの違いなのかもしれません。

 そして、この2つのドラマに出てくる「おこり方」がヘタな人は、そのために、大切な何かを先送りしている人として描かれ、やがて怒る人へと変わっていく。怒る人は、その展開の予言者として描かれています。

 自分の日常のきっかけとしては、まわりには結構「おこる」という表現方法で安易に自分の要求を通してしまう人たちがいて、簡単に言えば、めんどくさいなあ、ということでその人の要求が通ってしまう組織的な現実があり(ゴネ勝ちを許す組織ですね)、その中で、これはもう、自分の問題として、というか人生の問題として、めんどうだからやりすごしてばかりもいられない、相手は気軽な保身でも、こっちは人生の問題なんだよ、という差し迫った思いがあり(結局はこれも「自分のもの」を侵害されるという動機の部分では同じ)、だけど、私は、そういう「おこる」人で「おこる」という対応が非常に苦手。

 もしかすると、これはもう、本当の怒りを表現してしまうんじゃなかろうかという不安もベースにあるかも。そうなったとき、失うものはかなり多く、それがたとえ納得いかないものであっても、なんとかそれだけは避けなければならないだろう、という葛藤みたいなのがありますね。まあ、大人であればよくあることかもしれないけれど。

 この安易な「おこり」は、組織というか正義というか個人以外のバックボーンがもとになっているので、対抗するには別の「おこり」でしかありえないし、それはあっけないほどに有効な気がします。それがドラマに描かれる「怒らなければ舐められる」というヤクザの生きる世界であり、その中での最も美しい倫理性が「任侠」と呼ばれるものであるのでしょう。その中の「おこり方」が苦手な最強のアイコンが、高倉健さんのような気がします。きっと、任侠の世界で、「任侠」という倫理に忠実に生きながら、それでも最後まで組織ではなく個を背負い、個に対し、ぎりぎりまで耐える姿に共感するのでしょう。

 あくまで個人的には、やはり「怒らなければ舐められる」という世界がすごく苦手で、そういう安易な「おこり」が普段のコミュニケーションの手段になっている世界では、不自然でも怖い人を演じなければならなくて面倒だし、苦労もするけれど、そういう意識から見て、その環境下において自分と同じような「おこり方」が苦手な人に対しては、普通の顔をしている自分の中にある強烈な怒りを余計に見ているわけで、それは、その人が置かれている状況を分析することで相手に憎悪を向けることなくかわせる「おこる」人に対する恐怖よりも、じつはもっと本質的な恐怖でもあるのだろうと思います。

 そして、その意識から逃れるためには、安易な「おこり」が普段のコミュニケーションの手段になっている世界を自分の中で無効化もしくは無意味化するしかなく、それが完璧にできるかというとそうでもない気がしますし、究極的には、どうしてもバランス論になるのだろうと思います。

 ほとんどの人が言葉にはしないし、私自身、こういうことは自分に負の感情との葛藤状態のときにしか考えはしないけれど、対人恐怖とか対人緊張の本質というのは、少し哲学的に言えばこういうことであるのかもしれません。

 怒りの問題というか、負の感情の問題っていうのは、ちょっと自分でも抱えきれないくらいやっかいなものなのかもしれないな、と、このふたつのドラマを見て思いました。とはいえ、どちらも、結構楽しいドラマなのでおすすめです。まだシリーズは続きますので、気になる方はぜひ見てください。面白いです。

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2009年7月24日 (金)

おこり方がわからない

 いがらしみきおさんの「ぼのぼの」という漫画に、こんな話があります。最初のコマが、困っているぼのぼの君、その次のコマがおこっているぼのぼの君。ほとんど違わないんですね。よくよく見ると、肩がちょっとすぼんでいるのですが、みんなにはわからない、そんな話。「ぼのぼの」2巻に入っています。

 この話の扉には、ポエムのような言葉が添えられています。

ボクはおこるのがヘタだ
ボクはおこるのがヘタだ
おこるっていうのは
みんなに『自分のモノ』を
教えたがることだって
スナドリネコさんが
言ってたけど
ボクは『自分のモノ』って
なんなのかわからないから
ボクはおこるのがヘタなんだと思う
ヘタなんだと思うったら

 私は、ぼのぼの君ほどピュアでもないし、歳をとることで汚れちゃったなあ、みたいな部分もたくさん持っている大人ですけど、それでも、なんとなくぼのぼの君の気持ちはわかります。おこり方がよくわからないし、おこり方がわからないから、おこっていてもそれが相手に伝わらない。で、同じ相手なのに、何度も何度もおこりたくなる場面に出くわすことになります。

 いい感じでおこることができたら、こういうことはおこるんだな、と思ってくれて、その後の関係がいい感じになるんじゃないかな、なんてことを思うけど、でも、やっぱり私はおこり方がわからない。頭の中ではおこってはいるんですけど、なんか耐えるみたいなことになってしまします。

 そんなことが繰り返されるうちに、ああ、この人とはこれ以上はいい関係は持てないだろうな、なんてさめた気持ちでやりすごすことになります。ちょっとさみしい人間かもな、と思うけれど、大人だし、ニコニコ笑ってやりすごしておこう、なんてことになります。別に関係を絶つわけではないけれど、これ以上は求めてもしょうがないな、みたいな感じ。これは、嫌いっていう感情ではないんですが。

 なんとなく、そういうのって、まだ嫌いな人に対する感情のほうがいいのだろうな、なんて思うこともあります。私も人間だから、嫌いな人はいるし、そういう人とのは敬して遠ざかるという感じで対しています。でも、そんな嫌いな人よりも、おこりたくて、おこれなくて、やりすごす関係っていうのはどうなのかな、なんて思うんですね。さみしいけど、そういう人との関係は、どこかで終わりを見ながら付き合っているんです。

 熱血漢の人から見ると、最低なやつなんて言われそうな気もしますが、そういう感覚の人は、きっと多いのではないかな、なんて思うんですね。吉田戦車さんの「火星田マチ子」という漫画には、こんな台詞が出てきます。ちょっと不正確かもしれませんが。

あいつを殴ってやる。殴り合って仲直りしてやる。

 ああ、吉田戦車さんもきっとおこり方がわからない人なんだろうな、と思います。そういう熱血漢に少し憧れもあるのでしょうね。私にも少しあります。きっと「自分のもの」という主張が、わがままであろうと、自分勝手であろうと、素直に出せる人がいて、そういう人が苦手で、それは心の中で、自分の「自分のもの」を侵害される気になるけれども、そういう感情が苦手だから、おこり方がわからないということなんでしょうね。

 私が、この人は好きだなあ、と思う人は、ほぼすべて、おこり方がわからない人のような気がします。じつは、おこり方が上手な人よりも、おこり方がわからない人のほうが、私は怖いです。おこり方が上手な人は、困ったなあと思うけれど、怖くない。でも、この、怖い、という感情は、好きと同じ意味なんでしょうね。

 なんとなく、もう、いかにニコニコやりすごすか、という関係に一生懸命になるよりも、好きだなあ、怖いなあ、と思う人との関係に一生懸命になるほうがいいのだろうな、と思ってきています。会社では、というか、サラリーマンのスキルとしては、そういうニコニコやりすごす術は重要だったりもすると思うんですが、こういうのをこれ以上上手くなっても、なんかいいことないような気もするし、これまでで、それなりに上手くなったし。もういいんだろうな、って。それに、上手なおこり方を習得するのは私には無理だと思うし。

 これは、自分としては、ちょっとした決意だったり、考え方の転換だったりします。それほど大げさなものではないけれど。好きな人への怖さっていう感情があって、その怖さは敬意であったりもするんですが、おこり方がわからなさそうなあの人にもこの人にもその感情があるというのが、少しわかってきました。心機一転、これからは、怖いという気持ちを乗り越えて、おこり方がわからなさそうないろんな人に一生懸命になりたいな、と思っています。

 続篇として:自分で書いておいてなんですが

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2009年7月22日 (水)

毎日書く人はそれだけでなんかもうあれなんですよね

R0010016

※ちなみに、写真は本文に関係ありません。載せてみたかっただけです。ごめんなさい。

 私はブログの更新頻度は高い方だと思います。知人には「毎日よくあんなに書くことあるよなあ」なんて言われます。しかも、私の場合は結構長文だったりもします。これまた知人には「どうでもいいけど、文章長げーよ」と言われたりもします。でも仕事ではまったく逆で、できるだけ短く書くことに命をかけてます。嘘です。命はかけてません。言いすぎでした。

 でもまあ、広告では短い文章が要求されるのは事実でして、後輩が書いてきたコピーなんかでも、

 「もうちょいさあ、これ、短く、ね、ならんかね、えーっと、この部分、うん、ここ、この部分、全体の中で必要かな、ね、必要ないよね、いらないよね、これカットしてね、あっ、これも、こうこうこういうふうに短くなるよね、ね、ね、それとね、こういうのは、結論からね、書いたほうがね、いいんだよね、読む人に親切だったり、ね、するでしょ、ね、そのへんを考えてね、もう一度書き直してみて」

 なんてことをやっているわけで、そういう後輩がこのブログを見ると、

「先輩、言ってることとやってることがぜんぜん違いますやん」

 というふうになるのですが、といっても私の職場は関西にはないので、こんなふうに後輩は話しませんが、まあ、そんな感じですので、逆にブログでは、今書いているみたいに無駄に長く書いてみたりしてしまうんです。そもそも、ブログの良さというか、ネットの良さって、字数制限のないところだと思いますし、そもそも、こんなふうな無駄に長い文章を書いていると、なんとなく気持ちよかったりするんですよね。

 そんな更新頻度が高くて文章が長い私も、毎日は書けません。ブログをはじめた時は毎日書こうとは思ってはいたのですが、やっぱり無理だよなあ、無理、無理、なんてことになってしまいました。

 毎日書くというのは、それだけですごいことだと思います。吉本隆明さんも「10年間、毎日やり続けると誰でも一人前になれる」と言ってますが、毎日欠かさず続けることは、それだけでたいしたもんだと思うんです。それは、やろうとしてやれなかったからこそ、すごく思います。やっぱり、毎日、仕事をしていると書けないことだってあるし、なんて言い訳をしてしまうんです。人間ってやつは。

 広大なネット、といっても、私の観測範囲は日本語文化圏だけで、しかもかなり偏っているとは思いますが、そのネットの中には、毎日書かさずに書く人が5人ほどいて、その人たちの言葉を見るたびに、もうなんか、俺って駄目だよなあ、なんて思ってしまうんですよね。(しかし、こういうときだけ俺という一人称を使ってしまうのはどうしてなんでしょうね。)

 もちろん、この話は誰にでも当てはまるものでもないし、個人メディアを長く続けるためには、自然体でやるのがいちばんだとは思うんですが、こういう毎日欠かさず続けることに価値を見いだしてしまったからには、これはもう、それを実践している方々には、無条件で「すごいもんだよなあ」と思ってしまいます。

 で、こうして書いてみて思うのは、前半の広告現場で短くしろとディレクションするくだりは、本文の主題とは関係ないよな、ということだったりもするんですが、こういう無駄だらけの長文を書いてるとき、

「ああ、俺は自由だ。」

 という感じになるんですなあ。不思議なもんです。職業病なんでしょうか。

 まあ、このエントリの要約をすると、「なんだか疲れて今日はからっぽだけど、寝る前になんか書きたいから書きました」だったりしそうな感じもしますが、そろそろ眠くなってきましたので、もう寝ます。ではでは。

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2009年7月21日 (火)

「広告」の定義

 自分なりの「広告」の定義をきちんとしとかなきゃな、というのがこのブログにおける広告系エントリーの主題でもあります。「広告」という言葉は、一般化された普通の言葉ですから、いろんな人がいろんな意味合いで使用します。

 それはそれでいいと思いますが、少なくとも私が「広告」について考えるときに、自分なりの「広告」についての定義をしっかり持っておかなければ考えがぶれますし、自分の都合で意味を変幻させてしまいがちになるので、その整理は私にとっては結構重要だったりもします。

 「広告」って、時代によって意味も変化するんじゃないですか?

 という意見もわかります。でも、私としては、そういう時代によって変化していく表層の部分ではなく、もっと深層の、より本質に近い部分で「広告」という言葉を定義したいのです。そうじゃないと、いろいろ見誤ってしまうと思いますし、社会やメディアの変化で変わる「広告」に“共通する何か”をつかまえておきたいのです。

 ●    ●

 簡単に「広告」という言葉の辞書的な定義を見ていきます。まずは国語辞典から。

こう‐こく【広告】

〔名〕スル
1 広く世間一般に告げ知らせること。
2 商業上の目的で、商品やサービス、事業などの情報を積極的に世間に広く宣伝すること。また、そのための文書や放送など。
「—を載せる」「新製品を—する」「募集—」
「大辞泉」より引用

 でも日本語の「広告」という言葉は、日本語としては比較的新しい言葉ですから、あまり意味のないことかもしれません。よれよりも、英語のadevertisingの元である、adevertiseの辞書的な意味を紐解く方がいいでしょうね。

advertise

動詞 他動詞
1[III 名詞]〈製品イベントなどを〉(新聞ラジオなどで)広告する, 宣伝する;[V名詞as名詞]…が(…であると)広告する;[III that節]〈…であると〉宣伝する
advertise their products widely|製品を広く宣伝する
advertise a child as lost|迷子の広告を出す
deodorants he had seen advertised on television [in a newspaper]|テレビ[新聞]の宣伝で見て知っていた脱臭剤.
2 〈性格本性などを〉如実に表す, 物語る.
3 …を公にする, 公表する, わざと目につくようにする, 宣伝する
There is no need to advertise the fact that ...|…ということを世間に喧伝(けんでん)するには及ばない.
4 [IV 名詞 that節]〈人に〉…と知らせる, 通知する.
━━自動詞
1[I 副詞](求人求職などの)広告をする, 募集広告を出す for ...;(テレビ新聞などで)宣伝する on, in ...
advertise for a secretary|秘書の求人広告を出す.
2 自己宣伝をする
He advertises so much.|彼は大いに自己宣伝をしている.
[中フランス語←ラテン語advertere(ad-へ+vertere向ける). 原義は「警告する」で「広告する」はこの意味が強化されたもの.  ADVERSE, AVERT, INTROVERT, INVERT, DEVERT, CONTROVERSY]
「プログレッシブ英和辞典」から引用

 意味は国語辞典と同じく、現代で使われる意味が書いてありますが、ここで重要なのは、いちばん下の部分。再度引用します。

[中フランス語←ラテン語advertere(ad-へ+vertere向ける). 原義は「警告する」で「広告する」はこの意味が強化されたもの.  ADVERSE, AVERT, INTROVERT, INVERT, DEVERT, CONTROVERSY]

 つまり、「警告する」の意味が強化され「広告する」という意味に転じたものがadvertiseであるということです。また、その成り立ちは「ラテン語advertere(ad-へ+vertere向ける)」ということです。「人をこちらに向ける=人を振り向かせる」というのが、もともとのラテン語のadvertereの持つ意味であるようです。

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 ここから言えることは、「広告」とは「人を振り向かせる」行為であるということです。逆に言えば、「広告」が対象とする人は、まだ「振り向いていない人」であることです。つまり、「まだ知らない人に気づかせてこちらに振り向かせ、話を聞いてもらう行為」が「広告」と言えそうです。

 これは、私が今まで使ってきた「広告」という言葉の感覚にも合致します。それと、やはり「広告=advertising」という言葉の根っこはやはりそこだったのか、というちょっとした驚きもありました。

 この部分を追いつめると、つまり「広告」という行為が対象とする人は「そのことについて、未だ知らないし、知りたいとも思っていない」人であるということが言えるのではないかと思います。極論を言えば(あくまで極論なので、一般的な「広告」の定義を妨げる意図はありませんが)、カタログや企業(商品)ウェブサイトなどの「知りたいと思っている」人に向けての訴求手段における表現の方法論は、「広告」のそれとは少し違う部分での方法論であることが言えるのではないかと思います。

 広告の現場で「広告」というとき、新聞広告やテレビCMなどのマス広告を指して言う場合が多かったように思います。そこに一分の真実があるとすすれば、この部分でしょう。そして、メディアの変化とともに激変している今でも、この「まだ知らない人に気づかせてこちらに振り向かせ、話を聞いてもらう行為」が「広告」であるという一点だけは変わらないだろうと思います。

 私がこのブログでよく使ってきた定義では「広告の本質は受動性にある」ということでもあるかと思います。受動的な態度で見る情報、それが「広告」というもの。その定義に合致するあらゆる情報発信は、つまり「広告」です。そして、旧来の「広告」の形式に似ていようとも、そうでない情報発信については「広告」ではない。極論で言えば、そういうことになります。

広告=advertising
まだ知らない人に気づかせてこちらに振り向かせ、話を聞いてもらう行為
受動的な態度で見る情報

 ●    ●

 インターネットは、「知りたいと思っている人」が検索して知ることに特化して発展してきたように思います。それは、インフラとしてのインターネットのテクノロジーの性格上、当然です。そのために、あらゆるテクノロジーが用意されてきました。

 しかしながら、そのテクノロジーは「広告」についてのテクノロジーではありません。膨大な「情報」に「知りたい人」が容易く辿りつけるようにするためのテクノロジーです。そして、これまでの旧来メディアの発展もまた、その発展そのものは、「広告」を支える環境の発展であり、そのこと自体が「広告」の進化とは、本質的な意味合いにおいては無関係なものである、という言い方もできるだろうと思います。

 そう考えたとき、やはり「広告」の問題というのは、最終的には「表現」の問題であると言えるかもしれません。その「表現」のテクノロジーは、絶えず、環境にあわせて考えられるべきものです。なぜなら、「表現」とは、ある任意の状況下で誰かに何かを伝えることであり、本来、どの媒体で、どの状況で、というものは「広告」の成立要件ではなく、その条件に過ぎないのですから。

 

          ■関連エントリ

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2009年7月20日 (月)

いろいろ試し撮り 2

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なぜか壁際に背の低い信号機。7月6日のリベンジです。

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普段なにげに見ているものも、切り取るといい感じ。

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マクロで撮影しました。

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サクサクなんでもスナップできるところは
デジタルカメラの良さですねえ。
GR DIGITAL Ⅱは思ったよりも簡単に撮影できて
初心者の方にもおすすめできるかな、と思いました。
慣れてきたらきたで後々も楽しめるしいいかもですよ。

