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2009年7月12日 (日)

「いい加減」の難しさ

 大阪では、いつも自炊。外食もなんだし、親父と二人だし、どっちもいい歳したおやじなので、簡単なものをチャッチャとつくります。小魚を焼いたり、あさりを蒸したり。今晩は、葱とごぼう天の卵とじ。おだしと味醂とお酒で少し煮て、卵をとじるだけ。で、出来上がりを食べると、少し甘かった、というか、親父曰く、かなり甘かった。

 材料は目分量だから、そのたび味が違います。でもまあ、いつもはそれなりに食えるので、きっと今日は味醂が多すぎたのでしょうね。レシピを見ながらきっちりやれば、まあそこそこのものは作れるけれど、そこまでの気合いもなく、いつも勘でやります。勘どころがわかってないのに勘でやると、こういうことになります。

 料理に慣れた人なら、味醂はこのくらいでこんな味、というのが頭に入っていたりするから、勘でやってもうまくいきます。慣れた人は、普段着の料理ではいちいち分量を量ったりはしないでしょう。つまり、「いい加減」というのがきちんとわかっていたりするんでしょうね。

 「いい加減な奴」というふうに使われる、いい加減という言葉ですが、「いい加減にしろ」というように限度を超えてふざけたりした時に使われることもあります。前者は「適当」がネガティブに、後者は「適当」がポジティブに使われています。

 料理でいえば、前者の意味で「いい加減」に作った料理はおいしくないけど、後者の意味で「いい加減」に作った料理は、その人らしい無二の料理にもなります。後者の意味でいえば、自分なりの「いい加減」は、誰かの「いい加減」を記したレシピっていうのがあって、それを真似しながら自分のものにしてはじめてできるものなのかもなあ、と思いました。

 いわゆるおふくろの味というのも、それぞれのおふくろさんたちの「いい加減」のなせる技でしょうし、ほんとは「いい加減」というのは素晴らしいものなのかもしれません。でも、今は、いい意味での「いい加減」を会得するのに欠かせない小さな失敗を許さない感じもあり、その人なりの「いい加減」をつくるのが難しい時代なのかもしれません。

 誰でもそれなりにうまくできる緻密なマニュアルもありますし、その枠内でやりなさいと求められる状況も多いように思います。そんな行動原理が支配する状況の中で、個性を発揮せよとも要求されたりもするけれど、じつは行動を支配するその原理は、原理的に個性を許さないような原理になっているわけだから、そこでの個性は意味のないかけ声にすぎないでしょう。

 でもねえ、そんな「いい加減」を許さない行動原理にも致命的な弱点があって、それはその行動原理の台本であるマニュアルが破綻するときなんですよね。マニュアル通りでは、どうにもうまくいかないとき、「いい加減」力がないとどうしようもなくなります。「いい加減」は大切、というのは、肩の力を抜いてやれ、という意味以上に、人が状況、あるいは世界で生きていくためには、絶対的に必要なものだからこそ大切ということなのだと思います。

 「いい加減」を捨てたら、人間のかわりに、マニュアル、つまりシステムが支配する世界になります。それは薄気味悪いよね、人間の疎外だよね、という感覚もありますが、その感覚を度外視して考えると、人間のかわりにシステムが支配する世界というのは、どこが問題かと言うと、それはきっと、システムがクラッシュする時なのだと思うのです。ちょっと大げさですが「いい加減」というものは、命懸けで守るべきものなのかもしれません。

 本気で考えれば、「いい加減」をきちん身につけるのは難しい。それなりに努力もいるし、小さな失敗もそれなりにしなくちゃいけない。努力はしんどいし、失敗はへこむ。だけど、人間というのはうまくできていて、そんなことが楽しいと思うようにできているようで、私は、その人間の本能みたいなものをちょっぴり信じています。

 なんか書いているうちに重くなってしまいました。この文章の半ばくらいでまとめておけば、休日のほのぼのコラムになっていたのに、ほんと「いい加減」というのは難しいもんですねえ。ではでは。

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コメント

マンガ「あたしんち」のおかあさんが子供に「座右の名は何?」と聞かれ、胸をはって「適当!」と答えるシーンに 吹き出しながら、その通りと感心しました。

この時代に肝のすわった人に会える機会はないし、私自身「自称 小心もの」なわけで。

できれば、いい加減にとらえどころのない生き方がしたいです。
(母親としては、もう少し子供達から真面目な大人にみえるように格好をつけるべきかな?)

投稿: うずまき | 2009年7月13日 (月) 03:10

あたしンちのおかあさん、素敵ですねえ。そう言えば、あのおかあんさん、ことあるごとに失敗してへこむのに、最後にはいつもガハハって笑ってますね。

投稿: mb101bold | 2009年7月13日 (月) 10:46

先日、テレビで”生存率0%”と診断された、小児ガンのお子さんが回復していった
ドキュメントをやっていました。

”生存率0%”と言ったお医者さんは、過去に例がないことから、確率で言っていたんですね。

マニュアルで言うとそういうことになります。

だけど、マニュアルどおりに生きられないのが人間だし、マニュアル通りにならないから
可能性があるんじゃないんですかね。

私は、私たちの祖先が、アンコウとかホヤとかナマコとか、ああいうものを初めて食べた勇気に感謝します。

「食えるんじゃねえの?」そういういい加減な自信や目論見がなければ、食わないですよね。たぶん、マニュアル外だし。

だけど、そういう、いい加減さが、不可能を可能にし、きっと、人類を進化させ、何度も危機から救ったと思うんですよ。

いい加減さは、mb101boldさんのおっしゃるように、守るべきものだと、私も思います。

「あたしんち」のおかあさんが幅をきかす世界は絶対必要なんですよね。

根拠なんかなくたって解決すりゃいいんだもん。

投稿: おやぢ | 2009年7月13日 (月) 11:05

>「あたしんち」のおかあさんが幅をきかす世界は絶対必要なんですよね。

ほんとその通りだと思います。そして、いろんな仕組みが変わっていく過渡期である今は、なおさら必要になってくると思います。

投稿: mb101bold | 2009年7月13日 (月) 17:39

いつも楽しく読んでいます。
「いい加減」というのが身につきにくく、色々なことがマニュアル化されているというのは非常に同感できました。
少し話がずれるような気がしますが、ネット上における論調などを見ていても人や企業に完璧であることを求める傾向にあるように思えます。
それが妬みから生じているのかはよく分かりませんが、芸能人や一般ブロガーの一つの発言をとって徹底的に攻撃してやろうという気配が伺えるような気がします。
それはまだ局地的なものなんでしょうが、そういう社会っていうのは生きにくいなと考えてしまいます。

投稿: くろふね | 2009年7月14日 (火) 20:03

ミッシェル・フーコーの著作「監獄の誕生」で論じられる、パノプティコン(を彷彿とさせる感じがしないでもなく、これを超えていくのがネットの誕生をひとつの契機にした新しい社会の課題のように思います。
そう言えば、この一望監視装置付き監獄を考案したベンサムという思想家は、「最大多数の最大幸福」という言葉を使っていました。このへんの捻れみたいなものも気になります。

投稿: mb101bold | 2009年7月14日 (火) 20:21

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