「ゆるさ」をつくる。「のりしろ」をつくる。
てなことを、ここ数年、広告づくりで意識的にやってきたんですが、そのことは思いのほか人に説明しづらいものだな、と思っています。「ゆるさ」とか「のりしろ」を設計するというのは、ちょっと形容矛盾を含んでいるし、どうしても厳密さや精密さに比べると説得力に欠けますから。
でも、人が惹き付けられるものは、広告で言えば、じつは、その首尾一貫したわかりやすいメッセージ(これは前提)のところどころに見える「ゆるさ」の部分だと思うし、その「ゆるさ」が「のりしろ」になります。なんでもそうだと思いますが、「のりしろ」の部分がない表現は、見事だという賞賛は得られても、そこで終わってしまうから、広がらないんですね。
この「ゆるさ」というのは、よく言われるクリエーターの、メッセージやコンセプトから離れた「遊び」や「こだわり」というものとは違って、あらかじめ設計するたぐいのもののように思います。どこにも綻びのないコンセプトの首尾一貫した厳密性の世界は、そこでどうしても世界が閉じてしまいがちだから、どこかに「ゆるさ」をつくる。「のりしろ」の部分をつくる。その「ゆるさ」や「のりしろ」が出口になって、外の世界とつながっていきます。つまり、外への出口をあらかじめつくっておく、ということかな。
「のりしろ」という部分で言えば、その小さな余白は、見た人の自由な想像力が入り込める余白になるから、この無用の用みたいな部分があることで、広告は、みんなのものになります。みんなのものになった広告は、強いです。これは広告に限らず、どんなコンテンツにも言えることかもしれません。
広告のどの部分に「ゆるさ」とか「のりしろ」をつくるか、というのは結構難しくて、でも、感覚的には確実に、この部分は駄目、この部分はあり、みたいな感じに言えるのだけれど、それを普遍化する言葉はまだないですね。つまり、直感。それが言葉にできたら完璧なんでしょうけど。しばらくは、ちょっとこの「ゆるさ」や「のりしろ」をじっくりと考えてみたいな、と思っています。ちょっと説明しづらいけど、そのことは、いろんなことにつながっているような気もするし。
- 関連エントリ:詰まれてうれしい人はいない
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コメント
「広告をコミュニケーション・ツールと考えているか?」
ということではないでしょうか?
ご存知の通り
「コミュニケーションの主導権は聞く側(消費者)にある。」ので、
「広告=コミュニケーション・ツール」と捉えた場合は、
余白やノリシロや導入部が必要なのだと思います。
分かっていても、クライアントのことを考えると
混乱する人、勘違いする人が社内に出てきそうですね。
それ以外にも「広告は作品だ。」と考えている人とも
中々かみ合わないのではないでしょうか?
わたしの場合は「広告」の部分が
「企画書」に代わり日々困ったりしています。
投稿: オスギ | 2009年7月 3日 (金) 16:55
直接双方向のコミュニケーションがなくても、会話する感じというのは必要かもしれません。会話というのは相手の考えを受け入れることですし、その通路として「ゆるさ」がなければいけない、ということかもしれません。
>「企画書」に代わり日々困ったりしています。
そうそう。「ゆるさ」をつくるのは、まずは「企画書」だったりします。その段階がいちばん重要かも。最初の段階でみんなが「ゆるさ」の大切さを共有するのが大事なような気がします。
投稿: mb101bold | 2009年7月 3日 (金) 17:32