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2010年1月の12件の記事

2010年1月25日 (月)

生まれ来る子供たちのために

 少し前になりますが、佐野元春さんと小田和正さんの対談をテレビで観ました。NHKの「THE SONGWRITERS」という番組で、私が観たのは再放送らしいです。

 私は、今だに小声で言う感じではありますが、オフコースが好きです。この感覚、もう若い人にはわからないかもしれませんね。オフコースが「さよなら」という曲でブレイクする前は、男性でオフコースファンと公言するのは、少し恥ずかしい感じがありました。よく軟弱と言われていましたね。

 そういう扱いを受けていたのは、アルバムで言えば「Three and Two」以前という感じでしょうか。それまでオフコースは、小田和正さんと鈴木康博さんのデュオなのか、それとも5人編成のバンドなのかは、あいまいな感じで、レコードでは多重録音によるかなり作り込まれていたサウンドでした。ライブはともかくレコードでは、ボーカルは、コーラスのパートを含めて、小田さん、鈴木さんだけではなかったでしょうか。アレンジは、これでもかというくらい緻密で、ファンの多くは、そんな音楽的な緻密さにも魅かれていた感じがありました。

 当時の所属レコード会社である東芝EMI的には、いいグループなんだけど、いまいち華がないし、セールスも振るわない、という感じだったのではないでしょうか。

 もともとオフコースは、PPMなんかのモダンフォークに影響を受けたコーラスグループでした。ライブ活動やレコーディングを重ねるにつれ、バンドサウンドになっていって、いよいよオフコースはバンドなんだと宣言したのが、この「Three and Two」というアルバムなんですね。でも、3人と2人という宣言の仕方は、今思えばなんだか煮え切らない感じもします。そういう「考え過ぎ」な感じはオフコースならではだなあ、と思いますが。

 セールス的には「愛を止めないで」のスマッシュヒットがあり、その後の「さよなら」の大ヒットで、オフコースは押しも押されぬビッグネームになっていきました。空前の大ヒットである「さよなら」の次のシングルが、表題の「生まれ来る子供たちのために」でした。

 この曲、とても美しい曲ですが、シングルカットの曲としてはとても地味です。大ヒットの次なので、レコード会社としては、「さよなら」第二弾的なキャッチーな曲を求めてくると思いますが、そのあたりは、小田さんはかなり意識的に、この地味な曲をシングルにしたと語っておられました。こういう時こそ、オフコースらしい曲を出すべきだ、みたいなことですね。趣旨はWikipediaの「生まれ来る子供たちのために」で引用されている発言とほぼ同じですね。孫引きですが引用しておきます。

「こういう曲をシングルにするっていうのはやっぱり、盛り上がったときにしかできないしょ? 普通のときに出していたら、良い曲だけど地味だ、っていわれるだけ。で、この時期にそういう曲を出して、次の活動につなげていきたいんだよね」

「これはオフコースのテーマ、というか、僕自身のテーマなんだよね。日本はどうなっちゃうんだろう、という危機感て前からあるでしょ? でも結局、公害どうのこうのっていっても、そんな騒ぎはすぐ下火になっちゃう。日本人って、そういう部分で飽きちゃうんだ。それを自分自身でも意識しているべきだと思う。そんな意味で出しかった」

 この曲、今では「言葉にできない」と同じように、今もなお多くの人に愛され続けています。もしかすると、大ヒットした「さよなら」や「Yes No」よりも愛されているかもしれません。たくさんのアーチストがカバーしていますし、それなりにヒットもしていますよね。

 「言葉にできない」の時も、社会現象にもなった「overコンサートツアー」の真っ最中のシングルとしてはとても地味で、そんな地味な2つのシングルが20年以上経った今、オフコースを知らない世代にも聴かれ続けているというのは、あの当時を知っているものとしては、ほんと不思議だなあと思います。

 だけど、小田さんにしてみれば、それは当然という感じでもあるのかもしれませんね。それだけの自信があるからこそ、レコード会社の反対を押し切ってシングルにしたわけですから。(あとは「ひとりで生きてゆければ」がリメイクでヒットすれば完璧なんでしょうけどね。このあたりは、古くからのオフコースファンの方ならわかりますよね。)

 「生まれ来る子供たちのために」は、小田さん流のメッセージソングだということですが、私は、最初の歌詞がずっと頭の中に残っていて、今もときどき、あれはどういう意味なんだろうな、と考えたりします。

多くの過ちを 僕もしたように
愛するこの国も 戻れない もう戻れない

 ここで言う戻れない「この国」っていうのは、どこなんだろう、と。「この国」に戻れない「僕」は小さな舟で大海原へと旅立つんですよね。この曲は、こういう歌詞で結ばれます。

真っ白な帆をあげて 旅立つ舟に乗り
力の続く限り ふたりでも漕いでゆく
その力を与えたまえ 勇気を与えたまえ

 きっと、海原は、今生きている時代であるとか社会でとかであるのだろうな、と思います。それは、先の小田さんの発言から紐解くと「日本」ということにもなるでしょう。であるならば、「この国」っていうのは何だろうな、と思うんです。過去と未来という考え方もできそうな気もしますが、少しつまらない解釈かな、とも思います。

 なんとなく思うのは、「この国」では共同体と個が溶け合っている場所なんだろうなということです。それは、イメージとしては子供時代と言ってもいいかもしれないし、もっと言えば、社会という言葉に対するコミュニティ的な場所、あるいは阿部謹也さんが言うところの「世間」なのかもしれないな、とも思います。

 その場所で、多くの過ちをするとは、すなわち「個」になることと同義であり、「個」となることは、その場所を出ることを意味し、だからこそ、海原としての「社会」が「その国」と対応するかたちで出てくるのではないだろうか、と。

 小田和正という人は、わりと西洋的な、あるいは近代的な「個」を心の中に持っている人だと思います。「個人主義」というアルバムも出していますし、その人が「相対性の彼方に」なんてへんな名前のアルバムをつくるのも、なんとなく、そういう軸で考えるとわかる気がします。なんとなく今になって、この曲を起点として、小田和正という人の考え方がわかったような気がしました。

 5人のオフコース時代の「Three and Two」という妙なアルバムタイトルの根拠は、きっとこのあたりにあるのかもしれません。そして、「We are」と宣言して、すぐに「over」で終わってしまったのも、鈴木さん脱退という出来事もあるにせよ、小田さんの考え方からすると必然に近いのかもなあ、とも思いました。で、その後、一人称で「I LOVE YOU」というのも、なんとなく納得。

 それで、あれこれ考えていて、この年になってわかることがありました。私は、どうしようもなく小田和正という人の考え方に影響を受けているんだなあ、と。まだ考えはまとまっていないけれど、今、考えている社会とかコミュニティまわりの考えは、よく考えると、小田さん的感覚と似ている気が。なんか、ちょっとなあ、まだ影響下にいるのかよ、とも思ったり。そりゃまあ、中学時代からさんざん聴き倒しているわけだから、しょうがないことでもあるけど。

 そう言えば、番組で曲を先につくり詞は後から、と語っていましたね。それは、言葉を直感で紡がないということでもあるのでしょう。あの、小田さんの歌にある、センチメンタリズムに隠れた、いい意味での論理性や理屈っぽさの理由は、そこらへんにあるんだろうな、と思いました。本人も、直感ではなく、修正を重ねて曲をつくると語っていて、そのあたりも、聴き込んで来た者としては、非常に合点がいきました。ある意味で、建築に似ているんですよね。

 とまあ、オフコースまわりは、いつまででも書いていられそうな感じなので、今日のところはこのへんで。それにしても、オフコースのことを書くの、久しぶり。なんか、書いている本人はすごく楽しいのですが、「生まれ来る子供たちのために」の発売が1980年だから30年以上前の話、今の若い人にはわかりにくいのかもなあ、と思ったり。

 ■「5人のオフコース」時代のCD・DVD

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2010年1月18日 (月)

ぎこちない関西弁

 1月17日の夜11時からNHKで放送された、阪神・淡路大震災15年特集ドラマ「その街のこども」を観ました。

 物語は、森山未來さん演じる若者と佐藤江梨子さん演じる若者の二人の会話を中心に進んでいきます。ともに子供時代を神戸で過ごし、震災を体験し、現在は東京で暮らす二人の関西弁のぎこちない感じが強く印象に残りました。

 私は、大阪で出身で東京暮らしが長いから、このぎこちない感じは、身にしみてわかります。関西弁は、やはり自分の根拠でもあるし、そのこと自体は、自分の中では確かなことなのだけれど、でも、その関西弁は、私が日々の暮らしの中で、普段使う言葉ではないというもどかしさがあります。

 大阪に帰ると、自分が話す関西弁によって、どこにも拠り所がないことを思い知らされたりするんですね。

 東京ではすぐに関西人とわかる話し方をしているのですが、それでも、なんとなく自分がどのコミュニティにも属さない根なし草だなあ、と思わされることがあるのです。まあ、そんなにたいそうなものでもないけれど、このさみしい感覚はずっとあります。今も、ほんの少しだけ心にへばりついて取れないでいます。

 二人は、三ノ宮から御影に向かって、夜道をひたすら歩きます。互いに名前を知らないままに、ひたすら喋ります。やがて、遅い自己紹介があり、そこから関西弁が自然になってくるんですね。互いを名前で呼び、自分の領域と他人の領域が溶け合った、関西独特の二人称である「自分」も使われるようになっていきます。

 このあたりの、時が経つにつれて関西弁が生き生きとしてくる感覚も、ああ、そうそう、そんな感じだなあ、と思いました。演出もあるのでしょうが、役者自身がそのストーリーを演じる時間の中で、自然と変わってきたのもあるのでしょうね。

 でも、それでも、その関西弁は、どこかぎこちなさを残していて、その残されたぎこちなさ、不器用さこそが、今の彼であり彼女なのだろうな、とぼんやりと考えたりもしました。

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2010年1月17日 (日)

阪神・淡路大震災から15年

 今日の5時46分で、阪神・淡路大震災から15年が経ちます。ここ数日、テレビや新聞でも積極的に報道されていますし、中にはかなりの取材を行って深く掘り下げた番組もありました。昨日は『神戸新聞の7日間』というドラマも放送されましたし、今日の夜は『その街のこども』というドラマも放送されます。やはり、こういう時、マスメディアの社会的役割ということを考えさせられます。

 私は、当時は大阪に住んでいました。だから、それほどの被害は受けずに済みました。神戸から電車でわずか40分程度しか離れていないのに、大阪ではさしたる被害はありませんでした。あれだけの被害を出した震災が、少しの距離の違いでこうも違うものなのかという思いが、今も鮮明にあります。

 大阪でも強烈な揺れを感じました。ドンドンドン、と突き上げるような、今まで体験したことのない揺れ。重い家具が動き、食器が割れました。就寝中だったのですが、飛び起きて、まずテレビを付けました。

 NHKのニュースでは、落ち着いた様子で震災のニュースを伝えていました。鳥取や岡山、滋賀や三重まで含めて、かなり広範囲の震度が表示されていてましたが、でも、直後では神戸・淡路の震度が表示されていませんでした。その時点では震源が神戸・淡路であることがわかっていなかったような記憶があります。今から考えると、神戸・淡路の表示がないことから、その地方が大変なことになっている可能性を考えるべきだったと思うのですが、大阪のテレビスタジオを含めて、その時点ではあまり危機感はなかったように思います。

