« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

2010年2月の11件の記事

2010年2月28日 (日)

「そうは問屋が卸さない」考

 普段何気なく使う「そうは問屋が卸さない」という言葉。これって、言う方も言われる方も、かなり強度が高い言葉のように思います。

 英語では何と言うのかな、というと、対応する訳語がありませんでした。意味から翻訳しているようです。You are expecting too much.とかThings don't work that well in the real world.とか。そないにうまいこといくかいな、という感じです。

 言う立場で考えてみると、「そんな自分に都合のいいことばかり言ってからに。そんなことでうまくいくのだったら苦労はしないよ。」みたいな気持ちがあって、とどめの決め台詞として使われることが多いように思います。その気分は、これまでの時代がつくってきた規範や価値観を根拠にしているような気がします。

 言われる立場で考えてみると、「そうか。そこまで言うなら、何が何でも実現してみせるからな。」みたいな気分になります。この気分は、時代や価値観、規範の変化を根拠にしていることも多いようです。

 まあ、どちらの立場に立ってみても、この言葉を使ってしまったり、使われてしまったりする状況はあまりいい状況ではないように思いますので、できれば使わずにいたいものだなあ、なんてことを思います。つまり、すごく不快指数が高くて、やな言葉のような気が。それを言っちゃあ、あるいは、言われちゃおしまいよ、な感じがするんですよね。

 意味は「そんなに甘くないよ」ということですが、「そうは問屋が卸さない」という「問屋」という流通システムを比喩として語ってるところが、表現として強いし、ゆえに嫌らしくもあるんでしょうね。

 この言葉は、そんな安値では問屋は卸してくれない、ということから来ているようです。つまり、そんな目論みでは、そもそも問屋が商品を卸してくれないから、商売がはじめられないよ、ということ。

 この10年を考えてみると、こうした問屋的なシステムをどんどん省略していこうとしてきた10年だったような気がします。そういう問屋的システムが完全になくなるとは思わないけれど、必然のない問屋的システムはなくなる方向にあるのは間違いはないし、そういう意味では、「そうは問屋が卸さない」という言葉は、やがて死語になっていくのかもしれません。

 この話の展開だと、そういう中抜きシステムがうんぬんかんぬん、既得権益がどうたらこうたら、時代は変わった、さあ、新しい時代へ、という感じになりそうですが、そういう展開は得意な人にまかせるとして、そもそもこの「そうは問屋が卸さない」という言葉は、先の英語で言えば、real world、つまり現実はそう甘くないということで、その甘くない現実を「問屋」で表現していたところがナイスだったわけですよね。つまり、この問屋的システムが弱くなっても、現実が甘くなったとは言えないわけで、依然として現実は厳しいわけですよね。

 この現実の厳しさを「問屋」で表現するということが、時代の変化とともにナイスでもなくなってきた今、「問屋」の変わりに何を入れればいいのかな、というのが私は気になります。

 個人的には、「現実はそう甘くないよね」という言葉で十分だと思いますが、この「問屋」の変わりに何があるのかということを無理矢理考えたとき、「問屋」というクッションがなくなって、直接送り手と受け手が結ばれるわけだから、やっぱり、受け手の集合という意味で「世間」ということなるのかな。

 つまり、「それは世間が許さない」なんですよね。いい悪いはともかく、これは今も有効な感じがしますし、ますますそういう感じが強くなってきている気もしますね。究極的にはその通りだとは思うし、道理とか原理とか言われているものは、科学に求めるしかないわけで、社会的な事象で言えば、その科学の根拠は、人の心だったりするから。でも、表層的にこの言葉が適用される状況や、この「世間」というものが狭く適用される状況を考えると、ありゃま、ずいぶん後退してしまったなあ、とも。

 まあ、こういう後退と感じられるのは、今が過渡期で、いろんなシステムが混乱期にあるということに求められるのでしょうが、でも、何でも過渡期で済ませられる気も。過渡期をマジックワードにしちゃいけないとは思うものの、でもやっぱり過渡期ではあるしなあ。

 繰り返しになってしまいますが、私としては、こういう言葉を使ったり使われたりする状況には陥りたくないなあ、という感じです。こういう状況に身を置かないためなら、じゃまくさいことをいくらでもしますよ、いくらでもねちねち考えつづけますよ、説明させていただきますよ。そんな感じです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年2月24日 (水)

時代の変わり目に僕らの世代ができること

 まあ、いつの時代だって過渡期と言えば過渡期だし、あまりセンチメンタルに意味付けをしないほうがいいと思いますが、それにしても、私にとってわりと大切なものたちが、次々と話題になっていたりして、少ししんみりしています。

 ネット広告費が新聞広告費を抜き(参照)、百貨店がどんどん閉店(参照)していきます。どれもこれも、理屈の上ではなんとなくわかっていて、いずれはそうなるんだろうなということが、経済不調の今、結果として表れただけなのに、やっぱり堪えます。事実というか数字というものの大きさを思い知らされます。

 ちょっと自分語りをさせてください。15年ほど前の話です。

 私は、CIプランナーからのドロップアウトでコピーライターになり、経験が1年も満たない新米のときに東京に出てきました。大阪では結構有名ななんばシティという駅ビルの仕事をやっていて、その作品を持って東京の広告制作会社を回りました。でも、東京ではそんな駅ビルを知っている人も少なく、転職活動には結構苦労をしました。

 流通の仕事を細々と続けながら、チャンスを伺う日々が続きました。しばらくして出会ったのが、日本橋三越本店の仕事。日経新聞、朝日新聞、読売新聞の夕刊ラテ10段が主な舞台で、それが2週に1回ありました。当時は、広告制作者として、新聞広告は、自分の腕を試せる絶好の場だったし、今思うと、ほんと夢のような感じで夢中で作っていました。

 華やかだった流通広告が下火になっていた頃です。当時から百貨店という業態はもう駄目じゃないか、と囁かれていました。ライバルの広告会社がつくった日本橋三越の新聞広告。お子様ランチのビジュアルに「百貨店をつづけます。」というコピー。誠実で品があってすごくいい企業広告でした。当時の私にとっては、あの素晴らしい広告をつくっている百貨店という感じでした。

 私が所属していた広告会社のチームは、サブ的なポジショニングで、どちらかというと催事広告が中心でした、売りに徹した表現が求められていて、私は、その売りを活路に新しい方法論を模索していました。密かに、「百貨店をつづけます。」を書いたコピーライターをライバルだと思っていて、その人に勝つには別の方法論しかないと思っていました。よく比較されたし。だから、売りに徹することはあまり苦にはなりませんでした。今となっては、そのことはよかったなと思います。

 その時に出会ったのが、後に入社することになる、英国の外資系広告代理店SAATCH & SAATCHのSMP(Single Minded Proposition)という考え方。簡単に言えば、目的に最も適したProposition(まあ、メッセージみたいなもの)を設定するというもの。百貨店の催事の目的は、場所に人を集めること。だから、その目的にフォーカスして、シンプルなメッセージを作っていくという感じで試行錯誤していました。

 ゴルフクラブのセールがあるとして、その新聞広告の目的は、商品を広告することではなく、セールそのものを広告すること。当時は、目玉商品の商品広告的なセール広告が多かったのです。

 まず百貨店に来てもらうこと。話はそれからだ。百貨店広告なんだし。少々過激ですが、そういう考え方です。だから、その1点に表現は集中すべき。表現の本質が来店であれば、他の要素はすべて排除する。で、「あす10時スタート。」というコピーを書きました。ビジュアルは、ゴルフクラブ7本を並べただけの写真。そこに、美しい明朝体で大きくコピーがレイアウトされている。ただそれだけの新聞広告。カラーではなくモノクロ。日経の夕刊ラテ面に掲載されました。

 次の朝、開店前に背広を着た会社員が行列をつくりました。午前中で、目玉商品がすべて売り切れました。お詫びの店内放送が流れました。宣伝部長と握手しました。

 その方法論を説明する企画書と表現案を持っていったとき、宣伝部長は、セール商品の見直しを担当部署に指示しました。その7本のゴルフクラブは安かろう悪かろうじゃ駄目だ、ということでした。当時は、目玉商品として1万円を切る格安商品を設定するのが通例だったんですよね。でも、その広告では、メーカーさんとの折衝の上、7本とも自信を持って届けられる6万円から7万円代の品に変更になりました。このとき、広告は表層の表現だけでは駄目なんだということを学びました。

 この時の仕事が、私の今の原点なのかもしれないと今思います。

 ウィーン展では「あすからしばらくウィーンとします。」というコピーを書きました。ビジュアルは、三越前でモーッアルトの格好をした北欧の少女。北海道の物産展では、毛ガニが丸ごと入った大きな北海丼に「ほっかいどーん。」というコピー。北海道が日本橋三越にどーんとやってきた、ということです。とってもバカっぽいけど、つくっている本人はくそ真面目にやっていました。

 当時、百貨店業界では新聞広告の効果が疑問視されていてました。そんなとき、新聞広告はまだまだ効くんだぜ、ということを示したかったし、その思いは、まだ若かった私にとっては、新聞広告が好きだからという思いがベースになっていたんだろうと思います。効かないなんて気軽に言うんじゃねえ、みたいな。

 それは、きっと今だって同じだと思うんですよね。

 ネットが登場してきたからこそ見えてきた新聞広告のメリットもあると思うし。ネットでできることはネットに行く。だってそれは当たり前です。価格優位性もないし、しょうがないですよね。要因は違えど、百貨店も構造的には同じだろうと思います。だけど、こんなややこしい時代の変わり目だからこそ、良い部分が際立って見えるようになったのもある。百貨店、そして新聞広告に育てられた者としては、そう思いたい。

 きっと、百貨店も新聞広告も、この先、カタチを変えていくだろうと思います。もしかすると、なくなってしまうという可能性も否定できません。あの頃の時代の変わり目と、今の時代の変わり目は違います。それは、事実です。でも、だからこそ、今、考え抜かないといけないんだろうと思います。次の時代をきちんと迎えるために総括だけはきちんとやっておかないといけないのでしょうね。

 終わってるよね、とか、逆に、終わるわけないよね、とか、そんな気軽なスタンスじゃなくて、いい部分も駄目な部分も、目をそらさずに、しっかりと見つめて考えること。そして、その成果を次に活かしていくこと。それは、百貨店や新聞広告からたくさんのものを学んできた僕らの世代にしかできないことなのかもしれないな、と思うし、そこにしか、ネットネイティブではない僕らの世代の意義はないんだろうな、とも思うんですね。

 それに、幸い、バブル崩壊と同時に社会に出た僕らの世代は、バブルを懐かしむこともないし、だからこそルサンチマンも持ちようがないし、社会の変化にも慣れてもいるし、変化に対してそこそこ柔軟だとも思うしね。

| | コメント (11) | トラックバック (0)

2010年2月20日 (土)

「タイプ別性格判断」というものをやってみたのですが

 はてなブックマークでもたくさんのブックマークを集めていて(参照)、再び話題になっているようなので、久々に「タイプ別性格判断」というものをやってみました。ここ最近の話題の発信源は、このブログのエントリのようですね。

「世の中にはSとNの二種類の人がいる」My Life in MIT Sloan

 このブログによると、この性格判断に使われている理論は、MBTI(Myers-Briggs Type Indicator)と言われるもの。ユングの理論の応用だそうです。

MBTI(Myers-Briggs Type Indicator)とは
E(Extravert:外向的)かI(Introvert:内向的)
S(Sensational:直感的)かN(Intuitive:直観的)
T(Thinking:論理的)かF(Feeling:感情的)
J(Judgmental:断定的)かP(Perceiving:決めない)

の4つの軸により、人間を16種類に分けるという、まあ性格診断に毛が生えたようなものだが、
一緒に働いたり、暮らしたりする上で起こるいざこざや、リーダーシップのスタイルなどを旨く説明できるため、
米国ではMBAとかリーダー養成講座などで頻繁に使われる。

 で、このサイト、結構昔からあって、私は、暇つぶしに過去に何度かやっているのですが、いつやっても同じ結果しか出ないんですよね。今回も、質問で微妙だなあと思ったものの答えを変えたりして、5回ほどやってみたのですが、4回同じで、INTP型。1回は近似の類型でした。ということは、ほぼINTP型ということですね。

 INTP型は「タイプ別性格判断」によると、こんな感じ。

考えにふけってうわの空の大学教授を絵に描いたようなタイプがINTP型である。

頭の中でじっくり考える(I型)なので、N型の想像力がいろいろな可能性を思いつく。

客観的(T型)なので、その新しいデータを分析し、際限なく融通がきく(P型)ので、どんなデータもさっそく取り入れてしまう。

論文、図面、計画、企画、提案、理論などなんであろうと、こまごました情報を一つにまとめた完成図を作りあげようとするが、たえず新しいデータを発見するので、その完成図がどんどん膨らんでしまう。

その結果、考えや構想や計画がどんなに最終的なものに見えても、土壇場になって「新しいデータ」が手に入ると変えてしまうのである。

これはINTP型にとってはわくわくするほど楽しいが、ほかの人、とくにJ型の性向を持つ人にはフラストレーションになる。

完璧に見えても満足しないので、みずからが最大の批評家となり、あら探しをする。
完璧、有能、優秀であろうとするあまり、それが極端になると、かえって負担になり、うんざりしたり自分を責めたりする。

(INTP型の適職:作家・芸術家や芸人・コンピュータープログラマー・社会科学者・法律家 ※右クリックで出てきます

 この手のものでは、私がなるほどうまいこと言えているよなあ、たいしたもんだよなあと感心したのは、SPA!に連載されていた「人生の取り扱い説明書」です。人間のタイプを王様、職人、軍人、学者という4つに分けて、その相関で説明しています。作者は、今は超スリムになった岡田斗司夫さん。ガイナックス社長時代の経験から、この取り扱い説明書を思いついたそうです。とっても面白いです。今も全文ネットで読めます。

 これで言えば、私は「学者」タイプなんだろうなあ。社会人になったばかりの頃、先輩から私の口癖が「それはそうなんですけどね」と指摘されて愕然としたことがありました。その後、けっこうきつい反論をやわらかい言葉で淡々と述べていくそうです。やな新人ですね。本人は、その口癖、まったく自覚がなかったんですよね。

 「タイプ別性格判断」にしても「人生の取り扱い説明書」にしても、すべてのタイプの価値を等価にしていて(というか価値の優劣の概念を排除していて)、そのタイプの良いところと駄目なところの両面を語っているのがいいですよね。

 こういうものは、ある意味、自己認識や他者認識の類型化でもあるので、人によっては、いいや、こういうものは一切認めない、みたいな人もいるでしょうし、こういう類型化を管理に使うシチュエーションだって考えられるし、それはそれでなんかやな世界だなとは思いますが、それでも、こういう類型化によって、孤独な個の領域では、現実的にはちょっと救われたり、人や環境を理解するための助けになったりする部分もあって、だからこそ、これだけ話題になったりもするんだろうな、とも思います。

 世界認識というのは大げさではあるけれど、こういうのは、自分を含めた世界を認識するための補助線にはなるんですよね。なんか、いろんなことが少しだけ楽になるというかね。もちろん、補助線にしかすぎないので、世界認識は自分でやらなくちゃならないわけだし、その認識が合ってようが間違っていようが、どこかで判断して行動していかなくちゃいけないわけですけど。まあ、とにかくがんばっていかなくちゃだなあ、と。

 引き続きよい休日をお過ごしくださいませ。ではでは。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2010年2月18日 (木)

広告は検索結果を腐敗させる

 マイコミ新書「Googleの正体」(牧野武文著)より。

 そもそも創業当時のグーグルは、広告を悪とみなしていた。創業時のグーグルにとってもっとも重要だったのは「正確な検索結果を提供する」ことだった。
 当時、サーゲイは論文の中で「広告は検索結果を腐敗させる」とすら言い切っていた。これは理にかなった考え方だった。(P141〜142)

 サーゲイというのは、Googleの創業者の一人である、Sergey Brin技術部門担当社長のこと。

 そんな広告嫌いのGoogleが、今や日本におけるテレビ広告費の総額を超える2兆円を売り上げる会社になっています。そのGoogleの売り上げのほとんどは広告収入。そんな事実を「言ってることとやってることが違うじゃねえか」言うこともできそうですが、でもまあ、ある程度Googleの広告のしくみや成り立ちをわかっている人から見れば、当然の結果だなあ、という感じでもあると思います。

 たぶん、当時のネット検索は広告に汚染されていたという事実もあったのでしょうが、きっとGoogleは、それまでのテレビや新聞、雑誌などの従来メディアが辿って来た歴史から学んでいたのでしょうね。少なくとも、従来メディアの現状を、広告による検索結果の汚染のアナロジーとして見ていたんだろうな、とは思います。

 新しい広告というとき、Googleがもたらした広告テクノロジーによる新しさと、比較的新しいWebという場における、ある種の幼さや甘さゆえの自由さによる新しさが混在することがあって、そのことは混同すると話がとってもややこしくなるような気がします。この2つは分けて考えるべき。

 私がGoogleの広告テクノロジーを新しいと思うのは、そこに、本来、広告が広告として健全に存在し続けるための「あるべき倫理」を強く持っているということがあるからで、そういう意味では、Googleの広告は、これまでの広告と方法論としては何ら違いはなく、むしろ、Webという新しい場が生んだ、広告というコミュニケーションの本来あるべきまっとうな姿として認識すべきなんだろうと思います。

 だからこそ、GoogleはPay Per Postをはじめとする「新しい広告」を敵視するし(参照)、その批評性は、そのまま、広告業界が推進する「新しい広告」にも突き刺ささるはずです。その「新しい広告」は、不況でなければ「禁じ手」であったはずだから。それはちっとも新しくなくて、そのときは良くても、長期的には、自ら畑を駄目にしてしまうようなものだから。

 もちろん、だからといって今までのアプローチでいい、というわけではなく、考えるべきは、Webをはじめとするメディアの多様化と、個人メディアの台頭による、コミュニケーションフィールドの磁場の変容と多層化であって、場が変容しているときに、従来の表現作法やスタンスは通用しない、ということなのだろうな、と思っています。

 ついでに言えば、広告の終焉というのは、じつは広告媒体の多様化のことだろうと思います。ひとつひとつのパイが減るのは、多様化の宿命で、ある限界で、パイの縮小は止まるはず。だけど、そのパイの縮小に耐えられるかどうか、というのは別の問題ではありますが、もし耐えられなかったとしても、それは再編成というカタチで落ち着くのだろうと思うんですね。それはそれで、渦中にいる個別の人生としては悲喜交々はあるけれども。

 どちらにしても、広告の問題というのは、まっとうに考えれば、最終的には表現の問題に行き着くはずで、これまでの表現作法に社会が合わせてくれるっていうことは原理的に言っても絶対にないので、表現が柔軟に変わっていくしかないのだろうな、とも思います。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2010年2月15日 (月)

北米でがんばるSony Reader

 前回のエントリで「こういう分野は、日本はいつも早すぎるんですよね。ソニーやパナソニックは、ずいぶん前に電子書籍専用端末を出していたわけです。」と書いてしまっていて、あたかも日本企業が世界の電子書籍専用端末市場から完全に撤退しているかのように読めてしまうし、私自身もそれにほぼ近い状態だと思っていました。それは、事実と違うようですので、少しばかりお詫びと補足を。

 ソニーに関しては、撤退したのは、コンテンツ市場が育たなかった日本市場での話で、北米市場ではこの分野のパイオニアとしてかなり善戦しているようです。Sony Readerという名で2006年から発売されていて、2009年ではシェア第2位で35%とのこと(参照)。ちなみに新規参入のKindleが第1位でシェア60%です。

 LIBRIEの北米での名前がSony Readerだということは知っていましたが、てっきり今では細々とやっているとばかりに思っていて、Sony Readerが結構な人気だということはまったく知りませんでした。それに、製品もかなりブラッシュアップされています。勉強不足でした。すみません。検索すると、結構IT系のニュースサイトでも取り上げられているんですよね。

1

 上の写真は、北米ソニーSony Readerサイトのキャプチャです。Daily Edition(新聞閲覧向けということでしょうね)の製品説明には、こんなコピーが。

ONE MILLION REASONS
Together with Google Books, the Reader Store brings you access to over 1 million eBooks. That's twice as many as the Kindle Store.

 Google Booksとthe Reader Storeには100万冊を超える電子書籍があって、それはKindle Storeの倍なんだぞ、と。日本ではコンテンツ配信サイトが終了したり、なかなかうまくいきませんが、北米ではコンテンツ市場が成熟しているということなんですよね。いやはやです。

 KindleやiPadがあれだけ話題になったにもかかわらず、少なくとも日本ではSony Readerが話題にならなかったことについては、やっぱり早すぎたんだよなあ、損しているよなあ、とは思いますが、こちらはiPadに対するタブレットPC(参照)とは違って、きっちりシェアをおさえているだけ立派かも。

 しかし、iPadの登場によって、Sony Readerは微妙なポジショニングになってしまいましたね。筐体やディスプレーはKindleライクで、フォーマットがオープンなところはiPadライク。バランスがとれているとも言えなくはないけど、その分、製品としてのエッジは丸くなりがち。

 電子書籍の動向は、コンテンツ市場のみならず、これからの社会にとって大きな意味を持つような気がします。ハードウェアは、じつは、Kindle、Sony Reader、iPadの3つで見ていくと、事態の成り行きがより正確にわかるのだろうと思います。私も注目していきたいと思っています。

 

 電子書籍関連エントリ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年2月14日 (日)

電子辞書から見えてくるもの

 たとえば、どこかにおいしい水が湧き出ていたとして、その湧き水は、だだ湧き出ているだけでは、じつはその湧き水はまだ「おいしい水」とは言えなくて、水筒に汲むなり、コップに注ぐなりして、その湧き水は「おいしい水」になります。

 コンテンツも同じです。誰かに見てもらうためには、湧き水に対する水筒やコップのようなパッケージが必要。世間で言われる「コンテンツ」というものは、本当は、コンテンツ+パッケージのことなのだろうと思います。あらゆるコンテンツは、パッケージングされて、はじめて「コンテンツ」になります。

 「パッケージの問題」と「書籍というパッケージングの完成度」という2つのエントリでは、この従来の書籍のパッケージングに対して、観賞するという本質価値において電子書籍が優位性を示すことができなければ、普及は難しいのではないだろうか、ということを書きました。きっと、音楽のようにはすんなりとはいかないだろうな、という感じが私にはします。

 つまり、こまままいけば、少なくとも論理的には電子書籍は紙の書籍のサブであり続ける、ということです。でも、その地位に甘んじたとしても、まだまだ余白はあるだろうから、それで十分だろうとも思いますが。

 基本的には、Googleが推進している書籍の電子化はこの認識でしょう。きっと、Googleは書籍の完全電子化には懐疑的だろうと思えます。一方、AppleやAmazonは、そこに懐疑的にはなっていないように見えます。

 AppleやAmazonは、近い将来、究極的にはすべての書籍は電子化されると考えているはずです。それが現実のものとなるかどうかはわかりませんが、それくらいのことを信じていなければ、あんなリスクの高いビジネスをドライブできないはずです。それに比べて、Googleが絶版本にターゲットにおいて、いろいろと摩擦は起こしているものの、従来の紙の書籍と共生的な未来を見ているのは、きっとビジネスモデルが違うからでしょうね。Googleの生業は、基本的には、そのことで生まれる検索連動型広告ですから。著者に印税を払ってもお釣りがくるはずだ、という目論みがあるのでしょうね。

 そういう視点で見てみると、AppleやAmazonがやっていることの根拠として、ひとつの成功事例が見えてきます。

 それは、電子辞書

 前回のエントリでもコメントをいただきましたが、電子辞書は最も成功している電子書籍と言えるかもしれません。電気屋さんに行っても、棚に各社の電子辞書が並んでいますし、テレビショッピングでも主力商品です。

 電子辞書が普及したことには、やはり、あのパッケージングがあるのでしょうね。これは、前回のエントリとは矛盾するように思えますが、案外そうでもないような気もします。辞書や辞典に限って言えば、紙の書籍よりも、観賞(この場合は利用というほうが適切かも)における本質価値で凌駕してしまっているんですよね。

 軽いし、調べやすい。携帯性と検索性は、辞書の要です。そのために、従来の紙の辞書でも、コンサイスなどの小さな辞書もありますし、検索性については、受験生はそれぞれのやり方で辞書に付箋や見出しシールを加えるなりして、いろいろ工夫をしています。電子辞書は、その2つの本質価値において、秀でていたからこそ普及したのでしょう。なにせ、50冊くらいの辞書や辞典が150gくらいの筐体に入ってしまうし、検索性についてはキーボード入力で1発です。圧倒的に、電子辞書の勝ち。

 リンクや音声、画像、映像という付加価値もありますが、やはり携帯性と検索性の2つが電子辞書の普及の鍵だったのではないでしょうか。ここで重要なのは、その2つの優位性を実現したのが、あのハードとしての電子辞書というパッケージングだったということです。パソコンでは駄目でした。少なくとも、今までは。

 それは、Microsoftの百科事典「Encarta」の製品提供の打ち切り(参照)が象徴しています。また、「Office」に付属していた辞書ソフト「Bookshelf」もなくなってしまいました。これまでは、そこそこの成功を収めていたのは事実ではありますが、インターネットにつながり、その多機能ゆえに携帯性や連続稼働性に劣るPCというパッケージングでは、最終的には書籍というパッケージングを超えることができなかったということは言えると思います。

 インターネットにつながるパソコンというパッケージングにおいて、辞書や辞典は無料化していきました。それは、ビジネスとして見た場合、いろいろあるでしょうが、先の湧き水の例に照らせば、わりあい人間の感覚としては納得できる成り行きだったように思います。湧き水を缶や瓶につめれば有料で売れますが、自前のコップで湧き水を汲めば無料、というとこなんでしょうね。

 この辞書や辞典の事例を、観賞のベクトルがまったく違う一般書籍コンテンツにあてはめることはできないでしょうが、何かしら示唆するものがあるかもしれません。AmazonのKindleと、AppleのiPad。この2つのハードウェアが話題になっていること。それは、つまるところ、電子書籍におけるパッケージングが話題になっているとも言えます。その意味で、今のこの流れは、相当に本質的。

 KindleはAmazon独自のフォーマットで、一方のAppleはePubフォーマットをサポート。この考え方の違いも、とても面白いですね。書籍のパッケージングの完成度を意識すると独自形式にこだわらざるを得ないような気もするし、同じプラットフォーム争いで言えば、家庭用ゲーム機なんかは独自形式なわけで、その意味では、ポスト書籍に対する情熱はAmazonの方が上なのでしょう。なんとなく、かつてのOSの覇権争いを彷彿とさせます。

 最後に余談ですが、こういう分野は、日本はいつも早すぎるんですよね。ソニーやパナソニックは、ずいぶん前に電子書籍専用端末を出していたわけです。BTRONもそうだっけど、あながち試みたという事実があるだけに、すごく惜しい気がしますね。でもまあ、家庭用ゲーム機なんかでは頑張っているわけだし、今はリコールでわやくちゃになっているけれど、ハイブリッド自動車でも世界の先端を行っているわけで、こういう傾向を一般化するわけにもいかなさそうですが。

 追記:

 ソニーは、北米市場でがんばっているようです。2009年、Kindleがシェア60%で、ソニーのSony Readerが35%。つまり、電子書籍専用端末では2強。エントリ、書きました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年2月 9日 (火)

書籍というパッケージングの完成度

 KindleiPadの登場によって、電子書籍についてあれこれ考えているうちに、逆に、あらためて書籍というパッケージングのすごさや巧みさを再認識しました。いやはや、書籍ってすごい。かつて、日本でもパナソニックのシグマブックやらソニーのLIBRIEなどの電子書籍専用端末が販売されましたが、その苦戦は、時代が熟していなかったということもあるけれど、その幾分かは書籍というパッケージングの完成度の高さに負っているのではないかな、と思ったりします。

 例えば、電子化が比較的普及している音楽に関しては、古くはLPやEP、現在のCDというパッケージングは、あくまで販売時に限定されたパッケージングです。当たり前ですが、CD盤に耳をあてても音楽は聴こえません。観賞するときは、CDプレイヤーに挿入して、ステレオセットやCDラジカセ、PCなどで聴きます。また、iTunesなどに圧縮ファイルを格納してPCやiPodなどのシリコンオーディオで聴いたりもします。

 この状況は、パソコンが普及する前も変わりません。レコードプレイヤーにかけることもできましたが、それは観賞の選択肢のひとつに過ぎません。カセットテープやMDに録音して、テレコやウォークマンなどの携帯オーディオなど、思い思いに音楽を楽しんでいましたよね。

 でも、書籍は違うんですよね。販売されるときのパッケージングと観賞するときのパッケージングが同じ。書籍を販売して、それをコピーしたりして自分の好みのカタチで楽しむ人なんかいませんよね。人に貸す時も、そのまま書籍を貸すし。それに電車の中でもトイレの中でも読めますし、どこにいても、どんな状況で読んでも、クオリティが基本的に変わらないというのも書籍の特徴です。

 音楽ではそうはいきません。高級オーディオで再生するのと、PCにPCスピーカーをつないで再生するのでは、まるでクオリティが違います。

 よくよく考えてみると、そういうコンテンツのクオリティがいかなる状態においても保持できるパッケージングは、書籍以外ではなかなか見つからないんですよね。ハイパーリンクができたり、電子書籍専用端末に大量にコンテンツを詰め込めたり、そんな付加価値だけでは、この書籍というパッケージングの本質価値を凌駕することはなかなかできなさそうです。

 パソコンなんかじゃ、文学は読めないよ、というようなことではなく、これまでの書籍は案外パッケージングとしての完成度が高いということなのだと思います。文字を読むということで言えば、ブログだって実際問題として結構読まれているわけですし、だいたいインターネットって、たいはんはテキスト情報なわけで、基本的には、文字情報は、パソコンやケータイなんかで代替できるってことです。だけど、文字を読むということについての書籍というパッケージングがうまくいき過ぎているんです。完成度が高すぎるんです。

 よく、グーテンベルグの活版印刷発明とIT革命が対比されて、古い技術が一気に新しい技術に変わると言われますが、それはちょっとロマンティックに過ぎるんでしょうね。商業コンテンツとしての書籍に限って言えば、革命度は格段に違います。グーテンベルグがもたらしたものは、文字コンテンツの大量生産と低価格化だと思いますが、その効果も、グーテンベルグとIT革命は比較になりません。IT革命の貢献は、このブログのように、非商業コンテンツに対してなんでしょうね。

 また、アナログレコードがCDになり、ダウンロードへ移行するプロセスとは、似ているように見えて、じつは似て非なるものなのだと思います。次元が違う気がします。音楽コンテンツの場合は、本質価値での凌駕がありました。でも、書籍から電子書籍への移行には、この本質価値の凌駕が見いだせないんです。何か秘策があるのかもな、と考えてみるものの、なかなか思いつきません。ということは、電子書籍の普及は、これだけパソコンの性能が上がって、インフラも整った現在においても、なかなか難しいんじゃないか、と思います。音楽コンテンツの比ではないな、と思います。

 私はというと、Willcom03青空文庫とかを読むことはあるけど、まあ、その度に書籍って読みやすいなあ、便利だなあ、なんて思う次第です。iPodで音楽を聴いている時は、そんなこと思わないのにね。じゃあ、なんでブログは読むのって疑問も自分でも出てくるけど、それはブログでしか読めないから、ということなんだろうなあ。その理屈で言えば、価格とか印税比率で、書籍というパッケージングを駆逐するという手もあるにはあるけれど、それはまあ、所詮は理屈なんでしょうね。

 この分野は、もしかすると電子書籍陣営の多様化を包容する戦略が必要になってくるんじゃないかな、と思うんですよね。共生戦略。多様化のひとつとしての電子書籍。これを機会に電子書籍が一気に普及するとすれば、それしかないでしょうね。

 なんとなく、そんなことを考えてみたけど、AmazonやGoogleの戦略を見ていると、そうじゃない感じもしますね。でも、音楽コンテンツで描くような未来は、きっと描けないだろうな、と思いますが、どうなんでしょうね。

 

  関連エントリ:

| | コメント (12) | トラックバック (0)

2010年2月 7日 (日)

Kind of Blue

Kindofblue_2

 マイルスのアルバムでは、「Kind of Blue」がいちばん好き。私の場合、つまり、素直にエバンスが好きということになるのかな。

 エバンスは、1958年にマイルスバンドに参加している。まだラファロ、モチアンとのトリオ結成の前だから、若いエバンスにとっては、はじめてつかんだ大舞台だった。ドラッグ問題でマイルスバンドを退団したレッド・ガーランドに代わるピアニストを探していたときに、ジョージ・ラッセルがエバンスを紹介したそうだ。

 「紹介したいピアニストがいるんだけど。」
 「そいつは白人か。」
 「そうだ。」
 「そいつは眼鏡をかけているか。」
 「そうだ。」

 そんなやりとりがあったらしい。つまり、マイルスはエバンスのピアノを聴いて、あらかじめ目をつけていたということ。当時、マイルスが白人のプレイヤーを加入させることはタブーだった。マイルスは黒人の誇りだったし、何よりもジャズは黒人の音楽だった。ライブでも野次られ、エバンスにとっては相当きつい状況だったようだ。

 当時のエバンスは、白人であることに音楽的なコンプレックスもあった。白人にはSwingできない。それがジャズを取り巻く空気だった。

 マイルスは、このとき「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色の奴でも雇うぜ」 という言葉を吐いている。マイルスが期待した、いいプレイ。それは、エバンス独特のハーモニのセンスだった。マイルスにとっては、黒人とか白人とかに関係なく、ラッセルが追求していた、コードからの開放という方向性にある音を出せる奴ということ。マイルスも、ラッセルと同じ方向を向いていた。

 けれども、すぐにマイルスはエバンスを解雇してしまう。理由は、エバンスには知らされなかった。コルトレーンに宛てた手紙によると、エバンスは自分が白人だからだ、と思っていたようだ。エバンスという人は、そんなところがある人。どうしようもなく空気を読めない人だった。音楽では、あれだけ繊細に空気を感じることができるのに、実生活では、生涯を通して破滅的だった。

 原因はドラッグ。極度のヘロイン中毒だった。

 当時、マイルスも、コルトレーンも、ドラッグに関してはシロではなかった。それでもエバンスを解雇せざるを得ないということは、エバンスの依存が相当なものであったことを物語っている。

 解雇から1年後の1959年、マイルスは「Kind of Blue」というアルバムの録音のために、エバンスを呼び戻す。どうしても従来のコードワークから開放された、エバンスのハーモ二センスが必要だったからだ。けれども、マイルスはエバンスをレギュラーメンバーにするつもりは、はじめからなかった。このアルバムの、モードジャズ的なコンセプトからはかなり異質な、ハードバップ的なブルース曲を1曲、レギュラーメンバーであるウィントン・ケリーに弾かせている。

 このアルバムには、「Blue in Green」という美しい曲が収録されている。マイルスの作曲であるとクレジットされているが、批評家の間ではエバンス作だと言われている。聴いてみると、確かにエバンスらしい感覚がある。けれども、これは私見ではあるけれど、旋律がエバンスにしては完成されすぎているのではないかとも思う。エバンスがつくるメロディは、どれもどこかに破綻があるように思えるし、あの美しいメロディは、マイルスの感覚だと思う。作者が誰だとかに関係なく、50年以上、ジャズファンに愛され続けている今となっては、そんなことはどっちでもいいとも言えるけれど。

 マイルスにとって、エバンスはじめからレギュラーを想定していなかった。録音のためのメンバーだった。その後のライブ活動を考えると、それはかなりイレギュラーなこと。マイルスは、このアルバムで、エバンスと決別するつもりだったのではないか。それは、才能あふれる若きピアニストのためのことだったのか、それとも自身の芸術のためのことであったのかはわからないけれど。

 アルバム「Kind of Blue」には、同名の収録曲がない。日本語にすると、「なんとなく憂鬱」という感じになるらしい。アルバムの中には、かなり軽快な曲も含まれていて、かならずしもアルバム全体の雰囲気を示すものではない。それは、もしかすると、マイルス自身の気分を示しているのかもしれない。

 もしも、マイルスにそんな気分がなく、またエバンスをレギュラーメンバーとして迎えようと思ったとしたら、その後のエバンスのピアノトリオにおけるインタープレーもなかったのかもしれない。いや、それはない、とかつての私なら言ったかもしれないけれど、ドラッグのお金がほしくてたまらなかったエバンスにとって、大スターであるマイルスバンドのピアニストという地位は、2010年の極東の一ジャズファンが考えるよりも大きかったに違いない。

 その後、51歳で幕を閉じるまで、エバンスの人生すべてを賭けることになるピアノトリオという形式も、案外、彼自身が望みもしなかったマイルスとの決別、つまり、本人が意図することのない偶然というか、運命の気まぐれが選ばせたものかもしれないな、と「Blue in Green」を聴きながら思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月 5日 (金)

パッケージングの問題

 パーソナル領域のデジタル技術が成熟してきて、見えてきた問題があるように思います。

 読書という体験に関しても、いまだ試行錯誤中だと言えどもデジタルでほぼ再現できるようになってきました。映像に関しても、YouTubeでみんなが楽しんでいます。子供を持つ親から聞く話では、テレビでアンパンマンを見ながら「パパ、今のもう1回見る」なんて言うそうです。生まれたときからパソコンがある環境で育った子供たちは、YouTube的な見たいときに何度も好きな映像を見られるということがネイティブになってきているようです。

 アナログのレコードがCDになったとき、音楽ファンからはこんな話がでました。

 「ジャケットが小さくなるのがさびしいよねえ。」

 もちろん、それよりももっとあったのは、圧縮されたデジタルデータだから音質が悪くなるというような話でしたが、質がいいのに越したことはないけれど、日常の生活においては、多少の質の劣化は、便利とのかけひきにおいて我慢できるような部分があるように思います。その道のプロにとっては由々しき問題ではあると思いますが、それはそれとして、使い手は便利をとるのが人間の道理のように思えます。

