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2009年10月の17件の記事

2009年10月30日 (金)

もしもし

 うちの親父はメールが使えない。というより使う気がない。親父は個人商店を経営していて、わりと早い段階からファックスを使っていたし、昔、遠くに住む絵描きさんと絵本をつくっていたときに親父の事務所のファックスを借りた覚えもあるし、機械音痴ってわけではないと思う。要は、そんなもんいらんがな、という意志なんだろう。

 たしかWindows Meの頃だったと思うけど、いらなくなったパソコンを送ったこともあったけど、大阪に帰ったときに見たら、ポリ袋に包まれて、部屋の隅に置いてあった。

 そんなやつであるので、連絡はいつも電話。

 母の具合が悪くなってから、まあ少なくとも1週間に1度は電話をしている。以前は、1ヶ月に1度すればいいほうだったのが、えらい変わりようである。人間、変われば変わるもんだ。

 お互い頑固だったりもするし、ひねくれもんだったりもするので、最初のほうは用件をつくろうとしてた。

 「そう言えば、阪神調子ええなあ。」

 とか、

 「こないだの台風どうやった?」

 とか。どうでもいいことを枕に話し始める。ほんと、ややこしいやつらだな、と思うけど、まあ、親子だし、そういうことだし、しゃあないなという感じ。でも、さすがにじゃまくさなってきて、そういう枕を省略したくもなってきて、

 「もしもし。」
 「なんや。」
 「なんややあれへんがな。べつに何にもないがな。」
 「そうか。」

 母の面会で大阪に帰るときも、

 「大阪に帰るからな。」
 「おまえが来たかて、なんにもならんがな。」
 「そんなん言うても、もうチケットとってもうたがな。」
 「そうか。で、いつ着く?」
 「夕方。」
 「新大阪でいつもの弁当買うてきてくれ。」

 2年ほど前、母の具合が急変したとき、

 「すまん。帰ってきてくれ。どうしていいかわからへんのや。」

 と夜中に泣きながら電話をかけてきて、それが、これまでできちんとした用件があった唯一の電話。親父が泣いてるのははじめてで、正直どうしていいのかわからなかった。

 その頃にくらべると、ひねくれ具合はあいかわらずではあるけれども、ずいぶん落ち着いてきた。どこの親子もそんな感じだと思うけれど、ぎくしゃくしつつもそんな習慣ができたのは、すごくありがたいし、ある意味では、母がくれた習慣でもあるんだろうな、なんて。

 あれから母は。

 元気です。元気すぎて困るくらい。気分的には絶好調の時期みたいで、みんなに「この子らなあ、私が育てたんやで」と自慢しよる。わしゃ、もう40過ぎのおっさんやで。恥ずかしやんか。病状的には、絶好調すぎて困ることもままあるみたいだけど、これからも気長に付き合っていかないとしゃあないなあ。

 そんな感じです。

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2009年10月28日 (水)

人間の感覚は逆説的に働くのかもしれない

 学生の頃、ほんの少しだけ音楽をかじっていただけなので、そのあたりの曖昧さは許していただきたいとは思うのだけれど、和音について、少し思うところを書いてみたいと思います。音楽にあまり詳しくない方でもわかるように書いていますので、しばしおつきあいを。

 ●    ●

 12の音階を持つ西洋音楽の考え方ですが、和音は、1度、3度、5度の組み合わせである三和音(3つの音が重なる和音)が基本ですよね。この三和音は、4つしかありません。長三和音、短三和音、減三和音、増三和音。この4つ。ギターをやっている人は、コードネームで書く方がわかりやすいですよね。Cをルート音として書くと、C、Cm、Cdim、Caug。メジャー、マイナー、ディミニッシュ、オーギュメント。この4つです。それ以外の組み合わせでは、和音にはなりません。

 そこにルート音から7度の音を合わせたのが四和音。C7とか、Cm7とか、Cmaj7とか。厳密には6度の音、また、7度の四和音にさらに9度の音を組み合わせたり、13度の音を組み合わせる、といったものがありますが、そのあたりは、もはやよくわからない領域なので、割愛します。

 で、例えば、C(ドミソ)とCmaj7(ドミソシ)の音を比べると、Cはただ単に明るい響きで、Cmaj7は明るい響きに加えて、透明感みたいなものが加わります。ぐっと響きに広がりが出るんですよね。ボサノバなんかでは、Cmaj7とか、それに9度の音を加えたCmaj9が基本ですよね。あのボサノバな感じが、Cmaj7の感じです。あの透明感。

 これ、不思議だと思いませんか。ドミソのきれいな三和音にシを加えると透明感が出るんですよね。おかしいと思いませんか。だって、ドとシの組み合わせなんですよ。ピアノの鍵盤を思い出してください。隣あわせの音なんです。ピアノでこの2つの音を同時に弾くと、ビーンという不快な音がするはずです。

 なぜ本来この不快なはずの音を組み合わせることで、本来は透明感があるはずのCという三和音にはない透明感が出せるのか、というのが不思議なんです。もしかすると、このあたりの話は、音楽を本格的に勉強した方だと、それはね、これこれでね、という感じで解決済みの話なのかもしれませんが、このあたりの人間の感覚っていうのは、ほんとなんだろうな、と思うんですよね。

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 エレキギターをやっている方だとわかるかと思いますが、ギターをアンプにつないだだけの音って、すごく生な感じがします。音がソリッド、というのでしょうか。わかりやすく言うと、非常に固い音がします。そこで、いわゆるエフェクターという、音の波を加工できる装置をあいだにかまします。

 例えば、コーラス。これは、同じ波形の音を時間的にわずかにずらす装置です。つまり、ギターの弦をはじくと、最初の音、わずかにずれた時間に最初の音と同じ波形の音を鳴らすという仕組み。そのかけ方にもよりますが、コーラスをかけると音に広がりが出て、これも語弊があるかもしれませんが、上記の透明感と同じような感覚の音をつくることができます。

 ディレイというエフェクター。詳しいことはよくわかりませんが、最初の音と少し遅れた音を鳴らす仕組みです。これは、深くかけると音につやがでます。パットメセニーのギターの音なんかが代表的ですよね。

 これも不思議だと思いませんか。だって、どちらも音を重ねているわけです。しかも時間的に差をつけて。理屈で言えば、重ねるわけだから、元の音より濁ったりしそうな感じなのですが、広がりや透明感、つやがあるように感じるんです。

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 松田聖子さん。デビューの頃は若々しく伸びやかな声でした。で人気が出て、スターになって、喉を酷使して、ハスキーになるんですよね。「赤いスイトピー」くらいからだったような気がします。そうなると、理屈では歪みであるわけだから、広がりや透明感が損なわれるはずなんです。

 でも、感覚で言えば逆なんです。より広がりや透明感が増したように感じるんです。少しハスキーになったことで、より魅力的な歌声になりました。これはどういうことなんでしょうね。歪みを手にしたことで、逆に広がりや透明感を表現することができるようになった。専門的には倍音ということになるのでしょうけど。