 大阪の放送局近くの建物が中継されていて、窓ガラスが割れている様子を映していました。アナウンサーは余震に注意するように、と伝えていました。

 当時、糖尿で市民病院に入院していた父から電話があり、近くに住む祖母に電話し、安否を確かめ、神戸や米子に住む知人と連絡を取りました。30分くらい過ぎると、電話が使えなくなりました。

 神戸の被害が報道されるのは、それから1時間ほど経ってからでした。ヘリコプターの映像が映し出され「神戸が燃えています」と記者が叫んでいました。それからしばらくして、空にたくさんのヘリコプターが飛んでくるようになりました。

 後に父に聞くと、市民病院は大変だったそうです。その市民病院は、大阪市の基幹病院で、ヘリポートに次々と負傷者が運び込まれてきたそうです。糖尿や骨折など、命の危険がない軽度の入院患者は退院措置がとられました。また、その病院では対処できない患者は、またヘリコプターや救急車で違う病院に運ばれていきました。

 高速道路は閉鎖され、電光掲示版にオレンジの文字で「震災発生通行止」と掲示され、道には車がなくなりました。時折、「救援物資輸送中」と書かれた大型のトラックが走り、空にはひっきりなしにヘリコプターが飛んでいました。テレビでは「車には乗らないでください」とアナウンスしていました。しばらくして親戚や知人が亡くなったとの知らせを受けました。大阪にいた私は、本当の惨状はメディアでしか知りません。

 あれから15年経とうとしていて、私の記憶も薄れつつあります。けれども、震災の被害を直接受けた方には、消せない記憶として今も残り続けていることを、テレビの番組が映し出していました。インターネットには多くの証言や記録が刻まれています。

 

■阪神・淡路大震災関連リンク集

阪神・淡路大震災 - Wikipedia
大震災の被害についての詳細なデータが記述されています。

兵庫県南部地震 - Wikipedia
気象庁命名の正式名称です。こちらは概要について記述。

阪神・淡路大震災 - 神戸新聞Web News
研究者や各界の人々へのインタビュー記事や、神戸新聞に掲載された報道記事や特集記事が網羅されています。

阪神・淡路大震災(記録写真) : 1995.1.17〜1996.7
市民の方による詳細な記録です。

神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ【震災文庫】
震災にかかわるあらゆる資料を可能なかぎり収集したデジタルアーカイブ。

あの「阪神・淡路大震災」で本当は一体何が起きていたのか、その真実がよくわかるムービー集 - GIGAZINE
昨年の記事です。テレビがどのように報道したかが、震災発生から時系列で分かります。

西宮から 〜 阪神淡路大震災・私的記録 〜
兵庫県西宮市在住の方の震災の記録です。

阪神・淡路大震災教訓集
「国連防災世界会議(兵庫会議)」にあわせてまとめられた教訓集。日本語、英語、スペイン語、ロシア語のPDFがダウンロードできます。

阪神大震災を記録しつづける会
震災体験を記録する活動を続けられています。10年10巻の手記集を出版されたそうです。サイトでは全文が公開されています。

Gデザイナー震災体験記
神戸市灘区在住のDTPデザイナーさんの目から見た震災の詳細な記録。

阪神淡路大震災 当日の写真記録 by AsianVox
神戸市二宮町に住んでいた方が撮影した、自宅、二宮、三ノ宮の被害。

西宮市デジタルライブラリー 阪神・淡路大震災
兵庫県西宮市が所蔵する各種の記録、資料等をウェブサイト上で公開。写真資料、映像資料が多数。

リエゾン被災人(Liaison hisaito)- NHK
NHKの震災関連総合サイトです。リエゾンとはフランス語で「つなぐ」の意味。阪神・淡路大震災、中越地震をはじめとする災害に関する映像アーカイブも。

ハイチ地震救援金 - NHK
NHK、NHK厚生文化事業団、日本赤十字社では、1月13日(現地12日)にハイチで発生した地震による災害の救援金を受け付けています。期間は平成22年1月15日(金)~2月12日(金)。

 

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2010年1月16日 (土)

続・ケータイ

 父にケータイを渡したの続きです。

 あれから、3度くらい電話がかかってきました。その3回とも間違ってかけてしまった、とのこと。「ごめん、間違って押してもうた。切るわ」なんて言って、なんか、けっこう楽しそうです。メールはまだ使っていないようですが、自力でマナーモードのやり方をマスターしていたのは驚きました。長い間ケータイを持たない人だったので、電車の中でのマナーには厳しいみたいです。

 よかったことは、同一キャリア間通話無料というサービスです。私の回線を渡したので、料金は私が払っているから関係ないと言えば関係ないのですが、通話料無料というのは、節約家の父としてはずいぶん電話をかける敷居が低くなっているようです。

 「お金かかるし、もう切るで。」
 「用事がないのに、電話する必要あらへんがな。」
 「要件はまとめてから電話せえ。」

 みたいなことばかり言っていたので、ほんとかけやすくなったんでしょうね。大阪で自営の小商いをしていた父からすると、1円でも無駄なお金は払いたくない、みたいな感覚は自然な感覚としてあるだろうから、通話無料は心理的には大きいです。というか、こういうサービスはどこかで回収されているわけだし、心理面がすべてなのでしょうけどね。

 一般の電話回線では、東京大阪間は、結構お金がかかっていたし、学生時代はお金がなかったのでコレクトコールとかしていたものなあ。コレクトコール、懐かしいですね。料金、着信側払いというやつで、電話をコレクトコールでかけると、まずは着信側にNTTから「コレクトコールをご希望ですが、よろしいですか」みたいなメッセージがあり、承認すると通話できるというサービスです。

