萩原健一さんの5年間
フジテレビのザ・ノンフィクション「ショーケンという"孤独"」を見ました。ショーケンこと萩原健一さんのことは、あまり詳しくないですが、一時代を築いた大スター、というかトリックスターという言葉が正しいのかもしれないですが、そんな凄い人だというのは知っています。いくつかの事件も、なんとなく記憶にあるし、ファンも多いけど、アンチも多い、そんな今の時代では生きにくい人であるのだろうな、とは思います。
テレビに出ている人は、ある意味、人々の記憶の中で生きている人でもあるわけだから、その人がまったく活動できないでいても、その人は確実にいるわけで、ドキュメンタリーの中で「5年間の沈黙を破り」という言葉の重さは、我々テレビを見る側の人にはわかりにくいのかもしれないな、と思いました。
テレビというものは不思議なもので、この前、萩原さんが「チューボーですよ」にゲストで出演していたのを見て、その時点で、その何事もなかったかのような現在の映像は、過去の記憶と瞬時につながってしまって、5年という時間がなかったものとして認識されてしまい、お茶の間は、萩原さんの5年間を捨象してしまう。そして、その5年間は萩原さんの心の底に沈殿していって、もう誰にも見えない。
例えば、私が、これから君は5年間沈黙しなさいね、と言われたら、言葉は大げさかもしれないけれど、きっと絶望するだろうと思います。よく飲むと、ついつい、僕にも干されている時があってさ、なんて言うけれど、それでもたかだか2年くらいで、しかも、それでもなんだかんだやることを見つけて、妙な成果を出して来たりもしたわけで、萩原さんの5年とは、その重さは比べ物にならない。
でも、このドキュメンタリーもまたテレビであり、ひとつの虚像でもあるのも事実で、映像にされない時間に、萩原さんだけの時間が今も流れていて、身近にいる人との愛憎のせめぎあいや、出会いや別れ、ささやかなふれあいもあるだろうし、それは、テレビを見る人である私たちにはやはり知る由もなく、萩原さんだけの時間として流れていくのでしょう。
映像化された、テレビの人ではない萩原さんを見ていて、これからの5年をどう生きるか、なんてことを柄にもなく思いました。それにしても、テレビではさらっと5年と言っていたけど、5年かあ、5年は長いよなあ、長過ぎるよなあ、と思ってしまいました。5年だものなあ。
話の結びとしては、なんだか間抜けな気がするけれど、テレビでよくやる「あの人は今」という企画。あまりに残酷すぎて、私は正視できないんですよね。ああいう企画をさらっと出せる人は、その残酷さとどうたたかっているんだろうか、なんてときどき思います。どう自分の心と折り合いをつけているんでしょうかねえ、なんて。きっと、大人なんだろうな。萩原さんではないけれど、わたしゃ、いつまでたっても子供で結構、とか思ってしまいます。でも、それも違うような気が。甘いこと言ってんじゃねーよ、という気が。うーん。
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コメント
はじめまして。
この5年、ひたすら待ち続けたものとして、「わかってもらえた」みたいな感激いっぱいで読ませていただきました。
「もう復帰?」「甘い芸能界」ファンではない人たちの反応はおおむねそういう感じですので・・・。
こちらの記事、ウチのブログにリンクさせてください。
よろしくお願いいたします。
投稿: showken-fun | 2009年9月13日 (日) 16:48
はじめまして。ファンの方は待ち遠しかったでしょうね。リンク、ご自由にどうぞ。
投稿: mb101bold | 2009年9月13日 (日) 19:19