自分で書いておいてなんですが
前回のエントリ「おこり方がわからない」のテーマについて、なおまだひっかかり続けています。結構難問のような気がするし、これを追求していくと、文学の世界のような気もするし、結局は明快な解はないような気もします。
立て続けに2つのテレビドラマを見ました。ひとつはフジテレビ『任侠ヘルパー』。草彅剛さん主演で、ヤクザの大親分から跡継ぎを選考するために舎弟の組長たちを老人ホームに送り込み、ヘルパーとして働かせるという話。そこで草彅さん演じるヤクザヘルパーさんは、最初はやさグレのチンピラで、些細なことに怒りをぶつけている。老人から金をくすめるし、ヘルパーの仕事はサボる。でも、介護の現実に触れていくうちに、その怒りは、現在の介護ビジネスのあり方、本当の介護とは何かといったもっと大きなものにぶつけられていく。そこが、このドラマの最大の面白さ。
もうひとつのドラマは、NHK名古屋制作の土曜ドラマ『リミット〜刑事の現場2』。人間の見たくない心の奥底をえぐるドラマ。NHK名古屋といえば『中学生日記』が有名ですね。昔から内容が深く、かつ後味が悪い終わり方をよくしていて、テレビドラマとしてはかなり異質でした。このドラマもかなり異質で、主人公の武田鉄矢さん演じる中年刑事は心に強烈な怒りを持って、その怒りを核に刑事を続ける男。その相棒である若い刑事は森山未來さん。この若者は怒りを押さえ込んで、理知的であろうとするという、通常とは逆の設定。中年刑事はその若者の理知の欺瞞を見抜き、怒りであばいていく。その身も蓋もない様は、強烈に後味が悪かった。さすがNHK名古屋。
この2つのドラマ。どちらにしても怒りが軸になっています。そして、どちらの主人公も「おこり方」が普段から身に付いている。この部分で言えば、「おこり方」が上手であるとも言えるし、この怒り方は怖い。その怖さは、前回のエントリで書いた「おこり方」がヘタな人の独特の怖さと同質です。これは、「おこる」という行為にかけるものの重みの違いなのかもしれません。
そして、この2つのドラマに出てくる「おこり方」がヘタな人は、そのために、大切な何かを先送りしている人として描かれ、やがて怒る人へと変わっていく。怒る人は、その展開の予言者として描かれています。
自分の日常のきっかけとしては、まわりには結構「おこる」という表現方法で安易に自分の要求を通してしまう人たちがいて、簡単に言えば、めんどくさいなあ、ということでその人の要求が通ってしまう組織的な現実があり(ゴネ勝ちを許す組織ですね)、その中で、これはもう、自分の問題として、というか人生の問題として、めんどうだからやりすごしてばかりもいられない、相手は気軽な保身でも、こっちは人生の問題なんだよ、という差し迫った思いがあり(結局はこれも「自分のもの」を侵害されるという動機の部分では同じ)、だけど、私は、そういう「おこる」人で「おこる」という対応が非常に苦手。
もしかすると、これはもう、本当の怒りを表現してしまうんじゃなかろうかという不安もベースにあるかも。そうなったとき、失うものはかなり多く、それがたとえ納得いかないものであっても、なんとかそれだけは避けなければならないだろう、という葛藤みたいなのがありますね。まあ、大人であればよくあることかもしれないけれど。
この安易な「おこり」は、組織というか正義というか個人以外のバックボーンがもとになっているので、対抗するには別の「おこり」でしかありえないし、それはあっけないほどに有効な気がします。それがドラマに描かれる「怒らなければ舐められる」というヤクザの生きる世界であり、その中での最も美しい倫理性が「任侠」と呼ばれるものであるのでしょう。その中の「おこり方」が苦手な最強のアイコンが、高倉健さんのような気がします。きっと、任侠の世界で、「任侠」という倫理に忠実に生きながら、それでも最後まで組織ではなく個を背負い、個に対し、ぎりぎりまで耐える姿に共感するのでしょう。
あくまで個人的には、やはり「怒らなければ舐められる」という世界がすごく苦手で、そういう安易な「おこり」が普段のコミュニケーションの手段になっている世界では、不自然でも怖い人を演じなければならなくて面倒だし、苦労もするけれど、そういう意識から見て、その環境下において自分と同じような「おこり方」が苦手な人に対しては、普通の顔をしている自分の中にある強烈な怒りを余計に見ているわけで、それは、その人が置かれている状況を分析することで相手に憎悪を向けることなくかわせる「おこる」人に対する恐怖よりも、じつはもっと本質的な恐怖でもあるのだろうと思います。
そして、その意識から逃れるためには、安易な「おこり」が普段のコミュニケーションの手段になっている世界を自分の中で無効化もしくは無意味化するしかなく、それが完璧にできるかというとそうでもない気がしますし、究極的には、どうしてもバランス論になるのだろうと思います。
ほとんどの人が言葉にはしないし、私自身、こういうことは自分に負の感情との葛藤状態のときにしか考えはしないけれど、対人恐怖とか対人緊張の本質というのは、少し哲学的に言えばこういうことであるのかもしれません。
怒りの問題というか、負の感情の問題っていうのは、ちょっと自分でも抱えきれないくらいやっかいなものなのかもしれないな、と、このふたつのドラマを見て思いました。とはいえ、どちらも、結構楽しいドラマなのでおすすめです。まだシリーズは続きますので、気になる方はぜひ見てください。面白いです。
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コメント
実は僕は名古屋出身で中学生日記に出演していた頃がありました!
あのドラマの後味の悪さの原点は学生(出演者)に対する徹底的なインタビューです。綺麗事を許さない、本音で話してと言わんばかりのインタビュー。だからこそ、ドラマのディティールだったり何よりもドキュメンタリーとしての顔がチラチラ覗いてしまうために後味の悪さが凄いのかもしれません。
僕は自分の出ている回でも一回も見たことがありませんw
投稿: monnalisasmile | 2009年7月26日 (日) 18:00
なるほど。それは面白いですね。きちんとフィールドワークができているから、「中学生日記」はドラマが絵空事ではなく後味が悪いくらいリアルなんですね。
>僕は自分の出ている回でも一回も見たことがありませんw
それはそうかもなあ。そういう気分になるでしょうね。それだけ撮影の時間が切実な瞬間だったということかあ。
投稿: mb101bold | 2009年7月26日 (日) 21:16
おこり方がうまい人っていうのは、どういう人なんでしょう?体育会系のセンパイみたいな人?一部のカリスマ的CMディレクターみたいな人?
そういう人は、他者に過度な緊張を与えることによって場をコントロールする、という技術を習得しています。
”怒り”を”おこり”に変換して戦略的に使うコツを身につけた人、とも言えます。それは、おこるのがうまいってことですね。
私もおこり方がさっぱり分からない人なので、そういうのできません。私は自爆型なので。それは一番迷惑だよなあって思って反省してるんですが。
そういう意味では、怒りをおこりにできるってのは、大人なのかもね。違うか。やっぱり。違う気がする。
投稿: denkihanabi | 2009年7月28日 (火) 03:10
そうなんですよね。カリスマCMディレクタータイプの「おこり」をうまく使える人もいるんですよね。
>”怒り”を”おこり”に変換して戦略的に使うコツを身につけた人、とも言えます。それは、おこるのがうまいってことですね。
その通りなんです。そう整理すると、おこるけどおこりに品がなかったり、へたくそだったりする人もいて、結局、そういう人が苦手ということかもしれません。と考えると、まあ当たり前の話かもですね。
>私は自爆型なので。
それはわかります(笑)。で、私は自滅型。まあ、お互いできればニコニコしたい派かもですね。柄にもないことはやめるが吉なんでしょうね。
投稿: mb101bold | 2009年7月28日 (火) 22:43