人のことならよくわかるのに
自分のことになると、なぜこうもわからなくなるのだろう。まあ、こんな話は今にはじまったことでもないし、人間っていうのはみんなそんなもんだよ、ということなんだろうけど。ほんと、自分のことになるとようわからんのよ。
自分のことはようわからん。ますますわからん。もし自分が広告主だったとして、競合プレゼンをしたら、私は絶対に負けるだろう。というか、プレゼンさえできないと思う。今回は辞退させていただきます、になると思う。
逆に、自分のことは自分がいちばんわかっている、という言い方もあって、それもひとつの真理のようにも思えるけれど、それは、まあ理屈で言えば、その自分は他者としての自分なのかも。自分を他者と見ると、なんだかんだ言っても、いちばん付き合いの長い他者なわけだし。そういう意味では、自分を掘り下げるということは、自分を他者と認識できる限度という保留付きで、他者を掘り下げることにつながるはず。
大阪弁では、「自分」は二人称として使うことがあるし、ちょっと荒っぽい言葉では「われ」というのもある。「われ、なにしとんねん。」の「われ」。東京でも「てめえ」と言う。てめえとは「手前」のことだし。ということは、「自分」という言葉は、もともと他者としての自分のことだったのかもしれないとも考えられる。
この一人称と二人称があいまいに溶け合った感じが、もともとの感覚なのかもしれないなあ、とも思うし、教科書的には、近代的自我とか主体とかアイデンティティなんてものは、輸入品なのかもしれないなあ、とも思う。
自分の話になるとてんでわからない、というのは、つまりは他人がわからない、ということで、要は想像力の欠如だよね、と言いたいところだけど、こういう結論を導き出すところが、閉じられた思考の危険なところでもあって、たぶん、「自分」という言葉が他者としての自分を表すという論理展開に飛躍があったために妙な結論になったということなのだろう。
自分のことがわからないというものの理由は、単に、決断する主体は自分しかいないからだと思う。だから、安易に客観視できないし、安易にやると痛い目に合うのは自分だし。
広告と一緒で、決めるのも、お金を出すのも私っていうことなんだろうね。身も蓋もないけど、きっとそういうことなんだろうね。そういう意味では、一人称と二人称が溶け合うように見えるけれど、「自分」と「おまえ」はやはり違っていて、相手を自分と同じような決断の主体とみなす場合に、二人称で「自分」を使っているような気がする。
と考えると、先の大阪弁の「自分、どう思う?」という問いかけは、「おまえ、どう思う?」という問いかけに比べると、輸入品としての近代的自我とか主体とかに近い感覚があるのだろう。日本語というか大阪弁の「自分」は、英語の「You」の感覚に近い。
要するに、「自分」とか「われ」とか「てめえ」とかは、もともとは「私」の領域を指示するものであったのが転じて、決断する唯一の主体という感覚を表現するようになって、その際に、「私」に近いほどの感情の強度を持つ相手に対しても使われるようになったような気がする。意味合い的には「私と同じくらいに切実に思ってしまうあなた」が、この二人称の「自分」なんだろう。
「自分、どう思うねん。どないすんねん。」と。
そのときの、「自分」を指している相手は、やっぱり自分のことがてんでわからない迷える自分のような気も。で、決断を経て「おまえ、やったな。それでええ。」と。
なんか根本的に違っている気もしないでもないけど、どうなんでしょうね。
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コメント
あけましておめでとうございます。
大阪弁の二人称の「自分」と「ほかす」は、
こっちに出てきてから意識して使わないようになりました。
いまだに使いそうになりますが、
関西人以外だと確実に「???」と混乱させてしまいそうで。
投稿: o | 2010年1月11日 (月) 04:04
大阪弁の「自分」は、お笑いの人たちの活躍で前ほどではないけど、他の地方では通じにくいですね。あと、片付けるの意味の「なおす」も。
本年もよろしくお願いします。
投稿: mb101bold | 2010年1月11日 (月) 09:49
いつも楽しく拝読しております。
読んでるだけでコメントしてなくてすみません。。
自分のことがわからないって、私もずっとそうでしたし、今もわからないって思います。
ただ、ちょっとずつわかるようになってきて思うのは、
頭だけで考えていても絶対に答えは見つからないということ。
現代人は頭偏重過ぎて、人間は体が生きてて初めて生きてるんだという至極当たり前のことを感じられなくなってるんじゃないかなぁ、なんて思います。
たぶん目と耳ばっかり使い過ぎて触覚とか相当おろそかにしてるし。
自分の体の感覚を一つ一つ丁寧に掘り起こしていくと、理屈抜きに、自分を知るって本当はこういうことだったんだ!という喜びがありますよ。
観念的に「自己と他者」とか延々考えているよりも、
夜寝る前に布団の中でもぞもぞと動いたりして自分の体で遊んでみたりして。
そう、小さな子供の頃に戻って。
大切なことはきっとちゃんと持って産まれてきてるんだ、って感じられたら、
もっと自分のことを知ってあげられるんじゃないかな、って、
最近思っているところです。
長々とすみません。
投稿: mipoling | 2010年1月12日 (火) 23:48
そうですねえ。体が感じるというのは今の私に足りないところかもなあ、と思います。でも、まあ、自分と長く付き合ってきて、そういうときがあるのは、まあしゃあないよなあ、とも思います。
rikuoさんの「雨上がり」という歌が好きなのですが、その歌詞の中に「時が過ぎれば笑えるかもね。でも、今日は、そりゃしゃあないわ」というのがあって、生きるっていうと大層だけど、まあ、生きるってそんなことかなあ。
http://www.youtube.com/watch?v=fQSDkUfCEFo
いい曲なので、ぜひ聞いてみてください。今後ともよろしくお願いします。
投稿: mb101bold | 2010年1月13日 (水) 00:10
こんにちは。
出身県では幼稚園児もネイティブは「わし」「わりゃなにしとんなら」などという言葉遣いですが、あの1.5人称の関係性、ぬくもりと鬱陶しさの両面を感じます。
関西の大学では僕のことを「じぶん」と言ってくれる仲間もできてあったかい思いもしました。
しかし、いきなり相手のことを「じぶん」呼ばわりで話しかけて厚かましいことを言ってきたクラスメート、いました。
結局こじれたのですが、すごい嫌がらせされました。
ウチとソトっていうんでしょうか、1.5人称には厚かましく、1.5人称から外れると「敵」扱いという厳しさも知った経験でした。
投稿: mistral | 2010年1月15日 (金) 17:35
このあたりの人称の話は、日本語ならではな感じがしますね。このブログでは、1人称はほとんど「私」を使っていますが、日常会話では「僕」なんですよね。
2人称はほとんど使わない感じになってしまっています。「あなた」も「君」も使わなくて、名前で呼べる間柄の人は名前で、そうでない人は文脈でわかるようにという感じで、いけないなと思うんですが、どうしても2人称を使うのは緊張を伴うというか。
投稿: mb101bold | 2010年1月16日 (土) 21:27