ケータイ
親父にケータイ電話を渡しました。
72歳になるまで、親父はケータイ電話というものを使ったことのない天然記念物のような人で、本人も強い哲学というか信念というか、ややこしい気持ちがあったので、これまでケータイを強く拒んできたんですね。
「わしは、そんなもんは持たん。ぜったいに持たん。」
なんてことを、ことあるごとに言っておりました。
でも、少し時間がたって、ちょっと考えが変わってきたようです。街に出ると、今まであった公衆電話がなくなっていたりして、世の中がケータイありきになってきたこともあるのだろうし、それに、やっぱり、万が一のことも考えたりもするのだろうと思います。
私がケータイを持て、ということは、万が一のことを考えろと受け取るだろうから、それで頑になっていたのかもな、とも思いました。無理矢理持たせることも考えたけど、まあ今はそのときではないかな、なんてことも考えて、本人が持ちたい気分になるまでずっと渡さなかったんですね。
「ケータイ、持つか?」
そう聞くと、案外素直に受け取ってくれました。低血糖で救急車を呼んだ一件というのもあったんだろうな、とも思います。後から聞くと、ああいうこと、今まで何度もあったらしいけど、息子に見られたというのは、本人にしてみれば、いろいろと考えるところがあるのだろうなあ。本人はいつものことでも、私としては、もうあかん、死ぬかもしれん、と本気で思ったもの。それに、親子と言えど、私とて、親父に弱いところを見せたくない気持ちがあるし、それは親父も同じだと思うし。
ともあれ、ケータイを持った親父は、すこしうれしそうで、操作に悪戦苦闘しながらも、きちんと電話をかけてきてくれたりしました。その後、妹から泣きそうな声で電話があって、
「私のケータイに着信があったけど、お父さんなんかあったん?また、低血糖で倒れたんかな?」
と。たぶん、慣れない操作で、間違ってかけたんじゃないかな、と伝えると、
「ほんなら、ちょっと電話かけてみるわ。ちゃんと出れるかなあ。」
なんか、ほんと、受け取ってくれてよかったなあ。メールアドレスも設定してあるから、メールとかも使いだしてくれるといいなあ。でも、まあ、ああいう人だし、それはないだろうなあ。
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