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 そもそも、サックスにしても、トランペットにしても、空気をリード、唇といった障害物で歪ませた空気によってできた音を金属管で増幅させることで音を出しています。それは、弦楽器にしても、打楽器にしても同じなのかもしれません。つまり、音自体がそもそもそういうものだから、とも言えるのかも。

 三味線ってあるじゃないですか。倍音を増やすために、わざと棹に弦が触れるようにしているそうです。「さわり」と呼ぶみたいですね。これによって、あの三味線独特の空間に響き渡る独特の音色と伸びのある音ができるんですね。

 インドにシタールという楽器がありますね。ミヤーンと粘っこく伸びる音が特徴的です。ロックやポピュラーにもよく使われます。あれも弦をわざとビビらせることであの音が出るんですね。エレクトリックシタールという楽器があって、ビートルズも使っていましたし、パットメセニーも使っていました。なので、学生の頃、その音を出したくて、工夫をしたヤツがいて、その方法は、ブリッジにわざと金属片をかましてビビらせるというやり方でした。今は、シターライザーという替えブリッジがあるそうです。

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 なんとなく思うのは、人間の感覚って現象に対して逆説的に働くのではないのかな、ということですね。Cmaj7のドとシなんかの例が象徴的なんですが、そうした矛盾みたいなものが中にあることによって、はじめて広がりとか透明感とかが感じられる、というか。

 社会とか街とかでも同じで、計画的につくられた建築物や都市空間の中にいると、それは人間が快適に過ごすためにつくられたものにもかかわらず、少し息苦しく感じてしまいます。路地があり、わけのわからない空き地があって、少しいかがわしい地区もあり、そんな雑多な街のほうが、私は居心地がよく感じます。よくわかっているわけではないですけれど、それは、人の心なんかでも、きっと同じなのかもしれないなあ、なんて思っています。

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2009年10月24日 (土)

あまりのインパクトに見落としていたけど

 ダイソンの羽のない扇風機「エアマルチプライアー」。ネットやテレビのニュースを見て、みんな驚いたのではないでしょうか。私も驚きましたです。

 でも、よくよく考えると、これから冬になろうとする10月に発表されたんですよね。それって、扇風機がいちばん売れないときじゃないですか。確かに、時期なんか関係ないくらいインパクトがありますけど。

 まあ、そういうところがダイソンらしいです。いいです。とってもすてき。

 「こんなんできた。すごい。オレたちって、すごいよね。きっと、みんな驚くよね。今、秋で、もうすぐ冬だけど、べつにいいんじゃないですか。これは、時期なんか関係なく、いますぐ発表しなきゃだめでしょ。」

 きっと、そんな感じだったんでしょうね。マーケティング的にはありえないでしょうけど(もしかすると、これ、新しいマーケティング?)、そういう感じ、大好きです。

 それと、もうひとつ。エアコン全盛の時代に、扇風機だものなあ。こんなにハイテク。なのに、扇風機ですよ、扇風機。

 自由だなあ。ほんと、ダイソンって自由。

 

 追記:
 こういうニュースが。30年前に出願されていたそうです。
 
http://slashdot.jp/yro/09/10/22/1218235.shtml

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2009年10月23日 (金)

過去は地続きで現在でもある

 ひとりの著者の過去のいくつかの作品をつらつらと読みながら、そんなことを思いました。

 SFではないけれど、一時的に人体を凍結でもしない限り、過去は必ず現在に続いています。たとえば、私たちは、3時間前を現在と認識することもありますよね。いや、それは過去だと言う人もいるかもしれません。では、3秒前はどうか。いや、それでも過去だとするなら、人は現在を認識することができないということにもなります。厳密に言えば、知覚はリアルタイムではないはずだから。

 現在という概念がどこまでを現在とするかということだとすれば、現代の範囲を拡張していけば、過去は現在と言ってしまってもよいことになります。ということは、過去もまた現在なのだ、という言い方もできるはずです。

 かつて、ランドサットの衛生写真のような、無限上方からの映像視線を、かつて吉本隆明さんは「ハイ・イメージ論」で「世界視線」と言ったけれど、現在を起点に、無限の過去を現在と地続きに見る視線もまた「世界視線」と言えるのかもしれません。というか、後者の視線は、ずいぶん前から人類が獲得していたものだと思うので、前者の視線は、後者の視線から着想を得た概念だろうとも思うのですが。

 人類の精神の営みの歴史から現在の精神を語る方法は、Google mapの衛生地図から都市を語ることに似ているのかもしれません。その方法が必然的に都市に住まう人々の感情のリアリズムを取りこぼしてしまうことを含めて。

 そこが、いわゆる知識というものの持つ弱点なのかもしれません。「ハイ・イメージ論」から20年ほど経って、名実ともにウェブというテクノロジーで「世界視線」を獲得してしまった普通の人である私たちもまた、知識人が持つ弱点と同じような弱点を持ち合わせてしまっているのかもしれません。いい悪いを含めて、そうした視線を手にしまった以上、表現というものの何かが変容したのは、ある程度は事実なのだろうと思います。

 あの頃、よくわからなかった「ハイ・イメージ論」は、今読むと少しわかるような気がします。それは、現在から、過去を現在として見られる読者の特権なのでしょうけど。まあ、それでも、私には難解なのには、今も昔も変わりはないけれど。

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2009年10月21日 (水)

機能と普遍

 広告の仕事をはじめたときから、すごく悩んでいたこと。今だに悩むことがあって、そのときどきで判断が違ったりもしています。この悩みは、広告やマーケティングにかかわる人なら、それこそ20年30年のキャリアを持つベテランの人でもあるのではないでしょうか。

 機能寄りのメッセージにするか。それとも、普遍性のあるメッセージにするか。

 今は不況でもあるし、機能対普遍の争いも少なくなりましたが、一頃は、機能を端的に言ってほしい人と、個別の機能ではなく、その機能が提供する価値、つまり、普遍性を持つうれしさ、たのしさなどのエモーショナルな部分を言いたい人の対立がよくありました。

 もちろん、そういったことは理論的にも整理されてはいます。まあ、当たり前の話ではありますが、基本に立ち返って自分の頭の中をもう一度整理するために、大画面テレビを例にちょっと説明。

  • Function=機能(画面のサイズが大きい)
  • Functinal Benefit=機能的受益(迫力のある映像を表現)
  • Emotional Benefit=心理的受益(映画館の感動)

 ラダリングと言いますが、ベネフィットの流れを「はしご」がけするとこういう流れになります。最近は、こんなにわかりやすい商品はあまりないとは思いますが、状況によってはこういうわかりやすいケースもあるでしょうね。

 かれこれ四半世紀前の広告になりますが、よくできた例でもあるので、ソニーの大画面テレビの広告を挙げてみます。眞木準さんのコピーです。

  • ヘッドライン「子供ができたら、映画にも行けないわ。」
  • エンドライン「お茶の間で迫力の大画面。22・20・18型コンパクトに新発売。」

 これは、「はしご」の下から上へきれいに表現されています。こういうふうにいければ、まあ対立もなく、みんなが納得という感じもしますが、状況によっては、ヘッドラインを「22型」にしたい人、「お茶の間で迫力の大画面」にしたい人、「子供ができたら、映画にも行けないわ。」にしたい人というのはでてきそうです。

 ここで、広告というものについての考え方がでてきます。要するに価値観の問題になってきますから、こんがらがるんですよね。例が見事だから、このやり方しかないように思えてしまいますが、じつはどのやり方もそれなりに正解だったりもします。たとえば、かつてユニクロが出したフリースの広告「ユニクロのフリース ¥1980」もありました。

 私はケースバイケースだと思っていますが、でもこのあたりのきちんとした理由はわかっていたいと思っていました。機能で勝負すれば、商品の差別性が際立ちます。ライバルが競っている状況では、差別性を際立たせることが有効なときもあります。普遍で勝負すれば、共感が得られます。人の感情を表現するわけですから。で、その感情は、じつは、凡庸にさえならなければ、普遍的であればあるほど共感されます。

 要するに、広告は差別性を際立たせるものであるか、共感を得るためのものであるか、という価値観の問題になってしまうわけですね。状況による、というものの、そのどちらについても、感覚ではわかってはいるけれども、もっとはっきりと理解したい、言葉で言い切りたいと思ってきたのですね。

 で、2009年10月27日号の「SPA!」の工業デザイナー水戸岡鋭治さんのインタビュー記事を読んでいたら、なるほどなあ、そういうことだよなあ、という言葉があったんですよね。ああ、こういうふうに言えばよかったんだな、という感じで、個人的にはすごく感心してしまいました。電車の中で、おぉ、と声を出してしまったくらいです。

 JR九州の一連の車両デザインについて、そのデザインには水戸岡さんの強い美意識を感じるのです、という問いに対しての答えです。

 いや、それが機能美と普遍性なんです。機能美は体を満足させる。機能を追求すれば肉体的にも楽なものが造れるけれど、それだけじゃ心は満たすことができない。それを満たすのが普遍性、心地よさなんです。

 少し、広告の表現とは文脈は違うけれど、なるほどと思えました。広告は、長く使われる列車のデザインとは違い、時系列の中でのピンポイントのコミュニケーションなのでケースバイケースではあるけれども、機能と普遍の違いを、これ以上ないというくらい明快な言葉で表現されていますよね。

 なるほど、これはダノンの「♪カラダだけでもアタマだけでもだめよね」ということだなあ、と。ちょっと違うか。違うかもですね。すみません。ところで、このコピー、もはや知っている人はあまりいないかもですね。市川準さん監督のCMです。

 これ、その頃に流行った知能テストっぽいシチュエーションで、白衣の先生が子供に思いついた言葉をホワイトボードに書いてみて、と質問して、子供が「ニラ」って書くんですよね。で、このコピーがメロディ付きで流れるというCM。今だと苦情が来るんでしょうねえ。私は大好きですけど。

 ま、ちょっと脱線してしまった感じはありますが、本日はこんなところで。ではでは。

 追記:

 はてブのコメントでご指摘。プチダノンのCMは、「ニラ」じゃなくて「にら」だそうです。そう言えばそうだ。「にら」。ひらがな。市川さんらしいですよね。一緒に仕事したかったなあ。

 関連エントリ:市川準さん(2008年9月19日)

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2009年10月20日 (火)

ソフトのアップグレードを重ねるたびに、Googleにしたくなる。

 というバナー広告がCNET Japanに出稿されていました。白地にキャッチだけのシンプルなデザイン。クリックすると、「世界で200万もの会社が、すでにGoogleにしています。」と書いてあるページに飛びます。Google Appsの広告。

 まるで広告の教科書のようです。

 際立った商品があって、その価値が新しければ、表現はシンプルになる。だからといって、「これからはクラウドだよね。」みたいなことじゃなくて、きちんと使う人の気持ちの洞察があって、落としどころはイメージではなく事実になっている。きちんとクリエーターが仕事をしている。この広告には、広告の基本がすべてありますね。

 これを広告理論で言えば、こんな感じになります。

 1)Proposition=Google Appsなら管理運用の手間を削減
 2)Consumer Insight= ソフトのアップグレードはうんざり
 3)Facts=世界200万の会社がGoogle Appsを選択

 これは、広告会社や企業によって違いますが、それにしても、このGoogleの広告はきわめて基本に忠実。ある意味で、ストレートすぎるくらいストレートです。でも、これくらい各項目に強い結びつきがあれば、そのままストレートでいくほうが強いのかもしれません。もちろん、Insightの発見が秀逸なのですが。とにかく、これは幸せな広告ですね。時代を表現する最先端の商品があり、届ける側が相当な自信を持っていて、それに応えるクリエーターがいて、奇をてらわずに直球で勝負。

 こういう古典的な広告を、Googleという今を代表する企業が出しているところが面白いと思います。一方では、これまでのオールドスクールな広告環境をテクノロジーで破壊してきた企業とも言えるでしょうし。私は、Googleのやっていることは、きわめて純広的でまっとうなことをやっていると思っていて、破壊ではないとは思うけれど。

 この広告を見て、私は少し希望が持てたんですけどね。まったく新しくないところが新しい。そんな感じがするんですね。どう思いますか。

 (バナーのスクリーンショットの縮小版を貼っておきます。クリックしてもページには飛びませんのであしからず。)

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2009年10月18日 (日)

ジャズは路上がよく似合う

 最近、駅のまわりでジャズの路上ライブをよく見かけます。これ、なかなかいいんですよね。若者も、大人も、お年寄りも、それなりに楽しめるので、人がたくさん集まっています。編成は、そのときどき。バスドラとスネア、ハイハットだけの簡単なドラムセット、ウッドベース、ギターのトリオの時もあるし、そこにサックス、フェンダーローズのエレピが加わることもあります。

 うちの近くの駅では、どうやら2つのグループがあるようで、ひとつは、ルパン三世のテーマソングや、ハービーハンコック、チックコリアなんかのエレクトリックバンドのナンバーを中心に演奏するグループ。どっちかというとクロスオーバーというか、フュージョンというか。ルパンなんかは、みんなが知っている曲なので、それなりに人が集まるようです。

 もうひとつのグループは、オーソドックスなバップ。ステラやアナザーユーなんかを演ります。こういうスタンダードの曲は、一度は耳にしたことのあるメロディなので、わりと年輩の方が、懐かしいなあ、という表情で聴き入っているようです。中には、少し酔った中年の男性が、「あの曲できる?」とリクエストしたりもしています。

 このあいだ見たのは、もしかすると、そのどちらかのグループのギタリストの人かもしれませんが、スタンダード曲のギターソロと女性のタップダンサーのコンビ。ジャジーなギターソロにあわせて、わりと激しいタップダンスをするんですよね。これはすごく目立ちます。間近で見ると、やっぱり迫力が違うんですよね。

 まずいいなあと思うのは、みんなが知っている曲をやるところ。

 ディスニー映画の名曲とか、今、あらためて聴くと、美しいなあと思うんですよね。そこから立ち去っても、しばらくはスタンダードの美しいメロディが頭に浮かんで、ちょっとだけ機嫌がよくなったりね。なんというか、幸せな気分になれるんです。

