おばちゃんたちの会話。
とある繁華街。ショーウィンドウのクリスマスツリー。そこには、手のひらくらいの小さな手編みのセーターがオーナメントのようにいくつも飾られていました。色とりどりのちいさなセーターはかわいらしくて、いい感じ。
見た感じ、60歳後半から70歳前半ぐらいの、仲良さそうなおばちゃんふたりが足を止め、クリスマスツリーを眺めました。服装は、いたってふつうな感じでしたので、まあふつうのおばちゃんたちなんでしょうね。
「これ、いいわねえ。」
「そうねえ、なかなかのアイデアだわねえ。」
今どきの感想だなあ、と思いました。なんというか、今、みんなこんな感じなんですよね。さりげない言葉だけど、感想に、アイデア、という言葉が出てくるんですよね。おばちゃんの口から。
つまり、いろんなことの中のしくみが、みんな見えちゃっているんです。これは、きっとネットとかそういうものの影響っていうわけじゃなくて、ネットなんかが成り立っている社会の空気がそうさせているように思います。
うちのおやじなんかも、ネットはまったくやらないけれど、CMや新聞広告なんかをそういう見方をします。ま、息子の職業が広告制作だからという部分もあるでしょうけど、見方が批評的なんです。
だからだめだ、とは私は思わなくて、ある意味で健全だな、とも思うんですね。というか、それがリアルなのだから、それはそれで現実なんですよね。私はそんなふうに考えます。広告わかれ、まっすぐに理解しろ、とはおこがましくて言えません。
消費者が賢くなった、とも思いません。昔も今も、メンタリティとしてそんなに変わらないのは、自分という消費者を見続けていてわかります。今も昔も、その手のスキルやリテラシーは層に分かれています。アドプターとかマジョリティとか、そういう層の割合は、ロジャースが提唱した頃から、そんなに変わらない気がしますし、その割合が劇的に変化しているという話も聞きません。
人間、ふつうの生活をしていれば、そんなに簡単に変わるもんではないんです。全体がマジョリティからアドプターや、ましてやイノベーターに変化するなんてこと、絶対にないんです。最先端系の広告話を聞いていると、どこかでそんな人間の意識の変化を勝手に期待しているところが見えて、それは、要は、自分に都合よく人間を変えたいってことだよなあ、傲慢な考え方だなあ、と思ったりします。
じゃあ、なぜ感想が批評的になってしまったのか。
それは、きっと世の中の変化のほうが、作り手の変化よりも早かったからです。いわゆる、作り手がついていけてない状態。私が意識的に見てきた80年代から今にかけての表現の流れを見ても、定期的にそういう時期があったように思います。
あっ、今までのものが終わるな、という時期があって、それは、過渡期と言われたりするんでしょうね。今が、きっとそのとき。いつも過渡期と言われてはきたけれど、今は、わかりやすすぎるくらい過渡期だと思います。
広告が終わったなんてことでもなく、そもそも、広告の成立要件である不特定多数に受動的にメッセージを伝えるという行為が、これだけ長い間行われてきている中で、作り手のつらい気分だけで終わるわけはないんです。要は、終わったというと自分が楽になるからなんでしょう。こういう気持ちは、私にもちょっとあって、そのたびに違うよな、そんな都合のよいことではないな、と思っています。要は力がないだけ。自分自身が、もっと力をつけなくちゃってこと。
作り手が変わらなきゃ、なんです。
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