「ひとびと」を考えるということ
これは継続的に考え中のことで、自分ではまだ分かっていない部分があるので、備忘録的に思考のログとして残しておこうという感じで書いています。
昨年の暮れに、私はこのブログに「あえて、2009年は「マス=大衆」について考えてみようかな、と思っています。」と書きました。それは今もぼんやりと続いていて、でも何も結論が出せないでいて、考えれば考えるほど、これは相当難問なだよなあ、と思わされています。
大衆の時代が終わって、分衆になり、そして個衆へ。
こう言い切ってしまえばすっきりはするのですが、感覚的にはそうではない気がしています。ほんとかよ、と。ものによっては、確かにそうかもしれませんが、それでも大衆という、何かしらの手応えがあるカタマリが確かにあるような気もします。
政治がらみのことは苦手ではあるけれど、政治が扱う分野というのは、そういう大衆なんだろうし、その大衆は、子供もいれば若者もいて、バリバリ働く中年もいるし、お年寄りもいます。その各世代の利益配分をどこでバランスをとるか、というのが政治の課題だったりもするのでしょう。
これはあくまで私というひとりの個性でしかないのでしょうが、いわゆるターゲティングとか、セグメントとかが苦手。ある特定の世代や嗜好にあわせて閉じていくコミュニケーションというものが、どうにもこうにも違和感がありました。もちろん、情報を受ける側としては、そんな閉じていくコミュニケーションの中で、圧倒的な魅力を持つ様々な情報を楽しんでいたりしていますが、情報を組み立て、発信していく側としては、上手い人にまかせて、私はもう少し、どの世代にも等しくよろこんでもらえる表現みたいなものを指向してしまう傾向にあるような気がします。
そんなやつだから、なんとか大衆というものをつかまえたいと思ったりもするのでしょうけど、それは、急進的な広告人の方からは、いつまでたってもマスコミュニケーションの呪縛から逃れられない旧人類ということなのでしょうが、まあ、そういうご批判なんかを想定しつつも、なんとか、大衆というものをつかまえてみたい、という思いもあるのです。
で、以前のような「お茶の間」は家庭から消え、テレビや新聞のような圧倒的なマスメディアが凋落気味なのは事実です。マスコミュニケーション全盛の頃から比べると、すごく痩せてきているとは思うけれども、その痩せてしまったコミュニケーションがまったく用なしになるかと言えば、そうでもないような気がします。というか、極論言えば、人間が社会を形成する限り、なくならないものだと思っています。
また、別に痩せてしまったとしても、それはそれで別にいいのではないかとも思います。それがリアルであれば、その中でやるまでのことだし。メディアやらプロダクトやらアドバタイジングやらも、いろんなすったもんだがありながら、いつかはどこかで均衡するでしょう。ガリガリに痩せて均衡かもしれないけれどね。それはそれでしょうがないことではあるのでしょうけど。
例えば、今、私はパソコンの前にいて、Googleで検索したり、いろいろなサイトを見たりしていて、それは個衆そのものではありますが、その一方で、外に出ると、例えば、東京駅にいるひとたちを真上から見たとき、そこには子供もいて若者もいて中年もいてご老人もいます。その映像をざくっとつかまえたとき、そこには、やっぱり、大衆としか言えないものが確かにあるのですよね。それは、時代が変わっても、同じようなものとしてあり続けるものなのだろうと思います。
ウェブまわりで言えば、たとえば、はてなブックマークなんかは、ネットについての造詣が深いというか、ヘビーユーザーという感じで、世代ではなく嗜好で切った限られた層ではあるけれども、あそこに登場するホットエントリーなんかは、やはりひとつの大衆みたいなものの興味の結果とも言えるだろうし、私がなんとなくはてなという企業に対して興味がつきないのは、ネットのインフラとして、そんな大衆というものを再構成しようとする指向性を持っているからなんだろな。
それは、言ってみれば、「ひと」ではなく、「ひとびと」を考えるということでもあるのでしょうね。ひと、というとき、私あるいはあなたを考えることだけれど、ひとびと、というときは、そのひとの中には、子供もおじいさんもおばあさんもいて、その中でも、いろいろな心境や境遇の人たちがいて、直接その層に届けるものではないとしても、頭のどこかに、そんな多様な人たちを意識をするということなのかもしれません。
いや、意識するということではないな。きっと、意識する時点で違うのでしょう。そうじゃなくて、意識せずとも、東京駅にたたずむ私、渋谷の交差点で信号待ちしている私というものは、確かに大衆の構成要素のひとりなんだろうし、あの瞬間の感覚を言葉でつかまえられたら、倫理というかたちを取らずにいろんなことがすっきりするのになあ、と考えたりしています。
あいかわらずわけがわからない、ぼんやりしたエントリになってしまいました。まあ、こういう生煮えの思考もとりあえず発信できるのが、ブログの素敵なところってことで。ではでは。
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コメント
mb101boldさん、こんにちわ(^^)
ひとつ、多分誤植です。
集落気味→凋落気味
ではないですか?