 ジャズっていう音楽は、私は解釈の音楽だと思っていて、だからこそ、みんなが知っているスタンダード曲が使われるんですね。もちろん、オリジナル曲にもたくさん名曲がありますが、それでもジャズの場合は、その曲がいつか誰かに演奏されることを目指している感じがします。つまり、言い方にもしかすると語弊があるかもしれませんが、オープンソースを指向し、シェアされることを前提としている、ということかな。

 道行くみんなに聴いてもらうような、街の一部としてあろうとする路上ライブは、そんなジャズという音楽と相性がいいような気がします。もちろん、私の心の叫びを聴いてください、というような個性を積極的に打ち出したフォークやロックもいいけれど、それより、みなさん楽しんでいってください、というようなジャズは、思いのほか路上ライブというフォーマットにはぴったりなのでしょうね。

 ジャズというと、どうしても難しい音楽のように思われがちです。実際、難しいしね。聴き込むと欲が出るから、演り手も聴き手も次第に高度化してしまって、こんどは新参者を寄せ付けないようになります。商業音楽としてのジャズ市場は、きっと、マニアとニューカマーのバランスを失ってしまったのかもしれません。

 ジャズも、その元になっているブルースも、もともと路上の音楽だったんですよね。そこらに置き去りになっていた調律の狂ったピアノや、穴のあいたギターを使って演奏していたんです。イギリスからアメリカに渡った西洋音階と、もともと黒人が持っていたアフリカ音階をうまい具合にあわせて、つまり現実にあわせて妥協してできたのがブルーノートスケールだし、案外、ジャズという音楽のルーツには、強烈な個性とか、自己表現とかは希薄だったのかもしれません。

 そういうジャズに、私はすごく魅かれます。そこには、なんというか、ちょっとビジネスブログっぽい言葉使いではありますが、ソリューションというものが息づいている気がするんです。それは、もしかすると社会性と言ってもいいのかもしれません。だから、路上とよく似合うのかもしれませんね。

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2009年10月17日 (土)

ウェブサービスのせつなさ

 テクノラティが日本でのサービスを終了しました。私は、ブログ開始は2007年6月でブログ後発組だと思うので、正直言えば、テクノラティにはあまり思い入れはありません。一応は登録をしてありますが、Pinがうまく送信されなくて、更新しても最新のエントリが表示されなかったりして、次第に見に行かなくなりました。

 テクノラティは、基本的にはブログ検索サイトとのことですが、私はどちらかというとブログのランキングサイトとして認識していました。というか、ブログ検索としては一度も使ったことがないなあ。

 それでも老舗のサービスでもあるし、一頃はブログ関連の中核的なウェブサービスでもあったので、なくなると思うと、すこしさみしくもあります。まだ閲覧はできる状態ではありますが、いつかはnot foundになるのでしょうね。ウェブの場合は、サーバーに格納されたデータに過ぎないので、サービスが終了されれば跡形もなくなります。なんとなく、ウェブサービスってせつないなあと思います。

 人気のあったテキストサイトなんかも今では閲覧もできないサイトもあります。ブログなんかでも、閉鎖されてしまったものは今はもう読めません。このブログでリンクしたブログエントリの中にも、リンク切れを起こしているものはたくさんありそうです。たいがいは、「ほう、そんな考え方もあるのか。いいなあ。」という感じでリンクをしたものだと思うので、少しさみしくもあります。それに、リンクはしなかったけれど、いつも密かに読んでいたブログも。

 でもまあ、ウェブに書くということはそういうことでもあるし、書く自由と同じように、やめる自由、消す自由も担保されなければいけないのだろうな、とは思います。それがなければ、誰もウェブでものは書かないですよね。どうか、元気で。

 はじまるものがあれば、終わるものもあります。それは、何でも一緒と言えば一緒ではあるのですが、その速度は、人の営みより、もっともっとウェブは速くて、感傷的になる間もなく、あっという間に新しい世界がはじまっていて、いつの間にか、その世界についていくので精一杯になって、いつかはなくなるという世の中の理を考える間もなくなってしまいます。

 このブログをはじめてからでも、私をめぐる状況は少し変わったけれど、だからといって、人間なんてそんなに変わるものではないよな、というのが、このブログの過去ログが示しているようにも思います。ブログが提供した更新しやすさというのは、こうしたログの継続性みたいなものを個人に与えました。その継続性は、自分の可能性を狭めるものとして機能することもあるけれど、それでも、実感としては、これからも続いていく生活にとって、ひとつの勇気というか、自信をくれるものでもありますね。

 調子のいいときも、悪いときも、すべて私。人間は、そんなに変わるものではないんですよね。それでも何か書けと、更新がしやすいブログは私に言っていて、それは、たいしたことは書けなくても、そういう時もあるさ、ということを日々のログが教えてくれたりもするし、あらゆるものは終わるときがあるということを考えるからこその、継続というものが成り立つということでもあるのでしょうね。逆説的だけど、あらゆることは逆説でもあるよな、とも少し思います。

 そう言えば、かつて暇つぶしに遊んでいたShockwave.co.jpはどうなっているかな、と見に行きました。今はないから、新しい人は知らないかもしれませんが、ショックウェーブのテクノロジーを使ったゲームなどのエンタテイメントが無料で楽しめる、広報的なウェブサービスでした。

 今、「Shockwave.co.jpサービス終了のお知らせ」という告知文が置かれています。その下には、人気コンテンツのリンク集があります。ZOOKEEPERはよく遊びました。そのまた下には、「Shockwaveからみなさまへ 〜9年6ヶ月分の感謝を込めて〜」と書かれていて、「詳しくはこちら」というボタンを押すと、Shockwave.co.jpのこれまでの出来事が綴られた映像コンテンツがありました(参照)。なんだか、なつかしくもあり、せつなくもあり、なんともいえない気分になります。あの頃、私は何してたんだっけなあ。

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2009年10月15日 (木)

「ひとびと」を考えるということ

 これは継続的に考え中のことで、自分ではまだ分かっていない部分があるので、備忘録的に思考のログとして残しておこうという感じで書いています。

 昨年の暮れに、私はこのブログに「あえて、2009年は「マス=大衆」について考えてみようかな、と思っています。」と書きました。それは今もぼんやりと続いていて、でも何も結論が出せないでいて、考えれば考えるほど、これは相当難問なだよなあ、と思わされています。

 大衆の時代が終わって、分衆になり、そして個衆へ。

 こう言い切ってしまえばすっきりはするのですが、感覚的にはそうではない気がしています。ほんとかよ、と。ものによっては、確かにそうかもしれませんが、それでも大衆という、何かしらの手応えがあるカタマリが確かにあるような気もします。

 政治がらみのことは苦手ではあるけれど、政治が扱う分野というのは、そういう大衆なんだろうし、その大衆は、子供もいれば若者もいて、バリバリ働く中年もいるし、お年寄りもいます。その各世代の利益配分をどこでバランスをとるか、というのが政治の課題だったりもするのでしょう。