 新年早々ひと騒動、というはじまりでしたが、2010年は父にとってはケータイ元年になったようで、それはそれでなんとなくめでたい感じ。インスリンの量も少なくして、体の具合もすこぶる良いようだし、年末は体の調子が少し不安定だった母もなんか元気になってきて「お父さんも長生きせなあかんよ」なんてことを父に言っていたそうで、なんだかいい感じの滑り出しです。

 いい年になるといいなあ。ほんと、いい年にしたいですね。

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2010年1月11日 (月)

ケータイ

 親父にケータイ電話を渡しました。

 72歳になるまで、親父はケータイ電話というものを使ったことのない天然記念物のような人で、本人も強い哲学というか信念というか、ややこしい気持ちがあったので、これまでケータイを強く拒んできたんですね。

 「わしは、そんなもんは持たん。ぜったいに持たん。」

 なんてことを、ことあるごとに言っておりました。

 でも、少し時間がたって、ちょっと考えが変わってきたようです。街に出ると、今まであった公衆電話がなくなっていたりして、世の中がケータイありきになってきたこともあるのだろうし、それに、やっぱり、万が一のことも考えたりもするのだろうと思います。

 私がケータイを持て、ということは、万が一のことを考えろと受け取るだろうから、それで頑になっていたのかもな、とも思いました。無理矢理持たせることも考えたけど、まあ今はそのときではないかな、なんてことも考えて、本人が持ちたい気分になるまでずっと渡さなかったんですね。

 「ケータイ、持つか?」

 そう聞くと、案外素直に受け取ってくれました。低血糖で救急車を呼んだ一件というのもあったんだろうな、とも思います。後から聞くと、ああいうこと、今まで何度もあったらしいけど、息子に見られたというのは、本人にしてみれば、いろいろと考えるところがあるのだろうなあ。本人はいつものことでも、私としては、もうあかん、死ぬかもしれん、と本気で思ったもの。それに、親子と言えど、私とて、親父に弱いところを見せたくない気持ちがあるし、それは親父も同じだと思うし。

 ともあれ、ケータイを持った親父は、すこしうれしそうで、操作に悪戦苦闘しながらも、きちんと電話をかけてきてくれたりしました。その後、妹から泣きそうな声で電話があって、

 「私のケータイに着信があったけど、お父さんなんかあったん?また、低血糖で倒れたんかな?」

 と。たぶん、慣れない操作で、間違ってかけたんじゃないかな、と伝えると、

 「ほんなら、ちょっと電話かけてみるわ。ちゃんと出れるかなあ。」

 なんか、ほんと、受け取ってくれてよかったなあ。メールアドレスも設定してあるから、メールとかも使いだしてくれるといいなあ。でも、まあ、ああいう人だし、それはないだろうなあ。

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2010年1月10日 (日)

どうせなら165gにしたらいいのになあ(訂正あり)

 ※あしおかさんよりコメントを頂きました。2002年改訂の食品交換表では「ご飯」は1単位が50gに変更になっているとのことです。従って、以下の文章が前提にしていた事実自体が違うということになります。150gで3単位、200gで4単位となり、現行のパックライスは最新の食品交換表の単位にも合わせているということです。失礼いたしました。お詫びいたします。

 以下、関連リンクです。

(以下は、訂正前の文章です。ご注意ください。)

 レンジでチンで、おいしいごはんが食べられるパックライス。たいがいの製品は200gです。たぶん、カレーを基準に考えているのではないかな。ごはん茶碗にはちと多いんですね。カレーだといい感じの量です。こういう商品は若い人をターゲットにしがちなので、どうしても若い人のニーズに合わせてつくることになっちゃいます。まあ、それはしょうがないです。

 うちの親父はカロリー計算しながら食事をしていて、200gは一度で食べられないので、もっと小分けになっているパックライスはないものか、と探すと、とあるスーパーマーケットにありました。パッケージには「お茶碗1杯分×2食分」と書かれていて、小分けで2パックになっています。

 でも、おしいなあと思いました。小分けのパックライスは150gなんです。

 食事療法で用いるカロリー計算は、単位で計算します。1単位が80kcalで、ごはんは3単位。240kcal、165gなんですね。あと15g。まあ、多い分には問題はあるけど、165gを150gに減量する分には問題はなさそうではあるんですが。

 でも、どうせなら、この単位にあわせたらいいのになあ。15g程度なら、御茶碗一杯分は変わらないと思うし、というか、この3単位も「軽くお茶碗一杯」という目安ですし、そんなにデメリットもあるように思えないし。たった15gで、よろこぶ人はたくさんいると思うんですよね。せっかく小分けというニーズを汲み取れたのに、おしいなあ。次の製品の改良のときには、165gになってたらいいのになあ、と思ったりしました。今のままでも、うちの親父はかなりうれしがってましたし、メーカーさんには、ちょっと期待してます。

 なにも、高いハードルを越えてまで食事制限する人のことを考えろ、その人たちのために作れというわけではなくて、ちょっとしたことで、そういう人もうれしいようにできるんだったら、製品としては、もっとうれしさ成分がつまった、いい製品になると思うんですよね。

 ていうか、そういう細部の積み重ねの総体がブランドっていうんだと思うし。

 で、自分のことを振り返ると、こういうちょっとしたことを汲み取れてないケースは多いんだろうなあ。細部に生命が宿るとも言うし、ケータイでも、パソコンでも、ほんのわずかな部分が駄目だったら、ほかがいくらよくても、使うのが嫌になってくるし、これは自分自身も気をつけないとなあ。

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2010年1月 9日 (土)

人のことならよくわかるのに

 自分のことになると、なぜこうもわからなくなるのだろう。まあ、こんな話は今にはじまったことでもないし、人間っていうのはみんなそんなもんだよ、ということなんだろうけど。ほんと、自分のことになるとようわからんのよ。

 自分のことはようわからん。ますますわからん。もし自分が広告主だったとして、競合プレゼンをしたら、私は絶対に負けるだろう。というか、プレゼンさえできないと思う。今回は辞退させていただきます、になると思う。

 逆に、自分のことは自分がいちばんわかっている、という言い方もあって、それもひとつの真理のようにも思えるけれど、それは、まあ理屈で言えば、その自分は他者としての自分なのかも。自分を他者と見ると、なんだかんだ言っても、いちばん付き合いの長い他者なわけだし。そういう意味では、自分を掘り下げるということは、自分を他者と認識できる限度という保留付きで、他者を掘り下げることにつながるはず。

 大阪弁では、「自分」は二人称として使うことがあるし、ちょっと荒っぽい言葉では「われ」というのもある。「われ、なにしとんねん。」の「われ」。東京でも「てめえ」と言う。てめえとは「手前」のことだし。ということは、「自分」という言葉は、もともと他者としての自分のことだったのかもしれないとも考えられる。

 この一人称と二人称があいまいに溶け合った感じが、もともとの感覚なのかもしれないなあ、とも思うし、教科書的には、近代的自我とか主体とかアイデンティティなんてものは、輸入品なのかもしれないなあ、とも思う。

 自分の話になるとてんでわからない、というのは、つまりは他人がわからない、ということで、要は想像力の欠如だよね、と言いたいところだけど、こういう結論を導き出すところが、閉じられた思考の危険なところでもあって、たぶん、「自分」という言葉が他者としての自分を表すという論理展開に飛躍があったために妙な結論になったということなのだろう。

 自分のことがわからないというものの理由は、単に、決断する主体は自分しかいないからだと思う。だから、安易に客観視できないし、安易にやると痛い目に合うのは自分だし。

 広告と一緒で、決めるのも、お金を出すのも私っていうことなんだろうね。身も蓋もないけど、きっとそういうことなんだろうね。そういう意味では、一人称と二人称が溶け合うように見えるけれど、「自分」と「おまえ」はやはり違っていて、相手を自分と同じような決断の主体とみなす場合に、二人称で「自分」を使っているような気がする。

 と考えると、先の大阪弁の「自分、どう思う?」という問いかけは、「おまえ、どう思う?」という問いかけに比べると、輸入品としての近代的自我とか主体とかに近い感覚があるのだろう。日本語というか大阪弁の「自分」は、英語の「You」の感覚に近い。

 要するに、「自分」とか「われ」とか「てめえ」とかは、もともとは「私」の領域を指示するものであったのが転じて、決断する唯一の主体という感覚を表現するようになって、その際に、「私」に近いほどの感情の強度を持つ相手に対しても使われるようになったような気がする。意味合い的には「私と同じくらいに切実に思ってしまうあなた」が、この二人称の「自分」なんだろう。

 「自分、どう思うねん。どないすんねん。」と。

 そのときの、「自分」を指している相手は、やっぱり自分のことがてんでわからない迷える自分のような気も。で、決断を経て「おまえ、やったな。それでええ。」と。

 なんか根本的に違っている気もしないでもないけど、どうなんでしょうね。

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2010年1月 6日 (水)

昔話のようでもあり、同時に未来の話のようでもある

 

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 カメラマンの森善之さん主宰の「七雲」が編集・制作する『JAPANGRAPH(ジャパングラフ)』というグラフ誌があります。「暮らしの中にある47の日本」という副題の通り、日本の47都道府県をひとつずつ、「七雲」のカメラマンたちが丁寧に取材し1冊にまとめるという趣向です。第1回目の滋賀県が出来上がりました。

 ジュンク堂などの書店に並んでいます(恵文社一乗店では通販でも扱っているようです。1万円以上で送料無料。他の本と合わせていかがですか)。B5変形サイズ、オールカラー108ページ。価格は、税込みで800円です。「七雲」のカメラマン秋山さんのブログからも購入できるそうです。
 

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 滋賀県は琵琶湖を中心とした水の国です。湖西の街、新旭町には湧き水を利用した川端(かばた)と呼ばれる水場があり、そこで野菜やお米を洗い、食器や鍋や釜も洗うそうです。言わば、公共の台所です。その水場には、鯉も住んでいて、食器についた米粒を食べたりするそうです。

 その川端を訪れた森さんは、こう書いています。

上流に住む人は下流の人を思いやり、人だけではないという感性をも育ていていく。そういう人々の意識がなければ、かばたの文化や、水とともにあるこの土地の暮らしは成り立たないのだ。昔話のようでもあり、同時に未来の話のようでもある不思議さを感じていた。

 そこには過去のような今があって、けれども、それは決してノスタルジーではなくて、まぎれもない現在の人の暮らしであることを、「七雲」のカメラマンたちの銀塩フィルムは定着していました。

 過去のようであるけれども、それは現在であり、過去のようであるがゆえに、それは未来を指し示しているのだろうと思います。

 『JAPANGRAPH』という試み。私も応援したいと思っています。

 追記(1月8日):

 森さんよりお電話で「明日の朝に、次号に特集される岩手県に入ります」と連絡がありました。「七雲」の若いカメラマンたちも、それぞれ岩手県の各所に向かうそうです。次号は春に発売予定、とのことでした。

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2010年1月 5日 (火)

やっぱり、こういう問題の解決は「広告的」な手法が得意なんだろうな、と思いました。

 まあ、なんともなかったから書けることでもあるのですが、昨日の夜というか、今日の早朝、はじめて119番に電話をかけました。糖尿でインスリンを打っている父の血糖が下がって、痙攣を起こしたんですね。最初は寝言かと思ったのですが、ちょっと変だなと飛び起きてみると、目をむいてわけの分からないことを叫んで大変なことになっていました。

 医学的な理屈を知っている人は分かると思うのですが、血中の糖分が足らなくなると、大脳のエネルギー代謝が維持できなくなって、意識がおかしくなり、最終的には意識消失、時間が経てば脳に障害が残る可能性もあります。でも、これは、ブドウ糖の固まりやキャラメル、飴玉などを食べさせると、不思議なほどすぐに落ち着きます。ほんと、あっけにとられるくらいすぐに戻ります。

 今回は、寝ている間に本人が気付かないままに血糖が落ち、しかも、私の発見が遅れたこともありかなり意識がおかしくなっていたということが重なって、とてもブドウ糖を食べる感じではありませんでした。

 深夜4時30分くらいに救急隊が駆けつけくれましたが、暴れるので病院に搬送することもできず、結局、無理矢理、医療用のブドウ糖を食べさせました。暴れて吐き出したりしたので、大の大人4人がかりで1時間ほどかかってしまいました。

 落ち着きを取り戻した父は、バツの悪そうな顔をして「もう大丈夫です」と一言つぶやいて、そのまま寝てしまいました。こういう事態は、本人は初めてではないらしく、こちらの慌てぶりとは対照的に落ち着いた感じでした。今は、いつもと同じように元気で、人間にとって糖の役割は重要なんだなあと、あらためて思いました。

 このあたりの話は、糖尿でインスリンを打っている人が身近にいる方なら、ああ、パターンだなあと思うことなんだろうと思いますし、それほど珍しいことでもないでしょうし、私も理解してはいたのですが、でも、やっぱりその場に居合わせるとあたふたしてしまいますね。

 こうした事態を防ぐには、当人が意識することはもちろんなんですが、まわりの人も早めに発見してブドウ糖などを摂取させることが大切です。インスリンを打ちながら社会で活躍している人はたくさんいるので、まわりの人たちも知っていたほうがいい事柄だと思います。

 結局、病院に搬送せずに、このまま様子をみるということになって、救急隊の方はそのまま帰ってもらったのですが、その際に、救急隊の方は、こうおっしゃいました。

 「ちょっとでも異常が見られたら、遠慮せずに119で呼んでください。遠慮だけはしたらあかんからね。」

 この救急隊の方々の言葉は、すごくありがたかったです。そして、あらためてですが、119番があり、救急車があって、救急隊の方が助けにきてくれるという社会の体制は素晴らしいことだなと思いました。119番がない社会を考えると、ぞっとします。

 今、救急車をタクシー代わりに利用する人が多くなって問題になっているそうです。新聞やテレビでも報道されていますよね。そのことで、119を遠慮する人も多いそうです。特にお年寄りの方に多いようです。もちろん、そのことを解決することも必要なのですが、その解決が、本来の「命を救う」という本義を損なうことになる可能性もあります。それは、「コンビニ受診」と同じ問題をはらんでいます。

 正直、この問題は難しくて、どう考えればいいのかは、まだはっきりとはわかりません。

 でも、きっとありのままの問題を知らせるというインフォメーションだけでは解決できないのだろうなとは思いました。救急車のタクシー化の問題を知らせると、今度は、市民が救急車を呼ぶことを躊躇してしまう事態を生み出します。けれども、今のままでは問題は変わりません。

 前にも書いたことがありますが、やっぱり、こういう公共にかかわる意識の問題の周知には、広告の持つ受動性が有効なのだろうな、と思うんですね。つまり、広告的に、メッセージとともにテレビや新聞、インターネットを見ている人が等しく受動的にメッセージを受けとるということ。今の状況を解決するメッセージというのは、きっと見つけ出せると思うんですね。きっと難しい仕事になるとは思いますが、見つけられると思います。海外の公共広告なんかは、いいお手本だろうと思います。

 やはり、こうしたことについては、個々人の能動的な情報摂取により、個々人のリテラシーや倫理にゆだねるだけでは駄目なんだろうなと思います。各自それぞれ考えろ、ではいい解決はできないのだろうと思います。救急の主体、もしくは、国、公共団体がきちんとしたメッセージを打ち出し続けることが必要なんでしょうね。難しいとは思いますが。

 参考までに、ACの公共広告のリンクを上げておきます。ひとつは、モラルの問題、ひとつは脳卒中の問題をテーマにしています。


 関連エントリ:
 リテラシー考続・リテラシー考

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2010年1月 4日 (月)

人生いろいろ、カラオケもいろいろ

 地元の旧友から聞いた話。

 その旧友はカラオケが大好きで、夜な夜な地元のカラオケスナックで歌っているとのこと。彼の場合、人前で歌う行為そのものが好きで、いわゆる2次会のカラオケボックスのノリとは違うらしいです。そのスナックには、人前で歌うことが好きな人たちが集まっていて、カラオケがお酒のつまみみたいな感じはまったくないそうです。仲間には飲めない人もいるそうで、どちらかというと歌好きの集いみたいな感じ。

 私はカラオケが苦手なので、そのあたりの感覚はわからないのですが、彼曰く、

 「まあ、学生時代のバンド活動みたいなもんかなあ」

 と。スナックにはフォークギターなんかも置いてあって、弾き語りをする人もいたりして、

 「それって、昔の歌声喫茶みたいなもの?」

 と聞くと、それはちょっと違うようでした。みんなで歌う、という楽しさはまったく追求していないとのことで、要は、歌う時は自分が主役という感じ。

 地元のカラオケスナックは常連さんが集まっていて、それはそれで楽しいらしいのですが、やはりそれではもの足りなくなったりする、と。もっと多くの人たちの前で歌いたくなる、と。で、そういうニーズを満たすために、世の中には、そういう人のためのお店が用意されているらしいんですね。

 そのお店は、郊外にあって、100人くらいが定員のホールで、ワンドリンク付きで3000円ほど。それ以降、別に飲みたくなければ何も頼まなくてもいいらしくて、お客さんはいろいろな場所からやってくるとのこと。昼の2時くらいからやっていて、カラオケ仲間で来る人もいれば、ひとりで来る人もいるようです。女性のお客さんもそこそこ多くて、友達同士で来るひとも多いらしいです。女性の場合は、着物とかドレスとか、衣装にこだわった人もちらほらという感じ。

 ホールにはステージがあって、スポットライトなども完備されています。ちょっとしたコンサートの雰囲気で、お客さんは自分が歌いたい曲を紙に書いて申し込む、と。1曲が300円くらい。で、カラオケ機器の操作と司会を兼ねた人がいて、

 「12番さん、アリスのチャンピオン、どうぞ。」

 という感じで呼び出しがかかって、その人はステージに上がる、と。歌に合わせて、スポットライトが様々に変化して、ちょっとしたスター気分を味わえるとのこと。スポットライトの光の中にいるから、お客さんは見えないけれども、それでも100人のお客さんの前で歌うので、すごく緊張するらいしんですね。まあ、知らない人100人が前にいたら緊張しますよね。

 そのお店では、人が歌っている時にはおしゃべりは禁止。だから、そのお店では、しゃべり声はまったくないそうです。ちょっとジャズ喫茶っぽいですね。自分も一生懸命歌うわけだから人の歌も一生懸命聴くという精神から生まれたルールで、このルールを守らないと、すごく嫌がられるとのことこと。歌い終わると、100人のお客さんから、心からの拍手があります。

 地元のスナックでは、10曲くらい歌えるけれど、そのお店では3時間くらいいて、2、3曲しか歌えないらしいんですが、それでも、1曲の濃度が違うので、歌える曲は少なくても、すごく楽しいスペシャルな時間らしいんですね。

 何ヶ月に1回か、そのお店が主催のコンテストがで開催されます。そのコンテストは、中規模のホールを借り切って行われるそうで、そのコンテストでは、勝ち残れなければ1曲しか歌えないのですが、勝ち残ると2曲、3曲と歌えるらしいんですね。で、それぞれのお客さんは、その日が来るまで、優勝を目指して、地元のスナックで練習をするそうです。

 その話を聞いて、

 「ああ、NHKののど自慢みたいな感じかあ。」

 と言うと、彼は

 「それは違う。のど自慢はキャラの勝負もあるじゃないですか。でも、こっちは歌だけが勝負なんですよ。」

 と。そのへんのわびさびの部分はいまいちわからなかったのですが、まあ、そういうことらしい。で、少し考えて、

 「ということは、自分が歌えるライブハウス、ということかな。」
 「そうそうそう。さすが広告屋、言い方が的確。」

 と。

 的確なのかなあ、と思わないでもないですが、でもまあ、そういうことだそうです。そういうことにしておきます。こういうカラオケのお店、ご存知でしたか。私はまったく知りませんでした。しかし、世の中、いろいろあるもんですねえ。

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2010年1月 2日 (土)

マ、マ、マ、マカロニ

 元旦の政治関係のシンポジウム番組で建築家の安藤忠雄さんが「最近の若者は元気がない」と熱く語っていました。でも、安藤さんは「でも社会に元気がないのに、若者に元気だせと言ってもそれは無理な話。社会に元気がないのに若者だけ元気なのは、それはそれでおかしい。まずは社会が元気を取り戻さなければ。」とも語っていました。

 まあ、その通りでもあるとは思います。でも、若者とも言えず、かといって熟年でもない中途半端な年齢の私には、そんな若者たちが持っている新しい価値観というものは、元気とか、希望とか、そういったスーパーポジティブな価値観ではない新しいものが、若い人との会話の中に見え隠れしていて、もしかするとこれからの世の中はこういうフラットな感覚の中で進んでいくのかな、と思ったりします。そこは、ちょっと期待している部分もあるし、中途半端な世代としては、少しばかりの共感もあります。

 私は、いわゆるJ-POPを追っているわけではないけれど、私の世代だとニューミュージック世代で、私の好きなアーチストで言えばオフコースとか、そういう感じ。松田聖子さんもそうです。その世代の人たちは、恋愛の関係性の機微を歌っていたような気がします。

 次の世代では、君を守る僕の気持ちみたいな感じのものが増えてきます。関係性から個の意識へ、みたいな感じです。ミスチル以降は、特にそう。自我の世界を歌い上げる感じのものが増えてきました。私は、そんな傾向を個人的には新実存主義なんて呼んでいました。浜崎あゆみさんの歌が支持されるのは、若い人の実存の部分をとらえるからだと思います。

 そんな新実存主義の時代がずっと続いて、あっ、これは違うなと思ったのは、代表的なアーチストで言えば、Perfumeでした。つまり、作家で言えば中田ヤスタカさんの感性です。時代を覆う気分になっているかと言えばそうではないと思うし、現在でも、超ヒット曲は新実存主義的なものですが、でも、Perfumeの歌の歌詞には、そこから少しだけずれた新しい感覚があったんですよね。

 ここ最近で、好きだなあと思う曲のひとつに、Perfumeの「マカロニ」があります。シングルで言えば、「Baby cruising Love」のカップリングですが、このシングルは地味だけど、どちらの曲もとても素敵ですよね。ほんと、いい曲。

 「マカロニ」の中に、こんな歌詞が出てきます。

これくらいのかんじで いつまでもいたいよね
どれくらいの時間を 寄り添って過ごせるの?
これくらいのかんじで たぶんちょうどいいよね
わからないことだらけ でも安心できるの

 この「これくらいのかんじでたぶんちょうどいい」という感覚が新しいと思うんです。それは、今まであまりなかったし、今の若い人たちの気分にあっている感覚だなあ、と思う気もします。大切なのは、「君を抱いていいの?」とか「君のために今何ができるだろう」じゃなくて「ぐつぐつ溶けるスープ」の中の「マカロニ」だったりするところが、新しいなあと思うんですね。

 上昇志向でもなく、だからといって下降におびえるのでもなく、フラットに「ちょうどいい」をキープしていく感じが、もしかしたらこれからの価値観なんじゃないかな、と思います。Perfumeの3人の、あのいつまでたっても自然体な感じとあわさって、私は今の曲の中ではすごくお気に入りです。

 まあ、この感覚はまだまだ少数派のような気もしないではないですが、このあたりの感覚を大事にしながらいろんなことを考えていきたいなあと、年始に少し思ったりしています。ではでは。

 追記:

 この「マカロニ」のエンディングに、こんな歌詞があるんですね。

最後のときが いつかくるならば
それまでずっと キミを守りたい

 この「最後のとき」というのが恋の最後なのか、命の最後なのかはわかりませんが、少なくともこの「マカロニ」の「たぶんちょうどいいよね」という世界観は、この「最後のとき」を見据えているんですね。つまり、この曲は、私の世代からみると「老成した青春」の歌なんです。このあたりの感性を見逃すと、今の新しい感覚は、その上の世代からは否定しか導き出されないはずなんです。

 でも、その否定は浅いと思います。それをもしかするとニヒリズムと切り捨てられるかもしれませんが、私は、この「老成」の感覚はけっしてニヒリズムではないと思います。というか、ここから生まれる明るさこそが可能性なんだと私は思っています。

 シングルCDのカップリング曲(というか「マカロニ」がカップリング曲かもですが)の「Baby cruising Love」も、同じ感性があります。等身大の感性というか、その世代なりのちいさいけれどどうしようもない挫折が自然体で描かれていています。

簡単な事って 勘違いをしていたら
判断誤って 後ろを振り返るんだ
何だって いつも近道を探してきた
結局大切な宝物までなくした

 この後、歌詞はこう続きます。

ハッとして気が付いたら
引き返せないほどの距離が 
ただ前を見ることは 
怖くてしょうがないね

 こういう感覚は私にもありますが、こういうかたちで素直に表現することは、きっとできないんだろうと思うのです。そのあたりの感覚は、きわめて今なんだろうと思うんです。こういう感覚をこういうてらいのない言葉で表現できる感性は、正直を言えばすごく嫉妬するというか、うらやましいです。決して時代を動かすような派手な言葉ではないけれど、今を生きる個の深い部分に届く言葉ではあると思います。

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2010年1月 1日 (金)

紅白60年

 NHKの紅白歌合戦が60回目だそうです。

 うちの親父は1938年(昭和13年)生まれで、今年72歳。年男。てことは、親父が12歳までは紅白歌合戦はなかったわけで、

 「そうか。親父が子供のときにはまだ紅白なかったんやなあ。」

 なんて言うと、

 「そんなもん、ちいさい頃はテレビさえあれへんかったがな。」

 と。

 調べてみると、NHKのテレビ放送開始が1953年(昭和23年)で、今から57年前。ということは、紅白歌合戦はラジオ放送で始まったわけですね。ウィキペディアの紅白歌合戦の項目がなかなか楽しいです。しかしまあ、よく調べて書いてありますね。

 第二次大戦終結直後の1945年(昭和20年)に「紅白音楽試合」というラジオ番組が放送されて、これが今の紅白の元になっているらしいです。企画案では題名は「紅白歌合戦」だったのが、GHQが「合戦」の語に難色を示したとのこと。

 この放送は継続するつもりはなかった単発特別番組でしたが、5年後の1951年(昭和26年)に晴れて「紅白歌合戦」として元旦に正月番組として復活。「そういやあの5年前の番組、人気あったし、いけるんちゃうのん」みたいなことですね。企画した人が関西の人かどうかはわかりませんが。ともあれ、これが第1回。

 第3回目にテレビ実験放送。第4回目からは、ラジオ・テレビ同時中継で大晦日に放送。これが、今の「大晦日の紅白」の始まり。

 紅白が60年で、テレビが57年目。

 ま、長いような気もするけれど、考えてみると、けっこう歴史は浅いもんだな、なんてこともちょっと思います。たった60年で、たった57年。そう考えると、なんかいろんなことが違って見えてくるような気もします。

 100歳のじいさん、ばあさんからみれば、

 「紅白?テレビ?若い、若い。まだまだ若造。」

 てなもんなんでしょうね。

 そう言えば、広島の生口島出身の親父は、初めて島にテレビがやってきたとき、残念ながら電波が届かずに映像はしばらくお預けだったことを、今だに悔しがっておりました。みかん山のてっぺんまでアンテナを持っていったけど陰しか映らなかったそうです。

 そんな親父は、2010年の今、パナソニックのビエラに映るハイビジョンの美しい映像がお気に入りで、NHKばかり観ています。

 「なんでそんなにNHKが好きなん?」

 と聞くと、

 「そりゃ、映像にお金がかかってるがな。観てみ、この映像。今の民放やと、こんな映像は無理やろ。」

 なるほどなあ。そりゃそうやわなあ。そんな感じで、2010年も、どうぞよろしくお願いします。

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