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2009年9月17日 (木)

本日は書くことがなにもありません。

 ということを書けるのもブログの良さだったりするなあ。第一、お金がかからない。これが紙のメディアだったら、なんとまあ贅沢なことするよなあ、ということになりますよね。ちょっと例が古いけれど、今、あなたのパソコンに表示されている文字。きっとゴシックだと思いますが、このゴシックだって、ちゃんと読みやすく設計された書体ですよね。これ、写植を発注したらどれだけお金を取られることか。それを版下にして、製版にまわして、印刷して、配布する。このプロセスにも、ものすごいお金がかかりますし、まあ、本日は書くことがなにもありません、という内容では読む人はいないので、配布してもゴミになるだけですよね。

 でも、ブログなら、こういう思いも伝えることができるし、読まれた方だって、いろいろなブログを読むのを楽しみにしている私がそうであるように、このブログを読んでくださる人だって、きっと、ああ、この人、書くことがないんだよな、そういう日もあるよなあ、なんてきっと思ってくださるだろうと思いますし。

 まあね、こういうことを毎回続けるとさすがに読んでくださらなくなるだろうけれど、それでも、こういうなんにもない文章がそれなりに不特定多数に向けて放たれるということ自体、何気ないことだし、世の中に何の影響も与えないことではあるけれど、本当はとても革命的なことだろうと思うのです。

 何回かこのブログでも取り上げさせていただいたと思いますが、もう一度、風野春樹さんの「ブログふたたび」という2003年に書かれた言葉を取り上げます。

 ウェブログは、はっきりと明るさを指向している。個人と個人をネットワークし、啓蒙(enlightment)しようする。それが、私がウェブログ(あくまで「ウェブログ論」のたぐいで語られるウェブログだが)をうさんくさく感じる理由だ。多くの人がウェブサイトを開くのは、別にウェブジャーナリズムの一翼を担うためなどではなく、「わたしがここにいること」を誰かに承認してほしいからだろう。星の数ほどある個人サイトのすべてが、「わたしはここにいます!」という叫びなのだ。

 個人がメディアを持つことは、マスメディアが目指す指向性とは逆の、暗さの中にほのかに見える小さな小さな星でありつづけることを指向することを自ずから含んでいるのだろうな、と思います。たくさんの人に読んでほしいという気持ちの中に、いくらかの矛盾を含みながらも、たったひとりでも読んでくれる人がいればいい、という気持ちを持ち合わせているのが、あえて、オープンなネットの中で、個人がメディアを持つことの意味なんだろうと思います。

 本日は書くことがなにもありません。

 こうしたことを書けるのは、それこそ星の数ほどあるメディアの中で、もしかしたらブログしかないのかもしれない。で、こうしたことも書けるメディアを持ち続けたい、ということが、私にとって、ブログを続けていくということの意味なのかもしれません。でも、そういう思いもまた、自分の中では矛盾としてあるのですけれどもね。

 この矛盾する気持ちは、あの頃から少しも変わらないのが、自分でも不思議に思います。これだけ多くのエントリを書いても、やっぱり変わらない。なんか、本日は書くことがない、というだけに、わかりにくい文章になってしまいましたけど、ブログを書いている、もしくは読んでるあなたなら、ね、わかるでしょ。やっぱり、わかりにくいか。まあいいや。ではでは。

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コメント

いえ、とてもわかりやすい文章でした(^^)
確かに、見出ゴさんでも、そんな日があるんだなぁっと、まんまと思いました(笑)
意味も、正当化も、理屈も、無には不要です。余白みたいなもんです。

投稿: たか | 2009年9月17日 (木) 12:16

それはよかったです(^^)
見出しゴな私ですが、まあ、実際はあまり押しの強くない人間でもあり、はあ、なんか書くことないなあという感じでした。
そんな余白を余白として書ける場ってのは、気張ってなくていいもんだなあと思いますです。

投稿: mb101bold | 2009年9月17日 (木) 22:46

本日は書くことがないということを書けるのは、たしかに、ブログならではですね。むかし赤塚不二夫さんの漫画で、何もアイデアが浮かばないということだけで、連載を一回埋めたことがあって、それとはまったく意味が違うけど、今回はそんなことを思い出すエントリーでした。

投稿: KIKU | 2009年9月18日 (金) 13:33

そう言えばありましたね。あの漫画作品は、赤塚さんにとってはいろんな意味を持ちそうですね。いい意味でも悪い意味でも。まあ、でも赤塚さんと言えど、人間の日常というのは、そういうものなのだろうな、と思います。

投稿: mb101bold | 2009年9月19日 (土) 00:54

以前ラジオのお話でコメントさせていただいた者です。伊集院光がTBSラジオ/深夜の馬鹿力、第716回で、似たような事言ってました。「ブログやってるような人は分かるのかもしれないけど、ラジオって、聞いて欲しいけど聞いて欲しくないよねって、爆笑問題の太田さんと話した」だそうです。ラジオとブログの距離感って似てるのかもな、と思いました。

投稿: srst | 2009年9月23日 (水) 09:22

伊集院さんや爆笑問題さんにとってのラジオは、テレビとはモードが違うんだろうと思います。もっともっと伊集院さん、太田さん、田中さんの人が見えますよね。
いい意味でゆるいモードで、時間の流れ方も違う感じがしますし。いい意味でもそうでなくても「個人」が見えてしまうメディアなんでしょうね。それは、きっと、視覚の部分をあえて閉じていることにも関係しているのかな、とも思います。

投稿: mb101bold | 2009年9月23日 (水) 14:11

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