二項対立ではなく
建築家の安藤忠雄さんは、「瀬戸内オリーブ基金」や大阪の「桜の会・平成の通り抜け」をはじめ、島や街や都市に木を植える運動を続けています。エコロジーの時代でもあるし、緑が増えると暮らしが豊かになるし、いいことだな、という単純な思いで今までいました。
「CASA BRUTUS TADAO ANDO:BEYONDO TOMORROW」の中の「ANDOはなぜ木を植えるか」というチャプターを読みながら、ああ、そういうことなのか、と思い直しました。その中で、安藤さんはこうおっしゃっています。
「環境とは与えられるものではない。育てるものである」
また、冒頭のインタビューではこんなふうにも話されています。
「環境問題を考えるとき、忘れてはならないのが、都市とは結局、人工の産物なんだということです。人間は集まって“豊かに”生きるために社会を営み、都市をつくる。その都市にいて、健全な水と空気、美しい緑の風景を求めるのなら、その自然もまた、人間の手でつくらねば手に入らないのです。」
つまり、安藤さんにとって、植樹もまた建築なんですね。人工/自然という二項対立で考えるのではなく、人工の産物たる都市空間の中での緑は、我々の手で作られ、育てていくものである、と。この考え方は、さらっと読めてしまいますが、かなりラディカルな考え方だと思います。
● ●
私を含めて我々はよく「緑を残す」と発想します。でも、都市空間においては違うんですよね。本当は「緑をつくる」なんですよね。前者の発想では、緑は時代の流れとともに減っていくものとして意識されています。だから、我々は今残された緑をいかに残すかと発想してしまうんですよね。でも、都市を人工の産物と規定し、都市においては緑はつくるものでしかあり得ない、という後者の発想に立てば、いろいろなことが違った風景に見えてきます。
つまり、昔は緑が多くてよかったね、なんとか緑を後世に残したいよね、ではなく、緑の都市こそが未来なんだ、という考え方ができるということです。私は、この安藤さんの言葉を読んで、自分が関わる様々な分野に置き換えていったとき、いっきに未来が開ける思いがしました。
● ●
どうしても、テクノロジーというものを経済的利便性の追求という視線で考えてしまいます。そして、その実践として、今の東京や大阪の都市の風景があります。ある種の経済的利便性の全面的な肯定は、都市に雑多な多様性と豊かさをもたらしました。その猥雑な空間を私は愛するものではありますが、その一方では、人工的な計画性を持つ西洋の街並があります。
そのどちらが優位なのか。人間の利便への希求を求めて雑多に発展する都市と、中心系を持ち放射線状に道が広がる西洋の都市。前者は周囲の環境を無視するかのように、自分の都合だけでつくられたペンシルビルを生み、後者は内部の繁栄と引き換えに周縁の荒廃を生み出します。そういうふうに考えてしまうとき、また自由/計画という二項対立に絡めとられているのかもしれません。
● ●
大阪の実家の近くに桜宮橋という名の橋があります。旧淀川にかかる、昔からある橋です。私たちは銀色のアーチから「銀橋」と呼び親しんできました。道路が拡張し、隣に新桜宮橋ができました。その設計は、安藤忠雄さんです。
そのデザインは、「銀橋」と同じアーチ型なんですね。だけど、「銀橋」を模倣するのではなく、同じアーチ型だけど、ボルトが少なくすっきりとしたモダンなデザインになっています。それは、古くからあり市民に愛されて来た「銀橋」への敬意はあるけれど、決してテクノロジーの否定ではない、新しい都市の姿に私には見えるのです。(今度大阪に帰ったときに写真を撮ってきて、ここに掲載しますね。少しお待ちください。9月21日追記:写真を撮りました。)
その新旧「銀橋」が寄り添うほほえましい姿に、これからの都市の進むべき姿があるのかもな、と思います。だからといって、その風景は何かを象徴するほどの派手さもなく、周囲になじむ地味なものではあるのですが。そう言えば、世界に多くのファンを持つANDOのコンクリート建築は、どれも見た目は地味だったなあ。
関連エントリ:「銀橋2009」 上記の銀橋についての概要と写真を掲載しています。
| 固定リンク
« タイムラグと閾値 | トップページ | ほんまや »
「都市」カテゴリの記事
- 大大阪時代について(2019.04.11)
- 大阪ダブル選雑感(2019.04.08)
- 「ラジオってどうやって聴くんですか?」(2015.09.07)
- 感覚的に言えば、ラジオの人気番組の影響力は地上波テレビの不人気番組の影響力とほぼ同じである(2015.07.23)
- 大大阪と大阪都(2015.05.30)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント