消えたのではなく、溶けた。
一昨日、親しくさせていただいているあるカメラマンの方とゆっくり話す機会がありました。
私はその方の写真が単純に好きです。ブログを参照してもらえればわかると思うんですが、なんかまっすぐなんですね。こういう写真を見ていると、なんとなくね、批評の言葉というのが下品に思えてくるんです。こうだからいい、とか、ああだから悪い、とかではなく、ただ、ええなあ、と。そんな感じ。
以前、ご一緒させていただいた広告の仕事。長野県の上田市のロケ。
細い路地をロケハンしていたとき、突然、その方は立ち止まり、すっと息を吸い込んで、肩幅に足を開き、カメラを背筋を伸ばした目の位置に持っていって、息を止め、シャッターを押しました。私は、背後からその姿を見ていたんですが、一瞬、その方の存在が消えてしまったような気がしたんですよね。1秒もないくらいの、ほんの一瞬ですが。
うまく言葉にはできないけれど、その方の写真を見て、ええなあ、と思う理由がわかったような気がしました。たぶん、その方は、自分の存在を消したのではなくて、対象の人や景色と自然な気持ちで対話することで、存在が溶けたんだろうな、と。それが、私には、存在が消えてしまったように見えた、と。
だから、写真に写った人は目線がまっすぐなんですね。きちんと、カメラの向こうのその方を見ているんです。それは、風景でも同じだろうと思います。
その方とは、スチールだけでなく、ムービーでもご一緒しました。上田市のとある酒屋さんでの撮影。まだちいさな女の子たちが遊ぶ姿を撮影しました。そのテレビCMでは、あえてズームやパンが一切なしの定点撮影にこだわったのですが、子供たちが次第に自然な振る舞いになってくるんですよね。結構長く回したから、そうなるまでに時間がかかったけれど、それでも、一瞬、テレビクルーの存在が消えたように思えました。
でも、それもやっぱり消えたのではないと思うんですよね。それが証拠に、残された映像は映像は、奇跡のような映像だったもの。そこには、「ある視線」が確実に存在しているんですよね。そして、「ある時間」にしか奇跡は残されていなかったし。だから、その映像は、定点で撮影し続ければ必ず捉えられるものではないと思います。そこには、撮影する人という存在があって、はじめて成り立つもの。
消えたのではなく、溶けた。
その瞬間、ちょっとキザな表現だけど、その子供たちとそのカメラマンの方を含めた我々クルーの心が通じあって、溶けてしまったんだと思います。
どこに溶けたのか。きっと、子供たちの心の中に、なんでしょうね。あれは、ほんと不思議な体験でした。張本人でもあるし、その方に、「あれはどういうことですかね」なんて聞こうかな、と思ったんですが、野暮なのでやめときました。
続きのエントリ:存在をいかにして環境に溶かすか
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