3連休はいかがでしたか。
私はひさびさにゆっくりできました。
ではでは。

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2009年7月19日 (日)

いろいろ試し撮り

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朝。中野の空。

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夕方。中野の空。高円寺側。

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新宿側には虹。
こういうのは肉眼のほうが感動しますね。
ほんとは、もっと大きくて鮮やかでした。
見た方はラッキーだったかもですね。

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2009年7月18日 (土)

「だから無理」ではなくてさ ージャズという音楽の精神ー

 アフリカ系アメリカ人たちの音楽感覚とヨーロッパの伝統的な音楽理論が融合してジャズという音楽が生まれた、というのはジャズを語る時の現代に生きるぼくらの常套句だったりします。でも、そんな言葉からイメージできる、なんか偉い音楽家が、机の上でアフリカ的な音楽理論と西洋音楽理論をこねくり回して、「おっ、これは新しい、これをジャズと名付けよう」みたいなことでは当然ありません。

 アフリカから連れてこられたアフリカ人たちの体に染み込んだ音楽感覚は、もともとイギリス人だったりしたヨーロッパ系アメリカ人とは当然違っています。日本人だってそうですよね。日本の音階は「よな抜き(ハ長調だとファとシがない5音階)」だし。だから、鼻歌なんかも当然違うわけです。そんな鼻歌を歌う彼らのまわりにピアノとかギターのような西洋音楽をルーツとする楽器が転がっていて、で、転がっていて、それしかなければ、当然彼らは使うわけで、その西洋音楽を奏でるために作られた楽器でなんとか自分たちの音楽感覚を表現しようとしてできたのがジャズなんだろうと思います。

 最初は、ジャズなんて名前は付いていなくて、彼らはただ自分たちの音楽を、それを表現するにはちょっと不出来な楽器を使って楽しんでいにすぎないわけで、けれども、その不出来な楽器は、西洋音楽を表現するには完璧な楽器だったりして、自分たちの音楽感覚に西洋的なものをどんどん取り入れていったりしたんだろうな、と思うんですね。やってみると、どんどん新しい音楽が生まれてくるぜ、というような感じで。当然、彼らにとってみれば、自分たちの奏でる音楽は、彼らの音楽感覚にとっては邪道だったりもしたのでしょうが、それよりも、今、新しい音楽がどんどん生まれてくるということのほうが刺激的だったんだろうな、と想像します。

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 彼らのまわりに、彼らにとってはなんとも不完全な楽器がそこになければ、彼らの体に染み付いている音階は「ブルーノート」とは名付けられなかっただろうし、その音階の理論化から生まれた現代のジャズの音楽理論は生まれなかったはずで、そのジャズの音楽理論なしに現代音楽というものは事実上考えられないわけで、ジャズの歴史っていうのはたかだか100年そこそこに過ぎないのだけれど、彼らには感謝しても感謝しきれないものがあるなあ、と思います。

 ちなみに、彼らがネイティブで持っていた音階は、西洋音階では割り切れないものでした。その曖昧な部分を切り捨てて、西洋伝統の楽器が奏でる音階に翻訳されて、無理矢理あてはめていったのが「ブルーノート」であり、ジャズです。日本の今の演歌だって、日本古来の音階を西洋音楽にあてはめた結果。西洋のクラシック音楽にしても、ピアノという楽器の出現により、調律的には割り切りがあると言います。

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 不完全なものだけど、その不完全さを逆手にとって新しいものを生み出していくという方法論は、その後のジャズの進化を性格付けていきます。ニューオリンズで生まれたジャズは、弦楽器とピアノによるリズムと管楽器のメロディという編成のデキシーランドジャズという形式を生み出し、やがて、商業的に発展し、どんどん編成が大きくなり、ビッグバンドが主流になります。いわゆるスィングジャズです。練り込まれたアレンジで、音楽的に成熟していくのですが、そんななか、その成熟したスウィングジャズの音楽性に負けない音楽性を、小さな箱でも実現したいと願う若い音楽家によって、ビバップが生まれます。

 チャーリー・パーカーは、小さな編成でスウィングジャズに負けない音楽性を実現するために、二つの要素を新しく加えました。それは、速度と即興。大きな箱も使えない、大きな編成もできない。だから無理、じゃなくて、だったら速度と即興で勝負する。そんなスピリットが、とってもジャズだなあと思います。

 速度と即興で、お金のかかったビッグバンドによるスィングジャズに勝負を挑んだビバップでしたが、そこでもまた、パーカーに負けてたまるか、という若者がでてくるんですよね。天才的な演奏力を持つパーカーやバドがやったことは、スウィングジャズで生まれた正統的なジャズメソッドに則って、それを早く演奏する、もしくは、自在に演奏するというものでしたが、その彼らが作った、超人的技法で勝負するという道筋には俺は乗らねえよ、という感じで、マイルスは「クールの誕生」とか言って、テンションを低くして極端に音数を減らしたり、旋律自体を変えてしまうモードジャズや、アンサンブルの規則性を無効化したフリージャズなんかが出てくるんですよね。その後は、ボサノバやらエレクトリックやら、なんやらかんやら。

 ●    ●

 ジャズがいいなと思うところは、「だから無理」っていう発想がないところかな。アフリカ系アメリカ人が、自分たちの体に染み込んだ音楽を表現したいけど、そこにあるのは不完全な楽器。だから無理、じゃなくて、それでやってみる、できなかったら、違う手を考えてみる、を選択する人たちの文化。それが、ジャズって言うこともできるんじゃいかな、なんて思います。

 ■関連エントリ

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2009年7月17日 (金)

なるほどなあ。カメラって楽器と似てるなあ。(いろいろ追記)

Lemontea_3

 フレットレスのジャズベを手にしても、ジャコのようには弾けないとことか。うん、似てる、似てる。すごく似てる。この感覚、何年ぶりだろ。そんな初夏の昼下がりのひととき。GR DIGITAL Ⅱで撮りました。

 追記:

 上の写真、なんだか歪んでいると思いませんか。微妙な構図の問題はさておき、グラスのパースが明らかに歪んでいて、それがなんか妙な感じに見えるんですよね。このエントリを見せて、写真に詳しいアートディレクターさんに私の疑問をぶつけてみました。

「なんかさ、グラスが歪んでいるんだよね。」

「ああ、それはしょうがないね。GRレンズって28mmじゃないですか。普通のデジカメより広角なわけ。普通に撮影するぶんにはまあ目立たないけれど、たとえば超広角の14mmなんかはレンズの特性上、必ず左右は歪むんですよね。それはそういうもんなんですよ。この写真は、マクロにしてるでしょ。マクロ撮影も近くのものにピントを合わせているから、歪みは必然。特に被写体が左にあるでしょ。だから、グラスは左側に引っ張られるように歪むのよ。」

「なるほどなあ。そういうことか。」

「ただ、広角レンズとマクロの組み合わせでつくることができる、背景のボケ足がうまくでているよねえ。いいんじゃないですか。」

「これはね、狙ってやったのよ。」

「嘘付け!」

 とのことでした。

 じつは、このあと、夜景にも挑戦していて、何枚か撮影した中でいちばんまともなのが、これ。

Yakei_2

 それでも、なんかピントが合ってない感じがしますよね。どことなくピンボケ気味。昼間だとそうでもないのに、夜だとなぜかピントが合わない。夜景はピンボケするというのは知ってはいたのですが、それは夜だから手元が不安定だからと思っていて、けっこう頑張って固定して撮影したのですが、駄目でした。これも、聞いてみました。

「やっぱりへたくそだからかなあ。」

「いやいや、それは夜だからだよ。夜は光が少ないじゃないですか。カメラはレンズに光を取り込むことで、絵を定着するわけ。夜は光が少ないから、なかなか光を取り込めないよね。」

「ああ、そうだね。」

「で、光を取り込めないでシャッターを切ると、絵は真っ暗。それを避けるため、光を十分に取り込みましたよ、というタイミングまで待って、カメラはシャッターを落とすんです。そうなってるの。だから、押してもなかなかシャッターの音がしなかったでしょ。」

「あっ、そういえば、そんな気が。」

「たとえば1秒間、手がぶれないようにするのって、誰でも難しいよね。」

「そうだねえ。」

「だからぶれるの。夜は三脚を使うか、オートでシャッターが落ちるようにするか、カメラの設定を変えるか、そういうことをしないと難しいんだよね。設定はまあ追々わかってくるんじゃないかな。」

「なるほどねえ。カメラって奥深いね。」

「いえいえ、これ初歩の初歩ですから。」

「嗚呼。」

 なんか、ギターを弾き始めの、コードとかアルペジオ奏法とかを知った時の感覚です。やっぱり、カメラは楽器に似てますねえ。

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2009年7月16日 (木)

自分会議。今回の課題は「GR DIGITAL Ⅱ」です。

Gr_2 というわけで買っちゃったのであります。前回の自分会議での検討の結果、初志貫徹でGR DIGITAL Ⅱにしました。 うれしはずかし、という気分です。別売りのファインダーまで購入し、やる気満々な風情ではありますが、使い方がよくわからず。なので、写真は、またしてもWILLCOM 03で撮影したへなちょこ写真でございます(しかも、クリックで拡大できたりもします)。

 それでは、自分会議第2弾の実況中継、はじまりまじまり。

 

「しかしまあ、ほんとに買っちゃいましたね。」

「買っちゃいましたねえ。」

「amazonで買ったんだよね。」

「まあねえ、カメラ屋さんでカメラを知った風にいろいろ聞くのが辛かったからねえ。」

「我ながら自意識過剰だねえ。」

「店員さんに聞くと、違うのを薦められると思ってさ。」

「さらに自意識が捻れてるねえ。」

「まあいいじゃない。そこ突っ込んで考えると落ち込むからさあ。」

「ところで、これからどうするの。」

「買っちゃたんだから、使うでしょ。」

「そりゃそうだけど、その使い方よ。」

「とりあえず空でも撮るかなあ。」 Nakanonosora_4_3

「空ですか。」

「やっぱり、ありがち?」

「いや、いいんじゃないですか、撮りたければ。」

「何よ、そのamazonみたいな含み笑いは。」

「いえいえ、別に。」

「あっ、それ、やっぱりありがちだと思ってるだろ。」

「思ってないって。」

「いや、思ってるね。絶対、思ってる。」

「思ってないって。」

「いやいや、その顔は思ってる顔。Smile_2あんたとはもう42年の付き合いだから、顔つきひとつで心がわかるんだよ。人がせっかくいい気分になってるのに。」

「ごめんごめん、そこも突っ込むのやめよ。落ち込むなよ。」

「落ち込んでなんかないです。どうせ、私はカメラは素人ですよ。」

「もう、拗ねるなよ。大人げない。」

「だから、拗ねてないって。」

「ややこしい奴だなあ。」

 

 という感じで、今回の自分会議は不調に終わりました。

 とは言いつつも、ほんとは結構うれしいです。なにせ、私にとってはかれこれ7年ぶりのデジカメですものね。GRにしたのは、コンパクトデジカメにしては、露出とか、絞りとか、シャッタースピードとか、写真の基礎的な部分をいろいろ勉強できそうだなと思ったところがあります。せっかくなので、一からいろいろやろうかな、と。幸い何も知らないんだし。

 まあ、クリエイティブディレクターでもあるので本来は写真のことを詳しくわかっていないといけないんでしょうが、撮影はフォトグラファーとアートディレクターという専門職にお願いするから、こちらはそういう専門的な部分ではなくて素人の目線で、みたいな感じになる部分もあるんですね。「なぜかはわからないけれど、いい写真ですね。」とか「なんとなく、もっと浅い感じの写真がいいなあ。」とか。

 今回は、そういう職業的な部分ではなくて、単純に「生活を楽しむ」みたいな、私としては久しぶりの感覚でカメラがほしくなったので、自分としては、おっ珍しいな、いいじゃん、なんて思っていて、購入までのあれこれは、とっても楽しかったです。

 今度は、勇気を出して、GR DIGITAL Ⅱで撮影した空でもアップしてみますかね。みなさんも、よい写真ライフを、なんてね。ではでは。

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2009年7月15日 (水)

[書評]『「買う気」の法則 広告崩壊時代のマーケティング戦略』山本直人(アスキー新書)

 仕事の発注があって、営業、マーケ、クリ、SPなどのメンバーが集められ、ああだこうだと会議を重ねて、でも結局、なんだかんだ話しても結論が出ず、さて、分科会だということで、それぞれ考えるみたいなことになり、もう一度集まって、「どう?考えた?」なんてこと言いながら、途中までできたマーケが作ったパワポ企画書を見ると、そこには「AISASとは」と紙のまん中に大きな文字でレイアウトされてて、そこから10ページほど説明が続く、みたいな。まあ、そこまで我々広告会社は馬鹿じゃないし、きちんとものも考えている気もするけど、わりとそれに近いものは、確かにあります。

 ちなみに、「AISAS」というのは、AIDOMAの法則という古典的モデルから発展させた広告効果モデル。電通の登録商標でもあります。知っている人は多いかと思いますが、一応。

AIDOMA
Attention=認知
Interest=関心
Desire=欲求
Memory=記憶
Action=購入

AISAS
Attention=認知
Interest=情報検索
Search=情報収集
Action=購入
Share=情報共有

 あきらかにネットを意識した広告効果モデルである「AISAS」は一世風靡しましたが、ブログ「広告って、なに?」でおなじみの山本直人さんの新しい著作『「買う気」の法則 広告崩壊時代のマーケティング戦略』(アスキー新書)では、こう書かれています。(山本さん及びアスキー・メディアワークスの渡部さん、献本ありがとうございました。)

 さて、このAIDOMAからAISASという話は大変わかりやすいのだけれど、個人的には「アレレ?」と思った。というのも私が広告会社の在籍時に「AIDOMA」というモデルは、ほとんど使われなかったからである。(P124)

 この感覚は、私にもあって、きっとAIDOMA、AISASは、購入もしくは情報共有という成果から逆算して心理を追っている部分があって、そもそものはじまりである「認知」に至る部分をあえて考えないようにしているところがあるからです。この「認知」に至るには、柄谷行人さんの言葉を借りると、そこにはその大小にかかわらず、必ず「命懸けの飛躍」があって、そこの部分をああだこうだするのが、我々広告人、というかクリエイティブの最初の仕事だと、他の人は知りませんが、とりあえず私は思っていたりします。(とは言いつつ、AISASは、広告効果の過程をうまく語れていて、それなりの成果も出しているとは思いますが。)

 その部分は、山本さんの言葉を借りれば、購買決定モデルで言うところの「問題意識=Problem recongnition」であるだろうし、消費者の心理的な部分に着目すれば「インサイト」だったりするわけですが、そういう「認知」を実現する初期条件に着目して、現代のクロスメディアにおける戦略(私的には戦術かな)の指南をするチャートが、山本さん考案の「ABCDモデル」です。

 「ABCDモデル」の詳細は本書のいちばんの肝だと思いますので、まずは著作を読んでいただくとして、X軸を「購買時の慎重度」とし、Y軸を「長期関与者の存在」としているところが新しく、戦術決定においては、わりとこれで解ける問題もあるんじゃないかな、と思いました。ただ、やはりそれでも思うのは、それぞれのメディアが持つボリュームの問題があって、そのジレンマはまだまだあるかもなあという感想は持ちました。

 この「ABCDモデル」は山本さん自身が「ヤマモト・グリッド」と命名しようか躊躇した、と書かれていましたが、私は、今度、企画書で使う時は「ヤマモト・グリッド」と紹介しますので、山本さん、よろしくです。

 他にも、広告について、いろいろ刺激的な示唆があり、特に「事業主」の方で広告を担当している方は読むと面白いと思います。でも、本当は反発はあるかもですが、こういう本は広告会社の人が読んでおくほうがいいんだろうな、と思いますけどね。USP=Unique Selling Proposition)の部分とか、What to sayとHow to sayの部分とかについては、必ずしも私とは考えが同じわけではないし※、とりあえず戦略の部分に限定しても、やはり広告会社みたいな「外部性」は必要な部分はあると思いますし、たとえ中の人であっても、いかに中で「外部性」を持っていられるかというのが勝負になるとも思います。これは、企画を担当する人の宿命みたいなものかもしれませんね。同じような問題意識を持つ広告人として、いろいろこの本から自分の考えをあらためて批判的に検証し直す部分も多々ありました。

 違いの部分は、私が外資カルチャーの人間だから、ということと、私のコアの部分をクリエイティブにおいている、みたいなところがあるんでしょうね。個人的には、経歴的には私と山本さんが逆のキャリアの進み方をしていて、にもかかわらず、同じ時代で同じ課題を共有し、それぞれの解が似ているようで違うという部分が、非常に面白く、かつ、非常に刺激的でした。

 

 USPについては、1960年代にロッサー・リーブスが考案し、その後、ベイツという広告会社が提唱し実践。「お口で溶けて手で溶けない。M&M'sチョコレート」みたいな成功例を示したけれど(参照)、その後、USPはその理論の限界性みたいなものを指摘されていますし、本家のベイツは本国では解散し、そこから発展させたSMP=Single Minded Propositionを提唱したサーチ&サーチは、SMPを捨ててしまうことになります。でも、本書が言うUSPは、マーケティングの基礎としての、もっと基本的な部分のオリエンの意味でしょうけど。

 また、How to say、What to sayについては、昔、外資系を中心にプランニングと定着の分離で「クリエイティブが思い切り遊べる砂場」理論とかがありましたが、どうもうまくいったとは言い難く、コミュニケーションデザインの潮流から言っても、それは不可分なのではないかという思いが私にはあります。

 では、山本さんの著作のテーマでもある、事業主と広告会社の関係はどうなるかというと、結論的には山本さんと同じような感じになります。というか、もっと過激なことを考えてしまっているかもです。お互いにリスクを負った関係がベストなんでしょうね。それには、我々専業広告人だけでなく、きっと「事業主」側も「変わらなきゃ。」がいるんでしょうね。

 このブログで著作を知った方、山本さんのブログの関連エントリ「まもなく、新刊。」もあわせてどうぞ。

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2009年7月14日 (火)

うちの妹的ネット観

 妹と話しているとネットの話になって、こんど「兄ちゃんのブログ読ませてえな」と言いよるから、「えっ、パソコン持ってないの?」と言うと、自信満々に「そんなもの必要ないがな」と言いよったんです。「せやけど、ネットないと困るやろ。」と言うと、「ケータイあるし」と。

 「ほんじゃ、ケータイでミクシィとかグリーとかモバゲー!とかやってんの?」
 「ああいうの、あかんねん。」
 「なんでえな、おもろそうやで。」
 「あかんて、怖い。」
 「何が怖いねん。」
 「書き込み、怖い。」
 「おまえ、社交的やのに。」
 「怖いて。顔しらんねんで。」

 まあ、そんな考え方もあるなあ。ちなみにうちの妹は、大阪の梅田でショットバーをやってて、明るくて、誰とでも気さくにしゃべれて、まさに「口から生まれたんか」というタイプ。ネットサービスは、コミュサービスもEコマもまったく使わないけれど、メールはヘビーユーザで、関西のいろんな芸人さんやミュージシャンと一緒に撮った写メールをたくさん見せてくれたりしよるんですが。

 「それより、ブログで何書いてるの?」
 「いろいろ。広告のこととか。」
 「なんかむずかしそうやな。」
 「そうでもないで。」
 「ふーん。」

 私のMacBookでブログを見せたりしてみたんですが、このあたりから、あきらかに私のブログの興味を失ってきているようで。

 「人気あんのん?」
 「それはわからんけど。」
 「いままで何人くらい見に来たん?」
 「えーっと、これくらいかな。」

 とアクセス解析画面を見せると、目の色が変わって、

 「なあ、今度うちのショットバーのこと、ブログに書いてえなあ。」

 だって。わかりやすいやっちゃなあ。「兄ちゃん、広告つくってんねんから、簡単やろ。」って、このブログはそういうのんとちゃうねん、それに、ここにあるのPVというのはページビューといって、見た目ほどの影響もないし、みたいな説明をするのもじゃまくさく。

 梅田の阪急東通り入り口近くにある「TRASH」というショットバー。小さくて、気さくなお店です。ソウルとかがかかってます。当然、ウェブサイトはございません。ブログに書いてくださっている方(参照)もいらっしゃいますね。このブログを見たで、と言っても、なんのサービスもなさそうな気がしますが、興味のある方はぜひぜひ。

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2009年7月12日 (日)

「いい加減」の難しさ

 大阪では、いつも自炊。外食もなんだし、親父と二人だし、どっちもいい歳したおやじなので、簡単なものをチャッチャとつくります。小魚を焼いたり、あさりを蒸したり。今晩は、葱とごぼう天の卵とじ。おだしと味醂とお酒で少し煮て、卵をとじるだけ。で、出来上がりを食べると、少し甘かった、というか、親父曰く、かなり甘かった。

 材料は目分量だから、そのたび味が違います。でもまあ、いつもはそれなりに食えるので、きっと今日は味醂が多すぎたのでしょうね。レシピを見ながらきっちりやれば、まあそこそこのものは作れるけれど、そこまでの気合いもなく、いつも勘でやります。勘どころがわかってないのに勘でやると、こういうことになります。

 料理に慣れた人なら、味醂はこのくらいでこんな味、というのが頭に入っていたりするから、勘でやってもうまくいきます。慣れた人は、普段着の料理ではいちいち分量を量ったりはしないでしょう。つまり、「いい加減」というのがきちんとわかっていたりするんでしょうね。

 「いい加減な奴」というふうに使われる、いい加減という言葉ですが、「いい加減にしろ」というように限度を超えてふざけたりした時に使われることもあります。前者は「適当」がネガティブに、後者は「適当」がポジティブに使われています。

 料理でいえば、前者の意味で「いい加減」に作った料理はおいしくないけど、後者の意味で「いい加減」に作った料理は、その人らしい無二の料理にもなります。後者の意味でいえば、自分なりの「いい加減」は、誰かの「いい加減」を記したレシピっていうのがあって、それを真似しながら自分のものにしてはじめてできるものなのかもなあ、と思いました。

 いわゆるおふくろの味というのも、それぞれのおふくろさんたちの「いい加減」のなせる技でしょうし、ほんとは「いい加減」というのは素晴らしいものなのかもしれません。でも、今は、いい意味での「いい加減」を会得するのに欠かせない小さな失敗を許さない感じもあり、その人なりの「いい加減」をつくるのが難しい時代なのかもしれません。

 誰でもそれなりにうまくできる緻密なマニュアルもありますし、その枠内でやりなさいと求められる状況も多いように思います。そんな行動原理が支配する状況の中で、個性を発揮せよとも要求されたりもするけれど、じつは行動を支配するその原理は、原理的に個性を許さないような原理になっているわけだから、そこでの個性は意味のないかけ声にすぎないでしょう。

 でもねえ、そんな「いい加減」を許さない行動原理にも致命的な弱点があって、それはその行動原理の台本であるマニュアルが破綻するときなんですよね。マニュアル通りでは、どうにもうまくいかないとき、「いい加減」力がないとどうしようもなくなります。「いい加減」は大切、というのは、肩の力を抜いてやれ、という意味以上に、人が状況、あるいは世界で生きていくためには、絶対的に必要なものだからこそ大切ということなのだと思います。

 「いい加減」を捨てたら、人間のかわりに、マニュアル、つまりシステムが支配する世界になります。それは薄気味悪いよね、人間の疎外だよね、という感覚もありますが、その感覚を度外視して考えると、人間のかわりにシステムが支配する世界というのは、どこが問題かと言うと、それはきっと、システムがクラッシュする時なのだと思うのです。ちょっと大げさですが「いい加減」というものは、命懸けで守るべきものなのかもしれません。

 本気で考えれば、「いい加減」をきちん身につけるのは難しい。それなりに努力もいるし、小さな失敗もそれなりにしなくちゃいけない。努力はしんどいし、失敗はへこむ。だけど、人間というのはうまくできていて、そんなことが楽しいと思うようにできているようで、私は、その人間の本能みたいなものをちょっぴり信じています。

 なんか書いているうちに重くなってしまいました。この文章の半ばくらいでまとめておけば、休日のほのぼのコラムになっていたのに、ほんと「いい加減」というのは難しいもんですねえ。ではでは。

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2009年7月11日 (土)

30分の価値

 昨日の夜、東京駅の自動券売機で新幹線のチケットを買いました。発券されたチケットに印刷されている文字をよく見ると「ひかり」の文字。7月11日14時33分東京発の「ひかり」を購入してしまったんですね。新大阪までは「のぞみ」と「ひかり」では30分の差があります。みどりの窓口で替えてもらおうかな、と思って窓口を見るとけっこうな列ができていて、まあいいや、となりました。別に30分早く大阪に着いたからといって、どうってことないや、ということです。

 大阪に行く前に東京都議会選の不在者投票を済ませておこうと、区役所に行き、投票も終わり、さて中野駅に向かいますか、と時計を見ると、1時15分。これはちょっと早いよなあ、と思ったので、少し前の新幹線に替えようと、中野駅のみどりの窓口でチケットを変えてもらいました。今度は、もちろん「のぞみ」です。チケットを発券してもらって、清算。

 「のぞみとの差額300円、いただきます。」

 なるほどなあ。300円か。絶妙な価格設定だよなあ。少し感心。普段は、あまりチケットの値段を意識したことがなくて、「ひかり」と「のぞみ」の差は、東京から新大阪で2000円くらいかな、と思ってたんですね。よく考えると、それは少し高すぎるのでしょうけど、まあ、いつも「のぞみ」なので。

 大阪まで30分早く着く価値は、今のところ300円とされていて、これを高いと見るか安いと見るかは、ほんとその人次第なんでしょうね。私は、なんとなく300円節約のために「ひかり」に乗る選択はしないですね。勘違いしてた2000円ならどうか。ちょっと微妙。値段を知らなかったら「のぞみ」に乗り続けるでしょうけど、知ったら、これからは「ひかり」にするかもしれないなあ。

 新幹線で大阪に30分早く着く価値は、吉野家の牛丼の並盛りより80円安くて、牛丼に付ける生卵の6倍で、とん汁の2倍。新幹線の車内販売のホットコーヒーと等価です。ということは、「のぞみ」に乗ってホットコーヒーを我慢することと、「ひかり」に乗ってホットコーヒーを飲むことは、等価。これはまた絶妙だなあ。私はやっぱり、「のぞみ」に乗って、そのうえホットコーヒーを飲みたいけど。

 それよりも気になるのは、新幹線のホットコーヒーと吉野家のとん汁2杯は等価なんだよなあ。それは、ちょっと納得いかないかも。でもだからといって、新幹線の車内でとん汁はないけど。いや、もしかすると、それはありかも。おにぎりととん汁で500円。けっこう売れるかも。でも、1000円前後のお弁当が売れなくなるから駄目かもかも。うーん、どうなんでしょ。

 ま、ともあれ、「のぞみ」は順調に新大阪に向かっていて、あと1時間で私は大阪人。さあて、頭の中を大阪弁モードに切り替えなくちゃですね。ほな、さいなら。

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2009年7月10日 (金)