 これはあくまで私というひとりの個性でしかないのでしょうが、いわゆるターゲティングとか、セグメントとかが苦手。ある特定の世代や嗜好にあわせて閉じていくコミュニケーションというものが、どうにもこうにも違和感がありました。もちろん、情報を受ける側としては、そんな閉じていくコミュニケーションの中で、圧倒的な魅力を持つ様々な情報を楽しんでいたりしていますが、情報を組み立て、発信していく側としては、上手い人にまかせて、私はもう少し、どの世代にも等しくよろこんでもらえる表現みたいなものを指向してしまう傾向にあるような気がします。

 そんなやつだから、なんとか大衆というものをつかまえたいと思ったりもするのでしょうけど、それは、急進的な広告人の方からは、いつまでたってもマスコミュニケーションの呪縛から逃れられない旧人類ということなのでしょうが、まあ、そういうご批判なんかを想定しつつも、なんとか、大衆というものをつかまえてみたい、という思いもあるのです。

 で、以前のような「お茶の間」は家庭から消え、テレビや新聞のような圧倒的なマスメディアが凋落気味なのは事実です。マスコミュニケーション全盛の頃から比べると、すごく痩せてきているとは思うけれども、その痩せてしまったコミュニケーションがまったく用なしになるかと言えば、そうでもないような気がします。というか、極論言えば、人間が社会を形成する限り、なくならないものだと思っています。

 また、別に痩せてしまったとしても、それはそれで別にいいのではないかとも思います。それがリアルであれば、その中でやるまでのことだし。メディアやらプロダクトやらアドバタイジングやらも、いろんなすったもんだがありながら、いつかはどこかで均衡するでしょう。ガリガリに痩せて均衡かもしれないけれどね。それはそれでしょうがないことではあるのでしょうけど。

 例えば、今、私はパソコンの前にいて、Googleで検索したり、いろいろなサイトを見たりしていて、それは個衆そのものではありますが、その一方で、外に出ると、例えば、東京駅にいるひとたちを真上から見たとき、そこには子供もいて若者もいて中年もいてご老人もいます。その映像をざくっとつかまえたとき、そこには、やっぱり、大衆としか言えないものが確かにあるのですよね。それは、時代が変わっても、同じようなものとしてあり続けるものなのだろうと思います。

 ウェブまわりで言えば、たとえば、はてなブックマークなんかは、ネットについての造詣が深いというか、ヘビーユーザーという感じで、世代ではなく嗜好で切った限られた層ではあるけれども、あそこに登場するホットエントリーなんかは、やはりひとつの大衆みたいなものの興味の結果とも言えるだろうし、私がなんとなくはてなという企業に対して興味がつきないのは、ネットのインフラとして、そんな大衆というものを再構成しようとする指向性を持っているからなんだろな。

 それは、言ってみれば、「ひと」ではなく、「ひとびと」を考えるということでもあるのでしょうね。ひと、というとき、私あるいはあなたを考えることだけれど、ひとびと、というときは、そのひとの中には、子供もおじいさんもおばあさんもいて、その中でも、いろいろな心境や境遇の人たちがいて、直接その層に届けるものではないとしても、頭のどこかに、そんな多様な人たちを意識をするということなのかもしれません。

 いや、意識するということではないな。きっと、意識する時点で違うのでしょう。そうじゃなくて、意識せずとも、東京駅にたたずむ私、渋谷の交差点で信号待ちしている私というものは、確かに大衆の構成要素のひとりなんだろうし、あの瞬間の感覚を言葉でつかまえられたら、倫理というかたちを取らずにいろんなことがすっきりするのになあ、と考えたりしています。

 あいかわらずわけがわからない、ぼんやりしたエントリになってしまいました。まあ、こういう生煮えの思考もとりあえず発信できるのが、ブログの素敵なところってことで。ではでは。

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2009年10月13日 (火)

そら肉つうたら牛肉やろ

 この前、テレビを見ていたら、大阪ではカレーには牛肉しか使わないというコネタをやっていて、ほんまかいな、と思いました。豚肉も鶏肉も入れてたけどなあ、と見ていると、街の人も、プロのカレー屋さんもみな牛肉。ビーフカレー。もしかして、知らないうちに大阪の食生活が変わったのかな。

 でもまあ、大阪人は牛肉が好きというか、肉と言えば牛肉のことを指すようです。例えば、豚まん。これ、東京でも、たぶん他の地方でも、たいがいは肉まんと言いますよね。でも、大阪では絶対に肉まんとは言いません。餡が豚肉だからです。

 大阪名物、串カツ。これも肉は牛肉。豚肉はほとんど見たことがないし、豚肉の場合は、単なる串に刺した豚カツです。肉じゃが。これも、家庭はともかく、居酒屋さんでは牛肉を使います。豚肉を使ったら、「ちょっと、ちょっと、兄ちゃん、これ肉じゃがちゃうやん。豚じゃがやん。」と言われてしまいます。

 今はどうだかわかりませんが、私が子供の頃、洋食の王様はビフテキでした。ビーフステーキです。このビーフステーキ、大阪ではテキと略したりします。ステーキのテーキの音引きを取って、テキ。こういう略し方は大阪っぽいですね。近所の洋食屋さんには、手書きのこんなコピーが。

 「カツで活力!テキでスタミナ!」

 なんか惜しいコピーですね。カツと活力でかかっているのに、テキでスタミナって。きっと、快適とかテキのつく言葉を考えたけどうまくいかないし、まあいいか、という感じだったんでしょうね。でもまあ、気持ちはものすごくわかります。で、このコピー、かれこれ40年ほどお店のショーケースに貼られ続けていました。つい最近、親父さんが引退して、お店とともにこのコピーもなくなってしまいました。長い間、お疲れさまでした。ごちそうさまでした。美味しかったです。

 牛肉と言えば、私は、肉すいが好き。肉うどんのうどん抜きです。昆布だしに泳ぐ薄切り牛肉と青ネギ。あっさりしてていいんですよね。あれは、いいなあ。なんばグランド花月の近くに有名なお店がありますので、関西の芸人さんも好きな方が多いようです。大阪にお越しの際にはぜひぜひ。って、東京で書いてる私はいったい何者?

 ま、とにかく、おすすめです。

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2009年10月12日 (月)

ウスターソース

 そう言えば、子供の頃は何にでもウスターソースをかけていた気がするけど、このところはめっきりかけなくなりました。ウスターソース、というよりソースとウスターを略して呼んでいましたが、今の子供たちはどうなんでしょう。

 私は関西育ちなので、惣菜屋さんの天ぷらにもソースでしたし、豚まんや焼売はソースと辛し。カレーも目玉焼きもソースでした。銘柄はイカリが多かったです。東京ではブルドックが多くて、びっくりした覚えがあります。ソースとか醤油、味噌は、地域差がありますね。東京ではヒガシマル醤油はあまり見かけないですものね。

 でも今は、天ぷらにソースはかけませんし、カレーも目玉焼きも醤油です。ソースって、ちょっと子供っぽい調味料なのかも。で、ウスターソースをなめてみると、案外深みがあって大人っぽい味で、ちょっと見直さなきゃ、かもなあ、と。

 きっと今は、売れ筋は、ちょっと濃いめのとんかつソースや、もっと濃いお好み焼きソースなんでしょうね。でも、このふたつには、ウスターソースのような複雑な味はしないような気がします。とはいっても安物の舌を持つ私の感覚だから、あてにはなりませんが。

 日本のウスターソースって、本家のイギリスのものとは別物だそうで、私もリーペリンソースというのを買ったことがありますが、味はほんの少し醤油っぽくて、日本のソースにくらべるとパンチがないというか、あっさりしているというか。でも、味の複雑さは本場が上かな、と思いました。なんでも、原材料にアンチョビーを使っているそうです。

 とんかつソースやお好み焼きソースは、ソースをかけて料理が完成という気がするけれど、ウスターソースには、それがない気がします。深く考えると、ウスターソースの必然がある料理は見つけにくいですね。醤油と違って、それ自体がわりと完成された料理っぽい味なので、これはウスターソースでなくちゃ駄目という料理は考えにくいのかも。

 そう言えば、長崎の皿うどんにはソースをかけますよね。あれはなんでだろう。確かに旨いのですが。きっと、ちょっと洋風な感じが、あの土地には好まれた、ということなのでしょうね。ハイカラな感じがしますから。

 あっ、そう言えば、最後にウスターソースで料理が完成、というものをひとつだけ見つけました。大阪の串カツですね。ステンレスの容器にウスターソースがたっぷり入っていて、その中に串カツをくぐらせるやつ。あれは、ウスターソースでなくちゃ駄目ですね。あのソースは、継ぎ足し、継ぎ足しで、ソースを替えないんですよね。いろんな人が串カツをくぐらせるときにしみ出すエキスで、ソースがどんどんおいしくなるそうです。真偽のほどはわかりません。でも、ソース継ぎ足しとか、二度漬け禁止とか、そういう物語はいいですよね。楽しいです。

 ウスターソース的なものって、なんかやりようがあるような。こういう感じのものをなんとかさせるというのが、広告的なコミュニケーションの真骨頂のような気がします。なんとなく、とっても素敵なやり方があるような気が。それは、きっとウスターソースの歴史とかうんちくとかじゃない、何かなんでしょうね。

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2009年10月11日 (日)

ネットよりも新幹線のほうがすごい

 大阪から帰ってきました。1泊2日。サクッと行って、サクッと帰れるのは、新幹線があるおかげ。会って、顔を見て、いろいろ話せばいろいろ安心できるし、時代が変わっても、このへんはずっと変わらないだろうな、と思います。

 タイトルの「ネットよりも新幹線のほうがすごい」という言葉は、アメーバニュース編集長の中川淳一郎さんの新書「ウェブはバカと暇人のもの」にあった言葉です。この本、タイトルに少し毒があるけれど、すごくいい本です。基本、新書は繰り返しは読まないけれど、この本は、わりと何度もパラパラと読んでいます。

 ウェブ2.0とか、プラットフォームの時代へだとか、コミュニケーション・デザインとか、いろいろ言われていますけど、この本にあるようなことがベースになるものだと思います。ネットは便利だし、こうして私のような普通の人が、ブログでものが言えて、ブログを書く人たちや読む人たちとささやかなコミュニケーションができているのは、確かにネットのおかげだけど、それでもネットは主語にはならないだろうし、どんな時代だって主語は人でしょ。

 うちの両親も、うちの妹も、ネットをやらない人だけど、それでも何不自由もなく元気に生きているし。私は、リテラシーという言葉があまり好きではりません。それは、以前、「続・リテラシー考」というエントリに書きました。そのエントリに登場する年輩のクリエイティブ・ディレクターのような人を、私は遅れているとは言いたくないんです。それは、うちの両親や妹、それに親しくしているあの人この人を否定することになるから。私にとっては、大切な人だもの。

 ネットよりも電話のほうがすごい
 ネットよりも新幹線のほうがすごい

 人はご飯を食べて体を育て、人と会って友情を培い、勉強をすることによって学校に入り、そこでさまざまなことを学び、学校を卒業することによって社会進出の礎・資格を獲得し、恋愛をすることによって人生にスパイスが与えられ、性交をすることによって快感を得て子どもを作り、仕事をすることによって社会とのつながりを感じ、愛する人に死なれることによって悲しみを覚える。
 私たちの人生、なんとリアルな場の占める割合が多いのだろうか。これら人生の大部分を占める要素にネットはそれだけ入り込めたのか?
 大したことはない。

ウェブはバカと暇人のもの」中川淳一郎(P244〜255より)

 大したことはない。だから、私はブログが好きで、ネットが好き。そこにあるいろいろ含めて、好き。だからといって、これからはネットだとは思ったこともないし、これからも思わないです。そんな考えで、私はこれからもネットにかかわると思うし、それは、他のメディアだって同じスタンスです。

 ここ10年くらいの広告実務の経験から言っても、今も昔もそんなに変わってないと思うんですよ。いいものは広告すれば売れるし、必要がないものは広告しても売れない。ただそれだけ。ネットだって、テレビだって、新聞だって、ただのメディアじゃないですか。ほんとのところをよく知って、必要に応じて、身丈にあわせて、使いこなせばいい。そんなふうに思っています。

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2009年10月 8日 (木)

存在をいかにして環境に溶かすか

 この前に、「消えたのではなく、溶けた。」というエントリを書きましたが、そのカメラマンの方と、もうひとり、ムービーの世界で活躍するとあるカメラマンの方と一緒に話す機会がありました。

 そのムービーカメラマンの方は、別のテレビCMでご一緒しました。そのCMは、いわゆる歌って踊る楽しいCMでした。

 歌とダンスがメインのシンプルな構成で、幕張の公園で撮影しました。広大な芝生が広がる公園で、ダンスをする子役さんや役者さんを、長玉(超望遠レンズ)で撮影しました。つまり、演者からすごく離れた位置にカメラがあるのですね。監督や振り付け師は、拡声器で指示します。

 望遠レンズにしたわけは、背景の花の小道具や樹木の緑のボケ足が欲しかったこと。望遠レンズのクローズアップで撮影すると、背景がいい感じにボケるのですよね。デジタルカメラを持っている人ならわかるかと思いますが、マクロで撮影すると、背景がボケますよね。あれと一緒です。

 でも、その選択には別の理由もあるのです。それは、カメラの存在を環境に溶かすこと。

 「あのCMは、ファンタジーだしミュージカルじゃないですか。だから、そこにはカメラはいないほうがいいんですよね。だって、役者が歌って踊るステージの前にはカメラはなくて、観客がいるじゃない。ああいう感じをつくりたいから、カメラは離れなきゃ駄目なんです。」

 そうなんですよね。いい映像を残すために、カメラマン自らの存在を環境に溶かそうとする。そんな逆説的な世界が、プロのカメラマンの世界にはあるのです。「消えたのでは、溶けた。」で取り上げたカメラマンの方は、単焦点カメラを目線に合わせて、息を止め、シャッターをおろすという、人が裸眼で見るたたずまいに自らを近づけ、被写体に心を通わせることで、存在を溶かし、もう一方のカメラマンの方は、超望遠レンズで物理的に被写体と距離を置くことで、存在を溶かす。

 互いの方法論は違いますし、ふたりのカメラマンの個性もまったく違うけれど、どちらも目的は同じ。存在をいかにして環境に溶かすか、ということにすべてのスキルを投入する。プロフェッショナルとは何か、ということを考えさせられる素敵な夜でした。

