過去は地続きで現在でもある
ひとりの著者の過去のいくつかの作品をつらつらと読みながら、そんなことを思いました。
SFではないけれど、一時的に人体を凍結でもしない限り、過去は必ず現在に続いています。たとえば、私たちは、3時間前を現在と認識することもありますよね。いや、それは過去だと言う人もいるかもしれません。では、3秒前はどうか。いや、それでも過去だとするなら、人は現在を認識することができないということにもなります。厳密に言えば、知覚はリアルタイムではないはずだから。
現在という概念がどこまでを現在とするかということだとすれば、現代の範囲を拡張していけば、過去は現在と言ってしまってもよいことになります。ということは、過去もまた現在なのだ、という言い方もできるはずです。
かつて、ランドサットの衛生写真のような、無限上方からの映像視線を、かつて吉本隆明さんは「ハイ・イメージ論」で「世界視線」と言ったけれど、現在を起点に、無限の過去を現在と地続きに見る視線もまた「世界視線」と言えるのかもしれません。というか、後者の視線は、ずいぶん前から人類が獲得していたものだと思うので、前者の視線は、後者の視線から着想を得た概念だろうとも思うのですが。
人類の精神の営みの歴史から現在の精神を語る方法は、Google mapの衛生地図から都市を語ることに似ているのかもしれません。その方法が必然的に都市に住まう人々の感情のリアリズムを取りこぼしてしまうことを含めて。
そこが、いわゆる知識というものの持つ弱点なのかもしれません。「ハイ・イメージ論」から20年ほど経って、名実ともにウェブというテクノロジーで「世界視線」を獲得してしまった普通の人である私たちもまた、知識人が持つ弱点と同じような弱点を持ち合わせてしまっているのかもしれません。いい悪いを含めて、そうした視線を手にしまった以上、表現というものの何かが変容したのは、ある程度は事実なのだろうと思います。
あの頃、よくわからなかった「ハイ・イメージ論」は、今読むと少しわかるような気がします。それは、現在から、過去を現在として見られる読者の特権なのでしょうけど。まあ、それでも、私には難解なのには、今も昔も変わりはないけれど。
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コメント
田坂広志さんも、同様のことをおっしゃっています。
かつての社会で存在していた仕組みは、時代の流れで「消滅する」のではなく、姿を隠しているだけで、新たなテクノロジーの出現により、かたちを変えて復活する、というようなお話です。
このフレームワークで、新規事業を考えるときの思考方法が変わりました。
投稿: nk | 2009年10月28日 (水) 15:00
新たなテクノロジーは、そのテクノロジーのメカニズムに目がいきがちですが、その機能するところは、案外昔からあった、もしくは隠れてしまったものだったりするのでしょうね。
これを逆から考えると、おっしゃるところの新規事業のフレームワークになる、ということですね。
そういう意味では、私は、昨今のセンセーショナルな広告の終焉論みたいなものは、あまり信じていないところがあるんですよね。
投稿: mb101bold | 2009年10月28日 (水) 21:17
広告の終焉論は、メディア進化論であって、いままで楽して儲かったTV(特にスポット)など4媒体で商売できなくなったことへの嘆きではないでしょうか。
一番大事な表現(メッセージ)の部分は永遠に課題ですよね。
むしろWEBの連中が下品で粗雑な表現を「広告」とか言い出し、お得意も自分たちで出来ると思い込み、スパムみたいな広告があふれることに苛立ちを感じます。
また、騒いでいる狼少年はみんな4媒体でビッグキャンペーンやったこともない人たちに思えて仕方ないです。
電博に追いつけない人間たちの僻みなのでしょうか。。。。。
投稿: nk | 2009年11月 3日 (火) 11:17
広告の終焉論は、構造的な変化による根拠のある論議ではあるけれどもね。でも、終焉はちょっと言い過ぎな気が。センセーショナルに極論を言って論議を起こすというのはわかるけれど、それに乗ってしまうと普遍性みたいなものを見失う恐れがあるんですよね。
まあ、論議にはなるだけルサンチマンはからめないほうがいい、というのは、別の分野の幾多の論議を見ていて思うところでもあります。相当優秀な人でも逃れることは難しいのだけれど。
投稿: mb101bold | 2009年11月 3日 (火) 12:19