 写植文化もそうだったし、デジタルカメラもそう。時間の経過で、テクノロジーが漸近線的にその差を埋めていきます。今や、編集はほぼDTPになってしまいました。きっと、今話題のデジタル書籍についてもそうなると思いますし、映像もそうなるでしょう。

 そんなデジタルの流れの中で、質の問題よりも、もっと本質的につきつけられている問題があるように思います。それは、パッケージングの問題です。

 デジタル書籍に関して、大きな問題がひとつあるとすれば、デジタル化によって、あの紙が束ねられ製本された「書籍」というパッケージングを失うということなのだろうと思います。商品が独立した商品であるための要件としては、じつはパッケージングという要素が重要です。ブログと書籍の違いは、社会的な要件を無視して、あくまで物性だけで言えば、パッケージングの違いです。ブログにとってのパッケージングは、このブログを閲覧しているパソコンやケータイがパッケージングになります。だから、同じパッケージングの中で、他のブログやコメント、トラックバック、その他サイトからの言及というつながりを得るのですが、そのメリットは、書籍という独立したパッケージングを捨てることで得られたものなのだろうな、と思います。

 先の音楽ファンの「ジャケットが小さくなるのがさびしい」という感想は、商品としての音楽にとっては、結構本質的だったのではないかな、と思うようになりました。これは、パーソナルなデジタル技術の成熟によって見えてきた、商品というものの本質だったのかもしれません。

 コンビニに行くと棚にガムが並んでいます。言ってみれば、デジタル化が進む究極の状態というのは、透明なビニール袋にキシリトールやクロレッツ、キシリッシュが粒のまま入っていて提供されるような状態であるとも言えます。コンビニでは、そんな状況も進行しつつあります。100円均一のお菓子なんかがそうです。でも、今は、中身のお菓子の形態が個性的なものばかりのようです。つまり、商品自体が個性的にパッケージングされているものばかり。消費者にとっては、パッケージがなくても、そのお菓子の独立した個性がすぐにわかるようなお菓子が、同じパッケージで同列に売られている状態なので、それほど気にはなりませんが、あの状態は、じつはコンビニというアナログな空間に表れたデジタル化の状態と言えるのではないでしょうか。

 文字というのは、どちらかというとガムに近いものです。どの文章も文字の羅列であり、一目見ただけでは違いはよくわかりません。つまり、「書籍」というものが商品であるためには、よりパッケージングの助けを求めるものであると言えそうです。

 これから進みそうな、「書籍」のデジタル化は、このパッケージングの問題が大きな問題として表れてくるのだろうな、と私は見ています。また、デジタル化の進展によって、世の中がパッケージングはなくてもかまわないという流れであることと、現在の広告の状況はリンクしているように思います。商品やブランドにとって、広告もひとつのパッケージングだからです。

 KindleやiPadが今後苦戦するとすれば、そういう人間の感覚におけるパッケージングの役割に対してなんだろうなと思います。人は、どこまでパッケージングなしで大丈夫なのか。それとも、新しいパッケージングをデジタル機器がつくることができるのか。また、紙の書籍で言えば、物理的に切り離したパッケージングができる、「書籍」というテクノロジーのすごさにどこまで意識的になれるのか、ということなのだろうなと思います。それは、広告も同じで、広告をパッケージングとして考える視点は、これまで以上に重要になってくるように思います。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2010年2月 2日 (火)

たまに雪が積もると、ついつい

100201223134

 
 東京は雪です。かなり積もってます。

 ちなみに、写真は私がやったものではありません。どこかの誰かがやっちゃったんでしょうね。気持ちはすごくわかります。ついついね、やっちゃうんですよね。

 東京とか大阪のような、あまり雪が降らない場所に住む人は、たまに雪が積もると、なんかうれしくなるみたいです。

 ずいぶん前に東北方面に行ったとき、朝起きて窓を開けたら一面真っ白で、道にとまっていた車が見えなくなるほど雪が積もっていて、うわっ、これは一大事だと思っていたら、地元の人たちはとても落ち着いていて、さっさと雪かきして、いつものように何でもない日常が始まりました。ほえぇ、と思いました。

 天気予報を見ていると「明日は、晴れ時々曇りで未明まで雪が降るでしょう。」と書いてありました。この「でしょう。」がなんかかわいいなあと思いました。オフィシャルな言葉なのに、「でしょう。」って。まあねえ、天気予報は「降ります。」とは言えないものなあ。

 というわけで、関東甲信越地方は晴れ時々曇りで未明まで雪が降るらしいです。ではでは。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2010年2月 1日 (月)

キャズムの超え方

 AppleからiPadが発表されました。

 新しもの好きのPCユーザーにとっては、なんとも複雑な製品ですね。だって、タブレットPCでしょ、今までにもあったでしょ、って涙目で愚痴りたくなりそうな感じです。確かに薄くなって、解像度も上がって、きっと稼働時間も長くなって、OSも使いやすくて、ソフトも豊富。だけど、タブレットPCじゃねえかよ、なんて思っている人も多いのではないでしょうか。

 iPhoneの時もそうでした。欧米ではBlackBerryがあって、日本ではW-ZERO3がすでにありました。それこそ、ケータイとPCの融合は、Windows CEが先行していたはずです。モバイルコンピューティングに限って言えば、Windows CEの果たして来た役割は大きいと思います。思いますが、キャズムを超えられなかったのは、やっぱり事実なんでしょうね。iPodもそうですよね。Appleが初めてのシリコンオーディオではないですものね。タブレットPCにしても、Windowsが先行していました。でも、やはりキャズムは超えられませんでした。

 私はかつて、外資系PCブランドのタブレットPCの広告を担当していたことがありました。今から5年ほど前。そのとき、正直言えば、これは売れないだろうなと思っていました。クライアントのマーケティング担当の方も同意見でした。アメリカの本社でも、法人向け以外ではそれほどの期待はなかったような気がします。ちょっと言い訳気味になるけれど、あの当時では、どうひねくりまわしても売れるコミュニケーションは作れなかったと思います。きっと、担当が私でなくても同じだろうと思います。