 「でもね、それでもね、撮影をするってことは、その人の大切な部分に土足で上がるっていうことは消えないんだよね。それは、やっぱりありますよ。シャッターを押す瞬間に、あっ、一線を超える、という緊張感は。だから、シャッターを押す前に、長い時間をかけて、話をただただ聞くんです。その人がどんなことをして、どう思って生きてきたかを知るために、ね。」

 単焦点で人をまっすぐにとらえる手法で真実に迫ろうとする、スチールカメラマンの方は、そう言いました。それを聞きながら、ムービーカメラマンの方は、深くうなずいていました。

 「それにしても、個性もやり方も違うカメラマンふたりが一緒に飲んでいるっていう、この巡り合わせは幸せなことだね。普通、カメラマンって、意外とこういう感じの接点はないじゃないですか。」

 その夜は、私とカメラマンふたり、スチールカメラマンの元で修行中の若いカメラマン、CMディレクター、若いプロダクションマネージャー。渋谷のアパートの畳の部屋で、いい歳の男5人がクリエイティブ談議。でも、そんな時間を持てることは、すごく贅沢なことだなあ、と、しみじみ思いました。

 じつは、クリエイティブに携わる様々な分野の人たちと仕事を離れて話せる、こんな素敵な縁をつくってくれた人がいます。その人は、今、天国にいます。自分が担当のCMが完パケしてから、病室で息を引き取りました。今年の6月のことです。天国でも読んでくれているかな。

 「あのカメラのエントリ、読みましたよ。あれは、面白かったなあ。」

 あの人なら、そんなふうにきっと言ってくれると思うんですよね。私は元気にやっています。心配せずに、ゆっくり休んでくださいね。

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2009年10月 6日 (火)

PHSの歴史を見ると、いかにコミュニケーションの基礎設計が重要かがよくわかります。

 ウィルコムが事業再生ADRにより事業再生を目指すとのことです。私は、DDIポケット時代からのウィルコムユーザーなので、ウィルコムには愛着がありますし、ひとりのユーザーとしてはさしたる不満もないので、ぜひとも頑張っていただきたいと思います。

 いちおうはウィルコムファンでもあるので、せっかくなんでこのあたりで、ファンとして言いたいことを言っておきましょうかね。

 今のiPhoneなんかのスマートフォンブームのきっかけをつくったのは、じつはウィルコムなんですよね。キーボードなしのハンドヘルドPCのカタチをしたWindows Mobile搭載端末のW-ZERO3や、ケータイライクなテンキーを搭載したW-ZERO3[es]がヒットしたことで、日本にスマートフォン市場ができたのは確実に言えると思います。また、その前には、Operaのフルブラウザを搭載した、通称「京ポン」という機種もありました。

 そのバックボーンには、64kbpsの高速通信がありましたし、何よりも定額制が、これら端末を成立させるキーポイントになっていました。だからこその、スマートフォンでした。それは、当時としてはケータイには真似できにくいことで、私はW-ZERO3[es]を持つことが少しうれしくもあり、電車の中で[es]のユーザーさんを見つけると、なんとなく仲間意識を持ったりもしました。

 でも、そのあと、猛烈な勢いでケータイに追いつかれ、追い越されてしまうのは、もうみなさんご存知のところだと思います。今、私はWILLCOM 03を持っていますが、なんか肩身が狭いです。まあ、今後に期待しています。

 で、ここからが本題。

 PHSって、音質もいいし、医療現場で使われているように、低電磁波特性にも優れているし、ひところ言われていた移動体通信の問題もわりとすぐにほぼ解決という感じになったし、ケータイとくらべても遜色はないどころか、当時では優位点もたくさんあったわけです。それに、基地局の設置が簡単なので、アジアでは固定電話のかわりとして活躍しているとも聞きます。

 でも、このPHS、最初から躓くんですよね。それは、技術ではなくてコミュニケーションの基礎設計の部分で。まあ、行政とか含めたものですから、企業の、というわけではないのですが。

 まずは、このPHS、最初はPHPだったそうです。Personal Handy Phoneの略。それが、PHP研究所と紛らわしいことで、PHS、Personal Handy-phone Systemに変更されます。このこと自体はあまり重要ではないですが、それを法令上で「簡易型携帯電話」としてしまうんですね。

 もともと、コードレス電話の技術が盛り込まれているし、ケータイの技術よりも後発の技術だし、ケータイよりシステムを簡易に、というのがあったのでしょう。でも、これはコミュニケーションではあまりよくなかったように、今から見れば思います。

 ウィルコムの前身であるDDIポケットも、ポケットと言ってしまって、ケータイよりも簡易というイメージを植え付けてしまいましたし、今はもうないNTTパーソナルの「みんなを電話にする会社」というコピー、アステルは「おでかけ電話は、ルルルのル」というコピーを打ち出していました。みんな、行政が言うところの「簡易型」というコンセプトに乗っかってしまったんですよね。

 これは電話に対しての「携帯電話」とは訳が違います。「携帯電話」は新ジャンルですが、あえて「携帯」を無視して「簡易型電話」と考えても、電話に対して新ジャンルにはならないのですよね。ましてや、携帯電話に対しては言うまでもないでしょう。

 要するに、このとき、もう少し先を見通して考えるべきだったのだろうと思います。まあ、今の時点から過去を俯瞰するという特権的な立場で言っているので、私がその現場にいたときにそれができるかどうかはわかりませんが。

 そのあと、携帯電話はケータイと呼ばれ、新しい電話のカタチになりますが、初期設定でつまずいたPHSは、自らの存在を定義するのをあきらめて、技術用語のPHSのままになり、それを人々はピッチと呼びました。この時点で、ケータイに対するオモチャ的位置づけが決定してしまいます。

 そして、今、PHSの業者がかつてのDDIポケット、つまりウィルコムだけになり、やっとここに来て、ピッチではなく、きちんとウィルコムと呼ばれるようになりました。それは、社名変更の影響も大きいと思いますが、少しばかり先に行きすぎてついていけないところもありましたが、これまでの独創的な開発力もあったと思います。

 あとは、ケータイに対する通信性能の差別性がいかに持てるかだけなんですよね。だけなんですよね、って、それが重要なんじゃ、という声も聞こえてきそうな気がしますが、とにかくユーザーとしてはもう一花咲かせてほしいなあと思うんですよね。専門家的には、どうなんでしょうかねえ。やはり技術的には厳しいのでしょうか。でも、コミュニケーション的には、時間がかかったけれど、やっと過去の呪縛から解き放たれた感じだと思いますし、ここからがスタートという気もしていたので、なんとな頑張ってほしいなあと思います。

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2009年10月 4日 (日)

新書文体

 いろいろな新書を読む中でちょっと気付いたこと。

 ほとんどの新書って、「ですます」なんですよね。普段は「だである」で書いている著者も、新書だと「ですます」になるようです。その意味するところは、おしゃべりの言葉に近い言葉で書きたい、ということなのでしょう。文体としては、普段は「だである」で書く著者の対談集や講演集に近いように思います。

 最近の新書は、教養だけではなく、よりタイムリーな話題を扱うという雑誌的な役割も担っている気がします。脱稿から出版までのタイムラグが1ヶ月という新書も多いです。紙の出版物としては驚異的なスピードですよね。そのスピードが、文体に影響しているのかも。つまり、確定的な事象ではなく、現在進行形の事象を扱うが故に、断定的に書けない、断定的に書けなければ、当然、おしゃべりのような読者への「こう考えるのだけれど、どうですかね」という問いかけになる、というようなことなのかな。

 一方、本来は思い切りタイムリーなはずのネットの言葉が、それほど「ですます」ではないのも興味深いところです。ブログなんかも、主流はまだまだ「だである」調の書き言葉ですしね。と考えると、新書という媒体が持つ「啓蒙性」みたいなものが影響しているのかもしれません。

 ともあれ、新書という、わりと現代的なメディアにおける日本語の変化は、日本語全体、ひいては日本の生活文化全体に何かしらの影響を与えていくということはあるのだろうな、と思います。ケータイ小説なんかは、書き言葉の解体的なものが鋭角的に出ているような気がしますが、鈍角的に、だからこそ広まりが実感できる新書文体が妙に気になります。

 そう言えば、このブログもデフォルトが「ですます」なんですよね。なんでだろう。

 私の場合は、単純に「ですます」が書きやすいというのはあるなあ。特に、このエントリみたいな生煮え感があることを書く時は、気軽に書ける「ですます」が書きやすいみたいです。

 

 ■最近読んだ中で「ですます」の意味合いが気になった新書

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2009年10月 3日 (土)

2年以上前に書いたエントリなんですけどね

 このブログには、そこそこの数の人が毎日訪れてくれる、息の長いエントリがひとつだけあるんですよね。2年以上前のエントリなんですけど。大手ニュースサイトに取り上げられたわけでもなく、はてブのホットエントリになったわけでもなく、書いた時はあまり反響がなかったんですけどね。たぶん、私のブログの全エントリの中で、最もPVが多いエントリなのではないでしょうか。ココログは、過去4ヶ月の累計しかわからないんですけどね。(ちなみに、過去4ヶ月のエントリ別アクセス数ベスト10は、サイドバーの一番下にあります。)

 今でもときどきコメントをいただきますし、詳しい人からいろいろ教えていただいたりもしました。もともとは、ジブリの「耳をすませば」の主題歌である「カントリーロード」の歌詞が気になって、原曲の「TAKE ME HOME, COUNTRY ROADS」の英語の歌詞を調べたのがきっかけでした。

 ネットを調べれば、きちんとした日本語訳が出てくるかな、と思って調べてみても、その時点では、直訳っぽいものはなかったんですね。で、辞書を片手に自力で訳してみるか、という感じです。まだ、この歌詞には少しわからないところがあるのですが、いろいろ結論も出て来ていることだし、もう一度まとめ直してみようなか、なんて思っています。

 それにしても不思議なものですね。時間単位、日単位で見ると、当然、広告についてのエントリのPVが多いのです。まあ、それは当然と言えば当然なんです。曲がりなりにも専門家だから、オープンなネットの中では、様々な事象についてのタイムリーな専門家の見解を述べるという役割を担っているとのもあるだろうし、何より、私自身の考えのまとめにもなるから書いているのだけれど、でも、年単位で見ると、こういう広告や自分の大きな関心領域以外のエントリが多く読まれるというのは、なんだか、自分の想定の範囲を超えてて、とっても面白いなあ、と思います。

 そう言えば、このブログを始めたときに、本当に書きたかったビル・エバンスについて、このところ書いていないですね。でも、飽きたとか、興味がなくなったとか、そういう感じでもなく、私のエバンス論のテーマであるところの「永遠の三角形」というのは、思ったよりも難問だと思い出してきたから。自分の手に負えるかな、という気もしないでもなく、もう少しいろいろ考えて、またあらためて書いていけたらな、と思っています。

 こちらのほうは、テーマが生煮えだったりもして、今ではあまり読まれていないようです。マスという視点で見れば、今どき、ビル・エバンスではしんどいのもあるのでしょうね。でもね、だからこそ、商業ベースのもろもろを考えなくてもいいブログで書かれるべきテーマなんでしょうね。がんばらないとね。

 では、みなさま、引き続きよい休日を。

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2009年10月 2日 (金)

消えたのではなく、溶けた。

 一昨日、親しくさせていただいているあるカメラマンの方とゆっくり話す機会がありました。

 私はその方の写真が単純に好きです。ブログを参照してもらえればわかると思うんですが、なんかまっすぐなんですね。こういう写真を見ていると、なんとなくね、批評の言葉というのが下品に思えてくるんです。こうだからいい、とか、ああだから悪い、とかではなく、ただ、ええなあ、と。そんな感じ。

 以前、ご一緒させていただいた広告の仕事。長野県の上田市のロケ。

 細い路地をロケハンしていたとき、突然、その方は立ち止まり、すっと息を吸い込んで、肩幅に足を開き、カメラを背筋を伸ばした目の位置に持っていって、息を止め、シャッターを押しました。私は、背後からその姿を見ていたんですが、一瞬、その方の存在が消えてしまったような気がしたんですよね。1秒もないくらいの、ほんの一瞬ですが。

 うまく言葉にはできないけれど、その方の写真を見て、ええなあ、と思う理由がわかったような気がしました。たぶん、その方は、自分の存在を消したのではなくて、対象の人や景色と自然な気持ちで対話することで、存在が溶けたんだろうな、と。それが、私には、存在が消えてしまったように見えた、と。

 だから、写真に写った人は目線がまっすぐなんですね。きちんと、カメラの向こうのその方を見ているんです。それは、風景でも同じだろうと思います。

 その方とは、スチールだけでなく、ムービーでもご一緒しました。上田市のとある酒屋さんでの撮影。まだちいさな女の子たちが遊ぶ姿を撮影しました。そのテレビCMでは、あえてズームやパンが一切なしの定点撮影にこだわったのですが、子供たちが次第に自然な振る舞いになってくるんですよね。結構長く回したから、そうなるまでに時間がかかったけれど、それでも、一瞬、テレビクルーの存在が消えたように思えました。

 でも、それもやっぱり消えたのではないと思うんですよね。それが証拠に、残された映像は映像は、奇跡のような映像だったもの。そこには、「ある視線」が確実に存在しているんですよね。そして、「ある時間」にしか奇跡は残されていなかったし。だから、その映像は、定点で撮影し続ければ必ず捉えられるものではないと思います。そこには、撮影する人という存在があって、はじめて成り立つもの。

 消えたのではなく、溶けた。

 その瞬間、ちょっとキザな表現だけど、その子供たちとそのカメラマンの方を含めた我々クルーの心が通じあって、溶けてしまったんだと思います。

 どこに溶けたのか。きっと、子供たちの心の中に、なんでしょうね。あれは、ほんと不思議な体験でした。張本人でもあるし、その方に、「あれはどういうことですかね」なんて聞こうかな、と思ったんですが、野暮なのでやめときました。

 続きのエントリ:存在をいかにして環境に溶かすか

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