>あの瞬間の感覚を言葉でつかまえられたら、倫理というかたちを取らずにいろんなことがすっきりするのになあ、と考えたりしています。
↑これ、私もそう思います。たぶん、(倫理って個人のものだと思うので、)個人がある角度からみて大衆というものになると個人の倫理というより、その社会に特有な無意識てきな共有感覚が現れてくる、はず。みたいなことかな。と思いました。大衆が誰かの、(おそらくはマスメディアのよって誘導された、)倫理を適用すると、なんだかバッシングみたいなことになるのでしょうかね。
投稿: ggg123 | 2009年10月16日 (金) 10:55
ggg123さん、どもどもです。
誤植のご指摘、ありがとうです。修正しておきます。
>無意識てきな共有感覚
なんかそのようなものなのかも。なんとなく論理的にはすっきりしない部分はあるけれど、「あの瞬間のあの感覚」というのはあるんですけどねえ。
これは、まだ言葉以前の感じなんですけど。
投稿: mb101bold | 2009年10月16日 (金) 22:48
ふたたびこんばんわです。(^^)
少しない知恵を絞って考えたのですが、やっぱりわかりません。(なんじゃそりゃ)
でも、大衆を捕らえるなら、歴史とか、時代とか、そういうところから攻めてみるともしかしたら。と単なる思い付きかな。ごめんなさい。
投稿: ggg123 | 2009年10月16日 (金) 23:52
ふたたびこんばんわ。
時代ということで言えば、大衆が見えにくくなっている時代でもあるんですよねえ。でも、「ひとびと」を考えるって、たとえば、だめだめなみっともない感じとか、そんなこんなをなしにして考えないってことなのかなあ、なんて思っています。
投稿: mb101bold | 2009年10月17日 (土) 00:17
はじめまして。最近までPR周りの仕事をしていた人間です。いつも、はっとさせられるような視点やことばを与えてくださるmb101boldさんのブログが大好きで、いつも楽しみに拝見しています。
<「ひとびと」について考える>、いいことばですね。
「大衆」、「マス」と呼ぶ時には見えない、人々の顔やそのくらしが見えてきます。…気がします。
その「ひとびと」の顔たちは、セグメントやターゲティングされた層の積み重ね(集合体)と何が違うのだろう?とエントリを拝見しながらぼんやりと考えていました。
投稿: gfmoon | 2009年10月18日 (日) 04:16
>その「ひとびと」の顔たちは、セグメントやターゲティングされた層の積み重ね(集合体)と何が違うのだろう?
そこですよね。セグメンテーションやターゲティングの手法って、結局は「ひとり」のキャラクターまで追い込んでいくでしょう。
そこで見えてくるものもあるけれど、それで取りこぼしてきたものもあるだろうし、結構、取りこぼしたものって重要なものかもな、という感覚があります。
逆に「ひとり」を気分のモードで切っていくほうが「ひとびと」が見えてくるかも、なんてことをぼんやり考えています。
投稿: mb101bold | 2009年10月18日 (日) 10:20
「ひとり」の気分のモードですか…。
村上春樹の短編、「1963/1982年のイパネマ娘」(『カンガルー日和』収載)にあった、イパネマ娘のセリフを思い出しました。曰く、「人間の本質は複合性にあるのよ」…「人間科学の対象は客体にではなく、身体のうちにとりこまれた主体にあるのよ」。
私もイパネマ娘同様形而上学的なモードのようです。
失礼いたしました。
投稿: gfmoon | 2009年10月18日 (日) 23:44
>「人間の本質は複合性にあるのよ」…「人間科学の対象は客体にではなく、身体のうちにとりこまれた主体にあるのよ」。
なるほど、それは確かにそうかもしれません。私の中にも、例えば、駄目駄目なときと絶好調のときが複合的にありますし、その中庸が私、とも言えないでしょうし。
また状況によっても時間によっても違う自分がいて、その違う自分の複合したものが自分としか言えないし、ついあるひとつの自分を忘れることで自分を考えがちなんだけど、それは違うんだろう、みたいな感じ。
それは、「ひとびと」を考えるときも同じような気がします。
投稿: mb101bold | 2009年10月19日 (月) 00:03