 この手のジャンルは、ここ数年、遅れてきたAppleが全部もっていくというような状況が続いています。少なくとも話題性に関しては、まったくもってそうですよね。このあたりの感覚、スティーブ・ジョブズという人は天才的なんだろうなと思います。機が熟したかどうかを判断するセンサーが優れているのでしょうね。

 iPadに関して言えば、その前提としてiPhoneがあり、iPhoneの前提としてiPodがあり、その前提としてiTunesとiTMSがあります。モバイルに特化したOSと、豊富なソフトウェア、気軽に買えるエンターテイメントソフト。また、世の中のクラウドコンピューティングのためのインフラの整備。それを融合させて、新しい生活の提案をしていくと、必然的に、あのiPadのカタチが生まれる。そんな物語が、あの製品に読み取れます。すべてを軸として見て、必然をつくる。そこが圧倒的。だからこそ、社会は、なんだ、新製品ってタブレットPCかよ、とは言わないのだろうと思います。

 今思えば、iMacの時もそうでした。かつて、「本質価値と付加価値についての覚え書き」というエントリでiMacのコミュニケーションを取り上げましたが、つまりは、今回のiPadも同じなんです。要するに、ジョブズという人の思考には本質価値と付加価値の転倒がないんです。

 これはコミュニケーションの問題でもあるけれど、コミュニケーションの問題だけではありません。それを支えるインフラやテクノロジーの問題でもあるからです。Appleという会社は、OSもつくり、ソフトもつくり、サービスもつくり、ハードもつくります。だからこそ、世の中のコンテクストを変えてしまうような製品の打ち出し方ができるのでしょう。そうではなければ、きっと、できないですよね。Appleの製品は、少なくともジョブズ復帰後に関しては、確かに新しいけれど、まだ夢物語だよね、というのが少ないんです。

 Appleの仕事のやり方を注意深く見ていると、ひとつ気付くことがあります。いつも、社会が先にあるんですね。製品は、その社会のニーズを体現するものとしての位置付け。すべて後追いなんです。これは、別に悪いことでもなんでもなく、製品が社会に先行すると、たぶんキャズムは超えられないような気がします。言い換えれば、それは社会というものを第一義に考えるということなんでしょう。これが、いい意味でのマーケティングなんでしょうね。

 まあ、ここで言うキャズムの使い方は不正確なので、そのへんを塩梅して読んでいただければと思うのですが。どのレベルをしてキャズムを超えるというか、という問題はありますし、Windows CEにしても、私のような人が愛用していたということでキャズムを超えた、と言ってもいいのかもしれませんが。でも、今、世の中的にはiPhoneであり、そういう意味では、私自身が少し涙目なので、テレビとか新聞や雑誌、世間話のレベルでこれだよねといった、世の中の感じを、キャズムを超えたと定義しております。

 そう言えば、Windows 95が爆発的に普及したときのMicrosoftは、まだ先行するMac OSを追っていた時代だったような気がします。つまり、先行するMac OSを通して社会を見ていたと言えるかもしれません。その時の社会のニーズは、ソフトの豊富さと汎用性、そして、ハードの多様性だったのでしょう。その当時のMicrosoftの感性は、今で言うApple的だったと思います。

 広告の分野でよく言われることがあります。時代の半歩後を行け、と。半歩先ではなく、半歩後。私はわりとその言い方が好きで、いつも心に留めてきました。まあ、私自身が高感度アンテナを張り巡らせた最先端人間でもなく、いたって地味な人間なので性に合っているのもありますけど。なんとなく逆説的な言い方ではあるから、いやいや先を行ってなくちゃ駄目でしょ、と言われそうだけど、半歩後を行くという言い方に一理あるとすれば、キャズムを超える、つまり、世の中に新しいコンテクストを提示するための方法論としてなんだろうと思います。

 それは、あえて言うと未来を見るための方法論なのかも、とも思います。先を行く者には、未来は遮るものが何一つなく見渡せるけれど、現在が見えにくいのだろうなと思ったりします。でも、未来と言うのは、過去と、現在が軸になって、はじめて未来ですよね。ほんとは、過去があって、現在がある。その続きにしか未来はないはずなんです。そんな未来を見るための場が、半歩後という場なのかもしれません。

 ジョブスのプレゼンテーションの中に、ネットブックについての言及もありましたね。「何もちゃんとできない」と言っていました。そのあたりに、半歩後から現在を見ている証拠がありそうです。ネットブックが流行っている理由をきちんと把握したうえで、その時代のニーズだけをきちんと汲み取り、そのうえで「何もちゃんとできない」と言っているように思えます。

 つまり、iPadは、ネットブックが象徴する現在と紐付けられた製品であるということなんですね。その現在を見るための場所は、やはり半歩後にしかないでしょう。きっと、ネットブックの流行を嫉妬まじりで見ていたんだろうなあ。どうして、こんな中途半端なものに人は惹き付けられるのか、なんて思いながら。そこを突き詰めると、たまたまタブレットPCのようなカタチになった、ということに過ぎないのでしょうね。

 ま、そこには、まだまだ世の中のキラーコンテンツのパッケージである、「テレビ」と「書籍」に変わるもの、ポスト「テレビ&書籍」というのもあるのでしょうけど。あと、「新聞」もあるのでしょうね。

 しかし、いよいよ世の中が大きく変わるなあ。ほんと、数年後、どうなるんでしょうね。私も、半歩後くらいの場所で、懸命に考えないとなあ。でも、半歩後とは言うけれど、それはそれで難しいことかもしれないなあ。なんだかんだ言って、三歩後くらいになってしまっているのが現実だからなあ。三歩後じゃ駄目なんだよなあ。

 追記:

 MSの開発者の人たちの気持ちはどんなものかなと思っていると、CNETにこんな記事が出ていましたね。なるほどなあ。価格とバッテリの壁というのが大きかったみたいですね。

 記事にも触れられていましたが。確かに、あの頃のタブレットPCは「手書き入力」がトピックでした。

「来年には、皆さんの多くがタブレットPCでメモをとるようになっていることを願う」。Gates氏はCOMDEXの聴衆に対し、こう語った。

 でも、それじゃ紙のほうが手軽で便利だものなあ。バッテリ切れもないし。このあたりの感覚は、ユーザーはこの数年ですごく学びましたよね。こういうガジェットは、逆に紙とペンが持つものすごいポテンシャルの高さを再認識するきっかけになるというか。パームサイズPCでメモをよくとっていたので、実感としてすごくあります。メモをとるためのガジェットとして見ると、ノートって便利だものなあ。

 そのあとが「Project Origami」なんですよね。ネーミングを見ると、やっぱり、紙にこだわりがありそうで、このあたりのコンセプト設計があれなんでしょうね。なんかいろいろ気付くことが多い記事でした。またあらためて書いてみようかな、と思っています。では。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »