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2009年9月 2日 (水)

たかが広告、か?

 広告という切り口で時代を見た場合、きっと「たかが広告」の時代なんだと思います。これは、いくら広告が好きだ、広告を愛している、と叫んだところで、どうにもこうにも時代の変化なわけです。かつてあんなに素晴らしかった広告が、今ではこんなありさまなんてこと言って、昔を懐かしんだところで、状況は何にも変わらないですよね。やけ酒はすすむかもしれないけれど。

 時代は「たかが広告」。その意味はきっと、メディアが多様化していることによる、広告が主に置かれるマスメディアの地位の低下。こうして私が書いている、ブログをはじめとする個人メディアだってその一部だし、古き良き広告をとことん愛して、新しい広告をつくろうともがく私にしても、その「たかが広告」の時代を進めている張本人だったりもするのです。広告、しかも、これまでの所謂オールドメディアと言われるマスメディアを生業としている人が、ブログやらを毛嫌いする人が多いのには、きちんと理由があるのだと思います。本能的に嫌いますよね。だって、マスメディアが、様々なメディアの一部になってしまうのだもの。

 こういう話はもう聞き飽きましたよね。ネットを眺めると、いくらでも目に入ってきますものね。これからは広告じゃないよ。口コミだよ、CGMだよ、ブランデッド・エンターテイメントだよ、プラットフォームだよ。まあ、そうかもしれないです。今は、その土壌は小さいけれど、これからはそんな環境が世の中を覆ってしまうんだ、という話もわからないでもないです。未来の話は景気が良く聞こえますし、衰退していってる側にいる者からすれば、はいはいわかりました、という感じで、極論だよなあと思いながらも黙って聞くしかないよな、という感じもあるにはあるし。

 本音を言えば、私は、ノスタルジーたっぷりの昔話も苦手だし、まだ来ていない未来を根拠にした極論も苦手。どっちも違うんじゃないの、というのが実感として、あるいは予感としてあるんですね。マスは小さくはなるけど、社会が続く限りきっとなくならないし、ネットはもっともっと大きく巧みになるけれど、それが覆いはしないだろう、と思うんですね。だったら、それをどっちも使えばいいじゃない、みたいな感じ。これからはネットだ、ネットで覇権をとるぜ、とも思わないし、ネットなんかどっかにいっちまえ、とも思わないんです。だって、それって広告の環境に過ぎないじゃないですか。環境あっての広告であって、その逆はないものね。

 だから、なんか、環境を嘆くんじゃない、という感じもするわけです。また、環境を美化するのもおかしいんじゃないか、とも思うわけです。フラット化というじゃないですか。だったら、この環境をフラットに見ましょうよ、と。その中で広告がやれることって、ほんとにないですか。

 口コミ、CGM。それを上手く運ぶには、やっぱり広告の力が必要ではないんですか。日本の選挙はともかく、アメリカの大統領選では、ネットが大活躍って言いますよね。見たか、口コミ、CGMという感じですよね。でも、そのパワーが発揮できたのは「YES, WE CAN.」という広告的な言葉があったからですよね。それって、古典的すぎるくらいの広告の力ではないですか。ちょっと例が古いけれど。

 考えようによっては、口コミ、CGMまで射程に置いた長いコミュニケーションのフィールドで広告を設計するには、より力強い広告的な芯が必要になってきている、とも言えるんじゃないかな、と思うんですね。ということは、今の時代を生きる広告人の方が、牧歌的な時代の広告人よりも、よりダイナミックなプランニングが必要だ、という言い方もできるよね。まさに「されど広告」の部分が今ほど求められる時代はないんですよ。だから、若い人で本気で広告をやろうと思う人は、嘆く必要なんかないんです。おっさんの愚痴は、右から左に受け流せばいいんですよ。

 私?私はやりますよ。これからも。まだまだ、若いあなたには負けませんよ。若いあなたのような突破なことはもうやれないかもしれないけれど、私にはあなたにはない経験があるからね。それに、こんな時代「たかが広告」なんて言ってるうちは、私には勝てんよ。それに、ネットを語るなら、少なくともブログくらいやろうよ。別に今流行のTwitterでもいいけど。

 えっ、そんなこと言わずに力あわせてやっていきましょう、って?そうだね。古い広告クリエーターの悪いクセだね。なんでも勝負事にしてしまうクセ。こんな時代でも、がんばってやってるあなた見てたら、なんだか元気でてきたよ。ありがとう。お互いがんばろうぜ。じゃあね。また会おうぜ。

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広告の話」カテゴリの記事

コメント

いつも読んでいます。
私はイベントプロモーションの会社に勤めています。
最近の流れがPRを目的としたゲリラ的なものや、
イベントが多いことは、とても感じています。
たしかにクチコミとかびっくりとか話題とか
瞬間に沸点みたいなものがあるのですが
ちょっと情報の押しつけというか
ひとりひとりの心に、長くは残らないような気がしています。
ふと、足をとめるとか、聞き入るとか、想い返すとか
やっぱり人を豊かにすることを心にもって、
取り組んで行きたいなと思っています。

今はたぶん、時間の流れはとても急いでいるけど
時間をこえて、ずっと心に残る広告に出会えると
やっぱりとても幸せです。

投稿: ちあき | 2009年9月 2日 (水) 10:37

いつも思いますけど、リアルですよね。
リアルでひどく共感できます。
ボクはTwitterのアカウント持ってるだけで、
一言もつぶやいてないけど、
このblogを読ませてもらってると、
ながーいつぶやきを読んでいるような気がします。

私ですか?
私もやりますよ(笑)

投稿: superjetter | 2009年9月 2日 (水) 14:02

こんにちは。2度目のはじめましてです。
興味深いタイトルに釣られて真剣に読み始めたのですが、最後には思わず笑っちゃいました。お元気そうで!
私は、昔を懐かしんだり先を憂いたりするのは、一時代をその中で過ごした人の特権ではないかと思って、ノスタルジーにずっと肯定的だったのですが、「クレヨンしんちゃん」の映画で、ノスタルジーによって大人達が滅ぼされそうになる話があって、そこで初めて恐怖を感じました。
懐かしむことは、今を諦めることに繋がる面もあるかもしれませんね。
でも、嘆くことなんか忘れるくらいに、広告が好きで好きで、つくりたくてしょうがない人達は、まだまだ私の周りにも沢山居ます。
つくることは、美しいと思います。その魅力はきっと普遍です。
だから広告も、その根本的な魅力がしっかりしていれば大丈夫ではないでしょうか。

投稿: dot_path | 2009年9月 2日 (水) 17:34

はじめまして。咲軌と申します。
初めてコメントさせていただきます。

「マスメディアが、様々なメディアの一部になってしまう」・・・確かにそんな気がしました。私もブログを書いていますが、結局メディアとしての一面もあるのですね。。

私は23歳で6年近く広告に携わっています。広告が本当に、好きです。最後の方は何だか勝手に自分に言われているようでハラハラしてしまいましたw

自分も早く広告が語れる、代わりのいないクリエイティブな人間になりたいです。
応援しています。頑張ってください!

投稿: 咲軌 | 2009年9月 2日 (水) 19:00

>ちあきさま

PRやイベントの核になるものがなくては、インパクトは瞬間的に残せても難しいのではないかと思うんですね。核になるもの、というものが私にとっての「広告」で、それは必ずしもテレビCMとかじゃなくてもいいのですが、でも、やはりわかりやすいカタチで核を示す広告は必要。それが力強い中心となって、広報などの別の分野も統合されます。とりわけバイラルなどのコントロールできにくいものに対して、ひとつのぶれない軸ができるので、どんなことが起きてもそう揺れることもないし、いろんな分野でのコミュニケーション、メッセージがそれこそ「心に残る」ものとなる。それが、今の広告ではないかと思っています。

>superjetterさん

ながいつぶやき、というのはそうかもしれませんね。字数制限なしのTwitterみたいな。というか、ブログを字数制限ありにしたミニブログがTwitterなんですけどね。お互いがんばりましょう。

>dot_pathさん

「クレヨンしんちゃん」の映画はすごい映画でしたよね。ノスタルジーから救うのが新しい人であるしんちゃんであるところが素敵でした。つくりたくてつくりたくてしょうがないというのは、広告に限らず表現の基本です。今の空気をいっぱい吸って、つくってつくってつくりまくりましょう。

>咲軌さん

こんなメディア多様化の時代だから、ひとつひとつのメディアには挟持がいるような気がします。マスメディアも、ブログも、それぞれの挟持があれば、互いによい部分を伸ばしながら楽しく共存できるのではないか。そんなことを考えています。がんばりましょう。私もがんばります。

投稿: mb101bold | 2009年9月 2日 (水) 23:51

こんばんは。

確かに広告にとっては大変な時になっているとは思います。
ただその反面、色々なメディアが増えてとても刺激的な時でもあると思うんですよね。

>考えようによっては、口コミ、CGMまで射程に置いた長いコミュニケーションのフィールドで広告を設計するには、より力強い広告的な芯が必要になってきている

確かにそう思います。
様々なメディアが増えているからこそ、広告的な芯が重要だと思うんですよね。

「たかが広告、されど広告」

広告の現状を嘆いてばかりいるのはもう止めようじゃないかと強く思います。

投稿: mt | 2009年9月 3日 (木) 00:19

嘆いても現実は変わらないしね。前にすすむのみです。がんばりましょ。

投稿: mb101bold | 2009年9月 3日 (木) 02:00

いつも拝読させていただいます。
広告の楽しさや、大切なことに、気づかせてくれる大切なブログの一つです。故に、初めてコメントさせていただいているのですが、どのような観点でコメントを書けばいいのか、書き始めて迷ってしまったのですが、この記事について私も似たようなことを感じていて、ついつい勢いでコメントをさせていただいたのが、つまるところです。。
以前、どこかの記事で、広告の語源は広く世間に告げることにあり、Advertisementは注意を喚起することに語源があるとおっしゃられていましたが、本当にそう思います。告げるということを考えると、どこで伝えるのか、という発想になりがちですが、注意を喚起するという軸で考えれば、発想が広がるように思えます。
そう考えると、混沌としていて、めいることも多いこの業界と今の仕事も、希望が持てます。もちろん、それを実現するのは、とても大変だとも思うのですが。。

私もがんばります。

投稿: nobert | 2009年9月10日 (木) 01:03

nobertさん、あらためてはじめまして。ブログはよく読ませていただいております。
こんな時代だからこそ、広告の根源的な部分を問い直すことは有効だと思うんですよね。そのことで、広告という言葉に自分がどんな意味を込めているかがわかるようになって、その意味の込め方が、結構表層的というか自分中心だったなあと反省させられたりもしています。
今後ともよろしくお願いします。がんばりましょう。

投稿: mb101bold | 2009年9月10日 (木) 08:40

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