ルールとモード
1950年代の音源を順を追って聴いていくと、ジャズの音楽理論が複雑化、高度化していく様が手に取るようにわかります。アドリブがより高度になり、スピードも上がっていきます。ハードバップの後期では、それこそ神業みたいな演奏を聴くことができます。
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ジャズのアドリブは、感性におもむくままに自由に演奏しているように思えてしまいますが、そこにはきちんとしたルールがあります。そのルールの元になったのは、コード進行です。あるコードに対して、使える音はこれこれこうで、その音は、これこれこう展開できる、というような理論があり、その理論に基づいて、自分なりのアドリブをつくっていきます。
ルールがあるから、ジャズは広がり発展していきました。ルールがあるということは、模倣できるということです。模倣できるからこそ、ジャズという音楽は広まり、より高度なルールの応用によって、ジャズは、これまで以上に多様で豊かな音楽になっていきました。
ルール、つまり、音楽理論に基づいて演奏されるということは、基本的には、そのルールを深く詳しく知り、応用できることが重要になっていきます。高度で複雑なアドリブを演奏するためには、その元になっているコード進行を複雑にすることが必要になります。コード進行は分解され、より複雑で緻密なものになっていきます。
ジャズを発展させたのはルールでした。
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でも、高度化し複雑化するジャズという音楽は、未来永劫発展しつづけるのかというと、そうではありませんでした。これは、歴史を俯瞰する立場にいるから言えることなのかもしれませんが、何事にも限度というものがあるように思います。これ以上複雑にしても意味がないという領域があり、その領域にたどり着いたとき、アドリブはマンネリ化していきます。
ルールをよく知り、そのルールを応用する技術を持つ者であれば、誰でもある程度のアドリブができてしまうという状況が生まれました。それでもアドリブにも個性はあるだろうし、その圧倒的な個性、つまり、属人的な感性を楽しむものとして古典芸能化していく道もあったのでしょうが、それでも、あるルールができて、それをみんながこぞって発展させていった、あの渦中の熱はもうそこにはなくなってしまいました。
どれだけ新しい試みをしても、ルールに基づく限りは、すべてがクリシェになってしまう。その状況は、演奏家たちにとって地獄のような状況だっただろうと思います。
ジャズの発展を止めたのもルールでした。
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このどん詰まりの状況を打開したいと思う人たちがいました。マイルス・デイビスやビル・エバンス、ジョン・コルトレーンなどです。ギル・エバンス、ジョージ・ラッセルなどが先行して構築しつつあった音楽理論を手がかりに、新しいジャズをつくっていきます。モードジャズの誕生です。
モードジャズを簡単に言うと、コード進行からの開放です。つまり、コード進行に基づいたルールに縛られて不自由になるのなら、コードをなくせばいいじゃないか、という考え方。コード進行をどうしようもなく想起させてしまうドレミファソラシという旋律(モード)ではなく、あえて不安定なレミファソラシドというモードを選び、そのモードの中でアドリブを展開するというものです。不安定であるがゆえに、コード進行に依存しないで済むんですね。
ハードバップの後期、もうこれ以上はないと思えたアドリブは、モードジャズの誕生によって蘇りました。それどころか、ハードバップの流れにあるジャズマンたちのアドリブにも変化があったのです。所謂モード的解釈というやつです。ビル・エバンスは、モードジャズがもたらした自由に突き進んでいったコルトレーンとは違って、西洋音楽をベースとした和声理論のモード的解釈に生涯を費やしたと言ってもいいのではないかと思います。
ルールによってジャズは発展しました。そして、そのルールの高度化により、ジャズは行き詰まりそうになりました。その行き詰まりを打開したのは、新しいルールではなく、モードという新しい発想でした。つまり、ルールが依拠しているモードから、まったく違うモードに軸足を移すというやり方だったのですね。
ジャズの行き詰まりを打開したのは、新しいルールでもなく、ルールの書き換えでもなく、モードという考え方の転換でした。
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私は、なんとなく、1960年代のモードジャズへの転換というのは、あらゆる分野において、結構重要なものを示唆しているのではないかな、と思うんですね。ルールがあるからこそ、ものごとは発展します。けれども、そのルールが、やがてそのものごとをがんじがらめにしてしまいます。
そのとき、新しいルールをつくるのではなく、ルールを書き換えるのでもなく、そのルールが成り立っている場所そのものに考えを巡らせる。そんな、モードジャズのような発想が、今、いろんな行き詰まりに必要なことのように思います。
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ちょっと蛇足ですが、私がビル・エバンスという音楽家が好きなのは、モードジャズの中心的な存在にもかかわらず、モードジャズという形式にさえこだわりがなかったところなんですね。コード進行主体のオーソドックスなジャズを、モード解釈によって新しくするというエバンスの仕事が私は好きです。
エバンスは、あえて言えば、モードにさえこだわりがなく、複数のモードを生きていた音楽家のような気がします。彼は、マイルスやコルトレーンと違って、しなやかでもないし、不器用そのもののような人物ではありますが、その音楽は、新しいムーブメントをあえてつくらなかったという意味において、自由にあふれているような気がするのです。死ぬ間際に、酒とバラの日々をうれしそうに弾いていたエバンスが、私は好き。
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ジャズをあまり聴いたことがない人には、わかりにくい文章になってしまったかもしれませんが、ルールの高度化がもたらしたハードバップの代表曲は、こんな感じです。これはこれでいいものですよね。昔は苦手でしたが、今聴くと、すごくいいです。
モードジャズの代表曲は、あえてマイルスではなく、コルトレーンで。モードという発想がもたらした自由をこれほど表現しているミュージシャンは他にいないと思うから。
最後に、ビル・エバンスの酒バラ。私は、後期のエバンスは、インタープレイという意味では、本当は後退していると思うところがあるのですが、そんな批評とは関係なしにいいです。題名どおり、この演奏は、エバンスの人生そのものだと思います。
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コメント
最近は、アート・ブレイキー(ジャズ・メッセンジャーズ)の
「ざっくばらんさ」が好きです。
昔はその良さが分からなかったのですが。
コルトレーンは今も苦手です。
一方的でデリカシーが無い気がします。
(アルバム「バラード」を聴くと繊細なので、「あえて」だと思いますが)
で、エヴァンス。
いつのまにか「From Left to Right」
が一番の愛聴盤になってしまいました。
投稿: オスギ | 2009年11月26日 (木) 13:58
私にとってはアートブレイキーもバードと同じ感じでした。あとロリンズとかも。つまり、あの頃、1987年ですが、フュージョンとかクロスオーバーとかを経過してきた私にとっては、古典落語の名人のような聴こえ方をしたんですよね。
でも、今、あらためて聴くと、これがいいんですよね。あの頃の自分の未熟さがわかるんです。言ってしまえば完璧なんです。それに比べれば、コルトレーンのハードなモードは破綻が見えるんです。エバンスもそう。
ここで、悩むんですよね。本当にジャズという文化が好きなんだろうか、と。相対的にどちらもいいよね、と聴けるようになった今も。その思いはあります。
私の愛聴版はエバンスのSunday at the Village Vanguardですね。もちろん、Waltz for Debbyのキャッチーな演奏の方が心地よく、質も高いとは思うんですけど、All of youのあの渋さは何度聴いてもいいなあ、と思うんですよね。絶品です。
投稿: mb101bold | 2009年11月27日 (金) 00:25