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2010年1月 5日 (火)

やっぱり、こういう問題の解決は「広告的」な手法が得意なんだろうな、と思いました。

 まあ、なんともなかったから書けることでもあるのですが、昨日の夜というか、今日の早朝、はじめて119番に電話をかけました。糖尿でインスリンを打っている父の血糖が下がって、痙攣を起こしたんですね。最初は寝言かと思ったのですが、ちょっと変だなと飛び起きてみると、目をむいてわけの分からないことを叫んで大変なことになっていました。

 医学的な理屈を知っている人は分かると思うのですが、血中の糖分が足らなくなると、大脳のエネルギー代謝が維持できなくなって、意識がおかしくなり、最終的には意識消失、時間が経てば脳に障害が残る可能性もあります。でも、これは、ブドウ糖の固まりやキャラメル、飴玉などを食べさせると、不思議なほどすぐに落ち着きます。ほんと、あっけにとられるくらいすぐに戻ります。

 今回は、寝ている間に本人が気付かないままに血糖が落ち、しかも、私の発見が遅れたこともありかなり意識がおかしくなっていたということが重なって、とてもブドウ糖を食べる感じではありませんでした。

 深夜4時30分くらいに救急隊が駆けつけくれましたが、暴れるので病院に搬送することもできず、結局、無理矢理、医療用のブドウ糖を食べさせました。暴れて吐き出したりしたので、大の大人4人がかりで1時間ほどかかってしまいました。

 落ち着きを取り戻した父は、バツの悪そうな顔をして「もう大丈夫です」と一言つぶやいて、そのまま寝てしまいました。こういう事態は、本人は初めてではないらしく、こちらの慌てぶりとは対照的に落ち着いた感じでした。今は、いつもと同じように元気で、人間にとって糖の役割は重要なんだなあと、あらためて思いました。

 このあたりの話は、糖尿でインスリンを打っている人が身近にいる方なら、ああ、パターンだなあと思うことなんだろうと思いますし、それほど珍しいことでもないでしょうし、私も理解してはいたのですが、でも、やっぱりその場に居合わせるとあたふたしてしまいますね。

 こうした事態を防ぐには、当人が意識することはもちろんなんですが、まわりの人も早めに発見してブドウ糖などを摂取させることが大切です。インスリンを打ちながら社会で活躍している人はたくさんいるので、まわりの人たちも知っていたほうがいい事柄だと思います。

 結局、病院に搬送せずに、このまま様子をみるということになって、救急隊の方はそのまま帰ってもらったのですが、その際に、救急隊の方は、こうおっしゃいました。

 「ちょっとでも異常が見られたら、遠慮せずに119で呼んでください。遠慮だけはしたらあかんからね。」

 この救急隊の方々の言葉は、すごくありがたかったです。そして、あらためてですが、119番があり、救急車があって、救急隊の方が助けにきてくれるという社会の体制は素晴らしいことだなと思いました。119番がない社会を考えると、ぞっとします。

 今、救急車をタクシー代わりに利用する人が多くなって問題になっているそうです。新聞やテレビでも報道されていますよね。そのことで、119を遠慮する人も多いそうです。特にお年寄りの方に多いようです。もちろん、そのことを解決することも必要なのですが、その解決が、本来の「命を救う」という本義を損なうことになる可能性もあります。それは、「コンビニ受診」と同じ問題をはらんでいます。

 正直、この問題は難しくて、どう考えればいいのかは、まだはっきりとはわかりません。

 でも、きっとありのままの問題を知らせるというインフォメーションだけでは解決できないのだろうなとは思いました。救急車のタクシー化の問題を知らせると、今度は、市民が救急車を呼ぶことを躊躇してしまう事態を生み出します。けれども、今のままでは問題は変わりません。

 前にも書いたことがありますが、やっぱり、こういう公共にかかわる意識の問題の周知には、広告の持つ受動性が有効なのだろうな、と思うんですね。つまり、広告的に、メッセージとともにテレビや新聞、インターネットを見ている人が等しく受動的にメッセージを受けとるということ。今の状況を解決するメッセージというのは、きっと見つけ出せると思うんですね。きっと難しい仕事になるとは思いますが、見つけられると思います。海外の公共広告なんかは、いいお手本だろうと思います。

 やはり、こうしたことについては、個々人の能動的な情報摂取により、個々人のリテラシーや倫理にゆだねるだけでは駄目なんだろうなと思います。各自それぞれ考えろ、ではいい解決はできないのだろうと思います。救急の主体、もしくは、国、公共団体がきちんとしたメッセージを打ち出し続けることが必要なんでしょうね。難しいとは思いますが。

 参考までに、ACの公共広告のリンクを上げておきます。ひとつは、モラルの問題、ひとつは脳卒中の問題をテーマにしています。


 関連エントリ:
 リテラシー考続・リテラシー考

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コメント

お父様大変だったですね。本人さんは慣れているのかもしれませんが、主治医の先生に低血糖で痙攣があったことをちゃんと伝えると、インスリンの量も変更になる場合もあるので、お父様にアドバイスされてはいかがでしょうか?救急隊の方の「ちょっとでも異常が見られたら、遠慮せずに119で呼んでください。遠慮だけはしたらあかんからね。」はほんと、プロ意識に頭が下がります。「コンビニ受診」のエントリーも読みました。コメントのやり取りまで読み、いろいろ考えてくださる方がいらっしゃることに医療関係者として感激しました。公共広告での意識啓蒙は必要なことだなと思っています。

投稿: しばはな | 2010年1月 6日 (水) 17:33

この問題はほんと難しいですよね。「社会的入院」という言葉もあってりして、そちらの意見を追求すれば、あちらが立たずという感じで。
インスリンの量は、最近、少し増やしたとのことですね。次の検診で相談するように言ってみます。

投稿: mb101bold | 2010年1月 6日 (水) 21:54

今年もよろしくお願いします。
お父様、無事で何よりです。

先日読んだ本で「リバタリアン・パターナリズム」という言葉が出てきました。
個人の自由選択を尊重しながらも、最適な選択肢をそれとなく提案する、という姿勢です。医療保険とか、カフェテリアでのメニューの提案とか貯蓄制度とか、そういうものに関わるものです。
年金や医療を見ても「お上」が設計したものは、人の「実際の関わり方、使い方」まではなかなか行き届きません。そのため、制度自体はいいものであるはずなのに、実態はお寒いものになってしまうことがあります。
そうしたところに「広告」、役立つような気がします。強制はしないけど、楔となる、軸となるようなものを訴えかけることは「広告」ならできそうですね。
こないだJMMというメルマガで「市民」や「国民」が死に絶えて「消費者」だけが残った、という言葉がありました。
広告は「消費者」を相手にしてきましたが、案外「市民」?「公共」?を育てることもできるかもしれないですね。
利益をどう出すのかはさておき、年始から、ほのかな希望が見えるお話、ありがとうございました。

投稿: mistral | 2010年1月 8日 (金) 08:57

今年もよろしくお願いします。
「リバタリアン」と「パターナリズム」という相反する言葉が組み合わさっているところが面白いですね。つまりは、バランスということかもしれませんね。よくよく考えてみると、自分の中にはリバタリアン的なものもあるし、かといってすべての心情がリバタリアンでもなく、パターナリズム的な部分もあります。だから、リバタリアンか、パターナリズム主義かという二項対立的な問いになると、うーん、となるのですが、このリバタリアン・パターナリズムというのは、現実に近いひとつの解なのかもしれません。
またこれが逆だと違うんでしょうね。あくまでリバタリアンが上位概念で、その中のパターナリズム。パターナリズムが最初にあって、リバタリアン的なものを担保するだと、やはり環境管理型権力的なものがつよくなってしまうのかなと思います。その点では、受動性を本質とする広告はいい解なのかもしれません。受動性が本質とする限り、つまらなければ支持しない、もしくはノイズとして無視するという部分が担保されるし。
このあたりは利益を考えるのは難しいかもしれません。こうした公共性を高く持つことが、長期的には広告効果を高めるのだということを、広告を発信する側が意識するということだろうと思うし、公共団体の場合は、そのことで長期的にはコストメリットがあるのだと意識するしかないでしょうね。今の余裕のない時代には難しいと思いますが。

投稿: mb101bold | 2010年1月 8日 (金) 20:45

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