ビジネスはプロレスだ

 かどうかはわかりませんが、ビジネスの現場ではプロレスメタファが使われることが多いです。とりわけ、40代より上の人たちがよく使います。あっ、プロレスメタファというのは、私の造語で、要するにプロレス関連の喩えのこと。プロレスを知らない人にはさっぱり伝わりませんが、そんなところも隠語っぽくて、ビジネスでよく使われる理由かもしれませんね。

 てなことを書く私もプロレスはよく知りません。でも、プロレスメタファはよく使います。というか、使いこなしています。いっぱしのプロレスメタファリストです。プロレスをよく知らない若いビジネスマンは、このエントリを読んで勉強すれば、40代以上のプロレスメタファリストの上司から、あいつ話のわかるやつだな、なんて思われるかもしれませんね。思われて得をすることはあまりないかもしれませんが。
 

・しょっぱい試合ですみません

 プレゼンに勝ったには勝ったけれど、なんとなく媚びた企画で勝ったときによく使います。負けたときは、そんな戯れ言は言えなくなるので、あまり使われないようです。新日のSGタッグリーグ、スーパー・ストロングマシン・蝶野正洋組VS武藤敬司・馳浩組の試合途中でマシンと蝶野が仲違いし、マシンがマスクを脱ぎ平田淳嗣になり、マイクを握り「しょっぱい試合ですみません!」と客に謝罪した出来事が由来。ちなみに「しょっぱい」というのは相撲用語で「弱い」を表すそうです。
 

・この競合プレってブックがあるんでしょ
・俺たちはA社の咬ませ犬じゃない
・セメントをしかける(シュートをしかける)
・それがお前のやり方か

 競合プレゼンなんかで、あらかじめ勝つ会社はあそこだろ、と思えるような状況に置かれることがあります。そんなとき、言う台詞として「この競合プレってブックがあるんでしょ」があります。「ブック」というのはプロレスの試合進行の筋書きのこと。そのブックの中の仕掛け、段取りのことを「アングル」と言います。でも、競合プレではライバル会社を引き立てる必要がないので、ビジネスでは「アングル」という言葉はあまり使われないようです。まあ、社内では使うかもですが。

 で、負け試合を演じる暇はありませんから、当然「俺たちはA社の咬ませ犬じゃない」となります。これは、長州力が藤波辰巳に「俺はお前の咬ませ犬じゃない!」と叫んだ出来事が由来。この一言で、長州力はブレイクします。

 咬ませ犬になりたくない我々はなんとか勝つ方法を考えます。それをプロレスメタファリストは「セメントしかける(シュートしかける)」と表現します。セメントまたはシュートは、プロレス用語で真剣勝負を表す言葉です。前田日明VSアンドレ・ザ・ジャイアントはセメントだと言われています。最後はアンドレが戦意喪失し試合放棄した伝説の試合です。では、セメントをしかけるとはどういうことか。具体的には、見積もりを安くするとか、強烈なタレントをコネクションを総動員して起用するとか、そういうこと。企画で真剣勝負とはいかないところが、若干プロレスとは違うところかもしれません。で、そんな技で勝つと、相手の会社からは「それがお前のやり方か!」(小川直也に対して長州力が放った言葉)と言われます。
 

・今回はストロングスタイルでいくぞ

 逆にタレント勝負とか、そういうギミック(プロレス用語ではレスラーのキャラ立てのための諸々を示します)ではなく、企画とかクリエイティブで勝負することを「今回はストロングスタイルでいくぞ」と表現します。新日本プロレスがストロングスタイルと呼ばれています。対義語としては、全日本プロレスの「王道プロレス」があります。故ジャイアント馬場さんは、かつて「プロレスとはシュートを超えたものである」と言っていて、相手の技をすべて受けきって、その上で勝つというのを美学とされていました。

 私は、どちらかというと「ストロングスタイル」より「王道プロレス」が好き。クリエイティブは一般のビジネスマンとは違う感性が必要と言われるけれども、我々とはまったく異なる言語体系を持つ商品開発の方とか異分野の担当の方々が話す言葉を、しっかり聞いて、彼らが話す言語体系でともに語り合いたいとは思います。クリエイティブは、違う分野についての知見はもっていた方がいいと思うんですよね。相手の技を受けきって、相手も輝いて、自分も輝く。ビジネスがプロレスだとすれば、そんなプロレスが理想だなあ。
 

・ビジネスはプロレスだ

 ってときどき思うんですよね。会議なんかでもよく思います。偉い人がいて、偉くない人がいて、年輩の人がいて、若い人がいて、経験のある人、ない人、いろんな人がいるのがビジネスの実際。若い人なんかは、そんなプロレスなビジネスの現場に失望する人もいるだろうけど、逆に、ビジネスはプロレスだと思えば、なんか光が見えてくるんじゃないかな、なんて思います。自分の鍛え方とか、そういう部分も含めて、違った見え方がするんじゃないかな、と思います。

 相手の技を受けきるだけの強さがほしいなあ、なんて思います。自分の若い頃を振り返ると、そんな力量がないがゆえに、短気を起こして、すぐにセメントしかけたり、ギミックに走ったり、そんなことばかりやってきたように思います。亡くなった三沢光晴さんのマイクパフォーマンスを思い出します。故橋本真也さんに向けた言葉です。

「次があんのかコノヤロー!」

 普段、派手なマイクパフォーマンスをしない三沢さんにはめずらしく、かなり興奮した口調で言い放った言葉です。もちろんプロレスですから、当時四面楚歌にあった橋本さんを活かすための台詞でもあったと思います。でも、この言葉、けっこうきついですよね。そうなんですよね。「次があんのかコノヤロー」なんです。もっともっと鍛えて、もっともっと強くならないといけないな、と思います。いろんな技を受ける力みたいなものを鍛えたいものだな、と思いますよね。あいつと仕事してみたい、そんなふうに言われるのって、きっと、ビジネスでは最高の褒め言葉だと思うし。

 まあ、私はプロレスのことは、深いところはよくわかっていないところがあるので、プロレスファンのみなさん、記述の甘いところはご容赦くださいませ。本日は、こんなところで。ではでは。

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2009年7月 7日 (火)

自分会議。今回の議題は「デジタルカメラ」です。

 なんか突然デジタルカメラがほしくなりました。

1_3  じつは、私はデジタルカメラを1台も持っていません。随分前にキヤノンのIXY DIGITAL 300という202万画素のカメラを持っていましたが、あまり使いこなせなかったんですよね。旅行に行ったときに風景を何枚か撮ったりしたものの、もっぱら広告カンプ用の写真を撮るために相棒のアートディレクターが撮影みたいなことになってしまって、まるで会社の備品のような状況に。いいカンプはたくさん作れましたが、いっこうに愛機という感じにならず、消化不良気味な使用状況のまま、最後は盗難にあってしまい、私とIXYの付き合いは終わってしまいました。

 そんな残念な思い出がデジタルカメラにはあって、以来、デジタルカメラと無縁の生活を送って来たのです。前回のエントリは、ウィルコムのウィンドウズモバイル・スマートフォン、WILLCOM 03のカメラで撮影したもの。まあ、これでもいいと言えばいいとも言えるのですが、正直言えば、駄目と言えば駄目とも言える写真でもあり、いつも表現、表現とうるさいブログを書いている私がこんなことでよいのだろうか、とも思ったり思わなかったり。どっちやねん。

 WILLCOME 03みたいなスマートフォン使いの私だから、「カメラもオーディオもスケジュールもメールもネットも、みんなまとめてこれ1台」派ではあるものの、すでにiPod nanoを買っちゃったし、写真ももっといいのを撮りたいなんて欲もでてきました。やっぱり専用機って、いいんだよねえ。便利だし、質もいいし。

 というか、やっぱりマルチパーパスものは最終的に弱いですね。私の意識の変遷って、マーケティングセオリー通りで、なんかデジカメ欲しいぞって叫ぶのは気恥ずかしいのですが、それでもネットでなんだかんだ検索して、いろいろ調べて、付け焼き刃で知識をつけて、いろいろ悩んでいたりもして、そんな悩める自分がとっても楽しくて楽しくてしょうがなくもあり、そんな自分の脳内会議を実況しようと思ったわけです。って、枕が長げーよ。

 ということで、実況中継、はじまりはじまり。
   

「しかしまあ、見ないうちにデジカメ安くなったよねえ。」

「ほんと、ほんと。プロのサブマシンもしくはハイアマチュア向けハイエンドコンパクトデジカメが実売5万くらいなんだものねえ。」

「昔買ったIXY DIGITAL。確か7万くらいしたよねえ。」

「ネットで見ると、画質は画素数だけじゃないということらしいけど、202万画素だったからなあ。でも、あれ、きれいに写ったよねえ。」

「そうそう。四国で撮影した山なんてよかったよねえ。でも、あの写真のデータが入ったCFカードごと盗まれたんだよなあ。」

「CFカードだけでも返してほしかったなあ。で、どんなデジカメが興味あるの?」

2_3 「リコーのGR DIGITAL Ⅱとか興味あるんだけどね。」

「いきなり来たねえ。あれ、ハイエンドコンパクトデジカメって言われているやつじゃない。使いこなせるの?」

「うっ、いきなり嫌なところを突きますね。だけど、なんか入門機っていうのも嫌なんだよなあ。せっかく浦島太郎状態で、高級機が4、5万で買えるのにさあ、なんか安さで選ぶのは嫌じゃない。」

「そんなもんかね。でもネットを見ると3万円台のカメラが売れ筋みたいよ。」

「確かに確かに。でも、そのクラスだと、WILLCOME 03のカメラでいいって感じがするんだよねえ。」

「でも、専用のデジカメは、売れ筋のものでもまったく違うと思うよ。」

「理屈じゃそうなんだけど、気分はそうでもないのよ。」

「へえ、そんなもんかな。で、GR。これは熱烈なファンがたくさんいますねえ。そう言えば、CMプロデューサーのあの人も持っていたよねえ。」

「うん。持っている。いろいろ熱く語っていたなあ。単焦点がどうのこうのとか、広角がどうのこうのとか、GRレンズがどうのこうのとか。」

「その時はじつは何言っているのかわからなかったんけど、ネットでいろいろ調べると、ああそういうことだったのか、と。」

「そうだねえ。簡単に言えば、画角が広くて、ズームがついてないからシンプルにレンズを活かせるし、銀塩カメラのGR時代からプロに定評のあるGRレンズが搭載されていて、みたいなことを、プロデューサーさんは言いたかったわけだよね。」

「そうなんだよね。あのとき、正直、特殊なカメラだから素人には使いにくいんだろうな、と思ったんだけど、調べてみると、ズームなしの、むしろ、機能的にシンプルなカメラとも言えるんだよなあ。それは、はじめて知った。やっぱり、何でも勉強だね。」

「でもさあ、ズームってほんとにいらないの?実際、あまりズームを使ったことはないんだけど、あればあったで便利な気もするんだよなあ。」

「そう言われるとそうかもなあ。」

3_2 「リコーからは、ズーム付きのGX200というカメラも出ているよね。これもブラックで、たたずまいはGRに似ていて、いい感じに思えるんだけど。価格も同じくらいだし。」

「そうなんだよなあ。これもいいんだよ。ネットを見ると、このGX200を使っている人も多いみたい。そういう人はズームをうまく使った写真を撮っているよねえ。こういう写真を見ると、GX200もそそられるよねえ。」

「で、ひとつの疑問。GRとGXって、どこが違うのかな。人によっては、素人じゃ画質の違いはわからないって言うし。一般的にはレンズが違うっていうことなんだけど。でも、そんなに腕はないからなあ。」

「まあ、そうなんだけどね。でも、買うのは1台だから、そこは悩むよねえ。というか、素人だけど悩んでみるのが買う前の醍醐味、みたいな。」

「ブログで比較をやっている人がたくさんいるけど、私にはあまりよくわからなかったなあ。ただひとつ、このブロガーさんの比較はわかりやすかったし面白かった。こことか、こことか。比較してやろうみたいな感じがなくて、とってもいいなあ。どれも素敵な写真だけど、1眼レフ、GR、GXの個性の違いがすごくわかる。」

「こういうの見ると、写真って楽しそう。」

「で、びっくりなのは、どちらも持っている人がけっこういるんだよね。これはどういうことなんだろう。」

「愛じゃないですか。」

「愛か。やっぱりカメラ愛の足りない私はGRとかGX200は止めた方がいいのかな。」

「そうでもないんじゃない。買いたいのを買えばいいと思うよ。」

6_3 「じゃあ、素人だけど画質にこだわる、みたいな観点で言えば、コンパクトなら、新発売のオリンパスのPENとか、シグマのDP1とかDP2も選択肢に入るよね。PENはマイクロ1眼とうたっているだけあって、画質もいいだろうし、DPはセンサが1眼レフと同様だから、画質は圧倒的と言われているよ。」

5_2「このへんになると、正直、素人の私にはよくわかんなくなってくるだよな。だったら1眼でいいじゃん、みたいな気もしなくもなくてさ。こういう商品のポジショニングって、すごく難しいんだろうなあ。今度、そういうことブログに書いてみようかな。」

「やめといたほうがいいんじゃない。カメラに詳しい人は多いし、粗が満載のエントリになると思うよ。突っ込まれるの、怖いじゃん。」

「ま、そうだよね。やめときます。で、あくまで素人的に言うと、DPとかPENって、なんか素人が手を出すんじゃない的なオーラがありますね。でも、商品的にはそこが魅力なんだろうな。でもGRは、もうちょっと間口が広いというか。」

「それは見た目もあるなあ。PENはお店で見ると、けっこうでかかったし、DPもPENもレンズが出っ張っているじゃないですか。ポケットに入れるのは、けっこう勇気いるというか。そういう意味では、GXもそう。ただ、GXはレンズ面とボディのグリップが平行になるように作ってあるんだよね。そういう意味では、あの妙なギミックの別売り可動式キャップを使うことで、かろうじてそこはクリアしときました、みたいな感じではあるなあ。」

「てことは、今度は画質ではなくて、スナップに必要な機動性という観点が出てくるよなあ。となると、新発売のリコーのCX1とかR10とかも射程圏に入ってくるし、それこそ、IXYとかLUMIXの売れ筋ラインとかもいい感じに見えてくるよね。」

「そうなんだよ、ここに来て、そういう感じのお洒落デジカメのコンセプトが見えてくるよね。こういうふうに一周まわると、あらためて感じるね。やっぱり売れているということは、すごく意味のあることでもあるんだよなあ。」

4_2 「そう言えば、少し前まではサンヨーのXactiを欲しそうにしてたじゃない?」

「そうなんだよね。動画も撮影できて、スチールもいけるし、それにあの独特のかたち、楽しそうじゃないですか。なにせマルチパーパスに一度は魅かれる性格だからさ。」

「で、今はどうなの?」

「そういう気分じゃないかも。もうマルチパーパスはいいやっていう。今はそういう感じ。」

「でも持ってると人生変わるかもよ。」

「そうかな。でもGRだってGXだって変わりそうじゃん。」

「じゃあ、ここは大胆に、いきなり銀塩カメラを買ってみるとか。」

「なるほど、それもあるかも。あるかもなあ。ないとは言えないなあ。」


 てな具合にただいま、猛烈に悩んでおるところです。なんか長くなっちゃいましたが、最後まで読んでくれた方、ありがとね。ある意味では、消費っていうのは、その過程も含めて消費なんだよなあ、と、当たり前のことをあらためて思いました。読んだ方には、なんの気づきもないエントリでしたが、書いた本人は、ものすごくすっきりしましたです。さあ、明日も仕事がんばりましょ。ではでは。

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2009年7月 6日 (月)

意味を求めてはいけないのだよ

Tokyo_nakano

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2009年7月 4日 (土)

あらかじめ「ゆるさ」をつくっておく

 「ゆるさ」の考察についての素材として、身近なブログを取り上げてみたいと思います。私自身は、ブログをやるのもやらないのも自由だし、やるならやるで、その人が好きなようにやればいいんじゃないかな、せっかくの個人が持てるメディアなんだしさ、という感じなので、この文章は、ブログ論ではなく「ゆるさ」を考えるうえでのひとつのきっかけくらいな感じでお読みいただければ幸いです。

 *    *    *    *

 たとえばだけど、とあるブログがあって、ひとつは練りに練られた完璧なエントリが月に1回更新されるブログ、もうひとつは、そこそこのクオリティをキープしながら毎日更新されるブログ。どちらのブログが人気が出るか。たぶん、後者でしょう。きっとそれは、いろいろなブログのPVを時系列で調べれば、実証可能だと思います。

 もちろん、人気というものをPVで計るというのは、あるひとつの尺度にすぎないし、練りに練られた完璧なエントリを待ちたい人もいるでしょう。けれども、冒頭にあげた例に少しばかりの真実があるとすれば、後者のブログが「ゆるさ」を持ち合わせているからだと思います。

 「ゆるさ」というのは何か。それは、きっとにじみ出る人柄の主要な構成要素のことだと思います。はじめはなんか堅苦しい人だなと思っていても、何度か話して、ああ、この人は犬好きなんだ、とか、お腹をよくこわすとか、朝弱いとか、そんな小さなエピソードがつみ重なることで、人柄みたいなものが形作られていきます。つまり、その人が計算して表出するもの以外の様々な事柄、つまり「ゆるさ」が、その人の人柄をつくるとも言えます。

 毎日更新されるブログでは、ときには、なんかよくわからないな、とか、今日は疲れてるんだろうな、とか、そんな不完全燃焼なエントリも書かれます。更新頻度を高めるということは、そういうことでもあります。でも、そうしたエントリの「ゆるさ」が、その人の人柄みたいなものを作り上げて、それがブログの人気につながるように思います。

 簡単に言えば、「顔」が見える、ということですね。

 その「ゆるさ」は、いわゆる「のりしろ」でもあって、その「のりしろ」の部分が相手が入り込める隙をつくってくれます。テレビにひんぱんに出るようになったタレントさんに親しみを覚えるのは、そういうことだと思います。

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 完璧に練られた広告が広告としての機能を果たしにくくなってきたのは、きっと、メディアの多様化と情報表出の敷居が下がって、情報発信がしやすくなったことと関係していると思います。それは、消費者の声が可視化されやすいという部分以上に、企業がその思いを発信しやすくなったということが関係しているように思います。

 情報発信がしにくい状況では、その発信チャンスにすべてをかける、といった心情が生まれます。私がいる広告業界では、少し前までは、新聞広告全15段(全面広告)は、中堅企業にとっては「清水の舞台から飛び降りる」という気持ちでつくるものでした。今でも、そういう部分はなくなっていはいないけれど、今では単純に情報発信だけをとると、ウェブサイトでこと足ります。

 つまり、発信する情報の「質」だけをとってみると、とりあえず情報を広めていくという手段としてのマスメディアという意味合いだけでは情報にある種の「質」を強いることはできにくくなってきて、情報を広める手段としてのマスメディアに掲載する情報であっても、簡単に情報を表出できるという現状に影響されるだろうから、当然のように、練りに練られた、めったに表出できない情報としての「完璧さ」は、まわりの状況から乖離したものとして、社会から疎外されていくのだろうな、とこの状況の中で息をしているひとりの広告人としては肌感覚で感じたりしています。

 もちろん、完璧な情報を表出することが無効になったわけではありませんし、そうした情報も求められる土壌も残りつづけるでしょうが、完璧な情報は、さまざまな情報発信によって矛盾を呼び起こしやすいわけで、完璧な情報を起点にした神話作用を期待するならば、自らが方法発信を禁じるということでしか果たせなくなっていくわけで、それは、かつてならコスト面から出したいけど出せないということで禁じさせられてきたけれども、そのコスト要因がなくなった今、情報発信をしたがる主体としての企業は、なかなか自ら禁じるという禁欲的なふるまいはできにくくいのだろうと思います。

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 逆説的に言えば、あらかじめ「ゆるさ」をつくっておくことは、メディアが多様化した状況化において、情報を発信主体が主体性を持って情報を投げかけ、あるいはあえて投げかけずに、伝えたいことをきちんとしたかたちで伝えるきるための前提条件であるとも言えるのではないかな、と思います。まあ、これは、そのほうが楽だ、ということもあるけれど。

 情報には、次があって、その次の情報発信をしなやかにできる「ゆるさ」をあらかじめつくっておくことは、時間軸で情報発信を考えていくことと同義なんだろうなと思います。簡単に言えば、自分のいいところも、あまり格好悪いところも含めて、顔を知ってもらったほうが、あとあと思ったことを話しやすくなるし、聞く耳ももってくれるだろう、みたいなことかもしれません。ま、こう書くと、そんなん当たり前やんか、と言われそうだけど。

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2009年7月 3日 (金)

「ゆるさ」をつくる。「のりしろ」をつくる。

 てなことを、ここ数年、広告づくりで意識的にやってきたんですが、そのことは思いのほか人に説明しづらいものだな、と思っています。「ゆるさ」とか「のりしろ」を設計するというのは、ちょっと形容矛盾を含んでいるし、どうしても厳密さや精密さに比べると説得力に欠けますから。

 でも、人が惹き付けられるものは、広告で言えば、じつは、その首尾一貫したわかりやすいメッセージ(これは前提)のところどころに見える「ゆるさ」の部分だと思うし、その「ゆるさ」が「のりしろ」になります。なんでもそうだと思いますが、「のりしろ」の部分がない表現は、見事だという賞賛は得られても、そこで終わってしまうから、広がらないんですね。

 この「ゆるさ」というのは、よく言われるクリエーターの、メッセージやコンセプトから離れた「遊び」や「こだわり」というものとは違って、あらかじめ設計するたぐいのもののように思います。どこにも綻びのないコンセプトの首尾一貫した厳密性の世界は、そこでどうしても世界が閉じてしまいがちだから、どこかに「ゆるさ」をつくる。「のりしろ」の部分をつくる。その「ゆるさ」や「のりしろ」が出口になって、外の世界とつながっていきます。つまり、外への出口をあらかじめつくっておく、ということかな。

 「のりしろ」という部分で言えば、その小さな余白は、見た人の自由な想像力が入り込める余白になるから、この無用の用みたいな部分があることで、広告は、みんなのものになります。みんなのものになった広告は、強いです。これは広告に限らず、どんなコンテンツにも言えることかもしれません。

 広告のどの部分に「ゆるさ」とか「のりしろ」をつくるか、というのは結構難しくて、でも、感覚的には確実に、この部分は駄目、この部分はあり、みたいな感じに言えるのだけれど、それを普遍化する言葉はまだないですね。つまり、直感。それが言葉にできたら完璧なんでしょうけど。しばらくは、ちょっとこの「ゆるさ」や「のりしろ」をじっくりと考えてみたいな、と思っています。ちょっと説明しづらいけど、そのことは、いろんなことにつながっているような気もするし。

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2009年7月 2日 (木)

詰まれてうれしい人はいない

 というのを忘れてしまうんだよなあ。コンペにしてもなんにしても、理屈で相手を兵糧攻めにして出口をなくしてしまうことは、純粋に戦略的に見ても得策ではないんだけど、会議をしていると、みんなそのことを忘れてしまうんだよなあ。この出口を閉じて、あの出口を閉じて、その反論も封じて、よしっ、これだけやれば受け入れるしかないでしょ、って、そこまでされたら受け入れられるものも受け入れられなくなっちゃいますってば。

 将棋ってあるじゃないですか。あれは、こういうルールの中でお互い競い合いましょ、っていう合意があるから成り立つわけで、だから、あっ、詰まれた、もうあかん、ってなったとき、参りました、と爽やかに言えるんですよね。

 でも、コンペにしても、広告の企画にしても、マーケティングにしても、その提案なり商品なりをお買い上げいただきたい人との間にルールなんてないわけです。しかも、会議室で広告マンたちが勝手に決めて、これしか真実はないよねっていう、そんな身勝手なルール、相手からしたら、そんなん知らんがな、てなもんですよ。

 仮に、うまいこと社会にそのルールを広めることができたとしても、そのルールに従うことで、まるで将棋のように、どうすることもできない状況に追い込まれたら、詰まれたなあ、参りました、その商品を購入いたしますとはならないわけですよ。将棋盤をひっくり返しますよ。ルールごと、なかったことにしますよ。人間って、そういうものです。当たり前じゃないですか。詰まれて、負けて、受け入れる。そんなの、けたくそ悪いもの。

 そういうやり方がすべてうまくいかないとは言わないですよ。うまくいくことも、たまにはあるでしょう。それは、ある意味、マーケティングの定石かもしれんよ。でもね、そういうのは、長く続くことはまずないんじゃないかな。短期的にでもうまくいけばいいじゃないかって。目先のことも大事だって。

 じゃあ言いますよ。素敵じゃないんですよ。そういうやり方は、まったくもって美しくないんです。でもそれは、あなたがそう思っているだけでしょ、って。じゃあ、言いましょう。私は、そういうやり方、嫌いなんですよ。大嫌いなんです。もういいでしょ。じゃ、そういうことで。夜も遅いしさ。

※これは創作ですからね。念のため。


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2009年7月 1日 (水)

「餃子の王将」がブームらしい

 それは肌で感じます。お店に行列ができてますから。餃子の王将に行列ですよ。あの、リャンガーコーテー、ソーハンイーガーの餃子の王将に、行列。なんだかですねえ。恐るべし、メディアの力。どうも、雨上がり決死隊の「アメトーーク」が発信源らしい。王将芸人とかやってますものね。

 このところは東京にもたくさんお店ができて、全国区のブランドになりました。もともとは京都で創業して、京都と大阪を中心にチェーン展開するお店でした。王将には京都王将大阪王将の2つがあって、それぞれ別の会社。資本関係はありません。今ブームになっているのは、京都王将のほうで、大阪王将は、京都王将の創業者一族が独立してはじめたお店だそうです。餃子の王将というと、京都王将のことを指すらしいです。

 私は大阪育ちなので、大阪王将になじみがあります。大阪王将の創業の地は京橋で、その界隈に住んでいたりしましたから。家の近くにも小さなお店があって、そこのメニューは餃子だけでした。あと、ビール。ご飯もなし。

 小学校の頃は、餃子1人前が確か100円で、よく自転車で行っては、餃子を1人前だけ注文して食べました。お店の中で野球帽かぶった子供たちが餃子をほおばる風景は、今思うと妙な感じですが、当時はそういう子供が多かったらしく、お店の人もごくごく当たり前のこととして対応していたような記憶があります。関西人にとっては、餃子の王将はソウルフードみたいなもんですね。美味しいとか美味しくないとか、そういう次元を超えている食べ物のような気がします。あと、蓬萊の豚まんとか、ヒロタのシュークリームとかも。

 東京で暮らすようになってびっくりしたこと。天津飯のあんかけが、真っ黒な甘酢あんかけだったこと。関西地方は、白っぽい塩あんかけ。どこの中華屋さんもそうですね。東京にある王将も、天津飯は甘酢だったんですが、ここ最近、関西風の塩あんかけも選べるようになりました。私は、まあ慣れ親しんだ味でもありますし、あっさりしているので、塩あんかけの方が好きですね。でも、5回に1回くらいは甘酢も食べるかな。

 あと、餃子のおすすめの食べ方。お酢だけで食べると、これはこれでいい感じです。この食べ方は、大阪のもうひとつの餃子の雄である珉珉(みんみん)で通がやる食べ方だそうです。餃子らしいこってり感は薄まるけど、まったく別の食べ物感があって、おすすめです。

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